第二十三話 絶対零度の吹雪
性悪蜘蛛女に来寿様を攫われた。しかも、私の目の前で。魔王の面目丸潰れである。
ふざけるな。絶対に逃さん。
汚名返上、名誉挽回、王子様奪還。私の脳内に「アラクネを追い掛ける理由」が幾つも閃いている。そこから生じるあらゆる感情が、私の体を強力に衝き動かしていた。それに抗う理由は、今の私には無い。
私はアラクネを追い掛けた。しかし、私の視界にアラクネと来寿様の姿は映っていない。映っているのは、うっそうとした樹木群ばかり。それでも、私は樹木群の中を駆け続けている。
どこに向かって走っているのか? 勿論、来寿様がいる場所だ。
私には来寿様の位置が分かる。何故ならば、私達の間には運命の赤い糸が結ばれているからだ。例え離れていても、二人は必ず結ばれる運命にある。その事実に間違いはない。闇雲に走っても、必ず出会うはずである。
しかし、今の私は闇雲という訳ではなかった。明確な痕跡を追いかけていた。
私の魔法の残り香、「残留魔力」である。
来寿様の体、及びその身にまとった衣服には、私の魔法が掛けられている。それらが発する魔力の残り香が、私に来寿様の位置を伝えているのだ。
残留魔力を辿って、私は駆け続けた。その果てに、懐かしい場所に辿り着いた。
私の視界に、天までそびえる二つの絶壁が映っている。それぞれ、何かに焼かれたかのように、真っ黒に煤けていた。その間には、煤けた黒い道が伸びている。
嘗ての私達の住処、黒の渓谷。
私の残留魔力は、渓谷の奥へと続いている。それを辿って、私は渓谷内を駆けた。すると、再び懐かしい光景が目に飛び込んできた。
黒い絶壁に穿たれた横穴。ケルベロスの巣穴である。
私の残留魔力は、巣穴の奥へと続いていた。その事実を直感した瞬間、今直ぐ飛び込んでいきたい衝動に駆られた。しかし、私の脚は減速している。
抜き足差し足状態まで減速して、洞窟の出入り口(右側の岩肌)に張り付いた。
奇襲も有り得る。ここは慎重に――だ。
私は息を潜め、顔だけ出して中の様子を窺った。すると、私の視界に「白銀の煌めき」が飛び込んできた。それを直感した瞬間、私は現況の意味を理解した。
あいつ、私達の(元)住処を自分の巣穴にしたのか。
黒く煤けていた岩肌は、白銀の糸で覆い尽くされている。岩肌にベッタリへばり付いた白銀の幕が、「ここはアラクネの巣だ」と激しく主張していた。その声無き声を直感するほどに、私の眉間に深い皺が刻まれていく。
私達の思い出の場所まで奪うとは。許せん。
私の中で、アラクネに与える量刑が倍増しで増えていく。既に許容範囲は突破している。この上、来寿様に危害を加えようものなら――生まれてきたことを後悔さてやろう。
私は憤怒の感情に衝き動かされるまま、洞窟の中に足を踏み入れた。
洞窟の中は、やはり白銀の幕だらけであった。その中に、何かを包んだ巨大な繭も有った。恐らく、中に保存食を詰め込んでいるのだろう。その可能性を想像した瞬間、私の背中に悪寒が奔った。
まさか、来寿様も繭の中に閉じ込められている?
保存食になった来寿様。考えるだけで全身の毛が逆立ってくる。そのような事態を目の当たりにした場合、私は自分を抑える自信が無い。
私は「そうなっていないように」と念じながら、残留魔力を追い続けた。更に奥へ、奥へ。
暫く進むと、嘗ての寝所に着いた。
そこには、一層巨大な蜘蛛の巣が張られていた。その中心に、見覚えの有る黒衣の男性の姿が有った。
いたっ、来寿様だ。
来寿様は頭を下にして、逆さに張り付けられていた。このまま放置してしまうと、頭に血が上ってしまう。その可能性を想像すると、直ぐに助けたい衝動に駆られる。
しかし、私は飛び出せなかった。それを躊躇う理由が、来寿様の直ぐ傍にいた。
上半身を晒した黒髪の女が、来寿様にまとわりついていた。とても腹立たしい光景だ。そいつが普通の人間であれば、私は迷うことなく飛び出して、魔王の威厳で平伏せさせている。
しかし、当然ながら、そいつは普通の女ではなかった。
女の下半身は巨大な蜘蛛であった。女は魔物、合成魔獣であった。その種族名を「アラクネ」という。
アラクネは、蜘蛛の尻から糸を吐き出し続けている。それを来寿様の体に張り付けて、横回転させている。
アラクネの行為を目の当たりにした瞬間、私の脳内に「巨大な繭」が閃いた。
来寿様を保存食にするつもりか。
最悪一歩手前の状況である。何とか止めさせたい。叶うならば、アラクネの頭を吹き飛ばしたい。しかし、現況のまま魔法を打ち込むことは躊躇われる。
来寿様を巻き込む訳にはいかない。
私は一計を案じた。それを実行すべく、足下に有った拳大の石ころを拾った。それを右手でシッカリ握り込みながら、大きく振り被った。
私の視界に、アラクネの頭がシッカリ映っている。その黒髪に塗れた標的目掛けて、思い切り石をブン投げた。直球、ど真ん中。創世記に記された「火の玉ストレート」である。
私が投げた石は、狙い違わずアラクネの頭部を直撃した。その衝撃でアラクネの頭が激しく揺れた。しかし、それだけだ。
アラクネは直ぐに顔を上げて、私の方を見た。
その瞬間、私と奴の目が合った。
その事実を直感した瞬間、私は踵を返して――出入り口の方に走った。戦術的撤退である。
私は脇目も振らずに、ひた走った。すると、背後からアラクネが追ってくる気配が伝わった。
忙しなく動く二本の脚と、八本の脚。脚の数の差だけ、アラクネの脚力に分が有ったようだ。
彼我の距離は秒毎で詰まっている。その事実を意識するほど、背後の様子を確認したい衝動に駆られる。しかし、振り向いたら負けである。
私は、自分で決めた作戦通りにひたすら走った。
暫くすると、私の視界に洞窟の出入り口が映った。それを潜り抜けるや否や、私は左側に曲がって――更に駆けた。
私の行為は、アラクネの目には「森に逃げ込もうとしている」と映っただろう。しかし、「そんな訳なかろう」である。
私は、更に踵を返した。洞窟側の岩壁の方を向いた。私は――止まらなかった。
岩壁に向かって突進。衝突寸前で壁に足を掛け、その上を走る。壁登りならぬ、「壁駆け」である。
私は岩壁を掛け、洞窟の出入り口の直上、十メートルほど離れた位置に張り付いた。頭を下に向けて、四肢の力で必死に岩肌を掴んだ。
今の私の格好は、宛ら四本足の蜘蛛であろう。その疑似蜘蛛女の視界には、洞窟出入り口の様子がシッカリ映っている。
暫くすると、洞窟の出入り口から黒髪振り乱した女が飛び出した。その頭部に大きな瘤を確認した。とても痛々しい。見ているだけで顔を顰めたくなる。
しかし、今の私にとっては爽快この上ない光景である。これから、もっと楽しいことになる。その可能性を想像すると、胸が弾んだ。その衝動に駆られるまま、私は最後の仕上げに入った。
失われた女神の大魔法、詠唱開始。
「地獄の窯よ、開け。その最下層、永久凍土に縛られし受刑者ども、裏切者ども。皆、声を上げよ。その怨嗟の声を現世に吐き出せ」
私としては、小声で詠唱していたつもりであった。ところが、アラクネは地獄耳だったようだ。
詠唱中、黒髪に塗れた顔が、こちらを向いた。その瞬間、私と奴の目が合った。
アラクネは、直ぐ様岩壁に張り付いた。恐らく、私の方へとよじ登ってくるつもりだろう。しかし、そうは問屋が卸さない。
アラクネが岩壁に張り付いた瞬間、私の魔法が発動した。
「絶対零度の吹雪」
私の前面から、煌めく冷気が噴き出した。それは津波のように岩肌を這い、地上に向かって急降下した。その先に、奇怪な蜘蛛の巨躯が有った。
絶対零度の冷気が、アラクネの体を包み込んでいく。それに触れた個所は、瞬時に凍り付いた。その事実は、アラクネも直感していたのだろう。
アラクネは、直ぐ様岩肌から跳び退いた。しかし、遅い。既に冷気はアラクネの全身を覆い尽くしている。
アラクネは、飛び退いたままの姿勢で氷の彫像と化した。とても愉快な格好だ。思わず吹き出したくなる。尤も、晒し者としては及第点と言ったところ。今はお腹を抱えていられるが、直ぐに飽きてしまうだろう。
ここから飛び蹴りを食らわせて、一瞬で破壊してしまおうか?
私は岩壁の上で身構えた。そのまま急降下踵落としを決めるつもりだった。ところが、それを躊躇う出来事が、私の視界に飛び込んできた。
アラクネの「尻」である。
大蜘蛛の尻の先から、白銀の糸がチョロチョロ漏れ出している。その光景を目の当たりにした瞬間、私の脳内に女神の天啓が下りた。
これを使えば、服の素材が簡単に手に入るのでは?
アラクネの糸で機を織り、布地を作る。そうすれば、極上の服が手に入る――かもしれない。その可能性を想像すると、試さずにはいられない。
「其方には、糸を作る役目を与えよう」
私はアラクネの処刑を取り止めた。奴には私達の衣服の素材として、未来永劫生き恥を晒す栄誉を与える。事実上の減刑である。我ながら「甘い」と反省する。
そもそも、こいつは来寿様を攫った大罪人。万死どころか未来永劫無間地獄が相応しい。文句の一つも言ってやって良いくらだ。
しかし、アラクネは運が良い。私は、魔王にしては珍しく寛大である。敢えて労いの言葉を掛けてやろう。
「私達の役に立てること、光栄に思うが良い」
私は「がはは」と笑った。すると、アラクネの目から赤い涙が溢れた。きっと嬉し泣きだろう。私の優しさに心打たれたのだ。ああ、私は本当に甘い。
しかし、きっと良いことをしたのだろう。私の脳内に、私の行為に相応しい四文字熟語が閃いていた。創世記に記された金言だ。それが、私の口から零れ出た。
「一日一善」




