第一章 乾いた笑い
判決は、禁固五年だった。
大島幸隆は傍聴席でそれを聞いた時、泣かなかった。
笑った。
声には出さなかったが、口の端が少し上がった。乾いた笑いだった。隣に座っていた弁護士が、チラリと大島を見た。大島は気にしなかった。
禁固五年。
二人殺して、禁固五年。
加害者は八十五歳だった。高齢。再犯リスクが低い。情状酌量。検察の求刑は八年だった。裁判官は五年にした。
まあ、そうだろうな。
大島は思った。
驚きはなかった。この国の司法がどう動くか、判決が出る前からわかっていた。弁護士にも言われていた。「厳しい結果になるかもしれません」と。厳しい、という言葉の意味が、弁護士と大島では最初から違っていた。
妻の綾が死んだのは、事故当日の夜だった。
搬送先の病院で、大島は綾の手を握った。綾は意識がなかった。そのまま、戻らなかった。
さくらはすでに死んでいた。
現場で、即死だった。
四月だった。
桜が舞っていた。
さくら、という名前は、四月に生まれたから綾がつけた。大島は最初、ありきたりだと思った。しかし生まれたさくらの顔を見た瞬間、その名前以外考えられなくなった。
その子が、四歳で死んだ。
桜が舞う季節に生まれて、桜が舞う季節に死んだ。
事故から十一年が経った。
大島は四十三歳になっていた。
IT企業のシステム管理職。独身。都内のマンション、1LDK。貯金は三千万円。
特に不自由はなかった。
特に、何もなかった。
美女が目の前を歩いても、心が動かなかった。美味い飯を食っても、美味いとは思うが、それだけだった。昇進した時、同僚が祝ってくれた。大島は笑顔を作って、ありがとうと言った。
笑顔の作り方は、十一年で上手くなった。
引き出しの奥に、ビニール袋がある。
一度も開けていない。
中に、服が入っている。
さくらが事故当日に着ていた服だ。救急隊員が脱がせた後、病院が保管していたものを、後日受け取った。小さい服だ。四歳の子供の服だ。血が染み込んでいる。
綾の遺品にも、血がある。
大島はそれらを捨てられなかった。
捨てる気もなかった。
ただ、引き出しの奥に入れたまま、十一年が経った。
シミュレーション仮説と出会ったのは、そんな夜だった。
深夜、ソファに寝転がって、スマートフォンで動画を流していた。サイエンス系のチャンネル。再生数百二十万。タイトルは「宇宙はピクセルでできているのか」。
見るつもりはなかった。
気づいたら最後まで見ていた。
物理学者が言う。空間は連続していない。プランク長の単位で刻まれた格子構造である可能性がある。重力の振る舞いが、情報処理のアルゴリズムと一致する。この宇宙が、何らかの演算システムの上で動いている可能性を、真剣に検討しなければならない。
大島はスマートフォンを置いた。
それから数日後、ニュースが飛び込んできた。
アメリカの巨大テック企業が、量子コンピュータを用いた「人類文明シミュレーション・プロジェクト」を正式に発表したのだ。発表資料の映像には、画面の中の街を歩く無数の人影が映っていた。彼らはAGIによって生成された自律型の存在で、独自の言語を発達させ、宗教を持ち、戦争を起こし、テクノロジーを発明していた。
インタビューに答えたプロジェクトの主任研究員は、こともなげに言った。「彼らは、自分たちが存在しているシステムの外側を認識する術を持ちません。彼らにとって、それが世界のすべてです」
大島はスマートフォンをゆっくりと置いて天井を見た。
なら、やり直せるかもしれない。
その考えが、浮かんだ。
十一年間、何も大島を動かさなかった。
この考えが、動かした。
翌日から、大島は動いた。
まず、金が必要だと計算した。
数十億円。
桁が違った。三千万の貯金では、話にならない。
ビジネスを立ち上げた。
画像生成AIとゲームエンジンを組み合わせたビジュアルノベルの量産システム。需要が安定しているニッチな市場に特化した。制作時間を従来の百分の一に圧縮した。
半年で、三千万が八千万になった。
一年で、一億五千万を超えた。
しかし計算すると、まだまだ足りなかった。
必要な規模のシミュレーターを動かすには、最低でも数十億円のインフラが必要だった。
サーバー、電力、設備、そして何より、DNAからエージェントを精緻に生成するための演算リソース。
合法の手段では、間に合わない。
大島はそう判断した。
判断して、次の手を考えた。
迷いはなかった。
さくらがいるから。




