第十四話 〝裏〟
「———っ!」
向けられたのは身を焦がされるような眼差し。明日香は咄嗟に拳銃を構えた。
「「明日香!!」」
「分かってる!」
透哉と逞真もそれに気づいて、唯一この場から有効打を与えられる明日香の名を叫んだ。
しかし明日香が引金を引くよりも早く、虎熊童子は両手を広げて天を仰いで真上にある賀茂大橋を爆発した。
「くっ……」
間に合わない。虎熊童子の姿が瓦礫に阻まれて、明日香は引金を引けなくなる。
術眼の基本———〝表〟はいずれも単色の光を放つ。しかし〝裏〟の瞳術に限っては復色、もしくは別の色へと変化する。そして〝裏〟を開眼させた人間にとって、その瞳術は間違いなく奥義と呼べる威力を誇る。
祝詞が始まる。
「———迸る黒炎は蛇王を滅っす。引かれ、衝き、砕け合い、されどやがては全てを吞み込む。還らぬ風光に嘆きし者は天を覚えて恐れよ。彼の日には何をも役には立たたぬのだから———」
ひたひたと嫌な笑い声が鴨川一帯に響いた。
「———涸れ果てろ———【落日天道】」
虎熊童子を覆っていた瓦礫が紅蓮に染まると、ドロドロに融解し始める。更には足元を流れる川の水が急激な気化によって、小さな水蒸気爆発を何度も起こして干上がっていく。
「酒吞童子様は隻眼やし、他の四天王らもこれはできひんかったみたいでなぁ」
まるで双眸に太陽でも宿しているかのよう。長い髪は全て焼き切れ、全身に陽炎を纏ったその姿は時代が時代なら信仰の対象となってもおかしくないような風貌をしている。
虎熊童子が歪んだ笑みを浮かべて言う。
「さぁ、時間もありまへんから直ぐ終わらせよか」
「二人とも俺の後ろまで下がれ!」
透哉は本能からそう叫んだ。
「【水操氷雪】!!」
川床に左手を付き、これまで一重だった氷壁を今度は五重にする。
直後、何の前触れもなく熱線が飛来し、氷壁を叩いた。しかも即座に三枚目までが割れ、四、五枚目もひびが入る。
「くっ———!」
今の【爆區破眼】は常に最高光度であるため、瞳力の揺らぎが一切ない。
透哉はあの歪んだ笑みから漏れ出る殺気を感じ取って反射的に氷壁を重ねたが、それが幸いした。
一枚では即死。四枚でも瞬間生き長らえただけ。五枚であったからこそ、氷壁の内部で逃げ場を失った水と気体が熱で膨張し、偶発的に大規模な水蒸気爆発を発生させた。
氷壁は粉々となり、三人は風圧で後方へ吹き飛ばされる。
しかし、そのことで結果的には命拾いした。
爆発の影響で川床は抉れ、一時的に水飛沫と土砂が空へ弾けた事で双方の視界が遮断される。
虎熊童子からの攻撃が一時的に止むが、視界が晴れるや否や、またすぐに熱線の攻撃が飛んでくる。
今度は川の水だけでなく、透哉は瞳力からも消費して、より強固な氷壁へと練り上げた。
「「透哉……!」」
「考えがある……!」
明日香と逞真の声を遮るように透哉は叫んだ。
想像以上の【爆區破眼】の威力に全身の汗が噴き出る。しかし透哉は構わず続ける。
「明日香、残弾は?」
「あと三発……」
「十分だ。逞真もまだ動けるな?」
「う、うん、大丈夫!」
よし、と透哉は自身を奮い立たせるように呟いた。
「これからやることは正直賭けだ。それでも乗ってくれるか?」
透哉の問いに、明日香と逞真が曇りのない瞳で頷きをみせた。
「口では分かってる言うてはったけど、うちに氷の玩具は通じへんのがまだ分かりゃしまへんのか?」
超高温の熱線と氷の攻防。鴨川一帯は焼け石に水をぶちまけたような音が永遠に続いていた。
動く理由のない虎熊童子はその場から熱線を飛ばし続ける。
氷壁から時折、鏃の蔦が伸びて反撃をされるが、全方位に纏う灼熱の陽炎によって昇華され、届くことはない。
〝裏〟になったことで瞳術は全周囲に及んでいる。この距離で攻め続ければやられることはまずない。それに大量の水を消費しているせいで、鴨川は本格的に干上がり、霧までもが発生し始めている。
形勢が決まりつつある中、意味のない攻撃が尚も向けられることに虎熊童子は苛立ちを通り越して呆れ出していた。
「はぁー……。これ、まだ続ける気ぃなん?」
「ああ、もう少しだけ付き合ってくれよ……!」
とうとう鴨川の水の全てが熱によって気体化した。既に透哉は攻防に使う水分を自身の瞳力から捻出しており、この状況もそう長くはもたない。
だから透哉は胸中で何度も念じた。
早く、早く来い。まだ足りないのか……。
「……クソ、来いよ!」
透哉が半ばやけに吐き捨てた直後、氷壁の向こう側で、これまでにない火炎を伴った大爆発が起こった。
「なん!?」
虎熊童子が吃驚し、動揺する。ただ熱線による攻撃をしていただけで〝裏〟の状態になってからは【爆區破眼】による爆発は一度も行っていない。
「ちっ———! なんや一体! なにしたあんたら!」
水蒸気爆発は水分の急激な気化によって発生する物理現象だ。しかし、これは違う。
鴨川の水はこれまでの攻防により全てが気体化していた。本来であれば空気中に水素を滞留、充満させることは難しい。だが〝裏〟になったことで熱線の威力———温度が上昇し、通常では考えられない速度で水素が生成された結果、瞬間的に化学反応を起こせる濃度まで到達した。
あとは何度も起こっていた水蒸気爆発が起因となって水素に引火し、そこから燃焼現象が成されたことで火炎を伴う大爆発———水素爆発が発生。
透哉はこれを誘発した。
———パァン!
瞬間、立ち込む煙の中を一発の銃声が駆け抜けた。
「どこ狙ってんのや! 間抜けが!」
虎熊童子は盛大に嘲った。顔はおろか体のどこにも当たっていない。そもそもこの視界の悪さで当てるなど不可能だ。
煙が晴れ、徐々に視界が開けてくる。
「逃げた……訳ではなさそうやな」
———パァン!
真正面からだ。銃声が鳴るその瞬間を虎熊童子は臙脂色に黒点が浮かぶ瞳で捉えていた。
爆破。弾丸が自身へ届く前に撃ち落とす。
仮に纏う灼熱の陽炎が太陽の表面温度と同じだったとしても弾丸ならば到達する。太陽の脅威はその面積による熱の放射総量であり、如何に同じ温度を放つ事が出来たとしても人間程度の大きさでは、音速に近い金属の塊を溶かし消すまでには至らない。
図らずとも感覚でそれを理解した虎熊童子は驕ることなく弾丸を爆破した。しかし、
舐められたものか。
虎熊童子の真正面には明日香しか立っていない。今の一発は明らかに陽動である。
今度は四方向から巨大な氷柱が一斉に飛来する。だが氷に関しては放っておけば灼熱の陽炎で勝手に消滅する。ならこれも陽動、単なる目くらましだろう。
虎熊童子は周囲を見回した。すると視界の右の方。氷柱の影に大鎌が揺れ動くのを捉えた。
なるほど。防御を捨て、氷ではなく金属武器で仕掛けるか。それならば灼熱の陽炎で溶解しきる前に攻撃は届き得るだろう。
だが、待つのではなくこちらが迎え撃てば、刃が届くことはあるまい。
虎熊童子は右から飛来する氷柱に視線を向けた。
熱線を向けられた事で透哉の前を行く氷柱だけが周囲と比べて異様な早さで昇華する。このまま抱きしめて全身を真っ黒に焼き焦がしてやるのも悪くはない。
しかし、虎熊童子はそうしなかった。狙うべきは氷柱からはみ出すように見える大鎌。その刃を根元から熱線で溶断する。金属武器を失えば無力も同然。殺すのは後回しでいい。
むしろ、向こうとしては釘付けさせることに意味があるのだろう。
「上やろ。バレバレやわ」
虎熊童子は一歩、後方へと身を退いた。
崩壊した橋の上から逞真の黄土色の双眸が尾を引き、飛び降り様に一撃を放つ。
しかし、虎熊童子の読みが的中した。振り下ろされた斧は干上がった川床を衝くばかりになる。
四方向から飛来した氷柱が全て昇華し終え、視界が完全に確保される。そして、虎熊童子の眼前には透哉と逞真、その奥には明日香がいる。
三人が視界の内に納まった。思わず醜悪な笑みがこぼれてしまう。
「これでもう終わ———は?」
突如起きた現象に虎熊童子は思わず疑問の声を漏らした。
あり得ない。翡翠色の風を纏った弾丸が眼の前を飛んでいる———いや、遠ざかっている。
「あ、かっ……?」
何が起きたのかは分からないまま、纏っていた灼熱の陽炎が消滅していく。
実際は一瞬。しかし虎熊童子の中では数秒、もしくはもっと長く感じたかもしれない。理解を拒み、拒み続ける。それでも灼熱の陽炎が消滅した事実が、否応なしに逆算の思考をさせる。
後頭部から右眼を貫かれた。
「クッソがぁ……! いつ三発目を……!」
そうだ、明日香は真正面にずっといて、拳銃も二発目以降は構えているだけで撃ったところを虎熊童子は見ていない。そもそも、発砲音だって聞いて———
「瞳術の制御には自信があるのよ。まぁ、それでも弾を曲げるのって結構な集中力がいるから、あんたにはこれまで一度も使ってこなかったけどね」
明日香が肩で息をしながら意気揚々《ようよう》に吐き捨てると、虎熊童子は残った左眼を大きく見開いた。ようやく時間差で弾丸が到達したことに気が付いたのだろう。
「あの、初弾かぁァ……!」
二発目の発砲音を聞いた時点で、初弾の存在は完全に虎熊童子の意識の外にあった。
爆発が起きた後、明日香は真横に向けて発砲した初弾を、弧を描くように瞳術で制御していた。それこそ二発目の弾丸は陽動でしかなく、初弾に集中力を持っていかれるあまり、瞳術を付与することが出来なかった。
「ぶち殺す……! 絶対に!!」
虎熊童子が咆哮した。
透哉と逞真は満身創痍の体を奮い立たせて構える。しかし、虎熊童子は眼前の二人を無視して、明日香の方へと真っ直ぐ走り出した。
片眼を失った今〝裏〟はもうない。だが、明日香の残弾も一発だ。
「「明日香!」」
透哉と逞真がその名を呼ぶが、再び極限の集中に身を落とそうとする明日香には届いていない。
明日香は乱れた呼吸の中、確実に仕留めるために片眼で照門を覗き込んだ。
そして、引金を絞る。
しかしその瞬間、虎熊童子の残った左眼が細く発光した。
「くっ……!」
「ちっ———!」
虎熊童子が舌打ちをする。〝裏〟の反動、そして片眼だけになったせいで瞳力が明らかに欠乏している。本来は明日香の右腕ごと吹っ飛ばすつもりだったが、格段に落ちた威力ではせいぜい銃口をひしゃげ、爆破させる程度になってしまった。
だが、それでも十分だ。
明日香は拳銃を投げ捨てた。しかも爆破の衝撃を受け、尻餅をついてしまう。
それを見た虎熊童子は赫然としながらも口元が醜悪に歪んだ。これで丸腰、しかも向こうは頭を覆い隠すように左腕を上げて身を強張らせている。
虎熊童子は明日香を縊り殺すように、両手を前へ突き出して距離を詰めていく。着物の袂のせいで表情は見えないが、恐懼戦慄している様が眼に浮かぶ。
「その恐怖に歪んだ面みせてみぃ!」
虎熊童子が吐き捨てる。そして血に飢えた獣の如く、明日香に向かって飛びかかった。
だがその瞬間、明日香は左腕を少し下げた。
両者の視線が交わる。臙脂色の【爆區破眼】は変わらず狂気と醜悪を宿す一方で、翡翠色の【正飆眼】は———
「【風羅貫】!」
恐怖に染まるどころか、むしろ縁遠い凛とした輝きを放っていた。
まるで栓を抜いたような、乾いた音が鴨川を駆け抜ける。その瞬間、虎熊童子は明日香の左腕の袂に小さな風穴が開くのを見た。
「卑怯やろ……そんなん……」




