㊿かりそめの師匠
この物語はフィクションです。
登場する、人物などは架空でございます。
また、歴史的な出来事に沿って進めていますが、
事実・史実とは異なる部分があります。
どうか、ご了承ください。
(1)
その日は、お華の屋敷で手習いの日であった。
しかしながら、子供達はまだまだ赤子。
手習いどころの話ではなく、結局、おゆきと七重、そしてこの頃ようやく自分で座ることが出来る様になった英吉とオト。そして何故か、おゆきの兄、信吉も居た。
信吉はどうも字が下手なので、些か仕事に難儀がかかるので、自らの志願であった。
みんな小さな文机の前に座っている。
そして、教師役は、おかよである。
これまでの流れなら、本来優斎の弟、祐三郎がやるのだが、今は横須賀。
祐三郎の代わりなら。とお華に良いように丸め込まれ引き受けた様だ。
やることは、いわゆる寺子屋と同じ、いや今の小学生と同じ様に、お手本に書かれた五十音を書いていくのだが、この頃は当然毛筆。
それ自体も苦労するものだが、飽きてくるとイタズラが始まるので、おかよは目を光らせねばならない。
考えてみると、おかよが先生など、かなりレベルが高い。
元吉原とは言え、学んできた事は一流レベルの女だからだ。
そしてお客に、お誘いの文を書きまくっていた、おかよだ。
子供相手には、贅沢すぎる教師だと言っても良い。
「さあ今日は、いろは(つまり五十音)を書きますよ。用意はいいかな?」
と始まった。
奥に寝ている敏次郎と八重の横にはお吉が、笑顔で様子を眺めている。
ところでお華は、野暮用で両国の親分宅に出掛け、屋敷を出ており丁度、帰る途中であった。
「もうそろそろ屋敷か」
と診療所の前を通りかかろうとした時だった。
見た感じ、年配の女の様だった。
前方に腰を屈め、手で胸の部分を抑え、何やら苦しんでいる様である。
お華としては診療所の前だし、そこで具合が悪いなど、それこそ近所に具合が悪い。
まあ、それはともかく、医者の嫁としては当然、
「女将さん? どうなされました?」
と聞く事になる。
「も、申し訳ありません……。ちょっと差し込みが……」
苦しそうに言うので、表に出しておくより、診療所に入れた方が良いと考え、
「先生! おとうさん!」
と、診療所に向かって声を上げる。
中の優斎は、患者も居なかったので、一人、書物を読んでいる最中だったが、声と言葉でさすがに、お華と察し、直ぐに表に出た。
「この方が……」
と言うお華に頷いて、早速、様子を調べると、お華に、
「そっちの肩を」と言って自分側の女の肩を担ぎ、ゆっくり診療所に入れ、寝かせた。
優斎は黙って、病状を調べ始める。
お華は横で、
「差し込みがと仰って、蹲っておられたの」
優斎は頷いて、幾つか質問をして、顔を上げる。
「どう?」
とお華が聞くと、
「特に大きな病気ではないと思う。まあ、過労という事かな」
それにはお華も胸を撫で下ろしたが、その女は、
「こ、これから信濃の小布施に行かなければならないのですけど……」
と息も絶え絶えに言ったが、優斎は即座に、
「残念ながら、今は無理です。それに貴方は、録に食も取っていないでしょう。そんな身体で、しかも女性一人で信州なんて到底無理です」
と言い切るから、彼女も目を閉じ、
「そうですか……」黙り込む。
お華は何だか気の毒そうに思えた。
しかも信濃だというものだから、少々興味が湧いたのかも知れない。
ところが、その女は、
「でも私、家も明け渡してしまったし……」
などと言うから二人は驚いたが、お華は大きく頷いて、
「それなら、動けるようになるまで、私の家で過ごしなさい。遠慮はいらないよ」
と言うからその女も、苦しいながらも、
「これはご親切に……。でも私、お金もあまりなくて……」
それにはお華は笑い、
「ひえ~、それじゃ余計行く所無いわね。いいわよ、払える時で。信濃に縁がある人なら見過ごせないわ」
その言葉に、優斎もなるほどと頷く。
そしてお華は、彼女の風呂敷包みの荷物を持ってあげようとしたらかなり重いのに驚き、そして同時に筆が二、三本出ていたから、意外だと少々驚き、
「そうそう、貴方、お名前は?」
「お栄と申します」
「ご商売は?」
それには少し俯き気味で、
「絵師をやってます」
さすがにこの言葉には、お華は勿論、優斎も驚いたが、それで納得出来た。
「絵師! だからこんなに筆が?」
絵師自体は、そう驚く職ではない。
だが、この時代で女が絵師を商売にしているのは、相当珍しかった。
「そうですか。分かりました。それなら余計に、仕事に障りがあってはいけません。家でゆっくり養生して下さい」
と言って、優斎と二人、彼女を連れ、屋敷に向かった。
向かったは良いが、お華の屋敷である。彼女の足も止まる。
「ここですか~?」
肩を貸している優斎もその反応は想像した通りだったので、
「驚いたでしょう。でも気にしないで下さい。ここは芸者の稽古場なんです」
「は~」
(2)
彼女を連れて行くと、お華は文字の練習をしていた、おゆきに、
「おゆきちゃん、ごめん。向こうの空いてる部屋にお布団をお願い!」
と頼むと「はい」と彼女は筆を置いて立ち上がるが、そんな時。
おかよが、割と厳しい顔で、
「七重ちゃん。これ何なの?」
と怒ったというよりは呆れた様子で言うと、
「先生……」
小さく、囁く様に七重が答える。
するとおかよは、
「また、絵を描いてたんでしょ」
お華達三人は、座敷に上がり、少々笑いながら座って話を聞いている。
そんな時、後ろから浩太郎と新之助がやって来た。
「おや、兄上。新之助も」
「七重と信吉が教えを受けてるって、おさよから聞いてな。ちょっと覗きに来たんだ」
とお華に言うが、少々妙な雰囲気なので、七重の方を背を伸ばして眺めようとすると。
「駄目でしょ。今日は字を習う日でしょ」
と、叱られてるから、優斎に、
「どうしたんだ?」
聞くと、優斎は笑顔で、
「習字じゃなくて、おかよさんの顔を描いてたらしいですよ」
と小さく笑う。
さすがに父親。それには、
「しょうがねえな七重は」
と言うと、新之助が大笑いしながら、
「七重は母上に教わってる時だって、あんな事してますよ」
などと言われてしまう。
すると、お華を見つけたおかよは、どうして良いか分からなくなり、お華のところに行き、七重の書いた紙を見せに来て、
「こういう時、どう指導したら良いんでしょ?」
と今の時代でも言いそうな事を言っている。
七重も父親がいたから、俯きながら付いてきた。
その紙に書かれたおかよを見て、お華もそしてそれを覗き込む優斎と浩太郎は頭に手をやり、妙な顔をしている。
すると、お華は、
「この人、ちょっと具合が悪くてね、家に泊まってもらうことにしたの」
と浩太郎に言うと、彼女は浩太郎が如何にも役人風体なので、少々驚いていたが、 お華はそれを察して、
「この人、私の兄なの。気にしなくてもいいわ」
と、その心の動揺を抑えてやり、
「丁度、良いわ。この人絵師なんだって、」
その言葉には、余りにも丁度良い登場なので、皆驚いている。
「貴方、どう思う? これが絵なんだって」
とおかよを指差し、
「この人を書いたって言うんだけどさ。才能が無いと今の内言ってやった方が身の為だし」
彼女は、渡された紙を見ながら、おかよの顔を見比べると頷き、
「あ~あ、これは良くこの方の特徴を掴んでますよ」
なんて言うものだから、周りの人間、全てが、
「え~」と疑問の声を上げた。
特におかよは、当然疑問で一杯だ。
「ちょっと待って下さい女将さん。どこが私に似てるんですか?」
さすがに大人にそんなこと言われると、怒りと言うより不満で一杯らしい。
彼女も少し笑みを零しながら、
「似てると言うのはちょっと違ってね。貴方の大きな目、そしてスッと伸びた鼻。それから小さな唇。これをちょっと強調して書いたのよね? お嬢ちゃん」
言われたお嬢ちゃん、七重はコクっと頷いた。
お華がもう一度、その落書きとも言って良い絵を覗き込むと、微笑み指刺した。「なるほど、ここが目、そして鼻、口かぁ~。言われて見ればそんな気がしますよ」
しかし、彼女は、
「ただ、まだ絵は未熟。だから絵心が無い人が見ると、ただのイタズラ書きに見えるんですよ」
さすがに現役の絵師に言われると、お華や浩太郎。そして当人のおかよも何やら そんな気になってくる。
すると優斎が、
「では、修業すれば、この子も立派に絵師になれると?」
それには彼女も笑ってしまい、浩太郎の顔をチラッと見て、
「それはまだ、なんとも。こういうのはどんな道でも一緒ですけど、本人の意志と親御さんのご理解が無いと何とも」
優斎にしても、剣の達人。
この人の言う事は充分理解出来た様で、大きく頷く。
するとお華が浩太郎に、
「親御さん次第だってさ、どうすんの親御さん」
と幾分、意地悪そうな顔で笑って言うと、
「ばっかやろう。お前だって父上や母上があれだけ反対したのに、自分の意志を貫いて芸者になったろ! しかも奉行所の仕事までやり始めたくせに!」
さすがにお華や優斎は大笑いである。
浩太郎は、一転、真面目な顔で、
「結局、自分がどう考えるかだよ。それが一番大切だ」
お華は笑い続けながら、
「七重、どっちにしても今みたいに文句言われてるままなら、修業しないと銭にはならないわよ。ちょっと良く考えなさいね」
すると、彼女が、
「じゃあ、ちょっと簡単に字を教えてあげましょうか?」
と七重に言うと、七重は満面笑顔で頷く。
しかし、お華は、
「大丈夫なのお栄さん。具合は?」
お栄は頷き、
「一枚ぐらい大丈夫ですよ。でも不思議な縁でこんな事になるとは、私も驚いています。これもお導きでしょう」
と立ち上がり、七重と一緒に席に戻り墨を擦る。
彼女は、七重に、
「いい? まあ絵師になるとかそういう事は別にして、絵が上手くなりたいと思ったら、文字はちゃんと覚えなきゃ駄目よ。字が書けない人は絵師にはなれないからね」
と、普段気が強いと言われている彼女でも、子供には優しく諭す。
すると七重は、
「おばさん。字が書けないと絵がうまくなれないの?」
と素直に聞く。
すると彼女は、もう一枚半紙を取り出して、
ひらがなの「お」と書いた。
そして七重に、
「この字は知ってる?」と聞くと、「これは知ってる。お」と七重は答えた。
すると、
「じゃ、お。っていう言葉が、どうして、こう書くようになったか知ってる?」
さすがにそれには七重も首を振る。
むしろ、お華・優斎・浩太郎でさえ、実はそんな事一度も考えた事さえ無い。 だから興味深く聞いている。
彼女は、
「七重ちゃん、お、って言ってごらん」
「お!」
「ほら、お口を触ってごらん。丸くなってるでしょ」
七重は頷く。
「これを文字にしたのよ。お、って言う字は丸が入ってるでしょ」
それには七重も目を輝かせて、
「本当だ!」
と喜んでいる。
「そうよ。文字はね。絵の上手い人が考えたと言われているわ。だから絵心があれば、文字は直ぐ覚えられるわよ。これは漢字も同じ」
と今度は「人」と「休」を半紙に書く。
「これも一緒。人は人と人が支え合って生きてるから、人って書くの。そして休っていうのは。木の横に人が休んでいる。この事を絵にして考えたんだと思うわ」
笑顔で、教える。
「ふ~ん!」
と七重も嬉しそうに頷いている。
もうお分かりだろう。
彼女は象形文字を分かり易く説明している。
確かに、象形文字は絵心からきている物。
字を習わないと、絵心が分からないという言葉は、あながち間違いでは無い。
しかし、この説明には、お華達もビックリ。
浩太郎は、優斎に小さな声で、
「あんた、こんな話知ってたかい?」
さすがに優斎でさえ、首を振り、
「いや~、私もただ覚えたという気がします。言われて見れば、なるほどと言う感じですよ」
すると、彼女はおかよに、
「あなたも芸者さん?」
と聞く。
当然おかよは、
「いえ、私は女の医者です」
と言うのだが、今度は彼女が首を捻り、
「そう。その化粧の仕方は、どうも見覚えがあるのよね~」
などと言うものだから、おかよは慌てて、
「いや、これはお姉さん(お華)に教えて貰ったもので……」
と苦しげに言い訳しているが、お華の方が驚いていた。
奥でお秋も口を押さえて吹き出している。
しかし、おゆきが「やはり」と頷いている。
お華は(さすが絵師。そんなところに気付くのか……)と感心していた。
ところが、少し離れたところにいた、おゆきが眉を寄せていた。
そんな時、お華が何気に後ろを見た途端、
「うわ! 姉上!」
と、声を上げる。
なんと、おさよまで見に来ていた。
お華は些か慌てながら、
「いつの間に? 気配まで消しちゃって! 何時から……」
「ちょっと前よ」
と言うがおさよは笑顔で、
「おやおや、お華ちゃんに気づかれないなら、私も大丈夫ね」
などと言っているが、浩太郎・優斎も驚いた顔をしている
するとおさよも、
「ああいう教え方があったなんて、私も思いつかなかったわよ」
と笑っている。
それはともかく、その女は、
「じゃ、私が貴方の書きたかった先生を簡単に描いてみましょう」
と再び半紙を取りだし、おさよに最初の場所に。と言い。
「ちょっと動かないでね」
と、おかよに言いながら、半紙に筆を滑らせる。
隣で見ている七重は、食い入る様に凝視している。
しかし、あっという間だった。
それこそ、今で言うデッサンだったが、たちまち美しい顔の絵が浮かびだした。
七重は指刺して、
「これ! これ!」と叫んでいる。
お華達も近寄って見ると衝撃を受けた。
(こりゃ一流だ……) である。
周りで見ている子供達も歓声を上げ、何より、終わってから見たおかよも、
「うわ!」と声を上げている。
しかしただ一人、浩太郎が、
「やはり……」 と呟く。
それにはお華も気になって、
「どういうことよ」
と聞くが、浩太郎は、
「後で教えてやる」と言うのみだった。
するとお栄は、七重に、
「あのね。絵を描くんだったら、まず、これが描けなきゃ駄目よ」
と言い、新しい半紙を取り抱いて、
真っ直ぐの直線、そして縦に同じ直線。
そして一つ円を描いた。
定規も使わない見事な直線と、正確な正円だ。
「いい。これをまず稽古しなさい。同じ様に出来る様になったら、もっとまともな絵が描ける。例えば庭の向こうに見える屋敷や、そこにある柱。まず、こういうのをまともに掛けてから、何を考えて、歪んだ柱なのか、お屋敷もまともに掛けてから、あえてそれをどうするのかと考えられる様になってからよ。そうじゃないと、人はただ下手だって言うだけだからね。特にお庭の、木の枝なんかは真っ直ぐに見えても実はあちこち曲がっている。その辺までね」
と絵師として分かり易く教授する。
七重は、素直にハイと返事し頷く。
そして、
「文字も一緒。一がただ一直線でない事はわかるでしょう? これも絵だと思って覚えなさい」
優斎とおかよは驚いている。こんな教え方があるのかと。
お華に至っては、ただただ、感心して聞いていた。
(3)
そんな時奥から、お吉が英吉を背負いながらやって来て、
「さあさ、もうお昼にしましょ! おゆきちゃん、サキさん呼んできて」
するとお華が、
「おかあさん。三人増えて、兄上と姉上も居るからね~」
と笑顔で言った。
おゆきは早速離れの長屋へ。
浩太郎達はいつもの場所に座る。
勿論、昼だから簡単なものだが、お華は、
「お栄さん。貴方も食べましょ。貴方はまず食べなきゃ」
彼女も頭を下げ、
「これはありがとうございます」
とお華の隣に座った。
そして膳が並べられると、お華は、再び浩太郎に、
「ねえ、さっきのはどういう事?」
と聞いた。
浩太郎は、出された酒を一口含み、お栄に向かって、
「お栄さんと言ったね。あんた本所に住んでたってホントかい?」
この質問を、見るからに奉行所同心に言われたものだから、彼女も眉を寄せ、警戒感一杯であるが、浩太郎は笑って、
「お調べってんじゃないよ。こいつが……」
とお華を見て、
「教えろっていうからさ。あんたが本所に居た、女流絵師だとしたら、俺に一人しか思い浮かべない。あんた、おーいさんだろ?」
それにはお華が不思議な顔で、
「おーい?」
と言うが、今度はお栄の方が笑ってしまう。
「さすがにその名前には、驚くよね。お役人様の仰る通り、応為にございます」
それには、お吉が英吉に食べさせている手が止まり、
「え! 貴方が?」
と声を上げる。
すると浩太郎が、
「俺が知ってる、本所に住んでる女の絵師っていったら、葛飾応為しかいねえ」
さすがに以前から本所担当の同心だ。
有名人ぐらいは知っている。
すると優斎が、
「葛飾……。て言うと葛飾北斎?」
本人が、
「はい北斎の娘、葛飾応為にございます」
と頭を下げるから、優斎は勿論、お華や他の女達も驚愕している。
更に、自分を描いたのが、葛飾応為だったなど知らなかったおかよは衝撃であった。
ただ、七重は北斎自体をよく知らないから、不思議な顔をしている。
そう。北斎はこの頃もう亡くなっているし、子供の七重が知らなくてもおかしくは無い。
しかし、芝居好きのお吉には驚く客である。
「わざわざ、この様なところにいらして頂いてありがとうございます」
とニコニコ頭を下げる。
お華は、化粧でその人を当てるぐらいだから、かなりな人だと思ったが、それ以上であった。
お華は、優斎に、
「あの、北斎って人は、あの大きな波を描いた人だよね?」
と聞くが優斎は頷きながら、
「実は我が殿が、北斎さんが好きでね。確かそれは「神奈川沖浪裏」を初めとして、殿が一杯北斎さんの絵を集めていますよ。しかし、私が診断したのがその娘さんだったとは……」
と唸っている。
するとおさよが、
「これで、さっき仰った事が胸に落ちましたよ」
と笑っている。
するとお華が、
「じゃ、信濃に行くってのは?」
と隣の応為に聞くと、
「ああ、あれは信州小布施に大きい農家がありましてね。そこはお酒作りもやっている高井さんっていう大きな農家なんですけど、父がそこで生前お世話になってましてね……」
北斎は弟子でもある高井鴻山に世話になっており、その縁で小布施にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その天井に「八方睨み鳳凰図」を描いたりしている。
北斎は83歳から4度訪れ、描き込まれたそうだ。
21畳敷の天井一面を使って描かれている大きな絵だ。
「それで、私にも皆さん良くしてくれましてね。何度か絵を描いてお渡ししてました。今回も以前から言われてまして、 何でも、前に父が描いた物が、一部破損してしまったから、直して欲しいとお手紙を頂きまして」
「なるほど、そういうことなのか~。それじゃ娘さんである貴方に頼んだ方が良いもんね~」
とお華が言うと、突然サキが、
「あ~」と大声を上げ、
「小布施の岩松院なら私、知ってます!」
などと言うから、お華達は勿論、お栄まで驚いて、
「すみません。あなた様も? もしかしたら小布施の出で?」
と聞くとサキは首を振り、
「いえ、もともと上田なんですけど、旦那に連れられて、小布施の岩松様に言った事があるのです。そこで、邦楽の演奏が始まると聞いて、無理矢理連れて行かれましたよ」
そこでお華が、
「この人の旦那はノブと言ってね、盲目なんだけど、三味線の名手で……」
そこまで言うと、今度はお栄の方が、
「あ!」と声を上げる。
そしてサキに向かって、
「もしかして、三味線上手で、剣が強くて、しかも博打も強かったっていうノブさん?」
それには、サキより、お華達が、さすがにそれには驚いて、
「え~ノブさんの事知ってるの? ここの長屋に住んでますよ。今、丁度、町役人様の所に行ってて留守ですけど……」
と言って直ぐ、おサキに、
「あの人、ばくち打ちだったの?」
と、少々顔を強ばらせて言うと、おサキは笑って、
「信濃に居る頃はそうでしたよ。ただ、江戸に来てからはパッタリ辞めたみたいですけど。それに、北に繋がりのあるお華さんのところに来たら、恐くて全くそんな気が起きなかったようです。だから私もありがたくて……」
するとお華は、
「あいつ~そんなことはひとっ言も言わなかったな~」
と言うのだが、浩太郎と、優斎は大笑いだ。
優斎は、
「良いじゃ無いですか、辞めたんなら。ああいうのはクセになりますからね~」
するとお栄が、
「私はお会いした事は無いんですけど、小布施の住職の和尚さんは、ノブさんの事、心配してましたよ。三味は上手いが、博打がな~とか仰って、でも、これで良い土産話が出来ます」
と笑顔で言うとお華は、
「もう、今やあの人は、上様から認められた、三味の検校にまでなったからね」
と言うと、それには、さすがにお栄も驚き、
「け、検校様?」
「そう。それじゃサキさんはしっかり見張らないとね。下手すると、こっちの」
と浩太郎を指差し、
「人が捕まえに来るからね」
それには浩太郎も、苦笑いだ。
すると、お吉が、
「お栄さん。ちょっとお伺いしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「あの、北斎さんって、えらく引っ越しなさったって、噂で聞いた事があるんですけど、それって本当の事ですか?」
これにはお栄も大笑いで、大きく頷く。すると浩太郎も、
「ああ、俺もその話は聞いた事あるな~」
するとお栄は、
「あたしんところは、本所割下水から始まって、九十回ぐらい(正確には93回)引っ越ししましたよ」
これには、さすがに質問したお吉は勿論、皆も驚愕だ。
この時代だって、引っ越すのはタダではない。
今のように大きな荷物があるわけでは無いが、この時だって、移るは移るで金も掛かる、
それが90回以上なら、一体どれ位かかるのか?
「いやね、おとっつあんと言うより、あたしが掃除が苦手で……。どうしようもなくなると引っ越ししたんですよ」
お華やおさよも、決して家事が得意では無いが、これには開いた口が塞がらない。
すると浩太郎が、笑いながら、
「そうそう。そんなんだから、奉行所の者も何か隠してるんじゃないかって言ってた奴も居たが、話聞くと呆れ果ててしまうよ」
すると、お華は、
「じゃ、遊んだとか、酒や煙草ってんでもないんだ」
お栄も頷いて、
「あの人は、金に頓着しなくてね。何かの支払いで、店の奴が来ても、玄関先に起きっぱなしになってる、本屋からの報酬を指刺して、そこから持ってけ。とか言う人で、そりゃ、適当に持ってかれますよ」
お華は笑って頷き、
「なるほどね、それじゃそうなるわよね~」
すると、お栄は少々真面目な顔で、
「おとっつあんは息を引き取る時、俺があと十年、いや五年で良い。命があったら私は本当の絵描きに成っただろうに……」て死んでいきました」
おさよは、
「お幾つでお亡くなりに?」
と聞くと、
「九十です」
それにはさすがに優斎が「ひえ~」と声を上げ、
「それでも足りなかったって……。いや、凄い執念だね」
とお華に言うと、お華も優斎も大きく頷き、優斎が、
「しかし、それは見習わないと。年に諦めては駄目だと。ねえ、兄上」
浩太郎も腕を組んで、厳しい顔をして頷いている。
そんな時だった。
(4)
「ひえ~!」
と、屋敷に悲鳴を上げて掛けてくる男の声と大きな足音が響いた。
お華は驚き、後ろを向いて確認すると、なんとノブだった。
不可解な顔をしているお華。
するとノブが、
「助けて下さい!」
などと言いながら、庭の座敷の丁度前までやって来た。
「どうしたの?」
と言ったお華の声が聞こえたのだろう、手探りで、縁の脇にやって来る。
すると、その後に、妙な聞き覚えの無い怒鳴り声と共に男が二人、短刀を片手に掛け入って来たのだ。
それと同時に、おさよが後ろに置いてあった小太刀片手に立ち上がる。
お華も、おゆきに、
「あれを!」
と叫ぶ。
そして浩太郎は、脇の信吉に、
「捕り手を呼んできてくれ」
と頼むと、信吉は頷き、同時に即座に立ち上がり、懐の草履を手にし、屋敷の裏から駆け出した。
庭に降りた、おさよは、ノブを背に、
「あんたら、押込かい!」
と、女にしてはドスの利いた声で、立ち止まっていた男達に叫ぶと、その中の一人が、
「なんだ、女か」
と馬鹿にしたような笑いで言うと、羽織を着たお華が、サァっとおさよの後ろに立った。
おさよは、
「あんたら、ここが北町の特別自身番って言う事知らなかった様だね~」
と少々、嘲り気味で言うが、これを聞いて座敷の浩太郎と新之助は口を押さえて、吹き出している。
そして浩太郎はお栄に、
「見てなさい。驚くよ」
とまた笑う。
「何が自身番だ!」
と男の一人は、腹が立った様で、もう一人に、
「彼奴らぶっ倒して、お宝頂いていくぜ!」
叫ぶが、その時浩太郎が縁先まで現れて、
「ほう、中に入って来ただけなら、百叩きで済んだが、盗み目的なら、島流しか打ち首だな!」
などと叫ぶと、男達は浩太郎を見て、
「や、役人だ!」
と躊躇していたが、もう一人が、
「か、構わねえ! やっちまえ!」
言って、一歩前に出た時だった。
これも皆と一緒に見ていた七重は、お華の羽織が動いたのが微かに見えた。
次の瞬間、悲鳴にも似た絶叫が上がった。
お華は回転するまでも無かった。
それと同時におさよは、いつもの様に低く突っ込んでいき、二人の足に小刀を振るう。
これも再び、一遍に悲鳴を上げながら、その場にバッタリと倒れる。
そこに、信吉が呼んだ捕り手が、三人ばかり現れる。
部屋に浩太郎が立ってるのが分かると、
「これは、旦那!」
浩太郎は笑って、
「こりゃ押込だ」
と新之助を指し示し、
「こいつの手柄だ。とりあえず今日は自身番に閉じ込めて、明日、奉行所に頼む」
新之助は、不思議な顔をしているが、この子の母と叔母が仕留めたのだ。
浩太郎にとっては、それが順当だとでも思ったのだろう。
そして、押込の二人は足を斬られてるのに、縄を掛けられ、無理矢理引っ張られて行った。
しかし、一番、驚いていたのはお栄だった。
目を大きく開けたままで、押し黙っている。
おさよとお華は、
「姉上、稽古代わりにはなった?」
と聞くと、おさよは欲求不満なのか、
「何言ってんの、ちょっと素振りしただけよ」
などと言い合いながら、
「そりゃそうだ」
と笑いながら、座敷に戻って行った。
お華は、お栄の驚き様を感じ取ったらしく、座りながら、
「あんたが絵を描いてるのと変わんないよ」
と笑うと、廊下に座っているノブを指刺して、
「そうそう、あれが、さっき話に出てた、ノブさんよ」
お栄も、
「ああ、あの人が」
と言ったが、
お華は少々恐い顔で、
「あんた! なんで追っかけられてんのよ。仕込みはどうしたの、仕込みは」
ノブは座りながら頭に手を当て、
「歩いてたら、いきなり蹴り飛ばされて、うっかり離しちゃって、どっかに飛んでってしまって……」
これには、
「はあ~?」
と呆れた顔のお華は、
「あんた、よっぽど浮かれてたんだね。博打場にでも行って、儲けたのかい?」
と言い放つと、浩太郎と優斎が、クスっと笑っている。
ノブは大きく首を振り、
「いえ、いえ、違いますよ。町役人様が、あんたは三味だけでなく、奉行所にも協力してるって言って頂いて、検校昇進の祝いを兼ねて、金一封を頂いたのですよ。ただ、何でそんな事知ってるのか、不思議だったんですけど」
と言うと、浩太郎が、
「ああ、それは俺だ。あそこから問い合わせがあってな、まあ、普段の事言ってやっただけなんだけどな」
しかしお華は、
「ったく! そんなあんたが、仕込み飛ばされて、家に駆け込み、助けて下さいで、結局、新之助の手柄になってるんじゃ、かっこつかないでしょ!」
これには拙いと思ったんだかノブは、
「ところで、そちらの方は?」
と話を変えようとすると、お華は追い込み、
「あんた! まだ博打やってるんじゃないでしょうね!」
追い打ちを喰らう。
皆が一斉に笑ってしまう。
さすがにそれには、
「いえいえ、そんなことやってませんよ。でもなんでそんな昔の事をご存じなんで?」
お華は、
「この人に教えて貰ったのよ」
お栄もようやく笑顔になる。
「そちらは一体?」
お華は眉を寄せて、
「この人は女絵師よ。あんたには分からないだろうけど、有名な絵師の娘さんなのよ。しかも小布施の岩松院とご縁のある方でね」
「え! 岩松院!」
小布施の話まで出てきて、ノブは驚愕する。
「あんたは剣が強くて、三味が上手くて博打も強いてんじゃ、三度笠になるしかないと和尚さんが心配なさってたと教えてくれたのよ」
「ええ~」
とノブは両手を挙げて、驚愕している。
するとお栄は、
「お華さん。また土産話が出来ましたよ。これで、和尚さんもさぞ、安心していただけるでしょう」
と言うと、おサキもオトを膝に座らせながら、胸を撫で下ろしていた。
すると優斎が、
「それにしても、良く走って戻ってくるなんて出来ましたね」
するとノブは、
「丁度、橋渡って後はまっつぐのところだったんで……」
お華は笑って、
「悪運が強いわね。まあ、ここにまで帰って来れば何とかなるからね」
と言うと、優斎も大きく頷く。
するとお華は、
「お秋ちゃん悪いけどさ、明日、その辺探しといてくれる? それからノブさん。その金一封は、子供達の食費ね。サキさん。ちゃんと預かって管理しといてね。それから、ノブさん。信濃の縁で、この人に一曲、流して差し上げなさい」
と言われ、ノブはガックリと肩を落としたが、
「承知致しました」
ノブは三味を取りに、長屋に向かう。
するとお華は、七重を側に呼び、お栄に、
「ねえ、お栄さん。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「なんです?」
「あんたが小布施に行くまでの間、七重に絵を教えてやってくれる? そしてこの子を弟子にしてやって欲しいの」
お華は浩太郎とおさよに、
「良いわね。兄上、姉上」
二人は快く、承知する。
そして本人にも、
「あんたにも異存はないね?」
むしろ七重は満面笑みで、
「わたしが? 本当に良いんですか?」
するとお栄は、
「弟子なんざ、おとっつあんには、何人か居るけど、あたしには居ないし、満足な事できるかどうか……」
多少困った顔をしているが、
「良いのよ、その都度、厳しく言って貰えれば。それで後は自分自身で研鑽すればいいの。私だって、幼い頃は亡き父上に厳しく、手裏剣を教えられたからね。姉上もそうだし、娘のこの子が出来ないようなら、絵師は諦めればそれで済む」
しかしその時、浩太郎が大笑いして、
「お前のどこが厳しい修行したって言うんだよ。甘やかされて、好き勝手にやってただけじゃないか。おさよも同じ。俺の方が怒鳴られたけど、お前らは、半分遊びだったろ!」
と苦情を言うから、優斎も笑ってしまい。
「なんとなく分かりますよ。私もあの方覚えてますから」
などと言われ、お華は言葉に詰まるが、
「ったく、言いたい事言いやがって! あたしはあたしで大変だったの! ねえ姉上」
と言われるが、おさよも笑いながら、
「私はその頃、まだ隣の娘だったし、お父上も厳しくは仰らなかったからね。でも、お華ちゃんの言う通り、それはそれで大変だったわよ」
それで、皆笑ってしまうが、お栄は先程の光景を見ているからか、大きく頷いて、
「わかりました。少々短い間だけど、教えられる事は教えましょう。あたしも結局、父親に甘やかされて育って、絵の修業してましたから、人をどうこう言えません」
と笑いながら、後ろを向いて自分の持ち物の風呂敷包みをごそごそやって、木の箱を取りだした。
「七重ちゃん。貴方を弟子として認めたなら、父と同じ様に……」
と、一つを取りだして、七重に渡す。
「え!」と驚きながら、受け取った物を灯りの下で開いてみると、一枚の絵が浮き上がった。
しかもそれは紙や版画では無く、絹を使った、いわゆる絹本であった。
それには、七重が「ええ~!」と驚愕の声を上げる。
それをお華ものぞき込み、こちらも驚愕の声を上げる。
「す、凄い絵ね!」
と言うものだから、周りの皆も集まって来て、その絵を覗く。
浩太郎も優斎も驚愕というか、声も出せず、後ろにおののいて驚いている。
その絵は、葛飾応為の現代にも残る傑作、正真正銘、肉筆の絵、
「夜桜美人図」と銘された美人画である。
北斎でさえ、美人図ならお栄に勝てないと言わしめ、現代では、江戸のレンブラントとさえ言う人までいる。
するとお栄は、もう一枚出してきた。
「どっちでも好きな方を上げるわ」
そしてもう一つとは、「吉原格子先之図」だった。
お栄は、
「まあ、こっちはお店の宣伝用で版画だけどさ、どっちも真似するには悪くないと思うよ」
と言うのだが、これには七重より、お華が驚く。
お華は以前、吉原で捕り物した事があるから、その様子を知っているからだ。
だから思わず、おかよとお秋を呼んでしまう。
「ほら」と言われて彼女達が見ると、さすがに驚いていた。
「こ、これは、どこのお店を?」
とお秋が聞くが、お栄は笑って、
「わすれちゃった」と言うのだが、絵を見れば確実に「大格子」の店。
こんな店があるのは吉原だけ、当然、おかよやお秋もすぐ分かる。
おかよは、本気で、
「驚きました。こんな絵を描かれていたなんて……」
お華は笑って、
「あんたたち、どっちかこの時二階にでも居たかもね」
と言うが、この事で、おゆきは確信した。
するとお栄は、
「じゃ絹本は七重ちゃん。こっちはあなた達に上げるわ」
と三人とも大喜びだ。
二人にとって、もうこの事はもう懐かしい事と言える様になったらしい。
お華もそれには満足だ。そして、
「いや、こっちも凄いわ。良かったね七重。大切にして、少しでも近づける様に頑張るのよ」
とおさよが七重に言うと、七重も大きく頷く。
すると、お栄はお華にも、
「貴方にはこれを」
とまた同じ様に渡された。
それは、もう誰もが知る、「神奈川沖浪裏」だった。
それはさすがに版画だが、お華は、
「私に? いいの? これ、お父上の絵じゃ」
それにはお栄は和やかに、
「どうもこの絵は、お華さんに似合う様な気がして……」
すると優斎が、和やかに、
「なるほど、これは仰る通りって、私も思うよ」
と言うと、皆、頷いていた。
(5)
翌日の朝、おゆきは座敷に座っていて、頃合いを計らい、
「お姉さん。こっちに座って頂戴」
などと言われたお華。
如何にも険しく言うものだから、いつものお華が出て、
「なによ~。おゆきちゃん。何か文句でもあるの!」
と途端に喧嘩腰である。
しかし、側にいたお吉が、
「おゆき、お華に喧嘩売る気なの? 辞めなさい辞めなさい、勝てる訳ないでしょ」
しかし、いつの間にか、お華に似てきたのか、おゆきも、
「喧嘩じゃありませんよ。ちょっと確かめたい事があって、姉上に糺そうと思って」
と言い張る。
お吉は、顔を捻って、
「ただそうって、それが喧嘩腰って言ってるのよ」
するとお華が、
「いいわよお母さん。聞いてあげましょ」
と言うのだが、お吉が心配そうにしてるので、
お華は笑って、
「大丈夫よ、この子に簪投げたりしないから」
と笑う。
そして、お華はおゆきの前に座る。
するとあっちの方から、八重が這ってお華を目指して突進してくる。
さすがにお華は八重には微笑み、起こして膝の上に座らせる。
すると、そんな時、おかよとお秋が、台所から大広間に来たから、おゆきは二人を呼ぶ。
彼女達は、(何だ?)と言う顔で、二人はお華の横にそれぞれ座った。
「で、何の用なの?」
とお華は聞いたが、おかよとお秋も呼んだから、うすうす気づいていた。
すると、おゆきが、
「ちょっと聞きたい事があります。このお二人は」
とおかよたちを指し示し、
「なんちゃって芸者なんかじゃありませんよね」
するとお華は、平気な顔で、
「そうよ」
とあっさり言う。
「やっぱり……」と言って、おゆきは続けて、
「私は欺されてるのが許せないの、一緒に座敷に出ると、他の家の芸者さんが、どこの芸者さん引っ張ってきたの? とか言われて、私もおかしいなと思ったの」
とか言ってしまうが、お華は大笑いだ。
「あんたね、今頃そんなこと言ってるの? 一緒に座敷に出ていながら」
と呆れ口調で言う。そして、お吉に、
「ね、お母さん。この子はまだ一人じゃまだ駄目でしょ」
するとお吉も、
「まあ、そうね~」
と頭を捻ってしまう。
その間、おかよとお秋は自分の事言われてるのだが、顔を見合わせ笑顔になっている。
お華は、八重の頭を撫でながら、
「おかよちゃん。お秋ちゃん、ごめんね。この子にバレちゃったみたい」
と謝るが、彼女らは笑顔で、「いえいえ」と行っている。
バレたと言っても、内輪だし、それほど動揺はしていないからだろう。
そしてお華は、おゆきに厳しい目を向けて、
「あんたね。何であたしがあんたを欺さなきゃならないのよ。あんた欺したって一文にもなりゃしない。それより、しっかりとした芸者なら、とっくに気づいている事よ。だいたい、あっちで寝ているお栄さんだって、顔を見ただけで、すぐに分かったみたいよ。ねえ、おかよちゃん」
おかよもそれには大きく頷いて、
「化粧で分かるなんて、私も驚きましたよ。まあ、子供達の前何でああは言いましたけど、ホントに驚きました」
お華も頷き、そしておゆきに、
「まったくもう。粋な芸者なら、おかしいなと思ったら、おかあさんや私に、ちょっとって耳打ちして聞くなんてのが、本当の芸者の作法よ。だいたいね、この二人にお座敷に行くように頼んだのは、みんな、あんたの為よ」
「私の為?」
と、今度はおゆきが驚いた。
「え? どういうことです?」
なんて言うものだから、お華は呆れ顔で、
「だいたい。あんたこの子たちが、あそこ(吉原)でどんな遊女だったか知らないでしょ。この子達はね、呼び出しだったのよ」
それには、若い、おゆきでさえも驚き、
「呼び出しって、今で言う、お姉さんの太夫とか?」
お華は笑い、
「そうよ、花魁道中をやる程の子達よ。まあ、私のお華太夫は、父上が遊び半分でつけたもんだけどね」
するとお吉が、
「何言ってるのあなたも、あの時大旦那様は、逆にそう言う道に入らないようにって、願って付けたんでしょ!」
とお吉は、多少声を上げて言うが、
「分かってるわよお母さん。おかげで今まで、殆ど何も無かったからね」
そして改めておゆきに、
「あなたもこの意味が分かる? 本来座敷では、あんたや他の芸者なんかより遙かに経験豊富で尚且つ、知識も高い。とても、なんちゃってどこの話じゃ無いのよ」
これにはおかよも、照れてしまい、
「お華さん、それぐらいで」
と顔を伏せてしまう。
すると、おゆきは、
「じゃ、私の為って?」
とまだ食い下がる。
お華は少々真面目な顔で、
「それは、あんたがまだまだ、世間知らずだからよ。私が一緒なら、それなりに取り計らうけど……」
と言った途端、お吉が大笑いして、
「何言ってるの、あんたじゃ、おみよちゃんが居た頃見たいに、相手が血まみれになるでしょ。お秋ちゃん。お華はね、客がおみよに変な事しようとすると、すぐ箸が飛ぶのよ。この子がやるもんだから、どっから何が飛んできたか分からず、すぱって鼻に突き刺さって、いきなり血を吹き出す始末よ」
それにはさすがに、お秋も目を大きく開けて、
「そ、それは……」と驚いている。
「それでね、お客様お疲れのご様子。本日はお帰りになった方が……なんて平気で言うのよ。いっつも他のお客や、奉行所に言い訳するのはあたしだったんだから」
さすがにおかよも、お秋もそれには言葉が無い。
お華も、さすがにその事を持ち出されると、顔に手を当てる。
そしてお吉は、二人に、
「あなた達だったら、何気に席を替わってやり過ごしたり出来るでしょ?」
おかよは、
「いや~とてもじゃありませんけど、お華さん見たいな真似は出来ませんよ」
と笑い。
「前が前なんで、私もお秋も、その辺の場の変化はわかりますから。最初はあんまり気が乗らなかったんですけど、ここに来ると、今度は全く逆の立場に変わってしまって、むしろ面白くなってしまいましたよ」
お華は頷き、そしておゆきに、
「わかった? 欺してたって言うなら、あんたじゃ無く、お客の方よ。おゆき。今のあんたじゃ、この子達の前の世界で言えば、たかだか振新(振袖新造)ぐらいのもんよ。だいたい本気で、この人達に頼んだら百両はかかんのよ。あとで、お秋ちゃんにでも、あっちの事情でも聞きなさい。そして、如何に自分が何も知らなかったかったか、足りないのか考えなさい」
とピシッと言われてしまう。
すると、おかよが、
「まあ、まあ、でも私達二人は、お華さんに出会えて感謝してますよ。あの絵の様な頃を考えたら、天国のようなものだから……」
それにはお華も笑って、
「そりゃ言い過ぎよ。でもあなたも二回目にあった時には、私も驚いたもの。お秋ちゃんも聞いたでしょ?」
お秋も笑顔で大きく頷き、
「私が初めて会ったのは、私がまだ禿だった頃ですから。私はあんとき、お華さんに二階の上から飛ばされましたけど」
お華は大笑いして、
「あれね。あんときは、兄上連中にちゃんと布団をもってろって怒鳴ったからね」
そしておかよに、
「そしてあんたは、地震の時だったよね。あんときは、おゆきもご両親が亡くなって大変だったけど、この人だって悲惨だったのよ~」
と言うから、お秋は吹き出し、おゆきが、
「え、どういうことです?」
するとお華は、
「あれこそ、あの世界だからよ。大変な事だったわよね」
おかよも大笑いで、
「もう、お華さん。忘れかけてたとこなのに……」
と文句を言うが、自分でも笑ってしまう。
お華はおゆきに、
「この人は、丁度その時が年季切れで、身請けが決まっていたのに、丁度大地震が起こってしまったから、行こうも戻ろうも出来なくなってね、どうしようも無くなっちゃったのよ。そうしたら丁度、奉行所の手伝いで私が町中で、被害に遭った人達にお結びを配っていた、その時に再会したのよ」
おかよも大きく頷く。お華は笑顔で、
「あんとき、とてもじゃ無いけど、元吉原の呼び出しとは思えない、花魁道中にゃ懸け離れたボロボロの格好してたからね。あれを考えると、今は医者だって、とてもじゃ無いけど信じられないよ」
と、本人も周りも大笑いだ。
さすがに、おゆきもさすがに、世の中の大変さが少しは分かった様で、
「私が足りませんでした。申し訳ございませんでした」と降参して頭を下げる。
お華は笑って、
「あんたは借金も無くここに居て、柳橋の座敷に出ていられる。この事をよく考えて、おきなさい。それから、そう言う方に行く事が無いよう気を付けなさい。あんたは一枚証文なんだから」
すると、お吉に、
「わたしたちもああいう子の最後とか一杯見てきたもんね」
「そうよ。おゆきちゃんもそれだけは気を付けてね。この人達の話をよく聞いて、如何に自分が恵まれているか、考えた方がいいわよ」
と言うと、おかよやお秋も大きく頷く。
(6)
さて、妙な戦いは、やっぱりお華の勝利で終わった。
結局、彼女。
お栄が養生していたのは、二月弱だった。
そして、その旅立ちの日、皆で大門前まで見送った。
元論お華は、もう少し先にと思っていて、優斎も止めたのだが、本人がそれを断り、旅立ちを決意した。
そうとなれば、当日七重を呼び、一緒に見送った。
七重は涙を流しなら佇んでいる。
お栄は、七重に、
「焦らず頑張るのよ」
と笑顔で頭を撫でると、
それからお華に、
「これまで本当にありがとうございました。この事は一生忘れません」
と言って、手を振って、歩き始めた。
しかし、お華と七重には、これが彼女の姿を見た、最後になってしまった。
七重は、それから純粋に絵を描くのに励んでいて、お華に見せに来たりしている。 お華は、
「おお、八丁堀か~。良く描けてるね」とニコニコして褒めている。
そんな事で過ごしていると、お華顔見知りの町家で働く男が、一人の若そうな僧侶を連れて入って来た。
お華が笑顔で応対すると、その男は、
「お華さん、実はこのお坊さんが、お華さんにお話があると、ご案内したんですよ」
お華は双方を見ながら、
「これはこれは。 してどの様な」と訪ねると、そのお坊さんが丁寧に頭を下げ、
「あの、度々、私共の寺にお手紙を頂戴してますよね」
この答えで、お華にはピンときた。そして同時に嫌な予感がした。
「まさか、岩松様の?」
「はい」
と言うので、早速座敷に上がって貰って、案内の男には頭を下げて、お礼を言った。
お吉が丁度居たので、お茶を頼んで、彼女もそこに座った。
七重も、何事か? と言った顔をしている。
すると、その坊主は、
「あの、お手紙でいち早くお知らせをと思ったのですが、頼まれ事もありましたので、江戸の他の寺に行く用事もあったので、参らせて頂きました」
さすがにお華も、こういう相手には丁重に、
「これは。これは、誠に持って申し訳ございません。仕方無く度々、手紙など出してしまいまして誠に申し訳ございませんでした。して、まさか、お栄さんに何か」
その坊主は、一度礼をし、些か厳しい顔で、
「実は、お栄さん。私共の寺にて、病気によりお亡くなりになりました」
いくら坊主でも、そういった事を伝えるのは気が引けるのかも知れない。
しかし、お華は「やはり」と思ったが、とたんに七重は大声で泣き出す。
隣のお華は彼女の背中を撫でながら、坊主に事情を聞く。
「当方で頼んでいた絵をお直し頂いたのですが、その頃より、具合が悪くおなりになりまして、あっという間に……」
「そうでございましたか。それは致し方無い事。実はこの泣いてる子は、あの人の小さな弟子で……」
するとその坊主は、少々微笑み、
「そうでないかと思っていました。この小さなお弟子さんのお話とお華さんのお話を、病床で良く伺いました。そして、頼まれた事というのは実はその事にございます」
とかれは風呂敷包みから、一本の木箱を取りだし、丸くなっていた中の紙をお華に手渡した。
「これは?」
少し開けて見た、お華は驚き、言った。
坊主は頭を下げ、
「これはあの人の絶筆にございます。具合が悪くなりすぎて、それ以上描けなくなってしまったのです。ですからこれを私に渡され、江戸の弟子に送り、仕上げをして欲しいと仰っていました。弟子にやってあげられる、最後の贈り物とか、今際の際に仰っておりました」
お華が慌てて紙をしっかり開くと絵が描かれていた。
その途端、お華は驚愕した。
「これは……これは私?」
それは、あの時、簪を撃っていた、お華自身であった。
そう、ノブを追っかけてきた奴を撃ちぬている、その瞬間だった。
しかし、下半身はかかれていない。この事を伝えたかった様だ。
さすがにお吉でさえ、涙ながらに下を向いて話を聞いていた。
お華は泣いてる七重に、
「泣いている場合じゃないよ、七重。あんたは師匠、最初で最後の弟子。最後の頼みを成し遂げて差し上げねばならないわよ」
と七重にその絵を見せた。
しかし、それでさらに彼女は大泣きしている。
その寺に丁重に葬ったと言い、その坊主は帰っていった。
それからお華は、七重を連れ、八丁堀に向かった。
そして、丁度居た、浩太郎とおさよに事情を伝える。
お華は、
「まあ、絵師になるのかどうかは別にして、今のまま描かせてあげて。少なくとも「葛飾七重」としてね」
と頼んであげた。
浩太郎夫婦に異存は無い。
というか、女の子でもあるし、むしろ絵師の資格みたいなものが有った方が、嫁入りでも先行き有利でもあるから、当然とも言える。
そして七重に、
「ちょっと見てなさい」
と立ち上がり、座敷の隣まで移ると、頭の簪一本スパッと取りだし、浩太郎の横にある例の柱に打ち放った。
そして七重に、
「見てた? これを描きなさい。おそらくこれと一緒だから」
と笑顔で言うと、七重も大きく頷いた。
※※※ つづく ※※※
今回もお読み頂きありがとうございます。
とうとう、五十話まで来てしまいました。
皆様のお陰と、感謝しております。
さて、今回の話ですが、
とうとう葛飾応為が登場しました。
彼女は言うまでも無く、葛飾北斎の三女。
江戸、最後の美人画画家と言われております。
実は私、江戸の画家、歌麿や当の父親、北斎の絵よりもこの人の絵が好きで、
北斎の絵の共作者とも言われるぐらい、実力のあった人ですが、
現代に残っている絵は、ほんの数枚。
私としては、もっと見たかったと思っており、とても残念です。
でも、その数枚でも、この人の見方・構成はそれだけで大したものだと思っています。
実は、この人。
その人生の終わりは、ハキとした事は残されていません。
この小説では、病気で終わらせましたが、一説では、帰る途中で山賊に襲われたとか、色々言われています。
墓さえ明確ではありません。
何だか、西洋にも肩を並べた絵だけ残して、WONDERな人です。
でもこの人は、色んな意味で、父と同じく、後世に名を残した幕末の画家。
それだけでも、人生の意義はあったのでしょう。
では、今回もありがとうございました。
また次回、よろしければお読み頂けると嬉しいです。
ありがとうございました。




