第五十六話 鰻の王
湖底を埋め尽くすスライムの群れ。その中心に、山と錯覚するほど大きな蛇がいる。しかし、絶対に蛇ではない。
その全長は二十メートルを超えている。その巨躯に比して尚、顔が大きい。
その巨顔には縦長の目が三つも有る。横並びではない。顔の中心に沿って、縦一文字に並んでいる。
目の下に有る口は鰐のように大きく、鮫のように鋭い歯がビッシリ詰まっている。
一応、水棲生物らしく、首には鰓が有る。しかし、それもやたらと大きい。はためかせれば空が飛べるのでは無いかと錯覚するほどだ。
その大きな鰓の裏から、丸太のような太さの長い触手が左右二本ずつ伸びている。こんな生き物、元の世界には絶対にいない。
実際、此奴は創世記でのみ確認できる伝説上の生き物だ。
その名を「アボレス」という。
アボレスは、女神の失敗作だ。それも、創世の女神ネフィリアから二つ名を賜るほどの強敵だ。
その異名を「鰻の王」という。正直、「どこら辺が鰻?」と、女神を問い詰めたい。
何れにせよ、人間が敵う魔物ではない。だからこそ、この世界に封じられているのだ。例え魔王と言えど、対策も無しに挑めば返り討ちに遭う。その可能性は、簡単に想像できた。
故に、私は同行していた来寿様に「離脱」のハンドサインを送った。すると、私の視界に映った晒に褌姿の男性が、私を見ながらコクリと頷いた。
因みに、私も来寿様と同じ格好をしている。お互い、完全に下着姿である。一応、背中には水中遊泳用の二連円筒型の機材(酸素供給装置)を背負っている。それでも、傍目には奇異に映るだろうか。いや、今は考えまい。
来寿様は、直ぐ様水面に向かって浮上を開始した。その様子を見て、私も直ぐ様来寿様に続く――つもりだった。
ところが、何故か前に進まない。何故?
私が進もうとすると、左脚が引っ張られる。何故なのか? 不思議に思って左脚を見た。すると、左足首に太い粘液質の紐が絡まっていた。
一体、いつ絡まったものなのか? 全く気付かなかった。しかし、その紐には見覚えが有った。故に、それを見た瞬間、紐の正体を直感した。
アボレスの触手っ!?
私の左足首にアボレスの触手が絡み付いている。その事実を目の当たりにして、私は最悪の可能性を想像した。それを示唆するかのように、私の視界の端にアボレスの巨大な口が入り込んでいる。
しかし、幸いにして具現化しなかった。
最悪の可能性を想像した瞬間、頭上から何かが突っ込んできた。その何かは、私の横を通り過ぎていった。
その事実を直感した瞬間、私の視界に映ったアボレスの触手に虹色の光彩が閃いた。
刹那の煌めきである。 魔力で底上げした視力ですら、ハッキリ捉え切れない。
しかし、煌めきの意味(或いは意図)は、直後に判明した。
私の視界には、未だアボレスの触手が映っている。しかし、先ほどまで見ていたものとは状態が変わっている。
触手は、光彩が起こった辺りからスパリと切れていた。その光景を目の当たりにした瞬間、私は漸く現況の意味を理解した。
来寿様が助けて下さったっ!
流石は私の王子様(仮)。私の危機を察知して、即応で救出してくれたのだ。最早人間の領域を超えた対応力である。正しく愛のなせる業か(願望)。
ああっ、来寿様。
私は反射的に来寿様の姿を探した。その直後、再び私の体がグイと引っ張られた。
「!?」
私は息を飲んだ。また触手に絡まれたと直感した。今度はお腹の辺りだ。私は直ぐ様腹を見た。その直後、私の視界に誰かの腕が映り込んだ。
細いながらも鋼のように逞しい左腕。それが私の胴に絡み付いている。その腕には見覚えが有った。その正体も直感している。
私は反射的に右腕の元、私の右側を見た。そこには――来寿様の姿が有った。
来寿様は、私の体を左手で抱えていた。しかも、私とピッタリ体を密着させている。
ああっ、来寿様っ。来寿様っ!!
来寿様に抱き締められている。その事実を目の当たりにして、私の胸がトゥンクと跳ねた。抱き締め返したい衝動にも駆られた。しかし、現況が恋人達の逢瀬(願望)を強力に邪魔している。その事実は、来寿様も良くよくご存じであった。
来寿様は、私を抱えたまま浮上した。それも、回遊魚と錯覚するほどの超高速で。
余りの速さに目が回る。しかし、不思議と水圧は覚えない。何故なのか? その理由は、来寿様の右手に有った。
来寿様は、泳ぎながら、右手に握った骨刀で前方の水を斬っていた。
水を斬り、そこに開いた空間に入り込む。骨刀に掛けた魔法「鬼神の妖刀」による妙技、いや、超常現象である。
魔法の恩恵を得て、私達は水中から吸い出されるように突き進んでいた。これではどんな魚も追い付けまい。アボレスも、その例に漏れなかったようだ。
私達は魔王城の在る岸辺に辿り着いた。アボレスの追撃からは完全に逃れている。しかし、来寿様は兎も角、私は無事ではなかった。
湖畔に上がった際、私は直ぐ様地面にしゃがみ込んだ。その際、来寿様も一緒にしゃがんでいる。
私達の周りに、待機していた人形達が集まり出した。それぞれ、不安そうに私の方を見ている。その反応を目の当たりにして、私の目頭が熱くなった。それに伴って、私の視界に霞が掛かっていく。
皆、私のことを心配してくれているのだな。
私は胸を熱くさせながら、それぞれの顔を順番に眺めた。しかし、何故か誰とも視線が合わない。皆、私の顔を見ていないのだ。
一体、皆は何を見ているのか?
私は皆の視線を追った。すると、そこには私の左足首が有った。しかし、普通の状態ではない。余計なものがくっ付いている。
私の左足首には、今も千切れたアボレスの触手が巻き付いていた。その事実を直感した瞬間、私は――大声を上げた。
「皆、私に近付くなっ! 私から離れていろっ!」
魔王の一喝。私を除く全員の体がビクリと大きく震えた。
人形達は、その場に固まった。しかし、来寿様は引き続き私に寄り添っている。その心遣いは嬉しく思う。私も、いつまでも来寿様とくっ付いていたい。しかし、
「離れていろ」
私は心を鬼にして、来寿様を突き放した。
来寿様は、どうしたものかと悩んだ末に、ユックリ立ち上がって私から離れた。
全員、私から半径二メートルほど離れた。その事実をを確認したところで、私は再び声を上げた。
「触手を払い退ける。適当な枝を持ってきてくれ」
私は棒切れを欲した。素手で触手に触れることを避けたのだ。その命令に、全員即応した。
皆、一斉に周囲の藪の中に飛び込んだ。手近な棒切れを拾い集め、それらを抱えて戻ってきた。その様子を見て、私は「一本で良いのだがな」と苦笑した。
しかし、現況は笑っている場合ではない。
私は、皆が持ってきた枝を傍らに置いた。その中から手頃なものを選んで右手で掴んだ。それを使って、左足首に巻き付いたアボレスの触手を払い除けた。すると――触手はアッサリ私から離れた。一寸拍子抜けである。しかし、これで終わりという訳でもない。むしろここからが厄介なのだ。
アボレスの触手は、今も跳ね回り続けている。放置すれば、また何かに絡み付くだろう。その可能性を想像した瞬間、私は触手に左手を掲げて普遍的な魔法、ネフィリア教の呪文を唱えた。
「浄化の炎」
私の左掌から、半透明の青い炎が飛び出した。これは不死の魔物に特効を持つ炎だ。呪いに対しても効果が有る。
この魔法を選択した理由は後者の方だ。
左掌から放たれた炎は、触手に当たって爆発した。
触手は青い炎に包まれながら、次第に小さくなっていく。最終的に、真っ黒い炭になった。その様子を見て、私は「ほっ」と息を吐いた。
しかし、これで終わりではない。
私は改めて自分の左足首を見た。それは、私の脚であって、私の脚ではなくなっていた。
触手に絡み付かれた部分が、どろどろに崩れている。液状化しているのだ。この現象を目の当たりにして、この世界にスライムが存在していた理由を直感した。
アボレスの仕業だったんだな。
アボレスの触手には、絡みついた相手をスライムにする呪いが掛かっている。それが、湖の中にいる生物をスライムに変えた。それどころか、私の左脚までもスライムにしようとしている。最悪である。
しかし、左脚だけで済んだことは幸運だった。
アボレスの触手を全身に受けていたならば、今頃女神に似た可愛いスライムが湖底を徘徊している。その様子を想像した瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
私の変調は、私の周りにいる全員の視界にも映っていたようだ。
「大丈夫か?」
私の耳に、来寿様の不安げな声が飛び込んだ。反射的に来寿様を見ると、ご尊顔には不安げな愁眉が浮かんでいる。いや、来寿様だけではない。愁眉を浮かべた顔が、来寿様の他にも七つほど有った。
それぞれの顔が目に移った瞬間、私の胸が一層熱くなった。それに伴って、目から涙が零れ落ち掛けた。
しかし、私は耐えた。配下の前で涙を見せる訳にはいかない。何故ならば、私は皆の指導者、魔王ウィルミア・デストランドだから。
私は口許にシニカルな笑みを浮かべて平静を装った。その歪に吊り上がったくりを僅かに開いて、敢えて強気な発言をした。
「この程度、問題無い」
私は右手に握っていた枝を捨て、掌を左足首に掲げた。続け様に、ネフィリア教由来の治療の呪文を唱えた。
「呪いの除去」
私が呪文を唱えると、私の左足首が淡く輝き出した。それに伴って、グズグズに崩れていた足首に張りが戻っていく。
暫く念じ続けている内に、足首は元の形を取り戻した。肌の艶も元通りである。流石は魔王である。さすまお。如何なる呪いも御茶の子さいさい(創世記由来の言葉)である。
しかしながら、治療が可能であったことに関しては、幸運であったと言わざるを得ない。
触手が絡み付いた場所が顔や首であったなら、私は呪文を唱えられなかった。その可能性を想像すると、私の額に汗が滲んだ。誰かに泣き付きたい心境になる。しかし、これも耐える。
私は魔王である。敵を恐れて弱気になるなど言語道断である。私は敢えて強気に振舞った。両手を腰に当てて――
「どうだ」
フンスと胸を張った。座ったままで。
魔王らしい堂々とした振舞いである。その偉大な姿は、魔王軍の精鋭達の目にもシッカリ映っている。
「お前さんは凄いな」
来寿様が褒めてくれた。続け様に拍手もしてくれた。来寿様だけでなく、人形達も一緒に拍手した。
皆から称賛されて、私の鼻が伸びた。
かくして、魔王軍の湖底探索は終了した。しかし、それは新たな試練、「アボレス討伐作戦」の幕開けであった。




