第七十七話 奈落の淵
樹木網の城の前に、巨大な黒い山がそびえ立っている。その山には名前が有った。
奈落の破壊者アトゥルム。
最強の魔物、ドラゴンだ。しかし、活火山でもあった。それは、間も無く噴火する。その瞬間、世界は破滅するだろう。それが想像できるほど、アトゥルムは怒り狂っている。
私が怒らせた。その行為に後悔はない。しかし、この結果には不満が有る。何とか出来るものなら何とかしたい。しかし、その為の手段が、全く閃かない。
私は唇を嚙み締めながらアトゥルムを睨んでいた。その最中、アトゥルムの大きな口が開いて、そこから世界の最期を知らせる警鐘が轟いた。
ドラゴンの咆哮。生き物とは思えぬ大音響だ。その凄まじい音圧で、周囲にある全てを吹き飛ばしていく。宛ら台風である。
その局地性台風の中に、黄金の革鎧をまとった美少女魔王と、黒い革鎧をまとった痩身剣士の姿が有った。
私、ウィルミア・デストランドと、愛洲来寿様である。
私達は、焼け焦げた屋上に這いつくばった。飛ばされないよう、必死に踏ん張っている。しかし、体が勝手に浮き上がっていく。
そもそも、人間には天災に抗う力も術も無い。私達は何れ吹き飛ばされる運命にある。しかし、それを受け入れる気は毛頭無い。
犠牲になった人形達の為にも、私達は最後まで抗い続ける。
私は無理やり腰を上げた。飛ばされないよう警戒しながら、両手を前へ――目の前にそびえ立つ黒い山に向かって突き出した。
「風の支配者の竜巻っ!」
私が呪文を唱えると、両手の先から竜巻が飛び出した。それは直ぐ様巨大化して、アトゥルムを飲み込もうと迫っていく。
咆哮など、竜巻で蹴散らしてやるっ!
そもそも、相手は唯の叫び声。対してこちらは女神の大魔法。敵わぬ道理は無い。負ける道理も無い。そう思った。
ところが、私の目論見は外れた。
私が放った竜巻は、アトゥルムの手前で止まっていた。幾ら魔力を込めようとも、そこから一ミリも先に進まない。それどころか、徐々に後退、押し戻されていく。
そんな馬鹿なっ!?
私の額と背中に冷汗が滲んだ。それでも、「負けて堪るか」と踏ん張ろうとした。ところが、ここで最悪の事態に陥った。
魔力が――尽きるっ!?
先の魔弾豪雨の際、それなりに魔力を消費した。それを補給しなければ、魔法を維持できない。
だからと言って、一旦魔法を止める訳にはいかない。その瞬間、私どころか、来寿様まで吹き飛ばされてしまう。さあ、どうする?
現状を維持したまま、魔力を補給する方法。今の私には、たった一つしか閃かなかった。
私は、近くにいるであろう来寿様に声を掛けた。
「来寿っ!」
「何だっ?」
私の声に、来寿様は応えてくれた。その声は、私の足下から上がっていた。
来寿様は、私の竜巻をしゃがんで避けていた。直ぐ傍にいたことは幸いである。私は来寿様に向かって声を上げた。
「私の懐から薬を出して――私に飲ませろっ!」
来寿様に飲ませてもらう。今はこれ以外に手段は無い。
私の要求に、来寿様は即応した。直ぐ様私の傍に来て、
「失礼する」
私の胸元に右手を突っ込んだ。そのまま無遠慮に、懐の中を弄り出している。
魔法回復薬の入った試験管は、それなりに奥深い位置に入れていた。落とさないよう配慮したのだ。その為、来寿様も直ぐには見付けられない様子。
「どこだ? ここか?」
私の不子とろで、来寿様の右手が縦横無尽に暴れ回る。その際、私の胸を強かに揉みしだいた。一寸痛い。
私の眉根が大きく歪んだ。文句の一つも言いたくなった。しかし、それを口にすることは堪えた。そんな余裕は無い。
私は魔法を維持したまま、来寿様の無礼に耐え続けた。その甲斐は、どうやらあったようだ。
暫くして、来寿様の手が回復薬に届いた。
「有った」
来寿様は、私の胸元から回復薬を摘まみ出した。その瞬間、私の視界の端に青い液体の詰まった試験管が映り込んだ。それを早く飲みたい。飲ませて欲しい。
ところが、私の期待は裏切られた。
「おい、このままだと――」
来寿様は何事か言い掛けた後、口を噤んだ。続け様に首を傾げた。その反応の意味は何なのか? 私まで首を傾げそうになる。しかし、余計なことをしている場合ではない。
「早くしろっ!」
私は大声で来寿様を急かした。すると、
「ミア、すまん。許せ」
来寿様は、何故か謝罪した。
一体、来寿様はどうしてしまったのか? 私の首が傾いだ。
その直後、来寿様は試験管に嵌ったコルク栓を口に咥えた。その様子を見て、私の首が一層傾いでいく。
普通に手で抜けば良いものを。
来寿様らしからぬ、不躾な抜栓である。しかし、真に驚くべきことは、その後の来寿様の行為であった。
来寿様は、開いた試験管に口を付けた。私の口ではない。ご自分の口にだ。意味不明である。その奇行を見て、私の目が限界ギリギリまで開いた。
その大きく広がった視野の中で、試験管内の青い液体が、来寿様の口の中に流し込まれていく。
その光景を目の当たりにした瞬間、私は声を上げていた。
「来寿っ!?」
一体、何を考えているのか? 魔力回復薬は、私にこそ必要なものだ。来寿様が飲んでも意味は無い。言いたくはないが「馬鹿なのか?」である。文句を言わねば気が済まない。これを堪える気は、毛頭無い。
私は続け様に声を上げようとした。
その瞬間、大きく開いた私の視界一杯に、来寿様の顔が映り込んだ。
「!?」
来寿様の顔が、私の顔に近付いている。その事実を直感したときには、私の口に熱くて柔らかな何かが押し付けられていた。




