15.恩人と過去の後悔
◇◇◇
先輩は警察に連れていかれ、私も警察署で事情を聞かれた。その間ずっと福島は私に付き添ってくれた。警察から連絡を受けて私の両親が地元から駆けつけてくるまで、側にいてくれた。
大学の試験が終わっていたので、両親と一緒に地元に帰った。先輩と同棲していたマンションから私の荷物を全て引っ越しさせて。
春休みが始まるまで、どうしても出席しなければならない講義は実家から通った。
そして春休みに入り両親とも相談し、あと一年大学を卒業するまで再び東京で一人暮らしをすることにした。両親は不安がっていたがさすがに一年実家から通うのは大変だし、卒業は絶対にしたかったから、セキュリティがしっかりしたマンションを借りることになった。
文房具屋のバイトは辞めることになった。親にバイトはしなくて良いと言われてしまった。それに先輩がまた姿を現しに来る可能性もあったので辞めざるをえなかった。気に入っていたバイトだったのに残念だ。
それから先輩のご両親から謝罪を受けた。先輩のご両親とは同棲前に数回会っていたし、とても親切に接して貰っていたが、今回のことで関係は崩れてしまい、泣いて謝られた。
しかし謝られることを受け入れることが出来ず、先輩と今後一切会いたくないのでそれさえ守ってくれれば謝罪は要らないと伝えた。
両親や友人から先輩がストーカー化しないかと心配されたりもしたが、それは無かった。愛情がとっくに消えていたからか、思いっきり股間を蹴ったことでもっと仕返しされると思ったのか、はたまた警察に一度捕まり反省したからなのか、理由は分からない。
バイトも辞め、新しいマンションの場所も知らないので、私の居場所を掴めなかっただけかもしれない。会って聞いてないのだから分かる筈もない。
先輩は優しい人だったけれど、自分より弱い立場の私に強気で居たかったのかもしれない。そして私を精神的に支配することで満たされていた人なのかもしれないとも思う。忙しさや上手く行かないこと、思い通りにならないことへの苛立ちを、私に当たっていたのかもしれない。先輩のお陰でちょっと良い部屋に住まわせて貰っていた負い目や、私にとって初めての彼氏で大切にしたい気持ち、それに一緒に住んでいるのに喧嘩して雰囲気が悪くなるのが嫌で我慢してしまったことも、先輩の気が大きくなるのを手伝ってしまっていたのだろう。
けれど、ストーカーにならなかったのだからそれで良い。もう、私にとって関係の無い人だ。
それから数ヵ月が過ぎ、夏休みになった。
「福島、就職決まったの?早いね!おめでとう!」
私は夏休みは殆ど実家に帰省していた。今日は福島が帰省しているので久し振りに二人で会うことになったのだ。
福島は早々に東京の企業への就職を決めたらしい。しかも大手の企業だ。
「宮崎はこっちでの就職だっけ?」
「そう。こっちは遅いからまだ説明会とかしかなくて。殆どの企業の選考は秋からなんだ」
福島は東京で、私は地元。
あの日以来、福島ともあまり会わなくなった。たまに経過観察かの様に「元気にしてるか?」って連絡がくるけれど。福島は就職活動をしながらバイトにも行って大学にも行っていたからとても忙しかったようで、会ったのは二、三回くらいだった。
私はまだ就職が決まっていないけれど、大学を卒業したら離れてしまうのは確かだろう。滅多に会うことも無くなる。
私にとって福島は恩人であり、かけがえのない大切な友人だ。どれだけ助けられ、どれだけ支えて貰ったか。今もこうして気に掛けてくれている。いずれこうして会えなくなることは寂しいが、離れてしまえば会えなくなるのは当然だし、福島に彼女が出来れば自然と連絡も減り、会うことも無くなっていくのだろう。異性の友人なのだから仕方がない。
今は将来を考える時期だ。楽しみだけでなく、未来を予想して寂しさにも気がついてしまう。
「卒業は出来そうなのか?」
「うん。有り難いことに昨年の必須科目は落とさずに取れたからね。後期の授業も少ないし、殆どこっちで就活かな」
「良かったな」
福島の部屋で一緒に試験勉強をしたりレポートを書いたりしたのが懐かしく感じる。ほんの数日間だけだったのに、それは濃い記憶で、穏やかで温かく優しい思い出だ。
お互いの近況報告をカフェでした後、駅周辺をぶらついた。歩きながら就活の話を沢山してもらい、今後の参考にしようと思った。何せ大手の企業に内定が決まるような人からのアドバイスなのだから……と思ったけれど、福島の魅力は真似できないものだから参考にするのは難しそうだった。それでも就活話は聞いていて楽しかった。
「福島はどうしてその企業に───」
「え?福島?」
すれ違った人に突然私の声を遮られ、声を掛けられた。
福島と振り返ると、そこには派手な印象を与える様な、肩や足が露出した服装に、明るい髪色と濃いめのメイクをした綺麗な人がいた。
「やっぱり福島だよね!めっちゃイケメンになってるじゃん!」
一気に詰め寄って福島の体に触れた。近寄ったことでフワッと香水の香りがした。女性の色香を感じさせる、少し甘く、嗅ぎたくて近寄りたくなるような、そんな香りだった。
何故だか私は息が詰まった。
◆◆◆
「先輩……」
最悪だ。こんなところでこの人と会うなんて。
もうずっと会っていなかったのに。それこそあの川の橋の下で先輩の知り合いの高校生にボコボコにされ、宮崎から借りた本を川に投げ捨てられたあの日以来だ。
最初は誰だか分からなかったけれど、このきつい香水の匂いと、こんな派手な格好をする知り合いなんて他にいない。
「真面目そうになってるけど、今何してるの?」
先輩は馴れ馴れしく俺の腕や胸辺りに触れてきた。この人は未だに俺を所有物か暇潰しの男だとでも思っているのだろうか。
「別に……触らないで貰えますか」
距離を取りたかった。出来ればもう一生付き合いたくない相手だ。しかも今は宮崎と一緒にいるのに、こんな派手でベタベタしてくる女と知り合いだと思われたくも無かった。
よりにもよって何故今日ここで会ってしまったのか。俺になんて気がつかないで欲しかった。
俺に触れている手を払って「行こう」と宮崎を促す。
「ちょっと福島!」
無視してその場を去ろうとした。
「その子が今の彼女なの?」
後ろから腕を取られ引き戻される。しつこい女だ。
「彼女さん、はじめまして。私、福島の最初の女なのよ」
腕を振り払おうとした時、先輩がとんでもないことを言い出した。
「やめろっ!」
腕を振り払おうとするけれど案外強く腕にしがみつかれ振り払えなかった。
「中学の時に私が福島にセックスを教えてあげたのよ」
こいつはこんな街中で何を言い出すんだ?何が目的なんだ?これが女のマウントと言うやつなのか?俺に対する嫌がらせか?何故今になってまた?
宮崎を彼女だと勘違いしてベラベラと喋っている。彼女では無いけれど宮崎には知られたくは無かったから、俺への精神的ダメージは相当なものだ。俺に対する嫌がらせが目的なら、悔しいことに達成されたことになるだろう。
怒りもあるが、それよりも宮崎に軽蔑されるのが怖かった。何も言葉が出なくなった。
「福島って」
不意に隣の宮崎から声がした。
「本当にモテるのね。何年も前の女性から未だに言い寄られるなんて」
「は?言い寄る?」
宮崎の言葉に先輩が眉間に皺を寄せた。
「別に言い寄ってないわよ。何で私が言い寄るのよ」
「違うんですか?すみません。貴女が福島のことをまだ好きだから私にそう言ったのかと」
「違うわよ!事実を教えてあげただけよ!」
「どんな目的でですか?」
「目的!?そんなの……こいつはそういうヤツだから気をつけなって、貴女に忠告しようと……」
「貴女みたいに色っぽくて綺麗な女性が初体験の相手だってことをですか?」
「えぇ……そう、ね……」
先輩は多分困惑している。褒められて怒るに怒れず、でも思い通りの結果にならずにどうしたら良いのか分からず、自身の感情すらも分からなくなっている様子だ。
「残念ながら私は福島の彼女ではありません。友人なんです」
「え……」
一人で勝手に勘違いしていた先輩は言葉を失ったようだ。そして俺もハッキリと宮崎に友人だと言われてしまい、軽くショックを受けてしまった。
「なので、福島の過去を知ってショックを受けるとかも無いですし、昔も今も福島が良いヤツだってことはよく知っているので幻滅することもありません」
ニコニコと笑顔を浮かべて何でも無いように言う宮崎に先輩は呆気に取られてしまっている。
「……もう、いいわっ!」
それ以上は何も言わずに先輩は足早に去っていった。
「あんなに高いヒールで早く歩いて転ばないのかな?」
ヒールをカツカツ音をさせて去る先輩の後ろ姿を見ながら呟いた宮崎に心の中で、そこ!?、と突っ込んでしまった。
「……悪かったな。その……巻き込んで」
「そんなこと言ったら私の方がもっと巻き込んだから。全然平気」
「……ありがとう」
「ふふっ。やっぱり福島は良いヤツだ」
「……そんな良いヤツでもねぇよ」
「受け取り手の自由なんだから」
「…………」
「私って、結構口達者なのかな」
「まあ……中学の時も、俺、言い負かされたしな」
語彙力が無さ過ぎだと言われたな。今でも勝てる気なんて微塵も無いけれど。
「綺麗な人だったね」
「……俺はあの香水の匂いが苦手」
「ええ!あんなに色っぽい匂いなのに!?」
「頭が痛くなる」
「福島って、嗅覚が鋭いの?そう言えば中学の時も私の幼馴染みがペットの匂いがするって言っていじめてたよね」
そう言えばそんなこともあったな、と思う。俺としてはいじめていた訳では無い。からかった訳でも無い。そういった意図があって言った言葉では無かった。
「いじめてた訳じゃねぇよ。匂いが気になったのと……」
「と?」
「……多分、嫉妬だ」
「嫉妬?」
「ペットが飼える家庭じゃなかったからな。羨ましかったんだよ」
「えっ……可愛い」
可愛いのか……?
ペットを飼うなんて、不可能だった。人間の飯も満足じゃなかったのに、ペットの飯の用意なんて出来る余裕は無かった。
何もかもにイラついていた時期だ。何もかもに難癖つけてイライラをぶつけていた気がする。
今になって反省する。どんなにイライラしていたからと言って、誰かを傷つけて良い訳じゃない。それは宮崎の元カレと同じだ。外傷を与えなければ良いなんてことは無く、心に残る傷を与えてしまったら取り返しがつかない。癒えることの無い傷は一生付き合わせてしまうものだ。
今真面目になったからと言って、昔したことは消えない。
「俺は……昔傷つけた人にどう詫びたら良いんだろうな……」
ぽつりと溢してしまった。
「……私は、福島の過去を全部知ってる訳じゃないけれど、少なくとも私の幼馴染みは言われた時は傷ついたけど今はもう気にしてない筈だよ」
「そうか……」
「世の中には、間違いは誰にでもあると許してくれる人ばかりでは無いけれど、気がついた時から反省して誠意を持って接していけば良いんじゃないかな。過去を他人のせいにして開き直って生きていくよりずっと良いと思うよ」
宮崎の言葉はズシリと重く心に残った。
まさに俺は人のせいにしていた自覚があるからだ。不良になった原因を、親のせいにしていた。親が離婚して貧乏になって、やりたいことも続けられず、買いたい物どころか生活品も満足に買えず、母親も俺に見向きもしなくなった。だから自分の境遇にイライラするようになった。他人と比べて何故自分はこうなんだと不満がイライラになり、関係の無い他人にぶつけていた。
最低だ。
久し振りに宮崎と会えて嬉しかったのに、暗い気持ちで帰宅した。香水の匂いが強い先輩に会って勝手に暴露されたのもショックだったが、何より自分の最低な部分に気づかされてしまったからだ。
宮崎は俺のことを良いヤツだと言うけれど、どこが良いヤツなんだかと思ってしまう。宮崎に見せている俺は結局は良く見られたくて作ったものだ。偽善者面をして取り入っているだけではないか。
本当の俺は?
俺は宮崎に内緒で元カレに会いに行った。
事件後宮崎は直ぐに実家に戻ったが、元カレは暫くは同棲していたマンションにいた。仕事もあったし、簡単には引っ越せなかったのだろう。
夜マンションを訪れたが不在だったので帰ってくるまでマンションの前で待っていた。差程待たずに姿を現し、誰とも名乗らず突然胸ぐらを掴んで「二度と宮崎の前に姿を現すな」と伝えた。本当は殴ってやりたかった。宮崎がされたのと同じだけ傷をつけてやりたかった。けれどそうしたら俺が警察に捕まってしまう恐れがある。それに俺は不良だったけれど、実際殴り合いの喧嘩で手を出したことは無いのだ。
相手は胸ぐらを掴まれ苦しそうに震えていた。気の弱いヤツなのかもしれない。なのでそれで解放し、俺は帰った。
俺は良いヤツなんかじゃない。宮崎の意思を確認もせずに勝手に仕返しをするような男だ。内側に狂気を持っている。いつそれが暴走するかも分からない。自分でも危険だと思う。
心がグシャグシャのまま実家の玄関を開けた。
奥からドタドタと四歳になった弟が走って来た。
「お兄ちゃん、おかえり!」
イヤイヤ期と呼ばれる時期が過ぎたらしく、何とも可愛らしい笑顔を振りまき沢山愛されて育った為か、とても素直で人懐っこい弟だ。
「ただいま」
帰省する度にお土産を渡してあげるからかとても懐いてくれた弟は、俺の手をぐいっと引っ張ってリビングへと連れていく。
「おいおい、まだ手を洗ってないんだけど……」
小さい弟の手を払いのけることなんて出来る筈も無く、突っ込みながらもついて行き部屋に入ると、目の前のダイニングテーブルの上にご馳走が並んでいた。
「…………」
何かの日だったか?と思う。弟の誕生日はもう過ぎたし。
「おっ、来たな。おかえり」
義父が側に来て声を掛けてきた。
「ただいま」
義父がニコニコとしている。元々優しげな顔立ちなのだ。笑えば仏のように見えてしまう。
「これ!お兄ちゃんのごはんだよ!」
「ん?」
弟が嬉しそうにそう言うが、俺のとは?家族皆のご飯では無いのか?
「お前の就職祝いのご馳走だ」
義父の補足に一瞬固まった。何度も瞬きをしながら義父を見つめてしまった。言葉が出て来ず、口だけ間抜けにも開いてしまっている。
「うれしい?」
弟が無邪気に聞いてくるが、今の感情を表す言葉は思いつかない。
「……俺の?」
「お兄ちゃんの」
「お前の」
実感が無い。
それもそうだろう。こんなことは記憶に無いのだ。弟が産まれてまだ赤ちゃんの頃に俺は大学に入学し一人暮らしを始めた。新しい家族とこんな風にお祝い事をしたことなんて無かった。
「うれしい?」
もう一回弟に聞かれた。きっと喜んで貰えると思っていたから喜んで欲しいのだろう。
「うん。ありがとう」
嬉しいのかよく分からない。戸惑いの方が大きい。でも弟も義父も俺の言葉に満足そうな顔をしていた。
キッチンに視線をやると、母と目が合った。けれど直ぐに目線を逸らされた。態とらしくパタパタとスリッパを鳴らしてトイレへ行ってしまった。
「素直じゃないだろ。お前にそっくりだ」
「……素直、じゃない?」
我慢せずにいかにも俺を避けているのは自身の心に正直な行動だと思うけれど。
「お前の就職が決まって喜んでいたんだぞ。本当は思いっきりお祝いをしたいんだよ。でも、これまでお前に悪いことをしたと思って、どう接したら良いか分からないんだよ」
母が?
俺に、悪いことをした?
母と顔を合わせて会話をしたことはいつだったかと思い出せないくらいに無かった。
俺は避けられていると思っているから、この家で生活していた高校の頃は極力母と会わないようにした。
けれど、それは俺の思い違いだったのだろうか。
母も辛い思いをした。まだ精神的に幼かった俺には親の離婚理由は分からなかった。実父に顔が似ている俺を見るのが辛い程に傷を負ったことだろう。親子二人になり支え合わなければいけなかったかもしれないのに、全てを一人で抱えなければならなくなり余裕の無くなった母に対し、反抗期でもあった俺は何も理解しようともせず不良になり、母は余計に俺から目を背けた。
でもこの優しい義父と出会って傷を癒しながら自身の行動を顧みたのかもしれない。
母も俺も一緒だった。イライラを人にぶつけ、そして今後悔している。
「そっくりだろ?素直になれない不器用さ。ああ、お前が母さんにそっくりなのか」
義父が笑いながら言う。
この人には何もかもお見通しなのかもしれない。
帰ってからまだ手を洗っていなかったので、洗面所へ行った。母はまだトイレに入っているようだ。
コンコンとノックした。
「母さん、ありがとう」
顔を見ては恥ずかしくて無理だ。恐らく向こうも無理だろう。
俺は宮崎が言っていた"許してくれる人"になりたかった。昔傷つけた人に誠意を持って謝罪をしても、許して欲しいと思うことは都合がよすぎるだろう。でも俺は、先ずは許せる人になることが必要な気がした。
母からは何も返事が無かった。洗面所で手を洗ってその場を去ろうとしたら、トイレの中から微かに嗚咽と鼻を啜る音が聞こえた。
“素直になれない不器用な人”だと言った義父の言葉を思い出し、鼻の奥がツンとした。




