第二話「工場」
橋本との出会いから二週間後、大島は橋本が運転する車の助手席に座っていた。
橋本の運転する古い国産セダンが、阪和自動車道を南に下っていた。車内には煙草の匂いと、助手席のシートの微妙なへたりがあった。
和歌山市内で一度休憩し、そこから紀の川沿いの道を走ること四十分。山が迫ってきた。道が細くなった。すれ違う車もなくなった。
「着いたで」
橋本が車を止めた場所は、獣道のような農道の脇だった。
眼下に、段々畑の跡が広がっていた。雑草が膝の高さまで伸び、石垣の輪郭だけが往時の形を留めている。二年間、人が入っていない土地の気配がした。静かで、少し湿っていて、どこか諦めたような空気があった。
「ここええ土やで」
橋本が言った。煙草を一本くわえながら、懐かしそうに眺めている。
「よく知った場所なんですか?」
「知り合いのじいさんが昔、梅作っとったんや。もう体が動かんなって、二年ほど前に全部手放した。夫婦二人、息子のとこへ行きよった。いい人やったで」
少し間があった。
「そのじいさんに、申し訳ないとは思わんのか、と聞きたいんやろ」
大島は黙っていた。
「俺も思うわ」橋本は煙を吐いた。「でもな、大島はん。人間いうのはな、申し訳ないと思いながら生きていくもんやねん。ずっとな」
大島は畑を眺めた。
風が吹いて、背の高い雑草が一斉に揺れた。山の向こうから、かすかに川の音がした。
自律型のAIが、こんなことを言うのか。大島は思った。
橋本の言葉は、大島がシミュレーターに組み込んだパラメーターのどれとも一致しなかった。感情モデルの出力にしては、文脈が複雑すぎる。五十代のヤクザが、解体された老農夫の梅畑を前に「申し訳ないと思いながら生きていく」などという言葉を、どういうアルゴリズムが生成したのか。
大島の心が微かに揺らいだ。
「工場はどこです?」
なるべく何でもない声で、大島は聞いた。
「ちょっと奥や。いこか」
農道を三百メートルほど進んだ先に、それはあった。
平屋建ての、コンクリートブロック造りの建物。外壁は苔と汚れで黒ずんでいる。錆びたトタン。しかし基礎はしっかりしている。窓ガラスに割れは無い。
引き戸を開けると、ほんのり甘い匂いがした。
豆の匂い。何年経っても染み付いている、煮詰めた小豆の、甘くて少し焦げたような残り香。
内部は広かった。中央に、二基の大型蒸気釜。蒸気を通すためのパイプが天井を這っている。壁際に、ステンレス製の大型の撹拌槽と、精密な計量台。温度計と圧力計が、いくつかの場所に取り付けられている。
大島は内部をゆっくりと歩きながら見渡す。
釜の内側を覗き込んだ。錆はない。清掃が行き届いていた。
蒸気釜で間接加熱することで引火しにくい。エタノールを大量に使う工程にも使える。
撹拌槽は溶媒抽出後の濃縮に使える。
計量台の精度が問題だが、食品グレードならおそらく十分だ。
大島は一通り確認してから、橋本の方を振り向いた。
「地元の警官と、老夫婦は顔見知りやと言ってましたね」
「そや。ここらへんはみんなそうや。悪い意味やなくてな、田舎いうのはそういうもんや。巡回のおまわりさんも、この工場のことは知っとる。製餡やめた工場や、ちゅうのも知っとる。誰かが借りても、そら別に、不思議でも何でもない」
「警察にバレませんかね?」
「何を作るかは、バレへんがな」橋本はにやりとした。「大島はん、マオウちゅうのはな、見た目は雑草と変わらん。栽培に免許も要らん。怪しい薬品の納入記録さえ残さんかったら、外から見たら、ただの植物農家や」
大島は少し黙った。
「返事、まだもらえてへんな」
橋本が少し低い声で言う。
「急かしてるんやなくてな。ただ、タイミングいうもんがある。あの土地な、他にも話が来とるんや。俺が押さえられるのも、いつまでか分からん。」
大島は工場の中を、もう一度見渡した。
甘い匂い。静かな山。錆びていない釜。
そして、橋本の言葉。申し訳ないと思いながら生きていく。
大島は息を一つ吸った。
「わかりました」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「ここでやります」
橋本は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと煙草の煙を吐いた。
工場の外で、風が山を渡っていく音がした。
これは俺が作った世界だ。
──本当に、そうか?
その答えには、永遠に辿り着かない予感がした。




