第32話 秘密
母は手に力を入れ、伏し目がちに地面を見つめた。
母の足元に水面がある。
一瞬だけ、だ。
水面に映る母は揺れていた。
「私は……貴方に伝えにきたんです。我らの神に命じられて」
そう告げる私の目は、母のことを観察している暇はなかった。
ようやく、この日が訪れた。
「……その割には随分と好戦的ね。聞こうじゃない」
母は私の目を見ない。
青いアスターの花びらにある雫が水面に落ちる。
花言葉は忘れてしまった。
「貴方を保護するように言われました。しかし……貴方を殺すのは、私です」
何故か、母は犬が殺処分されるかのような目でこちらを見る。
まるで何かを思い出しているかのようだ。
「あんたは私に対して何か言うことがあるんじゃない?」
母の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「そうですね……私は貴方を殺してから保護しようと思います」
母はまた、救えない——そんな顔をする。私を哀れむかのようなその視線に、わずかな苛立ちが募る。
私をなんだと思っているのだろうか。
母は一瞬沈黙し、それから低く笑った。
「ふん、私を殺すの?」
「もちろんです。そのために来たのですから」
「確実に殺しに来たのね。ただ、残念ね。貴方の大人になった姿を見れないなんて」
「貴方は分かってませんね。なぜこの家に閉じ込めたのですか?」
「さぁ。あんたの居場所が他にないからなんじゃない?」
母の声に余裕がない。
嘘をついているのは明白だった。
「誰のせいだと思っているのですか?」
「大体、あんたの話を聞いていればなぜそこまでして私を殺したいか……全然分からない」
「そうですか……時折、貴方のところにやってくる黒服が外の世界を教えてくれました。だからでしょうね。日に日に貴方への憎悪が募るばかりでした」
母は何も知らないのか、と言いたげな表情だ。
「ふーん。他には?私の話も聞いてない癖に勝手なこと言わないでくれる?」
「当時は……怖くて聞けませんでした。貴方の所業も全て黒服の人が教えてくれましたから。名前は教えてくれませんでしたが」
「じゃあ、私の話でも聞いてもらえるかしら」
母が話そうとした瞬間。
乾いた音が辺りに響いた。
頭に銃弾が貫通した母親の姿があった。並の人間なら即死のはずだ。しかし、彼女は頭から血を流したまま、何事もなかったかのように口を開いた。
「私は……あんたが外に出たら恐ろしい目に遭うという予言を見たと聞いたの。本当に……あんたを守るにはこうするしかなかった。あんたが生き残るには……きっとこれが正しかったんだって信じてる」
その内容に興味はなかった。
ただ、今後のためになるのならば。
「具体的にどういった予言だったんですか?」
「それは、ね。分からない。そこまでは教えてくれなかった。けどね……私があんたを守ってみせるわ。私の子に死なせるわけにはいかない」
「へぇ。私は貴方の根拠もない予言の手のひらの上だったと?」
「私の主がそう言っていたの。信じてちょうだい」
主……誰だろうか。
どうせ私の敵ではないだろう。
母はだんだんと目の焦点が合わなくなっていった。
「分かりました。それでは……さよなら、お母さん。さて、片付けましたし、帰りたいですね。未来には帰れませんが」
だんだんと冷たくなっていく体を見下ろしていると、背後から足音が近づいてきた。
「明日香様、片付け終わりました。で、恋バナを聞かせるという約束は……」
「ないですよ」
「ない、とは一体どういう……?」
「そのままの意味です。実際は面識ないんですよね。旦那とは」
「意味がわかりません……」
「まぁ、深くは考えなくていいですよ」
「は、はあ……?」
◇◇◇
「と、言った感じです」
明日香——もとい私の母親はお茶受けを片付けながらあっさりと語り終えた。実の祖母を殺しただの、お父さんとは面識がないだの、そんな恐ろしい過去を聞かされた私が、真っ先に思ったことといえば。
「えー! いやいや、恋バナないのー!?」
この一言に尽きる。
「意外な話だったね」
ハクは静かにお茶を啜る。
「ハク!いつの間にいたんだ!」
「最初からいたよ」
「すみません。こんな話しかなくて」
母はハクに微笑みかけ、申し訳なさそうに苦笑した。
「だって、結婚してるなら普通恋バナあるでしょ!何か!何かが!」
「友香里の言う通りだよ。明日香は今嘘ついてる顔をしていると思う」
「違いますよ……」
とは言いつつ、母は朗らかに笑った。
何か隠し事でもあるかのように。




