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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
40/65

㊵華気厳禁

(1)


「秋ちゃん? 昨日、津軽様に行ったの?」

 と、朝食時お秋に聞くと、彼女も明るく頷いて、

「はい。ノブさんと一緒に伺いました」

 と言う。

「どう? 特に困った事は無い?」

「いえいえ特には」

 するとお華は、

「以前の働きより、お代も少しで悪いね」

 と言うと、お秋は、大きく手と首を振り、

「とんでもないですよ。確かに前は一度に百両近く頂きましたけど、実際はご祝儀やら何やらで、手元に残るのは僅かなものです。それに比べれば、ただ頂くだけですし、ここに帰って来れば良いだけですから、本当に有り難いです」

 一緒のおかよも同じであるから、そうそうと頷き。

「そうだよね。笛吹くだけでいいし、それに喜んで下さりさえ頂き下されば、これ以上の事は無いよね?」

「はい。姉さんの言う通りですよ」

 しかしお秋は、「でも」とお華に顔を向け、

「ノブさんの奥様妊娠中なのに、連れ出して構わないんでしょうか」

 と聞く。

 彼女は吉原出身といっても、さすがに、そういった事は慣れていないので心配なのだろう。

 どうやら、ノブ夫婦には子が出来たらしい。

 しかしお華は笑って、

「いくら三味の名手でも、そういう事には何の役にも立たないんだから、サキさんも金稼いで切れた方が、よっぽどありがたいと思っているわよ」

 とこれにはさすがに、おゆきまで笑ってしまっている。

 そして、隣で飯を食っているノブは困った顔で頭を掻いている。

 お華は、

「まあ、ここには医者もいるし、女の子達もいるからよっぽど安心だと思うよ。元気な子を産んでくれると良いね。ノブさん」

 と笑顔で言ったが、それとは別にノブは何故か心配そうな顔だ。

 するとお華は、

「私達じゃ心配なの?」

 と少々、怒り気味で言うが、ノブは、

「いえ、それはとてもありがたいと思っているんですけど、ただ……」

 その意味にはお華も直ぐ気が付いた。

「やっぱりその事、気になるか……」

 と頷いた。

 それにはお秋が、

「どういうことなんですか?」

 と聞くのだが、ノブは答えない。と言うか答え辛い様だった。

 おかよも言い辛そうだ。

 すると、仕方無くお華が、

「問題は、目の事よ」

 お華は診療所でノブ夫婦がそれについて、優斎に相談していた事を知っていた。 さすがにこの事については、お華では何とも出来ない。

 隣の優斎も頷き、

「残念な事ですが、嘘を言っても仕方ありません。実はその可能性は無いとは言えません。この事を調べた方がいまして、そのお話によると三分の一は、親と同じになる可能性があるそうです」

 と神妙な顔で話す。

 勿論、遺伝の可能性についてはこの頃の事である。科学的な判断ではない。

 そもそもノブ自身の原因が分からないから、実際には、千差万別だと思われる。

「三分の一……」

 お華はその話を最初に聞いた時、彼女も知らない悩みがある事を知って驚いたものだ。

 今、その場の女達も、話が深刻な事もあって言葉を無くしていた。

 しかし、お華は、

「人の生まれ方は目だけで無く、本当に人それぞれ。たとえどっちになっても、ここに居れば、何も心配はいらない。必ずしもそうなるとは限らないしね。どっちにしても第二のノブさんを育てりゃいいのよ。私達はそれを見守るだけ。ね、みんな」

「はい」

 と、おゆき達は大きく頷いた。

 ノブは深く、深く頭を下げている。

 するとお華は、お秋に、

「あんた、これから津軽様行った後はノブさん連れて、回向院に行って無事に生まれるようにお祈りして来なさい」

 秋は「え?」と言いながら、「はい分かりました」と言うのだが、

 おゆきが、

「でも姉さん。あそこは鼠小僧の墓があるとこですよ~」

 と言うのだが、お華は笑って、

「だから良いのよ。あの人は一人で三千両も盗んだ人だからね。悪党だったけど才能だけはあった人。どうか道を外さぬ上に、才能だけをお与え下さい。てね。そしてあそこはあんたの両親や、数々の事故や災害で亡くなった人達を祀ってるところだから、せめてこの子だけは、どうか無事にって言ってね」

 それには、おゆきも大きく頷いた。

「そうか、そういう考え方もあるんですね」

 お華は頷き、

「そう。あんたの両親も、少しは助けてくれるわよ。あんたが世話になってる人達の事なんだから。この際、なんでも使っちゃうんだよ」

 これにはノブも含め、みんな大笑いだ。

 が、そんな大笑いの一時の事だった。大玄関先から、今まで聞き慣れない音が聞こえた。


(2)


 お秋が慌てて廊下に出て、やって来た物を見た途端、後ろに仰け反った。

 そして、

「ヒヒ~ン」と泣き声を聞き、みんな、そして目が見えぬノブでも気づく。

 馬が一頭、屋敷の庭に入って来たのだ。

 しかも、乗っていたのは祐三郎だ。

 さすがに優斎でさえ、眉を頂点に上げ、

「なんだ?」

 と驚いている。

 当然、お華も、

「何してんの、あんた!」

 と声を上げる。

 優斎は、サッと飛び降り、手綱を(にわ)(ひさし)の柱に括り付けた。

 そして祐三郎が、些か必死な顔で叫ぶ。

「すいません、お華さん。助けて欲しいんです!」

 などと言うから、お華は大きく首を傾げ、

「馬に乗ってきて助けて下さいって、どういう事? 大体、あんたが馬に乗れた事自体、初めて見たわよ!」

 優斎は、お華の横から、

「あいつは仙台で、馬術をやっていたらしいですよ」と言って、

「おい、三郎。一体何があったんだ。キチッと説明しろ」

 と聞く。

 祐三郎は、これまでの経緯を二人に伝えた。

 どうやら横浜に住む、イギリスの外国人四人が、馬で外出しているらしい。

 そして、その中で一人は「マーガレット」と言う女性らしい。

 しかし、横浜に薩摩の行列が東海道を通過しつつあるという事を、横浜に来ていた祐三郎と立石斧次郎がそれを聞き危険を感じた。

 一般的に、大名行列に庶民が邪魔などすれば、殺されてもおかしくない。

 しかも、相手はイギリス人達である。

 そのような、日本の常識が通じる訳もなく、理解出来まい。

 更に世間は、攘夷と言うことで、歓迎されている人達では無い。

 とは言え、祐三郎もまさか、公式の大名行列でイギリス人だからと言って、簡単に斬るまい、と思ったが、釜三郎は首を大きく振り、

「あんな田舎者に、世界の常識など分かる訳無い!」

 と言われ、頷かざるをえない。

 しかし、冷静に最悪の事態の推移を考えれば祐三郎も背筋が凍る。

 下手すれば、戦争だからだ。

 祐三郎も以前、勝海舟から江戸が戦場になればどういう事になるかは、さんざん聞かされたので、脳裏にその悲惨な状況が想像出来る。

 しかもイギリスは、実際に中国・清で香港を占領しているのだ。

「とにかく私は横浜で馬を借り、最悪な事にならぬよう兄上かお華さんにお願いしようと思いまして……」

 黙って聞いていたお華は、割と落ち着いた声で、

「女もいるのなら私が行くよ。ねえ先生」

「そうだな。私が行くより、貴方が行った方が、決着が早いだろう」

 優斎は、剣で立ち向かうより、お華の簪の方が、さすがの薩摩でも怖じ気づくのでは? また、簪の特性を思う時、一番良いと考えた様だ。

 すると、お華はおゆきに、

「私の羽織持って来て、それと、棚の上の新しい簪も一緒に」

 おゆきは直ぐ、部屋に吊ってある羽織に向かう。

 するとお華は、

「ねえ先生。事が事だから、悪いけどこの話、八丁堀に伝えてくれない。兄上がいれば良いけど、居なければ新之助にでも伝言頼んで欲しいの」

 それには優斎も承知し、大きく頷いた。

 おゆきが、羽織と予備の簪を持って来ると、お華はフワッとそれを文字通り羽織、帯に簪の束を突っ込むと、

「いくよ! さぶちゃん!」

 と叫ぶ。

 しかし、手綱を外した祐三郎が、馬を落ち着かせようとしているのに、そのつぶらな瞳の馬は、祐三郎の言う事を聞かない。

 すると、お華が寄っていき、どうどうと言いながら、ポンポンと首を軽く叩くとピタリ止まった。

 それには祐三郎が驚いている。

 だが優斎が笑って、

「馬は、人を見るって言うからな」

 などと言うものだから皆笑ってしまい、祐三郎は、

「なんでだよ!」

 と、つい言ってしまう。

 ようやく祐三郎が馬に乗り、優斎が手伝ってお華を載せると、

「あとはよろしく」

 の言葉を残し、馬は再び屋敷を出て行った。

 そして優斎は、

「おかよさん。しばらくの間、診療所をよろしく。なに、それ程の時はかから無いと思う。それと、お秋さん。丁度いいから一緒に行きましょう。これから何かとお願いするかも知れませんからね」

 お秋が頷いて、その後、一緒に大門を出て行った。

 もうお分かりだろう。

 これが文久二年八月に起きた「生麦事件」の始まりである。


(3)


 妙な姉弟は、東海道をひた走る。

 大名行列だから、東海道をただ突き進めば良い。

 まずはその行列を捕捉するのが先決。

 馬上、お華は大声で、

「伊達様も、誰か横切ったら斬っちゃうの?」

 と揺られながら言うが、祐三郎は後ろに振り向きながら、

「そんな事しませんよ。せいぜい叱りつけ、鞭で叩く位のもんです。でないと、訴えなんかあったら、大騒ぎになりますから」

「そうだよね」

 とお華は頷く。

 そして、祐三郎は、

「せめて、街道に出てないと良いんですけどねぇ」

 お華は黙って頷く。

 馬は、ひたすら街道を壮快に走る。

 八月の熱い時でもあるから、お華にとって気分は悪くない。

 しかし、横浜辺りを過ぎ川崎を過ぎた半時ほどの頃、お華の気分は、最悪に変わる。


 さてその頃、優斎とお秋は、八丁堀、浩太郎の屋敷に飛び込んでいた。

 話を聞いたおさよも衝撃は受けたものの、浩太郎は今、奉行所である。

 そうなると、嫡子、新之助しかいない。

 おさよと一緒に話を聞いた彼も、

「おばちゃんが~?」である。

 新之助はおさよに命じられ、八丁堀に行こうとしたその時、優斎が、

「新之助さん。申し訳無いが、これは恐らく奉行所ではどうにもならない。それよりも、お城の上の方々にお知らせしなければならないでしょう。浩太郎さんもそこまでお分かりだと思いますが、何とか大奥にお知らせをお願いしたいとお伝え下さい」

「大奥ですか?」と疑問の新之助だが、おさよが、

「ああ、大御台様は薩摩のお方。そちらにもと言う事ですね?」

 優斎は深く頷き、

「はいそうです。そして、なるべくお華さんの名前が出ない様にと、お伝えして頂くとありがたいのです。でないと、こちらや岩本町の屋敷にも、障りがあるかも知れませんから」

 そこまで聞くと、新之助は頷き立ち上がると、また、おさよが、

「お華ちゃんの屋敷に戻って来なさい。私達もあっちに向かうから」

「はい!」と言って、新之助は飛び出した。

 それを見送って、おさよは、お秋に、

「貴方まで迷惑かけてごめんなさいね」

 と言うのだが、お秋は大きく首を振って、

「とんでもございません。御役に立てたならありがたい事です」

 と深く頭を下げる。

 そして、おさよは、

「でも、先生。なんでこんな事になったの?」

 と聞くと、優斎は大笑いして、

「三郎が悪いんですよ。お華さん助けて下さい! とか言って、馬で飛び込んでくるもんだから。そう言われるとあの人は弱いですから」

 それには、おさよと娘のお春は笑ってしまう。

「じゃ、七重と一緒に行こうか」

 と、おきみに留守番を頼んで、仕度を始めた。


 さて一方、道の先に大名行列のうっすらとした影が見え、近づくほど、祐三郎は、

「あっ」と大声を上げる。

 この辺は、武蔵野国橘樹郡生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)である。

 お華は祐三郎の叫びを聞き、横から祐三郎越しに前を見ると、既に行列が乱れ、さらに前で、刀を振り上げる男達も見えた。

 お華はとっさに、

「さぶちゃん! 急いで!」と叫ぶ。

 頷いた祐三郎は、鞭を入れ、まさに飛ぶように馬が走った。

 お華が横から覗くと、ちょうど、倒れた何者かに、一人の侍がトドメの刀を入れようとした時であった。

 既に、お華は簪を一本、手にしている。

 そして祐三郎の後ろから、不安定の中、大きく投げ打った。

 その簪は、馬の速さで倍加されもの凄いスピードで、振り下ろそうとする男の鼻に横から正確に飛び込んだ。

 祐三郎は思った(流鏑馬か?)と。

 些か笑ってしまう。

 しかし、相手はそれどころでは無い。いきなりの自分への衝撃に、男も「ギャー」と声を上げる。

 そして鼻が吹き飛ばされる勢い簪の衝撃で、刀を後ろに投げ捨て倒れてしまう。

 その叫び声を聞いた行列の男達は一斉に振り向く。

 馬はその場に到着すると、お華はひらりと飛び降り、怪我で横になっている男二人と、後ろで恐怖の顔で怯えている女の前に立った。

 女は、祐三郎が言っていた、ブロンドの髪の毛。マーガレットの様だ。

 祐三郎も急いで馬を止め、その辺の枝か何かに手綱を縛り付けていると、

 お華は、女性の前に立ちはだかり、大きな声で、

「大丈夫! 私が守ってあげる!」

 と大声で言うのだが、彼女は当然日本語は分からない。

 むしろ突然女の登場で、余計におびえが頂点に達した様だが、どうも身体が動かない。どうも腰を抜かしているのだろう。

 しかし、後ろから祐三郎が、英語で、

(All right Will protect!)大丈夫、守りますよ!

 と言ってあげると、些か安心した様だ。

 しかし相手は大勢、そしてこちらは突然の日本の何だか分からない女だ。

 彼女としては、再び不安に陥るのは当然である。

 お華は前から、祐三郎に、

「女の人は大丈夫ね。そこの人達はまだ、息がある?」

 と聞く。

 祐三郎は頷き、そのものの生死を確かめ、

「向こうの人は恐らく……。この人達も重症です、速く医者に診せないと」

 頷くお華。

 しかしお華は、些か笑いながら、刀を振り上げ集まって来た男達に、

「たかだか行列を邪魔されたからって、外国人に刀を振り上げ、あまつさえ女まで殺そうとするとは、武士の風上にもおけないねえ。私が来たからにゃ、覚悟しな!!」

 と高々と怒声を放つ。

 お華は相当怒っている様だ。

 女まで殺そうとしている武士などに遠慮はしない。

 その時だった、後ろの方から釜次郎が先導した、英国兵士達が十人ばかり現れた。

 その上、スーツ姿のイギリス人も一人、一緒に着いてきた。

 この男は、イギリスの外交官・サー・アーネスト・メイソン・サトウという。

 彼はこの後、1900年(明治33年)まで日本で外交官を勤める男だ。

 同時に、英国初の日本語の通訳者でもある。

 彼はこの光景を見て驚愕した。

 それは兵士達も当然同じで、女がただ一人、立ちはだかっているのだ。 

 さすがに驚かない訳は無い。

 それに気が付いたお華は、後ろの釜次郎に向かって、

「しばらくそこで待ってな。絶対に銃を向けてはいけません。ただ、そこの傷が深い人達だけでも早く医者に!」

 この言葉に頷いた釜次郎は、勿論サトウも了解して、隊長らしき英国人に、その怪我人らの搬出をお願いした。

「さぶちゃんは刀を抜いて、命を張って女の人を守るのよ! 背筋を伸ばして、伊達の侍としてね!」

 と言いながら、目は連中に、両手には既に、計六本の簪を手にしている。

 祐三郎は苦笑して、

「わたしゃ新之助君と一緒か?」

 とガッカリしているが、状況はそうも言っていられない。


 行列の、いわゆる行列奉行らしき男が、

「ないをしちょ! 早くそん者達を斬ってしめぇ!」

 などと大声で叫ぶ。

 その者は「大久保」と言う名だと言う事が後で分かった。

 そうこの頃は、まだ一奉行に過ぎない大久保利通である。

 すると、薩摩の兵一段が、

「チェ~!」と叫びながら、突進してくる。

 この時、祐三郎は既に英国兵まで居るのに本気かあ? と思ったが、それと同時にお華がいるのだ。むしろ自殺行為だと逆に、面白くなってしまう。

 当然、怒りの頂点に達していたお華は、いつもの様に一回転。

 真夏の光を反射させつつ、簪が六本、発射される。

 六人。祐三郎の想像通り、鼻っ柱を簪で貫かれ、血を辺りに振り撒き地べたに倒れてしまう。

「やっぱりね」

 と祐三郎は、振り返ってマーガレットに笑いかける。

 彼女には、余りに不思議な光景で更に固まってしまう。

 そして後ろで、これを見た途端、英国のアーネスト・サトウは、斧次郎に、

(That woman is called hana?)

「あの女性は、もしかしたら華という女か?」

と、興奮気味に聞く。

 釜次郎は「おう、いえす!」と満足顔である。 

 サトウは、なるほどと言う顔で、負傷者の運搬を指示しながら、微かに笑みを浮かべる。

 しかし薩摩の連中は、思わぬ華麗なやられぷりに、冷静な思考は吹っ飛び、ただ「無礼者!」と怒りを露わに、同じ攻撃を繰り返す。

 事前のお華の判断が功を奏し、まだまだ簪は残っている。

 そしてとうとう、余りの不甲斐なさに、駕籠から男が一人降りてきた。

 そう、当主、島津久光である。

 そして、大声で、

「あげな女! 一斉にかからんか!」

 と怒鳴る。

 しかし、それはお華の思惑通りである。

 再び、十人程度であろうか、猿叫を上げながら「蜻蛉(とんぼ)」の構えのまま、示現流の構えで走ってくる。

 今度はお華は回らない。その分、向こうから飛び込んでくるからだ。

 そして、お華は、計十本、地を這うような簪を腕を交差させ、打つ。

 当然、簪は見事にそれらの足、膝の半月板・靱帯などを無残に破壊し、男達はまたもや地に這う事になる。

 続けて襲ってくるが、皆、同様の有様。

 すると、そこで祐三郎から声が飛ぶ。

「左右から!」

 しかしお華は、既にそれには気付いていた。

 お華は振り上げていた、腕を左右に、つまりクロスに交差させて簪を飛ばした。

 左右から打ち込もうとした男二人は、頬に簪を喰らい、お華が再び簪を取り出し、同じ様に一人ずつ、同じく膝関節を破壊した。

 まさに快刀乱麻の活躍である。

 この一連の攻撃を見ていたアーネスト・サトウは、思わず、

「ダンシングクイーン!」と声を上げ、隣の者に、

「銃では、あれだけの事は出来ないぞ!」

 とその素早さに仰天していた。

 彼は、先にイギリス公使が襲われた事件を聞いていたのだろう。

 その時、公使が彼女を称賛した言葉が、繋がったと思われる。

 更にお華の攻撃は続き、とうとう大久保も餌食となる。

 薩摩勢、総崩れだった。

 お華の怒りの炎はまだ収まっていない。

 また簪一本を取り出す。

「女に対しての無体。これがお返しよ! 思い知りなさい!」

 と言いながら、今度はまた、華麗に踊りの様に回転し、島津久光に向かって打ち放った。

 それには、当然、祐三郎と釜次郎は目を大きく開け、驚いた。

 一藩の当主である。

「それは止めて!」と言う暇も無い。

 それは、見事に髷を打ち抜き、大名髷は爆発した。

 彼はあまりの衝撃に、大きく口を開け、頭を抑える。

 こうなると家臣達は仕返しするどころでは無く、久光を五、六人で囲み、駕籠に乗せる。

 大久保は、既に鼻を撃たれておるから、手拭いで顔の傷を押さえつつ悲惨な顔で、

「か、駕籠を進めよ!」

 と半狂乱の声で指図する。

 お供の者達は、足を引き摺りながら、そして鮮血を散乱させながら、我先にと、去って行った。

 お華は、座り込み夢でも見ている様なお華の攻撃に、言葉を失っていたマーガレットの前に行き、片膝を着いて優しい声で、

「もう、大丈夫よ」と笑う。

 それだけは、通訳はいらなかった様だ。


(4)


 その頃、浩太郎は江戸城七つ口の前に立っていた。

 承知はしたものの、さすがに大奥に踏み込むのは、気が引ける。

だが、丁度、門前の番人の一人が、伊賀の顔見知りだったので、事情を説明し、鍵番の女中の前に連れて行ってくれた。

 浩太郎は、一度、地べたに平伏し、

「誠に申し訳ありません。私、北町奉行所同心・桜田浩太郎にございます。突然にて誠に申し訳ございませんが、お年寄・瀧山様に、大至急、直接お伝えしなければならない事が発生致しました。場所はもちろんこちらで構いません、どうかお取り次ぎをお願い申し上げます」

 その女中は、大奥に一人でやって来た奉行所姿の男に驚いていた。

 ここに取り調べの為来たと言う訳では無さそうなので、それ程の心配はしなかったが、迂闊にお知らせする訳にもいかない。

 なにしろ、大奥筆頭の瀧山に対してである。

 女は、

「残念ながら……」

 と言おうとしたが、浩太郎もそれは察していて、

「私は、お華の兄にございます。ですから、ご内密に一言……」

 頭を下げると、この女中もお華の事は知っていた様で、表情が変わり、

「お華さんの? あの芸者の?」

 とつい気安く言ってしまう。しかし浩太郎は、

「は、その通りにございます」

 そうなると話が変わる。女中は慌てて立ち上がり、

「少々お待ちを」

 と長局向に、駆け去って言った。

 浩太郎は額の汗を拭っている。

 彼にとっては、どこよりも緊張する場であった。

 さて、その瀧山。丁度、長局で彼女付きの中臈などに囲まれ、寛いでいたが、何と、お華の兄が至急お知らせが。などと声が掛かった事から、

「お華の兄?」

 彼女には少々嫌な予感がしたのだろう、自ら小走りで、玄関先に向かって行った。

 彼女は、まだそこで座って待っていた侍を見つけ、

「桜田殿とはその方か?」

 と声をかける。

「はっ」と頭を下げると、瀧山は、直ぐそばにある、七つ口の品物取り調べ所といった所に呼び寄せ、話を聞く。

 浩太郎は優斎の言葉そのままに伝える。

 その時の瀧山の衝撃は如何ほどのものだったろう。

「さ、薩摩が?」

 彼女が驚愕するのも無理は無い。何しろ、同時に天璋院にもかかわる事であったからだ。

 浩太郎は、

「今お話しした後の事は、今の時点ではまだ何も分かっておりませんが、お華は、どうか詳細が分かっても驚きませぬ様にと言う事と存じます。この事、表にも、もう間もなく知らせが入るでしょうし、当北町お奉行もお伝えすると思われますが、まずは何より先に、天璋院様にお知らせの方をお願いしたいとの事です」

 瀧山は、頭を傾げ、

「なるほど状況は承知したが、何故、お華がその事で現地に向かって行ったのじゃ?」

 浩太郎も些か笑顔で、

「どうも、その外国人の中に女も含まれている様で、それだけは助ける為だと存じます。あの子は、そう言った事には煩い者で」

 と頭を掻く。

 それには瀧山も吊られて笑ってしまう。

 そして、瀧山は、

「で、そなた。この事どうなると思う?」

 それには浩太郎は平伏し、

「恐れ入りますが、これからは単なる奉行所同心の独り言だとお思い下さい」

 その言葉には瀧山も頷く。あまりに出過ぎた事ではあるからだ。

「もし、外国人に死傷などが出た場合。そしてそれを認めない場合。恐らく戦になりまする」

「戦!」

瀧山は驚き、浩太郎は冷静に、

「はい。それがいくら我が国の常識とは言っても、それが全て外国に通じる訳がございません。死人が出れば尚更にございます。どうかこの事、天璋院様に」

 と頭を下げ、

「後、お華が帰って来ましたら、使いの者が続報をお伝え致します。どうかよろしくお願い申し上げます」

 と頭を深々と下げた。


 さて、そのお華。

 薩摩の連中が逃げ去った後、英国の兵士達と一緒に横浜に行った。

 重傷の者は今で言う担架で運ばれており、女性も一応運ばれている。

 ここまで携われば、その結果も知らなければならないと感じたのだろう。

 英国の兵士達は、前を歩いているお華を眺めて、どう思っていたのか。

 そんな中、サトウが、早速お華の横に行く。

 お華が顔を向けると、

「貴方は東善寺の時に、公使を助けてくれた人ですよね?」

 と、聞かれるから驚いた。

 その内容より、その日本語である。

 お華は声を上げ、

「貴方、ここの言葉が分かるの?」である。

 すると横の釜次郎が、些か笑顔で、

「この人は、イギリスの外交官のサトウさんです。サトウとと言っても佐藤の様な日本の名前ではありませんよ。この人は言葉の名手で、ここに来て僅か数日で、我が国の言葉を話す様になりました」

 お華は、頷いて、

「そっか~。まあ、英語喋れるあんたやサブちゃんもいるから、反対が居てもおかしくはないか……。でも、何か妙な感じね」

 と笑っている。

「あなた、あの公使様、知っているの?」

 と聞くとサトウは、

「はい。その時の貴方の活躍をお聞きし、驚きました」

 あははとお華は恥ずかしがっている。

 しかしお華は、

「言葉が分かるなら丁度良いわ。ねえ、サトウさん? これどうなると思う? お国では問題になるかな?」

 それにはサトウも、首を捻り、

「私もイギリス人に、行列には気を付けろと言っていたのですが……。まず、ご遺族の抗議が始まるでしょう。それに公使は頭を痛めることと思います。薩摩が謝罪して、ご遺族に補償してくれれば良いのですが……」

 それにはお華も、大きく頷き、

「そうだよね~。でも我が国で一番、難しい連中だからな~」

 と言いながら歩き続ける。


(5)


 この頃には、江戸城にも事件の詳細が報告されていた。

 特別に老中部屋で、時間も遅いので居残りの老中の面々、北、南の両奉行、そして外国奉行などが集まっていた。

「薩摩が……」

 と軍艦操練所頭取の勝が、頭を抱える。

 ただこの時、お華が助けに行ったまでは、まだ報告されていない。

 南町奉行所。この頃の奉行は小栗上野介であるが、北から既に報告を受けているから、

「何でも、お華が助けに行ったらしいぞ、勝さん」

 それには勝も驚き、

「え? お華が?」

 というやり取りはともかく、他では余りの事に、老中以下混乱していた。


 そんな江戸の混乱をよそに、横浜のお華は、前にも言った事のある織物問屋に行き、

 知り合いの外国人の女将と再会し、もうハグなんかしている。

 祐三郎は、横でそれを見て微笑む。

 しかし、さすがにこの様な事件の後だから、神奈川奉行所の同心などが次々に現れる。

 この事件の最大の原因は、奉行所が薩摩の通行を把握していなかった事にある。

 薩摩は往路では、勅使と同行しており、これは横浜にも通知されていたが、帰りは薩摩だけだったので、ついそれを怠ったと言う。

 お華はその言い草にも怒り心頭だ。

「何、言ってんの! そのお陰で一人死んでんのよ。重傷の方が、せめて命が助かるよう、神様、仏様にお祈りでもして来なさい!」

 そう言い放ったお華だが、

(これは、大問題になるわね……)と確信していた。

 そんな中、お華が休んでいる問屋の部屋の隅から、お華の耳に衝撃的な音が聞こえて来た。

 何やら分からないが、問屋の女将が曲を流し始めたのだ。

 オルゴールなどとは違う、もっと様々な音も聞こえてくる。

「これは、何。釜さん。オルゴールじゃないよね」

 しかも人の歌まで聞こえるから、その驚きは想像を超えるどころでは無い。

 釜次郎は微笑み、お華をその音がする場所へ誘った。

「これはアメリカで発明された、蓄音機と言います。英語ではレコードプレイヤーです。これはオルゴールの様に、一つの音だけの曲を流すと言う物ではなく、お聞きのように、弦、笛、太鼓、そして歌まで様々な音を一遍に、このレコードと言う板に刻みつけ、何時でも、どこでも、演奏者がいなくても聞く事が出来ると言う物です」


 現代の皆様も、あの発明王「トーマス・エジソン」でご存じの方も多いだろう。 ただ、発明と言う点では、フランス人、エドゥアールが音を録音する技術を先に発明しているから、まるまるエジソンが……とは言え無いが、その後の改良や、再生技術などの発明で、レコードプレイヤーが完成した。

 ただこの頃アメリカでは南北戦争中だから、アメリカ自体でも正式な販売とはなっていないが、横浜はさすがに戦争の影響はないので、船に載せてしまえば割と容易に手に入ったようだ。


 この蓄音機には、お華も仰天した。

 確かに、オルゴールの様な単純な音ではない。

 あれはあれで、現代でも通用する物であるが、この蓄音機は全くそれを超えていた。

 すると祐三郎が女将に、

「この曲はどなたの?」と英語で聞くと、彼女は、

「モーツアルトの葬送曲・レクイエムよ」と答える。

「姉さん。この曲は、オーストリアと言う国の作曲家、モーツアルトという人の、葬送曲だそうです。今日は亡くなった方もいらっしゃるので……」

 お華もその様な気になったらしく、静かに聞き入っている。

 すると、マーガレットの親戚という老夫婦がやって来て、お華に会いたいと言う。

 祐三郎が二人を案内して連れてくると、おばあさんはお華の手を握り、しきりに何かを言っている。

 祐三郎が代わりに、

「あなたのお陰で、娘は助かりました。ありがとうございます。だそうです」

 涙ながらのおばあちゃんを優しく微笑みながら、肩を抱き、

「あの方を助ける事が出来て、私も嬉しいです」

 祐三郎も微笑みながら、通訳すると、もう一人の老人が和やかに、

「貴方のお陰だ。何かお礼をしたい」

 などと言うものだから、それを聞いたお華は少し考え、「じゃ、これ!」

 と指差した。

 老人は、何回も頷き、

「こんな物でいいのか。これなら早速頼んでおく」

 と言ってくれた。

 祐三郎は驚いた。

 この図々しさはいつもの事だが、これが日本の家庭に入ってくるなんて、しかも日本初だからである。

 何しろ、日本での正式販売は、日本蓄音機商会という会社から、

1941年、明治43年に売り出されているのである。

 当時のこの蓄音機には軍艦行進曲のレコードもおまけで付いていたらしいが、これからの事を考えると、なんとも皮肉である。

 


(6)

 

 さて、お華は行きとと同様、帰りも馬で屋敷に戻って来た。

馬で帰って来たから、屋敷の子供達はみんな廊下に出てきて、お春が、

「あ、本当にお馬さんだ~」と喜んでいる。

 祐三郎がまた手綱を結ぶと、子供達も降りてきて寄ってくるが、お華は、

「みんな。お顔だけ良し良ししなさい。後ろに行っちゃだめよ、思い切り蹴られるからね。死んじゃうよ。お馬さんは身体は大きいけど怖がりだからね」

 すると祐三郎が、顔を出した信吉に、

「済まないけど、井戸から水を汲んできてくれるかい。桶のままで良いから」

「はい」と言って、井戸に向かう。

 そして祐三郎は、一緒に持って来た飼い葉を取り出し、

 お春に、

「笊を持って来て、それにこれを出して、馬さんに上げて下さい」

 と微笑みながら頼むと彼女も笑顔で、台所に向かって行った。

 そして屋敷に上がると、既にみんな集まっていた。

 おさよが、

「お華ちゃんお帰り」

 と言うと、お華は行きなり寝転がってしまい、

「疲れた~」と一言。

 すると浩太郎が「文机」と新之助に命じ、そしてお華に、

「寝てる場合か! 今から詳細を大奥にお届けしなければならんのじゃ」

 お華は身体を起こし、

「大奥に?」

「そうじゃ、お前がお知らせしろって言ったんだろ。結果もお伝えしなければならぬ」

「お奉行様は?」

 それには浩太郎も少し笑い、

「今日は丁度、南の小栗様もお出でで一緒にお話ししたわ。まあ、小栗様は、頭を抱えてお出でだったが、お華が助けに行ったとお伝えしたところ、更に驚かれておられた」

 それにはお華も「はは」と笑う。

 そこで、信吉も戻ってきたので、浩太郎は、

「お前もお華の話をよく聞いておきなさい。恐らく文以上の事まで聞かれるからな」

「はい!」と彼は元気よく答える。

 しかし元気が失われているお華は、「じゃ、いい?」と言って、何とか起き上がり、

「まず、イギリス人の死亡者一名。そして重傷者二名。そしてご婦人、女の人ね。これは軽傷で一名よ。まあ軽傷とは言っても、ただ腰を抜かしたぐらいだけどね」

 浩太郎と優斎は顔を顰める。

 その犠牲者、チャールズ・リチャードソンの墓は、現代も元町、通用門付近にある「横浜外国人墓地」に眠っている。


 浩太郎はまず、それを書きながら、

「やっぱり殺しちまったか……」

 お華は頷き、

「危なく二人目だったけど、その時私達が到着して、私が馬上から簪打って、トドメは辛うじて止めたよ」

 浩太郎は大きく頷き、それで、

「その重傷者はどうだ。その後の様子は?」

 と聞いたが、お華は悲しそうな顔で、首を振り、

「まだ分からないわ。息はあるようだったけど」

 そして優斎に、

「彼奴らの剣術は、一太刀目を受けてしまうと難しいでしょ。あれは何と言っても一刀目だから」

おかよもそれを聞いて厳しい顔をしている。

 優斎も、

「そうです。示現流はどこまでも一刀目。これを外せば、私でも、それほど恐ろしくは無いが、最初を下手に受けたら刀を割らせてそのまま斬られてしまう。そうなると医者としては、とてもじゃないが手の施しようが無いだろう」

 お華も頷く。

 すると浩太郎は、

「そのイギリス人の女は良く無事だったな」

 と聞くが、お華は顔を顰めて手を振り、

「だって、私が来たときはまだ斬られて無かったからね。向こうは、女も斬れ斬れって騒ぐもんだから、本当に腹が立ってさ、目の前に立ち塞がったわよ」

 すると、戻って来た祐三郎が、

「私もお華さんのアレは見慣れてますけど、今日のは凄かったですよ。女を斬れとは、それが武士の行いか! とか叫んで、撃つ撃つ」

 おさよが、半笑いで、

「そうだろうね~」

 祐三郎は頷いて、

「五人、十人と来る者達を次々地面に這わせ、総計三十人って所でしょうか」

「さ、三十人?!」

 浩太郎筆頭に、優斎、おさよは驚愕だ。

 祐三郎は頷き、

「横から襲ってくる者もこう!」

 と両腕を交差させる。

 浩太郎は呆れ笑い、

「おいおい、三十人って、戦でも始めるつもりかよ」

 すると、祐三郎が、

「戦どこじゃないですよ。お華さん、とうとう駕籠から降りてきた藩主様の髷まで飛ばしました」

 これには、優斎も更に驚愕し、

「えっ、久光様か。殿様もか」

 とさすがに驚愕する。


 すると祐三郎は、

「私には、女の人の前に背筋伸ばして座ってろ、とか言うんですよ。新之助君と同じ扱いなんだから困ってしまいます」

 と行ったが、お華は既に寝ている。

 しかし、そこで優斎の怒声が飛んだ。

「三郎! 何を言ってる。お前が出来る事はそれぐらいだ。おまえは何故、私がお華に命じたのか分からないのか」

 と珍しく怒って入るから、本人だけで無く、おゆき辺りも驚いている。

 新之助も、自分の名前まで出てきたから、這ってそちらに行って座っている。

 浩太郎とおさよは、微笑んでいる。

 続けて優斎は、

「お前にそう命じたのは、本当にそのイギリス人を守る為だ。お前は、薩摩の連中も誰だか分からない。だから、キチッと座り、刀を側に置いて、何時でも抜き打ちの構えをしておけば、見た目だけでも手練れだと思い、少なくとも、まずはお華からと言うことになる」

 そして優斎は新之助にも、

「貴方の信州での話も聞いてます。貴方も同じ様に命じられたでしょう。それも同じ、相手の注意を前だけに集めたかったのです。そうですね奥様」

 と言われたおさよは

「だって新之助の剣なんて、まだ信じられませんからね」

 と浩太郎とおさよは微笑み、新之助はガックリと肩を落とす。

 お春は、口を押さえて大笑いしている。

 優斎は頷いて、祐三郎に、

「お前じゃ単なる脅しだが、後ろにはイギリス兵もいるし、結局お前は、囲まれて守られてたって事だよ。お華さんが三十人相手にした理由も理解できるだろう」

 それには、祐三郎は畳に両手を付き、

「そういうことなのか……」

 と言った。どうやら分かった様だ。

 すると、お華は突然起き出し、

「まあ良いよ。少なくとも、あのイギリスの人達が、銃を撃たなかったから、とりあえずは江戸で戦はおきないでしょ」


 お華は、思い出した様に眉を寄せ、

「それにしてもあの殿様、女も討て、討てとか煩く言うもんだからさ。殺しはしないけど、せめて髷ぐらいは切り落としてやろうと思ってさ」

 と話が戻っている。

 それには祐三郎も、

「そうなったら、もう近くの者達、素早く殿様を駕籠に乗せ、慌てて行っちゃいましたよ」

「なるほどな」と浩太郎は筆を置き、信吉を側に呼んだ。そして、

「打ち合わせ通り、これを大奥・瀧山様に届けてくれ。これにはお華の事は書いてないが、恐らくその事も聞かれるだろう。それは今聞いた通り、口頭で伝えてくれるか」

「はい」と信吉が頭を下げると、更に、

「平川の門と七つ口には話を通してあるから、これを見せて……」

 と自分の十手を信吉に渡し、

「北町桜田の手の者と言ってな。大奥では本人で無くても良い。瀧山様にと言って渡してくれ。恐らくお待ちかねだろう。後はお前の考えで。よろしく頼む」

 と言うと、信吉は返事と同時に、一目散で出て行った。

 改めて酒を呑みだした浩太郎は、優斎に、

「先生。どう思う。これから……」

 それには優斎も難しい顔で、

「私も何と申し上げてよいやら。まあ、ハッキリしていますのはお上と薩摩の態度次第かと」

「そうだよな~。全く余計な事してくれるよ」

 

 この事件は翌日、庶民・侍とも大きな衝撃で広まった。

 江戸は、直ぐ近くに軍艦があるのだ。

 町民に至っても、いつそれが火を放つのかと戦々恐々としている有様である。

 天璋院は昨日の夜の時点で、既に報告を聞いてはいたものの、何も出来る事が無かった。

 薩摩藩邸に何を言っても、肝心の久光が居ないから意味が無い。

「表ではどうなっているかのう?」

 瀧山は難しい顔で、

「坊主の報告では、こちらも大混乱の様で、それはそれはお困りの様子で……」

「そうじゃろうな。しかし、女まで殺さずに済んだのは本当に良かった」

「はい。それは何とか、お華が止めてくれた様でございます」

 天璋院は頷いて、

「お華か。しかしあの子は大したもんじゃのう。わが薩摩の侍を悉く倒すとは」

「天璋院さまには失礼な事ですが、異国の女を斬り殺す事が薩摩の正義か? と怒鳴ったそうです。これには本当に驚きました」

 これには天璋院も大きく頷いて、

「誠じゃ。侍とも思えぬ奴どもじゃ」

 と、憤然とした顔である。


(7)


 そして、それから何日も経った、ここは薩摩の遙か離島。

 殆ど沖縄の隣と言っても良い沖永良部島で、島津久光の勘気を受け、島流しの処分を受けていた、西郷隆盛・この頃はまだ西郷吉之助という名の男が、牢の中に押し込められていた。

 牢とは言っても、殆ど吹きさらしの小屋であったが、沖永良部ぐらいの気候であれば、むしろ快適であったかも知れない。

 ただ彼は、この地方で特有である病気「フィラリア」に感染してしまい、これは生涯、直る事が無かった。

 それはともかく、この日は沖永良部を任されている薩摩の役人が、西郷の所に飛び込んで来た。

「せいご~さん!」

 という様子。とても罰で牢に入っている罪人に対する態度ではないが、西郷はこの頃すでに、人望も厚く、元は「御庭方役」として、江戸でも勤務の経験もあるから、沖永良部の役人と言えども、江戸の話は西郷に聞いた方が正確だとでも思ったのだろう。

 吉之助は、その様子を、

「どげんしたど? お役人」

 と笑いながら声をかける。

 この頃の西郷は、東京上野の銅像の様な体格ではなく、さすがに罪人らしく痩せ細っていた。

 薩摩の知り合いも一見では分からないだろうというぐらいである。

 その役人は、

「吉之助さ~。先程、薩摩から船が参ってな。聞けば、何でもこの八月二十一日、薩摩の行列が、エゲレスの者を無礼打ちしたそうじゃ!」

 と、西郷には驚くべき知らせを持って来た。

 さすがに西郷も身を乗り出して、

「なんじゃと? 参勤の行列が、エゲレス人を討ったちゅうこっか?」

「そうじゃ」

 とその者は大きく頷き、

「なんでも、神奈川宿の近く、生麦と言う所じゃそうじゃ。吉之助さ~知っちょっと?」

 西郷も頷き、

「生麦ちゅう所は記憶に無いが、神奈川じゃったら分かっ。東海道ん途中じゃ」

 そしてその役人は、事件の詳細を語る。

 西郷には戦慄が走った。

「これはただではすまぬ」

 と呻いた。

 すると西郷は、一つ疑問が浮かんだ。

「なあ、怪我人と外国人の女は、無事だったちゆうたが、何故、それらは助かったど?」

 と聞く。

 西郷は、攘夷を行って無条件に喜ぶ男ではない。

 それより、今後の薩摩の心配をしている。つい、癖で詳細を聞いてしまう。

 すると、役人は途端に笑い出した。

「どうも、奈良原さんと海江田さんが、討ったそうじゃっどん。んで二人目のトドメを刺そうとした時、突然、二人は何者かに討たれ、倒れてしもたそうじゃ。それは、どうも奉行所の者らしいとじゃが、命はありますが簡単に倒されてしもたそうじゃ」

「奉行所?」

「はい何者かは分からなかったそうじゃっどん、エゲレス人を助けようとしたんやろう。すると、奉行の大久保さんは腹を立て、何と三十人で打ちかかったそうですが、全て倒されてしもたようじゃ」

 これには、さすがの西郷も驚愕し、

「さ、三十人も? 一人でかい?」

 役人は頷き、

「すっと、大久保さんもやられてしもたそうじゃ。あ、でも命は大丈夫じゃ。全て、顔、並びに膝を打ち抜かれ、立ち上がれんくなった……」

 ここで西郷は打ち抜かれたと言う言葉に引っかかった。

「すっと、そんた弓か、ないかん飛び道具か?」

「へぇ、聞いたところに寄っと、手裏剣だそうじゃ」

「手裏剣?」

 これには西郷も驚いた。

 今時、手裏剣を使う者が居たのかと言う事である。

 そして、その役人は笑顔か何か妙な顔で、

「最後には殿様まで、髷を飛ばされてしもたそうです」

「な、なんと!」

 これには、西郷も再び大きく驚愕した。

「手裏剣と言ったな? まさかそん者は……?」

  役人は笑顔で、

「へい。奉行所の者だそうじゃっどん、表向きは柳橋ん芸者だそうじゃ」

 西郷は大いに仰天した。

 一番、驚いた言葉であった。

「女? しかも芸者一人に、三十人の薩摩兵児が?」

 と、頭を抱える。

 西郷は呆れた顔で、

「薩摩も終いじゃ。あんた、これからエゲレスがこけ攻めてくっかも知れん。見張りは充分にしちょった方がよかど」

 と言われ、

「あいがとごわす」

 役人は去って行った。

 西郷は、余りに意外な事を聞かされ、牢から空を見上げ、

「これからどうなってしまうとじゃろう」

 と、波音が聞こえる中、ただ一人、つぶやいた。



※※※つづく~※※※



 今回もお読み頂きありがとうございます。

 とうとう、西郷まで出てきましたが、残念ながら彼は徳之島の牢の中。

 この頃はまだ、何も出来ません。

 薩摩は「生麦事件」を起こしてしまいました。

 この江戸へ移動中、京では「寺田屋事件」も起こしていますので、血が頭に上って居たのかも知れませんが、私には少し、納得いきません。

 この事件の結末は、次号以降に書きますが、当然、只では済みません。

 この事は日本にとって、最大の幸運と大転換を招いた事件と言えます。

 とは言え「マーガレット婦人」はお気の毒でした。

 さぞ恐かったでしょうね……。


 いや、この事件は重大なのですが、場所が場所。

 少し歩いて行くと言うところでは無いので、仕方無いから祐三郎は、いきなり馬術の名手になっています。

 まあ、今でも両国から生麦近辺なら車で一時間半程度なので、こういう事になりました。

 しかし、これから江戸、いや我が国の事態は、急激に変化していきます。

 いや、今の日本も同じかな……。

 どちらかと言うと、京都が中心となるのが今まで幕末劇ですが、やはりお華は江戸の女。

 江戸でどう生きて行くのか。どうか、見守ってやって下さい。


 では次回もよろしくお願い申し上げます。

 ありがとうございました。


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