第36話 外交官
「その通りよ。昔、当時、私の娘は高校生だったわ。でも、ある日喧嘩になっちゃって。私は厳しすぎるって……そう言われたの。それから、あの子は帰ってこなくなった。あの子の友達も行方不明になったみたいで……」
「なるほど。分かりました。調べてみます」
「ええ。お願い……」
もし、力を使ったらどうなるんだろう。
そもそも、信者たちだって、宗教団体に入らずとも悩みのない幸せな人生を送りたかったはずだ。
これが宗教団体に集まる人……か。
そうだよね。
悩み事が簡単なはずがない。
むしろ……神に縋りたいのだ。
そして。
私は……力を使わない。
使わずに出来るかは分からない。
使ったら……取り返しのつかない事態になる気がしたんだ。
母だっている。
ハクだっているのだ。
三人でやればきっと出来るはずだ。
と、とにかく……まずはここを出よう。
……あれ?
ハクと母は?
いない。
「——え?」
ここ、どこ?
どんどん記憶が抜けていくことに気づいたのは少し経ってからだった。
次の瞬間、目の前が不自然なほど真っ暗になった。
……え? お母さん? ハク?
応えはない。じわじわと自分の記憶が擦り切れていくような、奇妙な感覚が這い上がってくる。
どこからか、耳障りな不協和音が響いていた。
ここは、あの屋敷の中じゃない。完全に光を拒絶した、底知れない暗闇だ。
視覚が奪われた代わりに、何かの気配を察知する。
——そこに、誰かが、いる。
まずい。
力を使う……?
いや、まだだ。
まだ早い。
どくん、と心臓が跳ねたと同時に、私の脳内に「かつて見た光景」が奔流のように流れ込んできた。
……思い出した。前世の記憶だ。この家はかつて、悪魔を信仰する儀式の場だった。
ただ……この家をのちにあの婦人が買い取ったのかもしれない。
そして、目の前にあるのは——あの婦人の娘と、その友達の死体だ。
悪魔が私をここに引きずり込んだのだと、本能で理解した。
恐怖で足がすくむ。力を使うべきか? 私の力。
一つ。
私の正体を悟られないこと。
二つ。
本物を上回ること。
三つ。
私の力が偽物であることを肝に銘じておくこと。
前世の私が遺した、偽物を本物に変えるための規則。
私は弱い。神のなりぞこないだ。
私がすべきことは力を使うことだ。
偽物を本物に変えるには相手が信じられるかどうかが肝心だ。
偽物だと悟られてしまったら、何も効果をなさなくなってしまう。
だから、私は弱い。
——それは、前世もだったんだ。
昔は、前世はきっと凄いとどこかで思っていた。
けれど、実際は……違うのかもしれない。
次に、力を使う。
死が偽物となるように。
ただ、力を行使する。
代償を悪魔に払わせよう。
条件をつけるために考える。
そして——私は暗闇に向かって、努めて不敵に、けれど静かに声を張った。
「……交渉しませんか?彼女達を生き返らせる代わりに、貴方に私の寿命を三年あげる、というのは……どうでしょうか」
高い不協和音が響く。
こんなことが可能かなんて分からない。
でも、やってみないと。
私は願いの外交官なんだから。
「私は……神のなりぞこない。でも、いずれ神になります。だから、いずれ高価なものになります。その時に、私の寿命を誰かに支払えばいいのです」
「面白い発想だ」
初めてはっきりと声がした。
「だが……私は君を元の場所に返すだけだ。君の力の代償を私に支払わせるつもりか?」
「代償を他の人に払わせることはできません」
私なりの嘘である。
本当は誰かに払わせたかったし、できるかも分からない。
「いや、出来るはずだ。もっとも……確かに君のような、なりぞこないには出来ないだろう。神になって出来たところで、せいぜい片棒を担がせることぐらいだ」
なるほど。
代償は誰かに払わせられるんだ。
「なるほど。では、元の場所には返してくれるんですね」
高い不協和音が響く。
「君の寿命をいただこう」
——かかった。
悪魔は条件を「元の場所に返すだけ」に変えたつもりで、私の提示した契約に乗った。でも、相手が私の言葉を信じた瞬間、最初の条件は偽物となり力が発動する。
悪魔の認識すら騙し、死の事実を偽物に塗り替え、代償を向こうに支払わせた。
これでおそらく、娘さん達は時間が経てば復活する。
復活地点は三船連合の隠し部屋の一つだ。
世界が動き出した。
時計の針の音に気づくと、母とハクがいた。
特に変わりはなく、当たり前かのように私の存在を認めていた。
「それでは、私達は帰ります!また何かあったら連絡します!」
「……ええ」
こうして、私達は屋敷から出て車に乗る。
「ねぇ、お母さん、私……の病気なのかな」
「何がですか?」
「なんか暗闇の中にいた。元の場所に帰れるように交渉して——」
「そうなのですか?あとで調べてみますね。大丈夫ですよ。きっと症状ですからね」
「本当……?良かったぁ。寿命差し出しちゃったよ」
「まぁ、念のため調べておきますからね。万が一、何かあれば、私達が守りますからね」
「そうだよ、友香里は一人じゃないからね」
「……うん!」
こうして、いつもの青空ではなく、特別な満天の青があった。




