再びの粗相
男の手はまるで岩のようだった。
特にウロコがある甲側は、とてもではないが歯が立たない。
そこにためらいなく噛みついてしまったエミリアは、歯が砕けるような痛みをこらえるのに必死。彼女はここでやっと、相手が竜人族であることに気がついた。
しかしながら……そのときには彼女はすでに謎の男に抱えられて空の上。
彼を襲っていた刃のような風は、エミリアが一時戦意喪失したため(※歯が痛い)収まっていたが、グンナールの小竜の体当たりはまだ絶賛続行中。
男はその攻撃から逃げまどっているところである。
どうやらこの男、グンナールに関わるものに反撃はしたくないらしい。
「ちょ、バルドハート様⁉ あ、あいつを止めてください! 俺はお父上のもとに貴女をお返しするよう言われているだけですから!」
男は必死にエミリアに懇願したが……。
「あ、あばばばば……っ⁉」
正直なところ、エミリアはそれどころではない。
いや、歯の痛みのせいで叫んでいるわけではない。
男が小竜の体当たりを避けようとして、空中で機敏に身をひるがえし続けるものだから、彼に抱えられているエミリアの視界も当然……回る。
彼女に見えていたのは、空色と大地の色が高速でかき回され続ける景色。
濁流の中で翻弄されるかの如く、くるくると変則的に変わり続ける光景はいい感じにエミリアの平衡感覚を揺さぶった。
空の上などという人族にはなじみのない空間はそれだけで恐ろしい。そのうえ身はふりまわされ、三半規管もぶん回されて上も下も分からない。こんな状態で、いったい何を止められようか。
エミリアには自分の叫びすら止められない。
「ヒィッ⁉ 目が……目が回る⁉」
エミリアは焦った。こんな事態で貧弱な自分に何が起こりうるかというと、それは明白。
とても……気持ちが悪いのである。
喉が詰まったように苦しく、その先にある塊が、徐々に主張を強めてくる。
その奥から「出せ!」と“ヤツ”が荒れ狂っているのをはっきりと感じた。
“ヤツ”は苦しむエミリアにささやくのだ。
「俺様を解放すれば楽になるぞ」と。これは……悪魔のささやきも同然である。
(こ、こんな空のうえで!? 神聖なる天地にアレをぶちまけるわけには……っ)
目を回しているエミリアには、今、下に何があるのかは分からない。そんな状態でそんな粗相をしてしまったら。
万一そこに誰かがいたり、民家などがあった場合のことを考えると──。
(……無礼すぎて……気が遠くなる……)
エミリアはその予感にさらに青くなったが。のんびり絶望している場合ではなかった。
追いすがってくる小竜ばかりを見ている男は、彼女の窮地には気がついていない。
自分を振り回し続ける男に向かってエミリアは、悲鳴を上げた。
「お、おやめください! おやめください……! 目が回って気分が──うっぷっ⁉」
しかしそれが余計にまずかった。
大きく開いた口に空気が流れ込んだ瞬間、それを押し返すような吐き気が喉の奥からせり上がって来た。身にかかる遠心力がよけいにそれを助長。
出口を見つけた“ヤツ”は、大喜びでエミリアの喉を駆けのぼる。
……本当なら、ここでエミリアがやるべきは、小竜への呼びかけであった。
小竜はウロコの持ち主たるエミリアの命令には従う。しかし、そんな説明もいまだグンナールから受けていなかったエミリアは、判断を間違えた。
「っふ、っぐぅううううぅぅぅっっっ⁉」
「⁉ こ、今度は何⁉」
くぐもったうめき声。
その悪鬼を必死で封じ込めようとするような声を聞いてやっと、小竜の攻撃を必死で回避していた男がエミリアを見た。そこで自分の口を押え、悲壮な顔で脂汗を掻いているエミリアに気がつき、えづきにギョッとして──ついでに──彼を襲っていた小竜もギョッとして。
(げん、かい………………)
しかし悲しい哉。その瞬間に力尽きたエミリアは、二人(一人と一匹)に見守られながら、最低最悪な形でその諍いを止めることになってしまった……。
──数時間後。男爵邸。
「……、……、……(闇)」
「お、お嬢様……」
暗黒を背負うようにして落ち込んでいるエミリアの、再びの令嬢団子化。
私室の暗いすみっこで、壁に向かって座り、まるまるように膝を抱えているその背後には、ひざまずき、おろおろと彼女を慰めようとしているニコラが。その反対側では、床のうえで深々と土下座している例の誘拐犯の手先男。
「……本当に……すみませんでした……」
床に張り付くような竜人族の青年に、ニコラは鬼の鳥顔で怒声を上げた。
「あなた! 本当になんてことを……お、お、お嬢様を空中でふりまわすなんて! お嬢様は虚弱でいらっしゃるの! 三半規管はアリ以下なのに……こ、この愚か者‼」
「……すんません……」
人類最強種たる竜人族が、愛らしいヒヨコ顔の鳥人族に平謝りする姿は、なかなかに物珍しいものであったが……本人たちはそれどころではない。
あのあと。
空中でシェイクされ、吐き出すものを吐き出してげっそり干物みたいになったエミリアを見て、小竜は慌てたようにウロコの中に戻っていった。
とたん、干からびそうだったエミリアの身が二度ほど輝き、空に光の輪が広がった。
その輝きを見て、オロオロしていた男が「お」という顔をした瞬間。彼の腕の中で青い顔をしていたエミリアがパチリと目を開ける。
頬には赤みが戻り、紫になっていた唇も薔薇色に戻っていた。そんな自分の急回復に、エミリアは不思議そうに瞳をぱちぱち瞬かせていて。その顔を見た男はホッと胸をなでおろした。
男には分かった。先ほど彼女を守ろうとして出現していたウロコの加護竜が、彼女の身のうちに潜り治癒へ力を発揮しはじめていた。
あの小竜は本物のドラゴンではなく、グンナールの魔力の化身である。
エミリアの危機を感じて外に現れたのだろうが、彼女の状態を見て治療を優先させることを選んだのだろう。
もちろんグンナールと敵対したくはない男は、これに心底安堵した。
…………が。
それでもエミリアのやらかしは変わらないわけだ。
体調が戻ろうとも、己に失望したエミリアは、こうしてまた令嬢団子と化したわけである。
彼女は人の失敗には寛容だが、自分の失態には甚大な精神負荷を受けるタイプ。
ただ、幸いなことに、現場はクロクストゥルムの領都内にも通じるマール川のうえだった。その清流が彼女のお粗相はきれいさっぱり流し去ってくれた。
エミリアはその事実に慰められながら、川が精霊の住処とかだったらどうしようと心の中で嘆きながら……弱々しく男に問う。
「……それで……グンナール様は、つまり……誘拐されたのではなく、叔父上様が、ご事情があってお連れになった、と……?」
「はい、はい、そうです!」
沈み切ったエミリアの問いに、男はニコラに睨まれつつ答える。
「その行先は……お国元で、お義兄様の御身に危険はないと……」
「まさに」
きびきびと答える男の言葉を聞いて、エミリアは細くため息を吐いた。
もちろん落胆はあった。でも、それならばいいと思えた。
大好きな義兄の無事が一番。それに代わるものはない。
グネルとその叔父とのケンカも無事収まったということであったし、その継母も無事に帰還した。
彼女はエミリアたちよりも少しあとに男爵領に戻ってきて、自分たちの兄妹ゲンカにエミリアを巻き込んだことを必死に謝っていた。彼女は現在、男爵邸の台所でエミリアのために夕食をつくってくれている。
「……それならばいいのです。でも……」
エミリアは、しょんもりと膝の上に頭をうめる。
グンナールとこんな形で離れることになって、本当に、本当に心底寂しかった。
事情があるのなら仕方がないが、話も途中だったし、別れの挨拶も再会の約束もしていない。
こんな心残りのある状態で学園に戻るのかと思うと、やはり肩は落ちる。
(……とてつもなくグンナール様が恋しい……)
この想いが、エミリアの令嬢団子化を悪化させていた。
でも、もうこれ以上は学園に帰る時期を伸ばせない。エミリアは、切ない気持ちでグンナールの顔を思い浮かべる。
(……グンナール様は……何をおっしゃろうとしていたのかしら……)
とても真剣な顔だった。
彼の最後の言葉の続きがとてもとても気になっていた。
失ってしまった謎の竜人族の青年のウロコ。
そして、代わりに与えられた義兄のウロコ。
(グンナール様は『実は』と、おっしゃったわ……)
そこにはエミリアの思いもしないような事実が隠されているような響きがある。




