㊽復活の紀伊國屋
この物語はフィクションです。
登場する、人物などは架空でございます。
また、歴史的な出来事に沿って進めていますが、
事実・史実とは異なる部分があります。
どうか、ご了承ください。
(1)
ある日、一人の男がお華屋敷の大門をくぐり、一瞬、診療所の方に目を向けるも、そのまま屋敷の庭を進んだ。
そして、庭から見える大広間に顔を向けると、余りの光景に、その男は大きく目を開け佇んでしまった。
赤子達があちこち居るからだ。
勿論、赤子が珍しいと言うわけでは無いが、この多さは彼にとっては、少々、異常な光景だった様だ。
その頃は、先の二人は寝返りも出来て、這おうと僅かに動いていて、真ん中の二人はまだ眠っているが、一人が泣き出すと一斉に泣き出してしまう。
その男はあまりの様子に、とんでもない所に来てしまったと思ったかも知れない。
がその泣き声に、お華が反応し近寄ってくる。
それに男も気付き、
「お華さん!」
と声を上げると、お華も振り向き、笑顔になった。
「なんだ、ちゅうさんじゃない。久しぶりね、どうしたの?」
そう、この男は、歌舞伎役者・三代目中村仲蔵である。
仲蔵は、驚きの顔で、
「一体どうしたのですお華さん。この子達は?」
と、当然聞く。
お華は笑顔で、
「ちょこちょこしてるのは、三味線屋の子と、お母さんの養子。寝てんのが私の子」
それには驚き、
「私の子って、お華さん子供産んだんですか? しかも二人……」
お華は笑顔で頷き、奥に向かって、おゆきを呼ぶ。
おゆきが奥からやって来ると、
「おゆき。ほら、命の恩人のおじさんが来たよ」
おゆきは、信吉と一緒に安政の大地震の時、仲蔵に助けられ、お華屋敷に連れてこられている。
「あ、これは三代目様。ようこそお越し下さいました。だけど、すいません今はちょっと……」
と泣いている子の元に走る。
お華は大笑いして、
「おゆきは、あれでも柳橋で、今売り出し中の芸者。信吉は私の兄の下について、奉行所の仕事をしてるのよ。あんたのお陰で、それぞれ立派な人生送ってるよ」
と言われ、それには仲蔵も微笑み、
「これは、ありがたい。私がやった事が世間のお役に立っているなら、言う事はありませんよ」
お華は頷いて、敏次郎を抱き上げてあやしている。
「で? 今日はどうしたの?」
仲蔵は改まって、
「実は、お華さんというより、先生にご相談がありまして……」
お華は眉を顰め、
「あんた。どっか悪いの?」
と聞くが、仲蔵は笑いながら大きく手を振り、
「いえ、私じゃなくて知り合いの役者なんですけど、ちょっと、どうして良いか分からなくなりまして……」
お華は「ふ~ん」と言って、
「じゃ、一緒に聞きましょ。もう昼だから、大丈夫でしょ」
と敏次郎をおゆきに頼み、二人は庭から診療所に向かう。
初めにお華が戸を開けると、なんと祐三郎の座っている後ろ姿が見えた。
「こら、サブ! 兄上に会うとか言って、おかよちゃんの顔を見に来たんでしょ!」
と背後からいきなり言われたから、祐三郎は途端に直立し、お華に、
「そうじゃありませんよ。兄上に、御家の相談をしていただけですよ~」
と、いささか卑屈に笑いながら言い訳している。
そのおかよも、脇で笑っている。
「どうだか?」
と言いながら、
「あんたも入りなさい」
と仲蔵に言うと優斎が、
「どうしたんだ?」
「先生、この人、覚えてない?」
と聞かれるから、顔を改めて見たら、
「あっ!」と叫び、
「こ、これはこれは。三代目さんじゃ無いですか。お久しぶりです」
と軽く頭を下げると、祐三郎も気づいたようで、
「あ、その節は、どうもありがとうございました」
こちらも頭を下げる。
祐三郎も伊達の屋敷で、踊りの披露などやって貰った事があるから、顔は見知っていた。
「こちらこそ。突然お邪魔致しまして、誠に申し訳ありません」
と仲蔵も深く頭を下げる。
しかし、おかよは不思議な顔をしている。
するとお華が、
「おかよちゃん、こちら猿若町の役者さんで、三代目・中村仲蔵よ」
と言われると、おかよは驚きの顔で、
「え~! この方が堺屋さんですか! これはこれは、いらっしゃいませ」
と深く頭を下げる。
「おかよさんも知ってたんだ」
お華が言うと、
「ええ。そりゃ、お名前だけは……」
そう彼女は元吉原の呼び出し。
場所は殆ど隣とも言えるぐらい近いのだが、おかよはその頃、枠から表に出られないし、役者は吉原御法度となっていたから、この時初めて対面する事となる。
ただ、仲蔵は評判の高い役者だから、名前だけは知っていたという事。
おかよは慌てて、お茶の用意を始める。
優斎が、
「今日はどうしたのです?」
と言うから、それにはお華が、
「医者に会いに来たんだから、病気の事に決まってるでしょ」
「え?」
優斎も、祐三郎もそれには驚くが、しかしお華は、
「この人の事じゃないのよ」
と少々笑い、
「先生に相談したいって来たのよ」
その言葉で、二人は安堵し、
「それはそれは、では恐れ入りますがそちらにお座り下さい」
「申し訳ありません。先生」
とお華、祐三郎も一緒に席に座る。
お茶を出されると、それに軽く頭を下げながら、仲蔵は、実はと優斎に話し出す。
仲蔵の言う役者と言うのは澤村田之助の事であった。
澤村田之助は屋号を「紀伊國屋」と名乗り、幕末から明治まで生きた歌舞伎役者である。
この当時、美貌の女役として絶大な人気を博していた。
しかしある時、「紅皿穴皿」という芝居の舞台で宙乗り中に落下し、重傷を負ってしまう。
お華は少々驚いて、
「あら~、澤村田之助ってこちらも有名な役者さんでしょ?」
仲蔵は、大きく頷き、
「女形としてご贔屓の多い役者です。私も御一緒することが多いので、一門ではありませんが、仲良くして頂いているのです」
「そう。で、医者の先生は?」
それには仲蔵も苦渋の顔で、
「どうも、見放してしまった様で……」
今度は優斎が、目を大きく開けて驚き、
「医者がかい?」
と叫んでしまう。
仲蔵は大きく頭を下げる。
そして、優斎は腕を組み、
「脱疽か……。まあ、分からない事は無いんだが、見放すって……」
それにはお華が、
「分からない事は無いってどういう事なの」
すると優斎は、
「まだ、本人を見てないから断定は出来ないけど。仲蔵さん。その人、女形と仰ったよね」
仲蔵は大きく頷く。
「これはおしろいのせいじゃないかな」
と言うから、お華とおかよは驚いてしまう。
「ど、どういうことなの先生」
優斎は頷いて、
「そう。お華やおかよさん。そして役者の仲蔵さんも気を付けて欲しいんだけど。おしろいって言うのは毒が含まれてるんだよ」
それには三人は、驚愕する。
お華は、何かを思い出した様で、
「ああ、だからお座敷の後は、私もおゆきも風呂に入って綺麗に洗い流すように言うわけだ」
優斎は頷き、
「あなたや仲蔵さんは商売だからしかたない所はあるんだけど、あれは良くないんだよ。おしろいっていうのには、亜鉛が混じっているからね」
今度は祐三郎が驚き、
「それって確かに毒薬じゃないですか」
「その通りだ。鉛中毒になる」
と優斎は頷き、
「多分、落ちた傷跡から白粉が入ってしまい、ドンドン腐らせてしまったんじゃないだろうか」
すると今度は、おかよが、
「あの、皆に今はおしろい付けないでって言ってたのはその事なんですか?」
と聞く。
「その通りです。赤子は、胸まで付けている白粉を乳と一緒に口に入れてしまう。だから、直ぐ死んでしまう。例えば大奥で、若様が次々亡くなってしまうのもそのせいではないかとも言われています。あなた達もその辺、気を付けて下さい」
言われて、お華とおかよは顔を合わせてしまう。
「じゃ、兄上。もう手が無いと?」
と祐三郎が言うと、優斎は大きく溜息を尽き、
「無い事はない。ただ、これは私でも難しい。それに役者の人だ。これを言ったらどうなるか……」
今度は仲蔵が、
「先生。どういう事なんです?」
と聞くと、優斎は悲しそうな顔で、
「足を斬らないと、命が無いだろう」
この言葉は大きかった。
言うまでも無いが、そんなことをしたら命は助かっても、役者人生の方が終わってしまう。
優斎は仲蔵に、
「あなたがせっかくご相談にきたんだ。まずこの事、ご本人と話し合ってくれないかい。やはり御本人が納得しないと出来ないからね。でも、そう時も無い。今、この時も少しずつ毒が身体の中に広まる」
さすがに仲蔵も、厳しい顔で、
「お教え頂き誠にありがとうございます。それでは早速、本人と相談してみます」
と頭を下げたが、優斎は、
「ただ。問題はそれだけじゃ無いんだ。足をどう斬るのか。それが大きな問題だ」 するとお華が、
「そんなん。先生がえい! っと斬れば良いんじゃないの?」
と微かに笑顔で言うと、優斎は呆れた顔で、
「お華。据え物斬り見たいな言い方してはいけませんよ。私だって、気を遣って斬ってるんだから」
それには、お華も少々恥ずかしげに「すみません」と頭を下げると優斎は、
「そしてここが、医者が見放したっていうのが少しは分かると言うところだよ」
「どういう事なんですか?」
とおかよが後ろから聞くと、
優斎は頷き、
「例えば、傷の直ぐ上を切り落としたりしても、毒がそれより上に上がっていた場合。また斬らなきゃいけなくなる。それでは結局間に合わなくなってしまい、わざわざ足を斬る意味が無い。でも今の我が国の医療では、それを確定することが出来ないんだ」
それには祐三郎も、大きく頷き、
「なるほど、いたちごっこになってしまうんだ。しかし、何か方法は無いんですか?」
と聞くと、優斎は渋い顔で頷き、
「一つだけ方法がある。外国人の医者にお願いする事だ」
さすがに、「外国人?」と、お華以下、皆が声を上げる。
すると優斎は、
「今、横浜に長崎出島の医者がいると聞いた事がある。その人なら経験と知識で、適切な診断をしてくれると思うんだけどね……」
すると、突然お華が、
「ねぇねぇ、それって、もしかしたらヘボン先生?」
とお華がその名前を言うものだから、今度は優斎が大きく驚いた。
「え? お華。ヘボン先生の事、知っているのかい?」
「うん。一度ご挨拶した事あるよ」
と言うと、なんと祐三郎まで、
「あ~あ!」
などと言い出すから、
「ど、どういうことだ?」
と優斎は食いついた様に聞く。お華は笑って、
「あれよあれ、生麦の時よ」
そう言うと、祐三郎も「そうそう」と言っている。
お華は優斎に、
「あの生麦の時、あたしは女の子守ったって言ったでしょ? あの時一人の男の人は殺されちゃったけど、女の子は無事だった。でも二人は斬られて重傷で、横浜に連れて帰って、ヘボン先生に治療して貰って何とか命を取り留めたのよ。だから、その時、女の子を守ったのが私だって聞いて、フニャフニャ言って握手されちゃったのよ」
それには祐三郎が笑いながら、
「あれは、あなたのお陰で助かったありがとうって言ったんですよ」
と言う。
すると優斎は仲蔵に向き直り、
「その田之助さんは、攘夷とかの考えで、外国人は嫌とか言う人かな?」
と聞くと、仲蔵は即座に首を振り、
「私共は客商売。滅多にそんなこと言う人は居ませんよ。ですからそれは、問題無いと思います」
優斎は「良し!」と大声を上げる。そして、
「では、大変申し訳無いが猿若町に戻り、この事、田之助さんに全てご説明し、大八に布団を重ねて敷き、ここに連れてきてくれないか? 私が診察して、それから船で横浜までお連れする。この事、田之助さんやお付きの人にも納得頂いて下さい。あなたには何の責任はありませんが、それこそ乗りかかった船です。どうかそこまでは何とか……」
と言うと、仲蔵も了承し、
「分かりました。生死を問うと言う事になるのなら、私も逃げる訳にはいきません。今すぐ帰ります」
優斎も、
「こちらも仕度してお待ちしています」
の言葉を背に、早速、仲蔵は出て行った。
するとお華が、
「え~船で連れて行くの?」
と文句を言ってるが、優斎は厳しく、
「何言ってるんですか。事態は急を要します。早く、そっと連れて行くのにはそれしかありません。だいたい川船は、貴方も芸者の時にいつも乗っていたんでしょ?」
そう言われると、お華は勢いを無くし、「そうだけど……」と、どうも納得がいかないようだが、全く優斎の言う通りだから、小さい声で、
「仕方無いか……」
と、渋々受け入れる。
それを見ていた、祐三郎とおかよは吹き出してしまう。
すると優斎は、
「お前は大丈夫なのか? いや船じゃない。お屋敷はと言う事だ」
祐三郎は大きく頷いて、
「今日明日は大丈夫です。ところで、おかよさんも行くの?」
などと聞くから、優斎は多少呆れ気味になってしまうが、
「おかよさんも修業の一環だ。診療所も今日明日は休みとするから、一緒に行って外国人の医者を見て、話を聞いて貰う。だからお前の通訳が必要なんだ」
と言うと祐三郎は、少々微妙な顔で、
「ただ、兄上。そのドクターヘボンですが、出島から来ていると言ってますが、恐らくあの人は、アメリカ人だと思います」
それには優斎も「ほー」と声を上げる。
「斧次郎さんが言ってたんですけど、アメリカ人の様です。しかも宣教師でもあるそうです。ほら以前、シーボルト事件があったでしょう? ですからそこら辺は充分気を付けて下さい」
お華も驚き、
「へ~そうなのか~。しかし今、それ程厳しくは無いだろう」
シーボルト事件は文政十一年(1828)に起こった事件である。
出島の医者であったフィリップ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを国外に持ち出そうとして発覚した事件。
本人は国外追放で済んだが、役人、門人などが多数処刑された。
優斎は、
「分かった。注意しよう」
と言いながら、早速、おかよと一緒に仕度を始めた。
(2)
お華も例の黒羽織を纏って、優斎達と一緒に待っていた。
屋敷で、芝居好きのお吉にその事を言うと、想像通り驚愕した様だ。
「怪我したってそういう噂は聞いたけど、まさかそこまでとは……」
とオトを抱きながら、涙を流す。
オトもその異変に気付いたのか、お吉の頬を撫でているから、余計に涙を誘う。
と言う事で、お吉に後を頼んだ。
大門で皆、しばらく待っていると、何だか大勢で、大八車を転がしながらやって来た。
大きい役者には弟子やら付き人がそれなりに付くもので、それは今も変わらない。
田之助が、大八に載せられてやって来ると、優斎は、挨拶もそこそこに、その場で早速、診察を始めた。
沢村田之助は、もう全てを受け入れていたのか、落ち着いた表情で、
優斎が診察中、
「真面目そうな先生で、よろしゅうござんした。あたしもこんな事は初めてだから心配で、心配で……」
と、笑顔で語っていた。
やはり女形だから、言葉は女。丁寧な言葉だが、時折、突発的な痛みがあるようで、時々顔を顰める。
色々、優斎なりに診察した後、改めて優斎は田之助に、
「あなたのような、有名な役者さんにこんな事で、お会いするのは残念ですが、私も医者の端くれ、貴方の役者根性に対して、思わせぶりな嘘は言えません。どうか落ち着いてお聞き下さい」
それには横になってる田之助も、
「やはり仲蔵さんが言った通り、まともな方で安心致しました」
と笑い。
「やはり、斬るのですね?」
些か悲しそうに言うが、優斎も躊躇せず、
「はい。残念ながら。この左足はもう生きていません。そしてこのままならそれ程時を置かず、命取りになるでしょう」
と静かに言い、
「今後は、多少なりとも命を長らえるか、このまま死を待つかの二つしかありません。お聞きだとは思いますが、これとて急がないと選択の余地さえ無くなってしまいます。やはり、ここで決めて頂くしかございません」
というと田之助は、やはり既に決めていた様で、
「私は役者。足が無くなっても役者で居たいのです。どうか先生。私にその時を下さいな。何とか、座ってるだけでもセリフは言えますから」
と、なにやら芝居の一幕を見るような心持ちになったお華は、その度胸に感心した。
一緒に居た、当然知っているお吉も、涙ながらに頷いている。
優斎も頷き、
「承知しました。では参ります」
と本人と部屋の人々、そして優斎達で、川辺の船乗り場に向かった。
さすがに付き人は二人だけで、仲蔵と他の人々は見送った。
ところで一緒に行くお華は、この時点で戦々恐々。
大きめな、今で言う屋形船の様な船に乗った途端、あの時の思いが込み上げてきたのか、なんと祐三郎の袖を持って固まっているから、おかよと祐三郎は笑い出してしまう。
ただ、河の下り船だからか、それ程揺れる事も無かったので、お華は直ぐ、自分を取り戻し、おかよと笑顔で話し出している。
優斎は少々呆れながら、それを横目に、
「田之助さんのお付きの方。横浜なんて初めてでしょう」
と言うと「はい」とこちらも女形ばかりだから、しなやかに頷く。
「今は、殆ど外国と言っても良い場所です」
すると祐三郎が、
「アメリカ・イギリスその他、外国人が多いです。あなたたちは驚くでしょう。白塗りなんかしてないのに、素肌が凄く白い女の人や、逆に真っ黒な人もいます。お芝居の参考にはならないでしょうけど、そう言う人も世界には居ると思って見て下さい。それはそれで意味があると思いますから」
これには、皆、いや田之助本人でさえ、驚いている。
「本当かい先生。真っ白な人なんて」
と、寝ながら聞くと、お華が、
「本当ですよ。とりあえず、一生に一度位ぐらい見といた方が良いです。私の知ってるおばさんだって、本当に白かったもん」
「へ~」
彼、いや彼女? も、大きい手術前なのに、そうした話を聞くと、些か心が落ち着いたようだった。
(3)
横浜に着くと、とりあえずお華の馴染み、布の問屋に向かった。
その時の役者達の驚き様は、語るまでもあるまい。
そんな中、祐三郎は一足先にヘボンの病院へと急いだ。
患者もいなかったので、祐三郎はすぐ、ヘボンに会う事ができた。
「ジェームス・カーティス・ヘボン」
ヘボンは医者としてだけで無く、後に「ヘボン式ローマ字」を考案した事でも有名な医者で、更に東京で「明治学院」(明治学院高校・明治学院大学)を創設した事で、日本の教育にも貢献した男である。
彼も、祐三郎の事は既に知っていたので、笑顔で迎えてくれた。
そして祐三郎は、勿論英語で、
「以前、お話ししましたが私の兄も医者をしています。ですが、今回、是非あなたにご協力をと申しております。患者は、江戸の役者で沢村田之助という女役です」
と言うと、ヘボンは大変喜び、
「役者か。私は演劇に大変興味を持っているのだ。しかし、女形というのはどういう事何だい?」
との質問に、祐三郎は、日本では女性の役者が風紀上禁じられている事。
そしてそうは言っても、どうしても女がいないと芝居は難しいから、男であるが女の役を行う役者がいることを説明した。
そして、その女役で田之助は、相当の人気が有る役者である事も付け加えた。
それにはへボンも感心した様で、喜んで承知した。
「それでは、まず、こちらに連れてきなさい」
と、話が纏まって、祐三郎は急いで問屋に向かい、優斎に委細承知と伝え、連れてくる様との言葉も伝えた。
優斎は大変喜び、早速、田之助や回りの者に伝えて、急ぎ、台車をヘボンの病院へと急いだ。
祐三郎と並び、優斎はヘボンと顔を合わせ、
「この度は、無理なお願いを聞いて頂いて、誠にありがとうございます」
と頭を下げ、同時に祐三郎が通訳する。
ヘボンは、その実直そうな日本の医者に好印象を持ち、笑顔で頷くと後ろに並んでいたお華に気が付いて、
「お~お華!」
と、近寄り手を差し伸べた。
お華も、向こうの挨拶の仕方は熟知しているので、握手の後、
「ヘボン先生。先頃は、武士に斬られた方々を救って頂きありがとうございます。今回は少々、変わった男をお願いに参りましたが、この男、江戸では大変な人気の役者でございます。せめて命だけはお助け下さるようお願い申し上げます」
と深く、頭を下げる。
「Ok Ok don't worry」
ヘボンは気にする必要は無い。と祐三郎が代わりに言うと、お華は、
「実はこの優斎は、私の夫なのです。どうか先生の治療の仕方を教えてやって下さい。まだまだ、未熟者なんでね」
と祐三郎もさすがに笑顔で通訳するから、
優斎は「おいおい」と言いながら、まあその通りではあるので、仕方無く同じ様に頭を下げる。
するとヘボンは驚き、
「お華の旦那か? 私も色々聞いたが、こんな女ソルジャーとよく一緒になれるな?」
と言うが、祐三郎は笑いながらそれを通訳すると、優斎は困った顔で、おかよまで一緒になって笑ってしまう。
さて、ヘボンは、患者を中に入れ、祐三郎を介して、いわゆるドイツ式に治療方法と、その後の過ごし方を説明する。
田之助は、大きく頷き、全て任せると承知した。
「命があるなら、足に一本や二本。無くなっても何とか舞台に立って見せます!」 とまるで、見得の様に言う物だから、ヘボンも感心する。
患者にその覚悟があるなら、彼も安心だ。
改めてヘボンが診断すると、優斎の結論「脱疽」の病名判断に同意してくれた。
優斎としては、それだけでも判断が間違っていなかった事に嬉しいと共に、安心した。
そして、切断以外には無い事も同意した。
問題はどこをと言う事である。
これには、ヘボンが決断した膝下。下腿切断が選択された。
そして、田之助は気の強い男で、手術に麻酔を拒絶した様だが、それには優斎が何とか説得した様だ。
これは維新前で、最初のクロロホルム麻酔使用の手術だったらしい。
田之助には悪いが、優斎にとって、この西洋式手術の立ち会いは、彼にとっては勉強以上の経験である。
それはともかくも、まずは左足切断の手術である。
机に並べられた、手術道具を優斎は、興味深そうに眺める。
一つ一つ、ごく簡単に使用方法を祐三郎介在で教授を受ける。
優斎は江戸時代でもあるし、基本、内科で外科の経験は殆ど無いから、熱心に聞いている。
お華はちょっと遠くからそれを眺め、
「一刀両断とは行かないんだね~」
と思ったが、ヘボンに、おかよ以外退出を命じられていたから、控え室の椅子に座って待つ事にした。
切断自体は割と直ぐに終了した様だが、この場合、それより傷の縫合やその後の足の痛みなど、そちらの方が問題だったようだ。
傷跡の縫合や、薬による感染症などに気を付けながら進めていく。
あとは、足の喪失感など、これは今の時代でも同じなので、精神的なケアが非常に大事となる。
優斎は、その後は「義足」を付けると言う話に、
「ヘボン先生。義足というものはどういう物なのでしょう?」
と説明を求める。
ヘボンは丁寧に答えてくれる。
優斎は初めて知ったのだが、実はこの頃既に、日本にもオランダから輸入されて義足はあったらしい。
詳しい事情は不明だが、おそらく同じ様な事なのだろう。
しかし、それはあまり具合の良い物では無かったらしく、その後日本では使われていない。
そしてこの時、田之助に使うというのが実際に使われ始めた、初の様だ。
お華の言う通り「常時この人の右に出る者無し」とまで言われた役者である。 何より、そんな役者だから、痛みで芝居に穴をあける事は我慢出来る事では無かった。
それなら最初から、それで良い様にしなければならない。
義足で済む事ならば、それで良いと思ったのだろう。
結局、ヘボンがアメリカのセルホーフ社製の義足を取り寄せる事になった。
田之助は、翌年春に届いた、この義足を付け舞台に再び立つ事になる。
ちなみに、アメリカから取り寄せた義足の代金は200両と言われる。
現代で換算すると、二千万ぐらいと言う事か。
手術が無事終わり、優斎もお華も安心して、ヘボンと一緒に、控え室でお茶を飲む。
ただ、お茶と言ってもヘボンはアメリカ人。イギリスなら紅茶だからまだ良いが、コーヒーを出され、二人は恐る恐る口を付ける。
優斎は「いいね」と喜んでいるが、お華は、なんじゃこれ? ってな顔をしている。
ヘボンはその様子を見て、笑ってしまい。祐三郎を通じて、この砂糖を少し入れて飲んで見なさいと言われ、ようやく笑顔になる。
お華は、
「おお! 甘い!」
と喜びながら、祐三郎に、
「ヘボン先生。やっぱり二月ぐらいはかかるでしょうかね?」
と聞くと、ヘボンも腕を組み、
「傷の具合と、足の毒が身体に回ってなければ良いんだが、それ次第だな」
それにはお華も頷き、
「申し訳無いけど、よろしくお願いします。私は早く帰らないと」
それにはヘボンが引き留めるが、お華は笑って、
「子供産んだばかりだからさ、早く帰らないと泣いちゃうもん」
と言われ、祐三郎が苦笑しながら伝えると、ヘボンは驚き、
「双子?」
と二人も産んだばかりなのに、ここに居る事に驚いている。
(4)
この田之助の事が一応決着し、お華はまた、育児に追われていた。
毎日乳を与え、洗濯など様々な事に追われている。
芸者時代……とは言っても、引退している訳では無いが、とてもそこまで回らない。
そしてその頃には、経験した事がない事に忙殺されていた。
まあ、おかよ、お秋も居るので、幾分助けにはなっている。
お吉は、英吉を養子にしたが、何分初めて、男の子の赤子を相手にするので、最初は困った様でもあったが、今はそれも慣れ、嬉しそうにやっていた。
さて、その田之助は、ヘボンのお陰で具合も良くなったが、後日、やはり義足を付けるのには幾分苦労したという。
優斎とおかよが代わる代わる、様子を見に行って、ようやく退院することになった。
その知らせを聞き、再び横浜へと向かった。
なんと今回はお吉まで、着いて行く事になった。
横浜に着き、お吉が大喜びの中、お華は、
「田之助さん。もう踊りは難しいでしょう。今後はどうしていく気なの?」
と聞くと、
「ええ。何とか脚本の先生にお願いして、座りながらでも出来る様、役を考えて頂きます」
「そうよね。まあ、何とか命は救われたから、今度は後進を育てなさいよ。それだって、芸人の仕事だもん」
「そりゃもう」
と付き人や駆け付けた中村仲蔵も、和やかに聞いている。
だが、
「でも、まだまだ現役よ。勝負はこれから」
などと言って、廻りを笑わせているが、優斎が、
「くれぐれも、おしろいの事だけは気を遣って下さいね。折角ここまで復活できたんですから。他の皆さんもね」
と、最後の注意を与える。
すると、今度はお華が祐三郎を介し、ヘボンに対し、
「先生。お使いになった手術道具。もし予備の物がございましたらお貸し下さいませんか?」
と言い出すから、通訳の祐三郎は勿論、優斎も慌てて、
「これ! お華。何を言い出すんだ」と怒って言うが、ヘボンは、何やら興味を持った様で、
「それをどうする気だい?」
と聞いて来た。
お華は微笑みながら、
「同じ物を作って、我が国の医者に分け与えたいと思います。もちろんこの三郎の様に、刀の使い方も知らない様なものに渡しても仕方ありません。意志のある医者にはヘボン先生が、直に指南をお願いしたいのです」
祐三郎は多少、眉を寄せるが、言う通り通訳すると、
「なるほど、技術を広めて欲しいと言うのか」
「はい。我が国の医者は、それなりに優れた者もおりますが、全く技術がついて行っておりません」
ヘボンもお華の意見に、取り立てて反対ではないのだが、そこまでやって良いものか判断がつかない。
するとお華はさらに、
「先生もご存じかも知れませんが、包丁やハサミを作る我が国の職人なら、先生が満足出来る様なものが出来上がるかもしれません。これはどこまでも、患者の為なのです。今回の様にいちいち先生にお願いしてたら、先生も大変な事になってしまいますし、遠くの患者は命にも関わります。どうかお願い申し上げます」
と頭を下げる。
ヘボンは更にう~んと考慮しているが、隣の優斎は、実は良い事を言ってくれたと喜んでいる。
要するに「良い事はどしどし真似するべきだ」と、剣の世界でも、上達するにはまずは真似から……。という言葉が浮かんでいた。
ヘボンもそういうことなら承諾せざるを得ないと思ったようだが、
「具体的にはどうするつもりだ?」と聞く。
お華は、さっと腕を上げ、素早く頭から簪を抜いて、端に飾っていた花瓶の一番上にあった持ち上げるための輪っかの真ん中を打ち込む。
突然の事に、ヘボンは驚くが、
「お~、それは、あの時使ったものだね」
と喜び、その華麗な技に感心する。
そしてお華は、
「その簪は我が国本所で、たった一人で作っているものです。あとでご覧下さい。その出来には驚く筈です。この者に限られた者だけに制作を頼み、その使用方法を、ヘボン先生は、その料金、そして使い方の塾で、更に塾代を取れば、損も無く、名前も残ります」
さすがに芸者のお華。経済的な効果、そしてその権利にも敏感であった。
聞いてる優斎・おかよも驚き、ヘボンでさえ感心している。
するとヘボンは笑顔で、
「よかろう。用意するから持って行きなさい」
「ありがとうございます」頭を下げたお華は、祐三郎に、
「あんた。これおあずかりして、本所の寛太のところに持って行って」
祐三郎はそれには驚き、
「私が?」
と言うが、お華は、
「あなたが仲介しないと言葉がわからないでしょう。それにこれは伊達様にも意味がある。寛太にまず見本を作って見なさいって言って。向こうの技術に追いつけるのか追い抜けるのか、あんたも勝負してみなさいってね」
祐三郎は呆れながらも、伊達様、いや仙台の民のためと言われると嫌だとは言えず、渋々承諾する。
優斎とヘボンはその様子を見て笑っている。
(5)
その後数ヶ月が過ぎ、田之助も術後の様子が良好で、贈られて来た米国製義足にも慣れた様で、益々、舞台への復帰に向けて、今で言うリハビリに取り組んでいる。
その頃のお華は、自分の子供達、そして音や英吉に囲まれて、大変ながら楽しく過ごしていた。
傍らで、敏次郎は片手はお華を掴みながらスヤスヤ寝ているのだが、八重はバッチリ起きていて、お華にちょっかい出している。
お華もさすがに、「八重いい加減寝なさいよ」と言うのだが、彼女は何が面白いのか、今度はお華をペチペチ叩いている。
お吉が、
「お華の事が好きでしょうが無いのよ。気が済んだら寝てくれるよ」
と笑っている。
お華も乳は出ているから、最近は貰い乳にまで行かなくて済むようになったが、だからといって楽、と言うわけではなく、庭の物干しには襁褓が隙間無く干されていて、一年前とは別の屋敷になった様である。
そして有る時、その屋敷に、一人の男が駆け込んできた。
斧次郎だった。
「お華さん! お華さん!」
お華は八重を抱きながら、
「あら、斧さん」
とお華は笑顔で答えたが、斧次郎もご多分に漏れず、赤子達に驚き、
「ここは、こんなに赤子がいるんですか?」
などと驚いて言うが、お華とお吉、そして丁度そこに居た優斎もおかしそうに笑った。
お華は、
「さぶちゃんに聞いて無いの? ここは子供の屋敷になっちゃったのよ」
と答えるが、斧次郎も、さぶと聞いて、「あ!」と声を上げ、
「そうそう、お華さん。祐三郎君がヘボン先生を連れて猿若町に行っちまったんですよ!」
それにはお華や優斎も、一瞬思考が止まったが、お華がようやく、
「何? 猿若町? って事は、ヘボン先生、芝居見に行っちゃったの?」
と少々焦った感じで聞くと、斧次郎は、
「私は後から横浜に行って、先生に挨拶しようと思ったら、治療院の女の人が、祐三郎君と田之助さんの芝居を見に行くといって船に……」
これにはお華も立ち上がって舌打ちする。
「あのバカ。今、そんなところ。しかもアメリカ人と一緒に行ったら殺されるでしょうが!」
と怒って言う。
さすがに優斎も眉を寄せている。
お華は続けて、
「あの辺りは、ついこの間、天狗党なんか出たところの近くよ。逃げた者も居るって話なのに、あの子は斬られにでも行ったの?」
そしてお華は、お吉に、
「おかあさん。あそこの芝居って、だいたい何時までやってるの?」
と聞くと、お吉も理解した様で、
「ああ、田之助さんの復活のお芝居だからね。私も子供が居なかったら見に行ってるところだよ~」
と笑い、
「おそらく暮れ六つには終わると思うよ。その芝居の事は私もよく知らないけど、大抵、三幕目の終わりは、屋敷に勤める者達の門限で帰る時間。遅れると大変だからね。そして終わりは、蝋燭を点すギリギリなのが普通よ」
と答えると、ちょうどその時、七つ、申の時刻の鐘が鳴り響いた。
お華は、優斎を見て、
「どうする先生。今なら終わりに間に合いそうだけど……」
と聞くと、優斎は、
「三郎は、自業自得だから仕方無いが、先生に何かがあったら困る。迎えに行くしかないだろう。せめて船に乗せるまでには」
お華もそれには頷いたが、お吉が慌てた顔で、
「ちょっと、ちょっと、二人で行っちゃうの? 私とサキさんだけじゃ四人は無理だよ!」
と文句を言う。
今日は先程、おゆきはお座敷に出掛けたし、ノブとお秋は演奏の為、ある屋敷に呼ばれて行ってしまったし、おかよも下谷・和泉橋通にある医学所へ医者の勉強に行ってる最中だった。
つまり、サキとお華が居ることでギリギリ大丈夫だが、サキだけでは、音や英吉の二人はともかく、八重や敏次郎までは無理な話だと言っている。
さすがにお華も、それには頭を傾げたが、
「よし。仕方が無い。うちの子は、負ぶ紐よ!」
とか言うから、今度は優斎が苦笑いで、
「え~? 赤子負ぶって助けに行くのかい?」
さすがに剣の技は秀でているものの、そんな経験が無いから驚いてしまう。
しかし、お華は、
「両手は使えるから、何とかなるわよ!」
と言うから、それを聞いている斧次郎の方が、おかしくなって笑ってしまう。
「じゃ、あんたも一緒に来なさい!」
お華と優斎は急いで負ぶ紐を持ち出し、お互い子供を負ぶって、屋敷を出た。
今の時代の換算で、岩本町から猿若町まで歩いて一時間弱という距離。
しかし、子供を負ぶっているから、ちょうど追い出しの太鼓、ハネ太鼓が鳴った時にちょうど猿若町の芝居小屋の前に着いた。
さすがに満員だった芝居だったから、追い出しで沢山の人が出てくる。
お華は、そんな大勢の中から、やっと出てきた祐三郎とヘボンを見つけ、大声で、
「こっちよ! こっち」
と呼ぶから、彼も気づいたその時だった。
「どけ! どけ!」
とその人々の後ろから、とても芝居帰りとは思えない連中が、大声を上げて人を押しのけ、ヘボンを見つけると、
「おのれ! 夷人めぇ! たたっ斬ってやる!」
と言いのける。
同時に、刀を抜いたから、帰りの人々は悲鳴を上げ、左右に寄って、道の真ん中にはヘボンとお華達だけになった。
さすがに草履番の男がそれを聞きつけ、小屋中に、
「外国人と斬り合いだぁ!」
と叫び回る。
優斎に言われていた、おしろいを綺麗に洗い直して、一息ついていた田之助の耳にも入り、外国人という事を聞いて、さすがに彼にも嫌な予感がしたのだろう。
彼も慌てて義足を付け、楽屋の者に手伝って貰って外に出た。
お華は、額に手をやり、呆れている。
そして、
「こんなに人が居るところで、人を斬ろうとは呆れた連中だね!」
と怒鳴り、祐三郎に、
「あんた。捕り手を呼んでお出で!」
道沿いにある、自身番に行く事を指示した。
そしてそのまま懐に腕を入れながら、その胡乱な男達に顔を向けた。
さすがにヘボンも、この危機的状況に気づいている。
この男も、懐の拳銃を取り出そうとしているが、さすがに彼はそういうことに慣れていない。
それに気づいた斧次郎は、英語で、
「Let's leave it to OHANA」(お華さんに任せましょう)
と笑顔で囁いた。
しかし、お華の背中では八重がはしゃいで腕を上下に妙に騒いでいた。
もう敵が刀を抜いて迫って来ようとしているのにである。
八重はまだ赤子なのに、何かに妙に喜んでいて動くから、当然、お華も静止出来ず困っていた。
それは後方の斧次郎も分かり、彼も危ない位置にいるにも関わらず笑ってしまう。 お華は仕方無いから、
「八重! 静かに見てなさい!」
と声を上げると、不思議にもピタとおとなしくなってしまうから、横の優斎も、驚いている。
一方の敏次郎は、優斎の背中で、気持ち良さそうに、まだ寝たままだ。
そしてお華が、例の一回転をすると、八重は訳の分からない奇妙な声を上げる。
六本を打ち放ったお華だったが、その内の一人は事前に横の方に逃げた。
おそらく、千住宿での戦いでの生き残りなのだろう。あの時の事を知っていれば、さすがに正面からの攻撃はマズイと思ったのだろう。
お華の簪と共に、優斎も敵中に飛び込み、簪の衝撃で立ち止まった者達の足を次々切り裂いて行く。
風の様な早い動きだからか、敏次郎も眠ったままでやり遂げた。
その時、それを遠目から見ていた田之助は、
自分が役者なのにも関わらず、まるで一つの芝居でも見てるように感動していた。
「さすが、仲蔵さんが言ってた通りで強いね~。美しいねぇ~」
こちらはこちらで訳の分からない言葉を八重が発している。
そして、ヘボンは、
「Dancing Queen!」
とこちらも、妙な感嘆の言葉で、満面笑みとなっている。
道脇の町民達も、芝居帰りに本当の立ち会い、そしてお華の技を見て、
「お~」と声を上げている。
しかし、逃げた男は、今度は芝居小屋前の客待ち用の長椅子を持ち上げ、それを前に盾の様にしてお華向かって突進してきたのだ。
お華の手裏剣は簪の正面攻撃。
これは、とっさにしては正しい考えではある。
左手で盾を支え、右手は刀に手を掛けている。
これには、戻って来た祐三郎と斧次郎も気づき、驚愕の顔だが、
お華は、フンと少々笑みを零し、二本の簪を手にした。
そして指を少し動かし、今度は回らずに、右、左と両手を十字に天へ振り上げた。
その簪は、芝居小屋に並ぶ提灯の光を反射しながら進んでいった。
すると男は、ある地点で足が止まってしまい、持っていた長椅子が、カラカラと下に落ちてしまった。
やはり、男の両頬には簪が見事に刺さっていた。
そして当然、素早く優斎が後ろから両足を斬って捨てた。
祐三郎が思わず、
「went through?!」(通り抜けた?)
と叫んだが、しかしヘボンは首を振り、
「that was bent from the outside」(あれは外から曲げたのだ)
と言うから、祐三郎と斧次郎は驚き、
「あんな事も出来るんだ~」
「無敵だな~」
などと声を上げる。
そして廻りの先程まで芝居の観客だった連中から、大歓声が上がる。
これには、田之助も首を捻りながら苦笑いである。
(6)
全てを倒し、ところの親分達にお縄を頼む。
彼らは、それが彼らの間では有名なお華だと知って、妙に低姿勢で挨拶し、咎人を怪我のまましょぴいて行った。
その一連が終わると、田之助は、皆に支えて貰いながら、ヘボンの所に行き、
「大丈夫ですか先生!」
と言うと、ヘボンは笑いながら、
「大丈夫だ」と言う。
これぐらいは日本語が分かっていた様だから、祐三郎と斧次郎は笑ってしまうが、
その時後ろから、お華の怒鳴り声。
「このサブ! なんで勝手に芝居小屋なんかに来たの! 斬られに来たの!」
と大声で叱られてしまう。
斧次郎は、笑ってしまうが、祐三郎は肩を落とし手を合わせて謝る。
すると優斎も、
「馬鹿者。先生のお気持ちは理解出来るが、一言言ってくれれば、危ない目に遭わなくて済んだのだ。ほれ見ろ、私も子供背負って来てるんだぞ!」
斧次郎は、ヘボンに通訳しながも、更に笑ってしまう。
さすがにヘボンまでも、祐三郎と同じ様に、手を合わせて、
「ソーリーソーリー」と謝るから、さすがに優斎もそれ以上は言えず、その時田之助が、
「お疲れでしょう、皆様、一度私達のところでお休みを」
と微笑みながら言うから、それぞれ礼を言い同意して、また小屋に向かって行った。
そして小屋の来客用座敷に皆、入り、お華は早速、子供達の襁褓などを取り替え始めた。
しかしその最中、
「サブ! 一体何考えてんの? こんな時にヘボン先生を、しかも人が集まる芝居小屋なんかに連れてきたら狙われるに決まってるでしょ」
と、怒りながらも、いつの間にか眠り始めた八重の世話をしている。
祐三郎は、座って下を向いたままだ。
すると斧次郎が、通訳しながら、
「お華さん。先生は短銃を持ってらっしゃるのですよ。おそらくそれを見て何とかなると思ったのでしょう」
しかし、お華は、
「何言ってるの、こんなところで銃なんか撃ったら、また別の大騒ぎよ。先生だってもしかしたら、国外追放になってしまうじゃない!」
それには、さすがに、
「そう、それはそうなんですけどね……」
そこまで聞いて優斎が、
「もう三郎も分かっただろう。許してやれ」
とこっちは逆に、起きてしまった敏次郎に笑いかけながら、お華を止める。
すると、ヘボンが何かを言い出し頭を下げる。
斧次郎が訳し、
「今日はご自分でお決めになったそうです。祐三郎は止めたが、私はどうしても田之助さんの具合と芝居を確認したかったそうです」
そう言われ、どこかで覚えたのだろう、アメリカ人のヘボンに頭を頭を下げられるとお華もそれ以上は何も言えなくなる。
すると田之助が、
「いや~先生がお見えになるなんて知りませんでしたから、驚きました。でも……」とヘボンに向いて、「本当にありがとうございます」とこちらも頭を下げる。
お華も、
「まあ、先生がそう仰るなら仕方が無いけど、サブちゃんは、もっと前に兄上に知らせるとかしなきゃ駄目よ。お陰で、夫婦揃って子供負ぶって立ち会いじゃない、何だか良いんだか悪いんだか」
すると田之助が、
「何言ってるんです。あたしはホント悔しいですよ」
さすがにお華が、
「悔しい? 何が?」
田之助は、
「あたしがこんな身体ですけど、復活公演と銘打ってもらって、あたしもできる限りやりましたよ。ところが芝居が跳ねて、外に出た途端、一人は子供背負って、刀を乱舞させ、嫁も子供を背負って、不思議な技でサムライを次々、倒してしまう。こんなの見せられれば、も~う芝居なんかどこかいっちゃって、皆大喝采。私の拍手より多かったんじゃないかしら」
などと言うから、さすがにお華と優斎は勿論、ヘボンも意味を聞いて笑ってしまう。
すると元気を取り戻した祐三郎が、
「しかし兄上。子供達も落ち着いて居ましたね~。八重なんかお華さんが簪打つ度に声を上げてましたよ」
それには優斎も、
「それじゃ」
と寝ている八重に目を向けながら、困った顔で、
「どうも、お華に似てくる様だ。腕上げて喜んでいたよ。して終わった途端、寝てしまう。嫌な予感がするよ」
それにはお華も溜息をつく。
すると祐三郎は、
「敏次郎は、ずうっと寝てて、終わった途端、起き始めるから何だか性格が正反対で面白いよ」
それらを釜次郎から聞いたヘボンが、
「いや、今日はこの国が本当に分かった気がする。とても良かったよ」
と言うのだが、お華は、どう分かったのだろう? と心配になってしまう。
(7)
お華は一つ気が付いた。
「サブちゃん! 先生からお貸し頂いたお道具の件、どうなったの? あれから全然知らせてくんないけどさ~」
それには祐三郎が笑い、
「勿論お願いして、先日寛太さんと横浜の先生の所に参りましたよ」
ヘボンは斧次郎に聞いて、笑顔で大きく頷き、祐三郎に、
「あれは、本当に素晴らしい物だった。むしろ見本の道具はそのままで、私がそれを使いたくなりましたよ。さすがあの簪を作るだけはある」
などと斧次郎に言わせるから、お華と優斎はそれを聞いて本当に心から笑顔になった。
お華は、
「そうよ。良い物はどこの国でも良いのよ。この国の職人も、腕だけはアメリカにも負けてないと思う」
優斎も敏次郎の頭を撫でながら、
「他の事はともかく、この様な物は是非広まって欲しい」
そして祐三郎に、
「どうだ、伊達家の評判は?」
それには頭を下げ、
「我が家の医者も驚愕しておりました。そもそも見本を見た段階でです。その医者の話では、ああした外科道具は、結構古くからあったそうなんですけど、門外持ち出し禁止になってまして、ある流派しか使えなかった様で本当に喜びまして、早速ヘボン先生のお弟子に、と私が頼まれましたよ」
と笑う。
ちなみに、漢方・眼科の土生玄碩はシーボルトから教授された眼科の教えなどを門外不出とし、また、世界初の全身麻酔使用で有名な華岡青洲など、その通仙散の製造法を家族・友人にも教えてはならぬと、門人に血判まで提出させている。
こうした事は当時、専門家、特に医療においては、門人以外には伝えなかった為、我が国全体の医療レベルは、江戸時代通じて低迷してしまっていた。
「まったく何をしてるんだか」
とお華は呆れた顔で言うが、優斎は、
「仕方無いよ。あの頃はそう言う時代だったからね」
「じゃ、これからは変わって行くね」
「そうなんだけど、さあ、どうなるのかな少し心配だが……」
そんな話をした後、お華達はヘボンを船乗り場まで送り、帰って行った。
歩きながら、背中の二人は、気持ち良さそうに眠っている。
お華は、優斎に、
「敏は、斬り合いでも寝てたよ、この子は度胸があるのか、何も感じないのかどっちだろうね。我関せずで寝てたのなら、将来楽しみだね」
と言うのだが、優斎はむしろ機嫌悪そうに、
「心配なのは、八重だよ。もうあんたの背中で簪打つ度大喜びだ。両手挙げてな。ありゃ、絶対、あなたと同類だ。これからが心配だよ」
それにはお華も笑ってしまうが、
「そうね~。ねえ、お父さん。この子に簪教えない方がいいかしら」
今度は優斎が笑い、
「無理だよ。兄上なら絶対教えるなって言うと思うけど、あの調子じゃ、黙ってても寛太さんのところ行って、子供用の作れとか頼んじゃうんじゃないかな」
それにはお華も吹き出し、
「そうか~まあ、昔なら別に止めはしないんだけどね」
「とにかく貴方と同じ様に、亡くなったお父上様が仰った、まずは自分と、大切な者のために。というのをまずしっかり教えてからだな。これが分からないと、次から次へと、気の毒な相手が私のところに運ばれてきてしまう。さすがに娘だから金は取れないし、お父上と同じ事に頭を抱える事になってしまう」
お華もそれには大笑いして、
「そうね。慌てずに考えますよ」
そんな話をしながら、二人と二人は、笑顔で屋敷に帰っていった。
※※※つづく※※※
今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。
今回は江戸で幕末、有名な澤村田之助の話でした。
ヘボンは、かなり日本で、数々の功績を残しました。
田之助の話も本当の話。
もっとも、お華は優斎は別ですが(笑)
襲撃の話は創作です。
ですが、これと似た話は、結構ありまして、数多くの殺害事件が起こっています。 やはり、油断もあったのでしょう。
しかし捕まった者は、打ち首、獄門と、当然のように処刑されています。
れっきとしたサムライなら、切腹・獄門。もし既に死んでいても鈴ガ森あたりで磔となります。
結局、日本を夷人に犯されるとか言うよりも、恐れが根底にあったのでしょう。 そりゃ、江戸以前から我が国には、厳然とした歴史があったとしても、その実力は天と地の差。
ましてや、身体のつくりも違うから、特にそう思ったのかも知れません。
これら、外国人襲撃について、英国のアーネスト・サトウは、
「修好通商条約は、国家を制御出来ない者と結んだということだ」
と1866年に著した「英国国策論」で述べています。
お華は特別、外国贔屓でもないのですが、まあ、恐れという感情を母のお腹に忘れてきたのか、芸者としてのプライドから、どこの国であろうが、どういう人種だろうが、構わず正義を貫いています。
江戸の人達の中、一番、現代人に近い女なのかも知れません。
今回もありがとうございました。
次回もよろしくお願い申し上げます。




