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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
37/65

㊲逃げる男

(1)

 

 お華はその日。

 屋敷で、おゆきの踊りを見ていた。

「ポン、ポン、ポン」

 と三味線無しで、手拍子だけである。

 お華は笑顔で、

「はい。そこで……」

 彼女は一つ回って正座に直り、深く頭を下げる。

「よし。おゆき。それで良い。ようやく基礎は終わったね」

 と、お華の正面に座るおゆきに、笑って言葉をかける。

 おゆきも嬉しそうに、

「ありがとうございます。姉さん」

 頭を下げるが、お華は厳しい顔で、

「おゆき。勘違いしちゃいけないよ。これまではあくまで基礎。その辺の芸者と同じところに居るってだけの事。本番はこれからよ」

 おゆきも真剣な顔で頷く。お華は、

「いい。芸事はね。そこからが大事なのよ。人と同じ事を出来るだけじゃ芸ではありません。これから、あなたは色々な事を、お母さんや私、そして先達の方の言う事を良く聞いて、その通りでは無く、それをどう自分に生かす事が芸なの。これから一層、精進しなさいよ」

 おゆきは大きく頭を下げ、

「はい。精進します」

 と言った時、お華は向こうの方を向き、

「あらあら、もう一人精進しなきゃ行けない人が来たわよ」

 と言って苦笑いする。

 そして、

「お華さん、おゆき!」

 と頭を下げる。

 おゆきも嬉しそうだ。

 しかしお華は、

「信ちゃん。何の用?」

 と、浩太郎の従者に少々冷たい応対。

 お華にしてみれば、こんな夕刻に信吉が飛び込んでくると言う事は、浩太郎から何か妙な事を言われてきたというのが想像出来たからだ。

 やはり信吉は、

「お華さん。旦那様から……」

 と言っている。

「は~」と溜め息で、お華は、

「何。兄上がどうしたの?」

 と、如何にも迷惑そうに言う。

 しかし、信吉はそんな様子にはお構いなく、

「明日。朝、九つ頃(AM9時頃)旦那さんとお出掛け下さいますか?」

「明日? で、どこ行くの? まさかまた遠いとこってんじゃないでしょうね」

 と、信吉を睨み付ける。

 信吉もさすがにその意味が分かった様で、

「アハハ、お華さま。大丈夫ですよ。蛎殻町の安藤様と仰るお宅だそうで」

 それには、お華もホッとして、

「なんだ蛎殻町か。そんなら良いけどさ……」

 しかし、その名前を考えた途端。驚いた顔になる。

「信ちゃん! 蛎殻の安藤様って言ったら御老中様じゃないの!」

「ご、御老中!」

 さすがにそれには、信吉も目を丸くして驚愕だ。

 お華は「何で御老中が」と一瞬考えたが、すぐ頭に浮かんだ。

「そうか、桜田門か……」

 それでお華は納得した。

 しかし信吉は、

「桜田門? それは一体?」

 それにはお華が笑って、

「あんたも一緒に見たでしょ。大老様の事件」

「ああ!」

 と信吉も手を打って納得した。

 お華は、

「しかし、なんで?」

 と首を捻っていたが、信吉に、

「ま、いいわ。分かったと兄上に伝えて、信ちゃん」

 信吉も笑顔で、

「承知しました!」

 そしてお華は、

「信ちゃん。今、おゆきに基礎は終わったから、これからは芸の為。しっかり精進しなさいよって言ってたの」

 おゆきも、笑顔で頷く。しかしお華は、

「信ちゃん。あんたももうそろそろ、基礎は終わりよ」

 と言うから、信吉は、一体何を言っているのか分からず、首を傾げている。

「それはどういうことで?」

 お華は、

「あんたも、兄上から十手預かってるんでしょ」

「は、はい」

「いい。あれは、あんたが奉行所に勤めてる証しってだけじゃないの。人を護る為に持ってるのよ」

「あ、はい」

 と頷く信吉。

「いつも私や姉上。先生やノブさんが、いつもどうしているかあんたにも分かるでしょ?」

「それはもう。お裁きの為に」

「そう。あれは考え無しに振り回したら、頭に当たって死んじゃう。でもそれでは奉行所の者としては全く役に立ってない。それに今のあんたの腕じゃ、おゆきでさえ守れない」

「は、はい。でもどうすれば……」

 お華は笑って、

「あんたの近くには、おさよ姉さんという立派な先生がいるじゃない」

「え? 奥様ですか?」

「そう。あの人は小太刀だけど、人を殺したりしない。あんたも同じ。だから、色々聞いて、教えて貰いなさい。例えば、相手にどう迫れば良いのかとか、刀の躱し方とかね。これがあんたが目指す芸の道よ」

 とおゆきと一緒に大笑いしている。

 信吉は思わぬ事を言われ、多少困った顔をしているが、そう言われると少しだけやる気も出たようだ。

 お華は、

「これからは、兄妹揃って精進して生きなさい」

 と笑う。


 そして翌日朝。

 お華と迎えに来た浩太郎と信吉と一緒に、浜町方面に向かう川沿いを歩いている。

 すると浩太郎が、

「お前、信吉におさよを見習えとかいったらしいじゃないか」

 とボソっと言う。

 お華は笑って、

「信ちゃんだって、もうそろそろ次に行かなきゃいけないでしょ。したら姉上に教えて貰うのが一番だもん」

 しかし浩太郎は、

「ばっか野郎。こいつ」

 と後ろを歩く信吉に目をやって、

「こいつ帰って、おさよにそんな話したらしい。そしたら、おさよが喜ぶ喜ぶ」

 苦い顔の浩太郎だ、そして、

「私の小太刀もやっと、人の役に立つわね。だとよ。全くお前は余計な事を……」

 しかしお華は大笑い。そして、

「何言ってるの。兄上だって同じ様な事考えてたでしょ。この子にももうそろそろ芸を仕込まなきゃ」

 しかし、浩太郎は、

「もう朝から、相手にどう突っ込んでいけば良いかなんて、朝から講釈だよ。したら新之助まで、ほうとか言って喜んで聞いてやがる」

「え、新之助も? それは大事な事。亡きお父上もお喜びよ」

 それには、さすがに頭を抱え、

「んな訳ないだろ。絶対気の毒な……なんて思ってらっしゃるよ」

「そうかな~」と笑っている。


 そして、お華は話を変え、

「兄上今日の事だけどさ。確かあれから御老中やお偉い方々は、守りの人数をお増やしになって、登城される事になったんじゃないの?」

 浩太郎もそれには頷き、

「ああ。一挙に増えたよ。それなのに? って言いたいのか?」

「うん。そりゃそうよ」

 浩太郎も、その事には少々面倒臭そうな顔で、

「御老中様など、上屋敷が遠い方は通常、城前の桜田御用部屋などに臨時におられるのだ。大抵、登城の際は北もしくは南の同心が付くのだが、今回は、たまたま遠い上屋敷で、しっかりした者を付けてくれと言われたらしくて、悪い事に今月の月番は北だ」

「なるほどね。でもさ、しっかりした者で、兄上と私ってどういう事?」

 それには浩太郎が、大笑いだ。

「しっかりした強い者って言えば、お華だろう? ってさ、全会一致だよ」

 後ろの信吉もそれには、笑ってしまう。

「く!」とお華も言葉を無くしてしまうが、気を取り直し、

「で、でも、兄上。私、侍の揉め事に手を出すのは嫌よ」

 これにも浩太郎が大笑い。

「信吉、言った通りだろ。絶対こんなこと言うって」

 信吉も大きく笑顔で頷く。

 そして浩太郎は、

「それは、俺も一緒だよ」

「兄上」

「俺だって、わざわざご老中ご家臣と一緒になって刀抜くなんて冗談じゃねえよ。一銭にもなりゃしねえ」

 それにはお華も安心した顔だ。

 しかし浩太郎は、真面目な顔で、

「ただなお華。事があるにせよ無いにせよ。お前には俺と同じく、町民を守ってほしい。特に気を付けて欲しいのは子供だ。助太刀よりもむしろこっちに神経を使って欲しいんだ」

 それにお華も否応は無い。大きく頷いて、

「それは、私も気を付けるわ。安心して」

 そんな話をしながら、三人は蛎殻町にある、この当時、老中を勤める、

磐城平藩主・安藤信正の上屋敷前に到着した。 

「俺がちょっと話をしてくる」

 と浩太郎が入って行くと、お華と信吉は大門前で待っていると、丁度、動き出すところだったらしい。

 浩太郎は、慌てて出てきて、

「もう、出発だそうだ。お華と信吉、お前達は行列左に。俺は右。話した通り頼んだぞ!」

 と行ってしまった。

 お華と信吉は、些か笑いながら、

「さっさと動いてくれて助かったよ」

 などと言いながら、早速、行列左に、少し間をおいて、一緒に進み始めた。


(2)


 人数も多いし、気楽なと言っても良い程の警護である。

 お華にしても、最初から警護など考えていないから、お気楽なものである。

 家中、総勢五十人は居る。

 ただ、お華には信濃のお先手失態が頭にあるから、全面的にお気楽と言う訳ではない。しっかり、目は配っている。

 やがて一行は、大伝馬本町通りを進む。

 大きな通りだから、町民も左右壁に沿って頭を下げているが、その時お華の目に前方で小さな物体が、行列に近づいている者が居る事に気が付いた。

 だが、明らかな子供に簪を打つ訳がない。

 お華は猛然と走り出した。

 後ろで歩いていた信吉も、「何事だ」という顔で、追いかける。

 一瞬の風が吹き抜けていく。

 お華は、まだ赤子とも言って良い子供の側に飛び込み、まるで大根でも引き抜く様に抱き上げる。

 お華は大きな息を付くが、そんな勢いである。当然子供は大泣きだ。

 それを、向こう側で見ていた浩太郎、そして側の家臣達も安堵した顔で微笑む。

「お~お、よしよし。泣かなくても良いよ~」

 と言いながら、優しく背中をポンポンと叩くお華。

 そして、

「この子のお母さん?」

 と大声を上げる。

 すると、座っている人々の後ろの方から、母親と思われる女が慌てて駆け寄り、

「誠に申し訳ありません。ちょっと目を離した隙に……」

 まあ、そうなのだろう。しかし、お華は子供を母親に渡しながらも厳しい顔で、

「江戸に住む以上、そんな事が許されると思ってるの? せめてその間だけは紐でもくくりつけておきなさい! 可哀想だけど殺されるよりはマシよ!」

 母親は子供と一緒に下に座って、必死に頭を下げている。

 しかし、お華は子供には優しい声で、

「もうちょっと我慢しなさいね。あの人達は遊んでくんないからね」

 と頭を撫でながら言い置いて、それから信吉と一緒に先に進む。

 信吉が、

「危ない所でしたね~」

 しかしお華は、

「さすがに赤子は斬らないとは思うけどね。ただ、危険なものは危険だと知っておかなきゃならないからね」

 笑いながらスタスタ歩いて行く。

 そしてそれからは、他には何事も無く進んでいく。

 ただ、登城は大手では無く、坂下門からの登城になっていた様だ。

 お華もここまで来たらさすがに、

「やっとお終いか」と些か安心した様だが、前回は堀外で起きている。

 今日も江戸見物の人々がいるようで、さすがに安心は出来ない。

 ただ、検問もある会津松平家の屋敷を過ぎる頃になると、さすがに町民もいないので安心し、ようやくかと坂下の渡り門直前に差し掛かった、その時だった。

 恐れていた事がとうとう起こってしまった。


 どこから入れたのか、一人の若い浪人が、老中の駕籠の正面に素早く近づき、

「お訴えを!」と駕籠訴を装いながら懐から拳銃を取り出し、いきなり発砲した。

 その様子を、不審な様子を見ていたお華は、

「あの時と一緒だ!」

 と叫ぶ。

 そう桜田門の変の時と同じ手である。

 しかし、その銃弾は狙いが外れた様で、同伴横で立っていた小姓の足に命中してしまった様だ。 

 それから、周りから六人程の浪人らしき者が現れ、戦いが始まった。

 勿論、お華はそれには参加しない。

 お華はそれより、銃で打たれ倒れた若い小姓の側に行き、息を確かめ、倒れている着物の首と袖を持ち、そのまま端の方まで引っ張って行った。

 そして血止めを行い、応急処置を施す。

 そして、その最中信吉を呼ぶ。

 彼も思いも寄らぬ顔で、走ってきた。

 お華は、厳しい顔で、

「信ちゃん、奉行所に大至急駆け込んで、佐久間様でも誰でも良いから人を寄越す様に言って! 誰でも良いからとりあえず来てって言って!」

 大きく頷き、聞いて行こうとする信吉を「ちょっと!」と止め、

「それとね、怪我人と死体を乗せるために戸板を一杯持って来てってこれも伝えて!」

 信吉は、再び大きく頷き、疾風の様に駆け去って行く。

 そこに浩太郎も、間をすり抜けて現れ、

「お華! その人どうだ!」

 と声をかける。

 お華も頷き、

「まだ息はある。でも、さすがに鉄炮傷だから速く医者に診せないと……」

 二人とも、怪我人の横に立って、戦いの様子を見ている。

 お華は、妙にイライラと、

「何やってるのよ。こっちも駄目か~」

 などと言うから、浩太郎は戦いの最中なのに笑顔を浮かべ、

「そういう事を言うな。あれでも必死なんだよ」

 などと、言っていたその時だ。

 襲撃側の一人が、駕籠の側に立った。

 お華は反射的に簪を手にした、同時に浩太郎も小柄を。

 しかしそれは、少々遅かった。

 その男の刀は、駕籠を深々と突き刺してしまったのだ。

 同時に浩太郎は「やられた!」と叫ぶのだが、突き刺したその男は、後ろの家臣に斬られてしまった。

 そんな事より二人を驚かせたのは、その後だった。

 パーンと駕籠、反対側の戸が開き、なんと当主。

 つまり御老中が駕籠から、慌てて出てきたのだ。 

 お華と浩太郎は、驚愕する。

 やはりその後ろ姿は、着物が横に斬られていた。

 そして、もっと驚く事に、老中・安藤は、

「ギャー」と叫び声を上げながら、後ろを振り向くことも無く、正面、坂下門の大扉に向かって駆け出して行ってしまったのだ。

 戦っている家臣そっちのけで、自分だけ坂下門に向かって走って行ってしまったのだ。

 お華と浩太郎は、言葉を忘れてしまったように、一連の行動を呆れて見ていた。 お華はようやく、

「あ、兄上、あれ、本当?」

 と頭を傾けて聞くが、浩太郎も何が何だか分からない様で、言葉が無い。  

 しかし家臣達にとってはハシゴを外されたようなもの。

 誰を守っているのか、分からなくなってしまう。

 とは言え、しばらくして、ようやく襲撃の浪人達を全て討ち取った様だ。

 これが、世に言う「坂下門外の変」である。


(3)


 まあ、それはともかく、奉行所から例繰方まで一緒に、やって来た与力・同心達が、戸板を持ってやって来た。

 浩太郎は、一人一人頭を下げ、

「申し訳ありませんが、怪我人と討たれた下手人を奉行所までお願いします。そして医者の方をよろしくお願い致します」

 戦いは終わっているので、同心達は次々戸板に載せる。

 浩太郎は、安藤家の小姓頭とみられる者に、

「医者はこの近くにはおりません。まず奉行所で手当をしたいと思いますので、一度お預かり致します。それで、よろしいでしょうか?」

 その男も、礼儀正しく、

「これは誠にもってお手数をかける。後ほど我が家から迎えを出しますので、それまでよろしくお願いしたい」

 と頭を下げる。

 そして浩太郎は、

「それと、お殿様の事ですが……」

 それには、男も小声で、

「どうも、お恥ずかしい所を……」

 と頭を下げるが、浩太郎は、

「いえいえ、ただ、お一人で入られたので、後をお願い致します。よろしゅうございますか?」

 と頭を下げると、その男も、

「どうぞ、お気になさらず。怪我人だけでもお願い出来れば、それに越した事はございません。よろしゅうに」

 と頭を下げる。

 一方、やられた下手人の顔を確認していたお華が、浩太郎に声を上げた。

「兄上!」

 呼ばれた浩太郎が、急ぎ足で近づくと、

お華は、戸板に載せられた二人の遺体を指差し、

「この二人、覚えていない?」

 と言った。

 そう言われて、浩太郎も改めてじっくり見ると、

「あっ!」と声を上げる。

「でしょう? あんときの二人じゃない?」

 と言って、

「この二人。なにか印を付けて分かる様にしなければ」

 信吉を呼んで言い付けた。

 浩太郎は呆れ顔で、

「とすると、この連中は、また水戸か……」

「そうみたいね」

 と、二人は溜め息を吐く。

 そして、現場の片付けが終わると、二人は北町奉行所のお奉行の元に出頭する。


 浩太郎とお華が、奉行の部屋に行くと、既に奉行と、佐久間親子が座っていた。 浩太郎がまず、

「これはお奉行様」

 と二人で平伏して、

「御報告に、参上致しました」

 再び、頭を下げる。

 この時の北町奉行は、石谷因幡守。

 勘定奉行からの転身である。

 浩太郎はともかく、お華とは初めてであった。

「おお、ご苦労。で、大変な事が起こった様だな」

 浩太郎は頷き、

「はい。まさかまた、あの桜田門の一軒の様な事が起こるとは思いませんでした。ただ、お奉行様」

「何じゃ」

「はい。今回私共は、護衛と言う事で参りましたが、護衛とは申しましても安藤様にございます。迂闊に中に入って、お助けするわけには行かず、道行き、私とお華は町民や子供が、列に入ったりしないかだけを考えておりました。これでよろしかったでしょうか」

 それには奉行も、

「それはそうじゃ。安藤様も大名。奉行所の者であればそれで充分じゃ」

「ありがとうございます」

 と二人も、ホッとしながら頭を下げる。

 すると、奉行の石谷は、お華を見て、

「そなたが、お華か。噂はかねがね聞いておるぞ」

 と言い出すと、横に座っている佐久間親子も、含み笑いだ。

 お華は、

「いえいえ」と手を振りながら、

「お言葉ありがとうございます」

 と微笑んで頭を下げる。

 すると奉行は、

「話は聞いたが、ご老中が逃げたというのは誠なのか?」

 と聞く。

 それにはお華が説明を始める。

「お奉行様。私達兄妹も、坂下のご門が見えまして、これで勤めも終わりと思っていましたところ、丁度、会津様のお屋敷を通り過ぎ橋に掛かろうとした時でございます。俄にどこに隠れて居たのやら正面から浪人が現れまして」

 そこで、今度は浩太郎が、

「あれ、あの桜田と全く一緒にございます。駕籠訴のふりで現れましていきなり、小さな銃で一発」

 今度はお華が、

「ただ、それは幸いお駕籠の左脇に逸れた様なんですが、お付きのお小姓の足に当たった様で。私は急いでその若いお小姓を着物毎引っ張って端に寄せ、応急処置を致しました」

「おうおう」

 と、奉行そして佐久間達も、真剣に聞いている。

 もうそれからはお華が、少々妙な顔で、

「襲ってきた者は六名。しかし私共を除き、守りの人間は五十程おりました。とっころがこれが……」

 佐久間が、

「これが何じゃ、お華」

 と厳しい顔で言うのだが、お華は半分笑い顔で、

「佐久間様……これが全く弱いのです」

 当然、三人は驚き、浩太郎は斜め下に目をやり含み笑い。

「いえね。たった六人に間合いも外れた所から刀の振り合いにございます。あれじゃ一日経っても勝負が付かないと思っていましたら、襲ってきた中から一人、するすると飛び出し駕籠に寄っていったのです。そしてそのまま刀をブサリ。私も気づいたのですが、丁度、駕籠の反対でしたので手が出せず、やられたと思ったその時でございます」

「うんうん」

「するといきなりパーンと音を立て、反対側が空いて殿様が降りていらしたのです。 私はご無事で、何と幸運なと思ったのですが、ところがその時、悲鳴を上げながら坂下門にむかって走り出したのです。後ろの事など全く振り向きもせずにでございます」

 さすがにこれには、三人も驚きを隠せず「う~ん」と唸る。

「私も兄も驚きましたが、家臣の方々はまだ戦っております。私は既にお奉行所に知らせを出しておりましたので、少々頭に来て六本、簪を打ってしまいました」

「打ったのか……」

 と佐久間が言うと、浩太郎が嫌そうに、

「それらは全部、下手人の草履の鼻緒でございます。こいつの得意技で、これに打たれますと、ご想像の通り相手の動きが止まってしまいます。さすがにこの瞬間は見逃さないでしょう。それで、斬るなり何なりで全てお縄となりました」

 もう奉行の方が悲鳴を上げてしまう。

「そんな事出来るのか……。恐ろしい女だな……」

 すると佐久間が、

「お華は、十人位なら、一人で倒せますから……」

 と、呆れた様に言う。

 お華は、頭を掻きながら、恥ずかしがっている。

 すると奉行は、佐久間に、

「どうなるかの? これから」

 と聞くが、さすがに佐久間も与力なので、想像が付かず困った顔だ。

 すると浩太郎が、

「お華。お前なら分かるだろ」

 と話を振ると、お華は頷き、

「お奉行様。恐らくこれは、お目付様が動くと思われます」

 奉行は驚き、

「目付? なんでそんな事、そなたに分かるのじゃ」

 それにはお華は頷いて、

「私は、天保の頃より上臈年寄であった姉小路様についておりましたので分かるのです。大体その様になるのではと想像致します」

「姉小路」の名を出され、奉行は「あ~あ」と頷いた。

「あの、妖怪の頃からか」

 お華は頷き、

「はい。あの方がいらした頃はもっと凄かったですが、さすがに今のお目付様はそこまでの力は無いように思われます。ただ、今回の事はさすがにその様には行かないでしょう。ただのお大名ならばともかく、ご老中様でございますから。さすがに足の引っ張り合いが始めると思われます。例えば、老中ともあろう者が敵に後ろを見せるとは何事じゃ! とか始まると」

 それには奉行も額に手を当て、

「そうなのじゃ。あいつらはそういう事は見逃さないからな」

 するとお華は、

「まあ、お奉行様に難題は降りかからないと思われます。もしかしたらご出世の好機かと」

 などと言うから、浩太郎が慌てて、

「お華、何と言うことを言うのじゃ。お奉行様、失礼な事を申し訳ありません」

 しかしこれには、奉行本人も佐久間親子も笑ってしまう。

 そんな時だった、襖の向こうから、

「ご歓談中失礼致します」

 と声がかかり、襖が開き、早坂が頭を下げていた。

 そして、

「お華さん。お使いが参っております。大奥、瀧山様から支給、大奥に参る様にとの事」

「本当? とくぼん」

とくぼんこと早坂は、眉を寄せ、

「早坂でございます。八丁堀からこちらに回って、お知らせ下さった様です」

 大奥から、直接の呼び出しである。

 それにはさすがに驚愕しているお奉行であった。

 お華は、溜め息を一つ

「仕方無いわね……」

 と言いながら、お奉行に、

「恐らくこの一件の事かと、恐らくお目付につつかれたのでしょう。なんせ、安藤様は今回の公武合体責任者にございます。その方が襲われたとあっては、大奥も他人事はいきませんからね。それではお奉行様、佐久間様、そして兄上。私はこれにて……」

 と頭を下げて、とくぼんの額を叩き、出て行った。

 そこに残った言葉は、

「お華には驚いたな~」

 という、奉行の言葉であった。


「坂下門外の変」は、襲撃そのものは失敗し下手人は全て闘死した。

 だが一方、老中安藤対馬守信正も、結局お華の言う通り、敵から慌てて逃げた事が老中として大きな問題となった。

 この事は、幕閣権威の失墜と思われた様だ。

 そして、彼は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられ、同時に磐城平藩は二万石を減封される事になって終結した。



 ~つづく~


 今回もお読み頂きありがとうございます。

 今回、歴史上ではあまり目立っていませんが、老中暗殺未遂事件、

「坂下門外の変」の一件でした。

 しかし現代でも、先日は元首相暗殺事件も起こり、これを書いている最中でしたので、2022年にもなって、まだ同じなのかと暗澹たる思いに陥っています。

 この坂下門の一件も、公武合体に中心となって動いた、老中・安藤信正を狙ったものです。

 しかしこの一件。既に和宮は江戸城に入っているのに何の意味があるのだか私には分かりませんでした。

 ま、意味は無いにしても、命を賭けての脅迫行為にはなった様です。


 前回の桜田門の変と違い、警備も万全だったものの、老中本人がその場を逃げ出してしまうという、オウンゴールともいえる事態で、更に幕府の権威を失墜させ、さらに幕府の寿命を縮める結果となってしまった事には貢献しました。


 ただ、こんな事が起こっても、お江戸にはそれ程の切迫感はありませんでした。 その辺が、この時代の面白いところかも知れません。


 それでは、次回もよろしくお願い申し上げます。

 ありがとうございました。

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