14.願いともう一度見た光
◆◆◆
宮崎が同棲していたマンションへの道を全力で走った。駅で宮崎を待っていて冷えた手はすっかり温まり、汗をかき上着を脱ぎたいくらいに暑かった。
宮崎がバイトを終えて帰ってからかなり時間が経っている。
(宮崎は無事だろうか)
また痣が出来てしまうようなことをされていないだろうか。手当てが必要な怪我を負っていないだろうか。何より、心が傷ついていないだろうか。このままでは彼女の心が壊れてしまうかもしれない。
もっと早くバイト先に確認に行けば良かった。図書館になんて行かずにもっと早く駅に来ていれば良かった。そうすれば宮崎を連れ出す彼氏と遭遇出来たかもしれない。
いや、そもそもバイトに行くことに反対すれば良かった。彼氏なのだから宮崎の行動範囲はある程度把握出来ていたんだろう。大学なら学生数も多いのでそう簡単に見つからないだろうが、バイト先なんて張るのに最適じゃないだろうか。そんなことにも気がつかなかったなんて、宮崎との同居の日々に俺は浮かれていたのだろうか。
今さら後悔しても仕方が無いことは分かっているのに、考えずにはいられなかった。そして、今はどうにか、何としてでも宮崎を取り返したい。
マンションに着くとエントランス前にパトカーと車が停まっていた。
(警察……?)
何かあったのだろうか。
不安になる。もしかして宮崎に何かあった?
走ってパトカーと車の横を通る。車の横を通り過ぎる時に車内の内装をチラッと覗くと、無線が見えた。これも警察車両ではないだろうか。
エントランスに入ると警察官と女性が一人いた。その女性が少し興奮気味に警察官に向かって話しているのが途切れ途切れに聞こえてきた。
「……様子がおかしくて……凄く大きな音が連続で……暴力じゃ……」
……今、暴力って聞こえた?
直ぐに駆け出して警察官達に近付いた。
「あのっ!何かあったんですか!?」
「え?このマンションの住民の方ですか?」
警察官が応えるが慎重そうな様子だ。それもそうかもしれない。向こうが欲しい情報をこちらが持っていると思われないと教えてはくれないだろう。
「友人がここに住んでいて、同居している彼氏に暴力を受けているかもしれません!」
「……それは何号室でしょう?」
「三階の───」
「それ!私の隣の部屋です!」
女性が直ぐに反応をした。この女性は隣人だったんだ。
「酷い痣を作られてここから逃げ出したのに捕まって連れ戻されたんです!だから直ぐに……!」
「インターフォンを鳴らしましたが応答がありませんでした」
「居留守ですよ!だって私ここで会って部屋の前まで一緒に行ったんですよ!そしたら大きな音がして、心配で……!」
切迫した状態で警察官に詰め寄る女性の姿に人命の危機を感じたのか、緊急事態であると判断してくれ、一人の警察官だけをエントランスに残し、他はオートロックの中に揃って入った。
エレベーターで三階まで行き部屋の前まで行く。
警察官がインターフォンを鳴らす。二度鳴らすが応答は無い。ドンドンと扉を叩き「長野さーん!宮崎さーん!」と名を呼ぶ。それでも特に反応が無い。
「いらっしゃいませんか?長野さーん!」
「いない筈無いわ」
ぼそりと隣人の女性が呟いた。しかし警察官に通報者と分かってしまうかもしれないのでと、自室の方へ避難するよう言われ、女性はその場を離れた。
「出てきてください」
警察官がドンドンと叩きながら部屋の中に向かって声を掛け続けるが応答は無いままだ。
もしかして、逃げた?
ただ警察に怯えて出てこないだけか?
それとも証拠を隠滅しているのか?
そもそも出掛けたか?
もしくは……逃げられないと悟って、宮崎と自身の命を絶った……?
そんな想像したくも無いのに最悪を考えてしまう。
何も無いなら出てこられる筈だ。出てこられない理由が何かしらある筈なんだ。
出てきて欲しい。
出てこい!
出てきてくれ、宮崎……!
◇◇◇
ピンポーン、ピンポーン。
突然部屋に鳴り響いたインターフォンの音。先輩は構わず行為を続けようと私の太股をグッと押した。
ピンポーン、ピンポーン。
けれど再び鳴ったインターフォンの音に、先輩の動きが止まった。
「誰だ?」
宅配ならそう何度もインターフォンを押さない。留守だと思えば直ぐに去っていく。
誰だか気になったのか、先輩はベッドを降りてリビングのインターフォンのモニターを確かめに行った。
「警察?」
寝室にいる私の耳に、先輩のその声だけが聞こえ、ビクッとなった。
どうして警察?
誰かが通報した?
それともこのマンションで何かあった?
インターフォンの音で行為は中断されたけれど、震えが止まることは無い。
そしてインターフォンの音は止んだ。
……警察は、帰ってしまった?
「宮」
先輩がリビングから寝室に戻ってきて声を掛けられ、再びビクッとする。もうずっと心臓が壊れそうな程にドクドクと激しく動き続けている。
「宮が通報したの?」
先輩の私を見る目が冷えていて恐ろしい。私が裏切って警察に言ったと思っているらしい。そんなことはしていないし、もし仮にそうだとしたらどんな目に遭わされるか分かったものでは無いので、必死に首を左右に振った。
「本当に?じゃあ何で警察がここに来るの?」
体が動かない私の上に馬乗りになる。
「俺から逃げていた間、警察に相談したの?」
手も足も動かないけれど、泣きながら首だけは振った。
「じゃあ、どこで何してたの?」
先輩の手が伸びてきて首を絞める。力を込められ声を出すどころか呼吸が出来ない。
「友達のところ?」
友人だと言ったら友人の名を聞き出し、その友人に危害を加えるのではないだろうか?友人である福島のところに居たが、男であることが分かればどうなる?福島にも危害が及ぶのだろうか?
分からないから首を振る。首を固定されていて首を振っても動いている感触が無く、否定していることが伝わったのか分からない。
「やっぱりあの男のところか?」
首を絞める手に更に力が加わり、苦しくて苦しくて必死に私の首を絞めている先輩の手をかきむしった。
それが痛かったのか先輩は私の首から手を離した。
私はやっと入ってきた酸素をもっとという位に吸うけれど、上手く吸えずに吐き出して、呼吸の仕方が分からなくなる程吸うと吐くをバラバラに繰り返した。
「……痛いじゃないか、宮」
ぼやける視界で先輩を見ると、私が引っ掻き血が滲んでしまった手を擦る反対の手にも血が滲んでいた。
その血が滲んだ手で私の頬を叩いた。反対の手で私の反対の頬も叩いた。頭がぐらんぐらんして、目を開けていられなくなった。先輩は容赦なく今度は私の髪を掴み引っ張った。
(私、死ぬのかもしれない……)
そう思って意識が飛びそうになった時、ピンポーンと再びインターフォンが鳴った。そのお陰か先輩は私を叩く手を止めた。そしてドンドンと扉を叩く音がして「長野さーん!宮崎さーん!」と言う声が聞こえてきた。
先輩はチッと舌打ちをしてまたインターフォンのモニターを確かめに行った。そして「クソッ!」と悪態をつく。
「警察だ!何でオートロックの中に入ってきてんだよ!」
先輩は不機嫌さを隠しもしないで何度も「クソッ!」と言っている。しかし応答する気は無いようだ。
それもそうだろう。今室内を確認されたら明らかに暴行を受けた状態の私がいるのだから。
マンションのエントランスのインターフォンを鳴らした時とは違い、今度は何度も何度も扉を叩いている。まるで留守ではなく居ることを分かっているかのようだ。
そして先輩は突然鋏を持って寝室に戻ってきた。その鋏を見てドクンと心臓が大きく鳴った。凶器……?
しかし持っていたのは鋏だけじゃなかった。ガムテープに段ボールを束ねる時の紐も持っていた。
「手を出せ」
つまり、私を縛って口にガムテープを張り喋られなくして何処かに隠すつもりなのだろう。
鋏で殺されないだけマシなのだろうか。もはや正常な判断なんて出来る状態ではなかった。
言われるままに恐る恐る震える腕を前に差し出した。
このまま隠され警察に見つからなかったらどうなるのだろう。でも今言うことを聞かなかったらこの鋏で刺されるかもしれない。
そして先輩が私の手に紐を掛けた時だった。
「宮崎───!」
聞き覚えのある声だった。
ドンドンドンッと力強く扉を叩く音。扉を壊そうとでも思っているかのように大きく部屋に響いた。
「居るなら出てこい、宮崎───!」
また、来てくれた……?
また、ここに来てくれたんだ。
福島が警察を呼んだのだろうか。
「ここにいたらダメだ!出るんだ、宮崎!」
この間と同じ。
私の目の前に、また、光を見せてくれている。
恐怖で動けない私に、逃げたいという感情を起こさせてくれている。
考えたら不安になるだけ。
言うことを聞かなかったらどうなるとか、逃げたらどうなるとか、この先どうなるとか、考えたら不安で手足が動かなくなるだけ。
「宮崎───!」
福島が私を呼ぶ力強い声に突き動かされるように、目の前の先輩の股間を思いっきり蹴り飛ばして走り出した。以前福島に「蹴り飛ばしてやれ」と言われたことを思い出したからだ。
頭はクラクラするし視界はぐらつくし体はもつれて上手く動かなかったけれど、ただただ必死に玄関まで走った。壁にぶつかりそうになるのを手で押さえながら、何も考えずに前だけを見て。
玄関扉の鍵を震える手でもたつきながらも何とか開けて、扉を開けた。
◆◆◆
「宮崎───!」
あまりにも大きな声と大きな音で扉を叩いたせいか警察官に途中で止められたが、俺も必死だった。
彼氏は出てこないだろう。だったら宮崎が出てきてくれたら。この間の様に宮崎から出てきてくれたら……
まだ扉を叩こうとする俺を警察官が制して扉から引き離す。そのタイミングで扉の鍵がガチャガチャッと音を立てた。そこにいる皆が音にハッとして身構えると、扉が勢い良く開かれ、宮崎が飛び出してきた。
「宮崎!」
俺を制している警察官の腕を振り払い、倒れ込みそうな宮崎の体を受け止めた。
「ふ……」
声が出ないのか、吐く息に言葉が消えていた。
顔や首は赤く、頬は腫れ、髪が乱れている。さらに涙を流し、息は上がり、そして体が震えている。ニットを着ているだけの姿だ。ズボンを履いておらず細く白い足が露になっている。けれど、寒いよりもこれは恐怖で震えているのではないだろうか。
警察官が直ぐに部屋の中に入って行ったが、俺は上着を脱ぎ宮崎に被せると、そのまま上着ごと宮崎を抱き締めた。
中から男の騒ぎ声が聞こえた。中に入らず玄関先に残った警察官が無線で何事か言い合っている。
それら全てを宮崎に聞かせたくないと思い、俺に縋る宮崎を強く抱き締め続けた。




