㉚お華上洛(1)
(1)
この日、お華の屋敷では、コロリ騒ぎで暫く止まっていた、ノブによる柳橋芸者の三味線指導会をやっていた。
しばらく、お客が無いものだから、自然、三味の腕も錆び付いているとも思われたが、皆、それになりに頭の中で稽古していた様で、以前と変わらぬ音を響かせている。
お華は、縁側に座り、その様子を微笑みながら聞いていた。
すると、そのお華の後ろから、
「お華さん!」
と声が聞こえた。
お華が驚いて振り向くと、その声は笑顔のおるいだった。
「おるいちゃんじゃないの!」
とお華は驚き、そして、
「さすがね。気配を消してくるなんざ」
と、笑いながら、るいを、縁側に座らせる。
「どうしたの? ここ来るの始めてじゃない?」
るいは笑って、
「話には聞いてたけど、大きいお屋敷じゃないですか」
「ハハ、ここは姉様に頂いたとこだもん。別に私がどうという事でもないし。今じゃ、ほら」
と前で指導しているノブを指差し、
「三味線の稽古場になっちゃったわよ」
と笑ってしまう。
しかし、るいは、
「そうは言うけど凄いじゃないですか~。さすが本職の芸者さん。大奥の稽古と全然違いますね~」
と嬉しそうだ。
お華も、少し微笑み、
「まあ、お金貰ってやることだからね。この人達も必死なのよ~」
と静かに答える。
そしてお華は、
「で? 今日は突然、どうしたの?」
それには、るいは真面目な顔で、
「あの、姉小路様(勝光院)からお呼びして来いと言われまして……」
「姉様が? 何かあったの?」
「詳しい事はわかりませんけど、どうもお願いがあるようですよ」
「お願い?」
と言って、お華は、
「その言い方は、何か面倒そうな事みたいねぇ。ま、いいわ。ちょっと待ってて、着替えて来るわ」
と言い、近くのおゆきに、
「おゆきちゃん。悪いけど、この人にお茶入れてくれる?」
おゆきは三味を横に置き、るいに軽く頭を下げ、
「承知しました」
と、返事を聞いたお華は、早速、座を立ち、自分の部屋に向かう。
暫くして、二人は麻布方面へと歩いていた。
「まあ、あんたが迎えに来たという事は、取り立てて危ないとか言う事じゃなさそうね~」
と言うと、るいも、
「ええ」
頷いて、
「ここのところ、大奥からの使いがしょっちゅう来ましてね。色々お話ししてた様ですから、その辺の事じゃないですか?」
「ふ~ん。 それで私を呼ぶの?」
と笑顔になり、
「ますます、面倒なお話みたいね」
るいも頷き、
「まあ、お華さん呼んでこいって事だから、そうでしょうね」
とついつい笑ってしまう。
そして、二人は姉小路が住む、長府藩の江戸屋敷に着いた。
「お華、お呼びにより参りましたよ~」
と庭先を回り、居間へ声をかける。
すると、お付きの綾瀬が顔を出し、
「ああお華ちゃん。こっち上がって」
と柔らかな笑顔で、そちらへと呼ぶ。
姉小路は上座で、こちらも穏やかな顔で、
「よう来た」
と座ってお茶を飲んでいる。
「はい」
お華は姉小路の正面。るいは少し離れた後ろに座った。
この人は、妙な前置きはしない。すぐに本題に入った。
「実はな、お華。そなたに頼みがあるのじゃ」
と姉小路が言う。
(そら来た!)
思いながらお華は、
「はい。なんでございましょう」
と、平伏する。
すると姉小路は、
「突然で悪いが、これから十日後。わらわと一緒に、京へ上って貰いたい」
事も無くという表情で、スラッと言う。
しかし、お華にしたら、
「き、京? 京って、あの京ですか?」
と吃驚の顔だ。
全く予想していない言葉を浴びせられ、それからの言葉が続かない。
隣の綾瀬も微笑んで聞いている。
すると、その辺は姉小路も、お華の動揺は予想していたようで、
「まあ驚くのも無理はない。わらわにしても突然決まった事じゃからな」
と、お茶を一口。
ようやく落ち着きを取り戻したお華は、
「しかし、何故、京へ? 姉様が、京のお生まれなのは以前から承知していますが。もしかしたら、お引っ越しをお考えなので?」
しかし姉小路は、笑顔のまま手を振り、
「いや。そういう事ではない。実は、上様の御用で参るのじゃ」
「う、上様!」
再び、お華は驚愕して、
「して、どの様なご用件で?」
と、聞く。
「嫁取りじゃ」
「よ、嫁取り?」
お華が驚くのは当然である。
少なくとも、お華の様な、一介の芸者が動く様な事ではない。
もちろん、姉小路が上様というのは、十四代将軍・徳川家茂の事である。
彼はまだ若い事もあって、御台所を持っていない。
元々紀伊の当主であったが、今では、将軍である。
誰でも良いと言うわけではない。
井伊直弼無き、幕府の上層部は、昨今の幕府と朝廷との紛争を和らげる為、
朝廷、それも帝の妹君を御台所に! と思惑が働いた様である。
世に言う公武合体である。
そして、先方は当時の帝、孝明天皇の妹、和宮内親王の事である。
実は彼女は、既に婚約者もいたのだが、幕府の度重なる要求に強固な反対をしている最中であった。
そこで幕府は、血の繋がりがあるとされる姉小路を説得に京都へと思いついた様である。
姉小路にしてみれば、あまり気の進まない話ではあったが、上臈年寄であった姉小路としてはそうそう断れる話でもない。
で、どうせならお華も連れて行こう。となった様である。
ところで公武合体の騒ぎについてだが、帝を慕う反幕府方の者達が、今後の幕府勢力の強大化を恐れ、反対運動を行ったとされている。
将軍などに帝のお妹様など! という事だが、実はその公武合体は、始めての話ではない。
暴れん坊の一つ前、七代将軍・徳川家継の際にも一度、霊元天皇の皇女であった
八十宮吉子内親王と婚約している。
しかしながら、家継が八歳で没した為、実際の嫁入りとはならなかった。
ちなみに彼女は、三歳で後家となり、京でそのまま元将軍の御台所として、扱われたが、四十五才でお気の毒な生涯を終えた。
さて、お華は、
「しかし、そのような上様のご婚礼にかかわる事、通常は隊列を組んで、大きな行列で行くのではないのですか?」
と、当然聞く。
しかし、姉小路は、
「いや。今回は内密にしたいのじゃ。我が実家にお願いするだけだからの。そんなことしたらあちらも驚いてしまう。あまり派手にはしたくないのじゃ」
「とは仰られても……」
と、後ろに顔をやり、
「そうなると、道中の警備は、私と、おるいちゃんだけですよ。御心配ではないのですか?」
これも当然聞く。
しかし、姉小路と綾瀬は笑って、綾瀬が、
「お華が居れば、大丈夫よ。山賊だって何とかなるでしょ?」
と、安全については疑いが無いようだ。
そう言われるとお華も、それ以上は言えない。
「はぁ~。まあ、お上の御用であるならば、奉行所同心の妹の私に否はございません。謹んでお受け致します」
と、再び平伏する。
すると、姉小路が、
「そなたも、京の芸者などはみたかろう?」
などと笑いながら言うものだから、これにはお華も笑いながら、
「それはもう。ただ、京と柳橋の芸者対決になるかも知れませんよ?」
などと言うものだから、姉小路と綾瀬は大笑いして、
「おうおう、それは是非見学したいのう、綾瀬」
と、二人と、後ろのるいまで一緒に笑ってしまう。
すると姉小路は、
「では、お華。承知してくれるなら、この事。大奥の瀧川まで伝えてくれるか? 出立は十日後じゃと」
お華も、腹が決まった様で、
「はい。承知いたしました。兄にこの事伝え、それから瀧川様にお会い致します」 と、頭を下げる。
(2)
お華は、そこを出ると、そのまま八丁堀に向かった。
上手いことに、浩太郎も屋敷に在宅していた。
お華はおさよに、
「どう? 姉上。具合は」
と座りながら聞くと、正面に座っているおさよも頷いて、
「もう、つわりも終わったみたいよ。まあ、私も二回目だからね。もう慣れてるようなもんだし」
「そうよね」
と顔を、浩太郎に向け、
「兄上。ご報告があるんですけどね~」
隣に座っている浩太郎が、おさよのお腹を優しく撫でながら、
「なんだ。お華」
と、言うから、お華は呆れた顔で、
「なに、その情けない格好は。嬉しそうに嫁のお腹を撫でてるんだから、侍としてはどうなんだろう?」
それにはおさよも頷きながら笑ってしまう。
浩太郎は、厳しい顔を作り、
「やかましい。で、なんじゃ」
言いながら、やっとお華に顔を向ける。
「ご報告申し上げますよ……」
と姉小路の話をそのまま伝えた。
浩太郎とおさよは、驚いた顔だ。
そして浩太郎は、
「それは、公武合体って事か?」
お華は、そこまで真剣に考えて無かったから、
「合体? あれって、そういう風に言うの? 単に上様のお嫁さんを説得するってだけでしょ?」
浩太郎は、難しい顔で考え込んでいる。そして、
「姉小路様護衛としては、お前だけって事か?」
「るいちゃんも行くよ。あの子も大奥別式女だったから、二人居れば大丈夫でしょ」
お華は気楽に答えるが、浩太郎はそれを聞いてもまだ難しい顔をしている。
しかし、
「上様お為の仕事なら、俺に言う事は無いよ。十日後なら、もう時も無い。サッサと帰って仕度しなさい」
と、特に何も言わず、あっさり承諾した。
「ああ、これから大奥に上がって、この事ご報告しなきゃ。そうね、用意もしなきゃいけないね。じゃ、これで私は行きますよ」
「うん」
浩太郎は腕を組んだまま、頷く。
おきみに送られて、お華は大奥に向かって行ったが、浩太郎はまだ厳しい顔だ。 浩太郎の態度に、少々疑問を持ったおさよは、
「あなた。どうしたって言うの? そんな恐い顔をして……」
と、首を傾げながら聞く。
すると、浩太郎は、
「こりゃ、アイツ危ないな」
などと言う物だから、おさよは大きい眼をして、
「あの、お華ちゃんが? どうしてです?」
浩太郎は一口、茶を飲み、
「おさよ。仮にお前がお華と一緒なら、何かあったらどうする?」
「私が?」
と意外な事を聞かれたが、
「あなただって知ってるでしょ。あの子が動きを止めて、私が足や腕を斬り、お役人に縄を打って貰うのよ」
浩太郎は、大きく頷き。
「そうだ。でも、それが通じるのは江戸だけだ」
「え?」
おさよは、首を傾げる。その意味が分からないからだ。
浩太郎は、顔を上げて、
「おるいさんの事は俺も知ってるが、お前。あの子がお前の変わりが出来ると思うかい?」
そう言われるとさすがに、おさよも、
「まあ、確かに心配な部分はあるけど……。じゃ、るいさんでは、心配だって言うの?」
すると、浩太郎は、
「それに、お前達が普段、江戸で捕まえているのは、単なるコソ泥や付け火の下手人程度の連中だ。それなら、るいさんでも良いだろう。しかし今の京は、ご公儀に逆らって、帝のお為といった連中がウロウロしていると聞く。公武合体に反対し、都で公武合体派の公卿などを襲っていると聞く。それに、その連中は、その為なら命を捨ててても良いって言う奴らだ。それを止めようとしたら、お華一人ではとても心配だ」
そう言われると、おさよも、
「お華ちゃんの技では駄目だって事?」
それには、浩太郎は首を振り、
「本人の目の前では言いたくないが……」
と少し笑い、
「アイツの簪は、俺を超え、恐らく日本一と言ってもいいだろう。でも、それでもアイツは最後にやられる」
「そうよ。で、何でそうなるの?」
すると、浩太郎は、
「お前、忘れたのか? 我が父上から、口を酸っぱくして言われた事」
それには、おさよも上を向き、
「え? お父上……。あ!」
と、彼女も意味が分かった様だ。
さすがにおさよも、何回か頷き、
「そう言われれば、いつもそこまで行かないように手配してたものね……」
すると、浩太郎は、
「仕方無い。頼みに行くしか無い」
と言いながら立ち上がる。
おさよもすぐ、それが誰に対してだかはすぐ分かった。
「やっぱり、そうなるわね」
浩太郎は頷き、吊してある上着を引っ張り出し、
「ちょっと言ってくる」
と出掛けて行った。
それから小半時(30分)も立たず、浩太郎は、優斎の診療所に居た。
優斎は茶を入れている。
「すいません。今、おかよちゃんは、あっちで食事作りの手伝いに行っていて。しかし、どうなされたんです、浩太郎さん。見たところお休みの様ですが、何だか密やかに」
「すまん。どうか気を遣わんでくれ」
と軽く頭を下げ、
「実は、あんたに願いがあって来たんだ」
と、静かに話す。
優斎もそれには少し驚き、
「願いですか?」
様子がおかしいから、不思議な顔で、
「珍しい事言いますね。いったい何です?」
と言うと、浩太郎は、これまでの事を一気に話した。
そして、頭を下げ、
「大変申し訳ないが、あんたもお華に着いて行ってくれんか?」
さすがに優斎も驚き、
「わ、私が?」
と言って、腕を組み、首を横に考える。
浩太郎は、
「先生も分かるだろ、この危なさが。アイツは自分が一番だって思ってるから、何にも考えちゃいないんだ」
それには優斎も、少し頬が緩み、
「確かに仰る通りですね。私も、今の京の様子は、伊達のお屋敷で少し聞いています。確かに、これまでの様にはいかない」
浩太郎は頭を下げ、
「ここだけの話だが、俺は上様の嫁の事など、むしろどうでも良い。しかし、アイツやおさよが父上に教わった事に外れてしまうのが恐いんだ。下手すると、本当に戦国の忍びと一緒になっちまう」
優斎は、さらに難しい顔になり、
「なるほど、そこまで言われますか……しかし、行って帰って、話をしたら、ひと月はかかりますね。その間、誰に……」
診療所が空いてしまう。彼の悩みはそこだった。
すると優斎は、大きく頷き、
「分かりました。その間は、祐三郎に頼みましょう。私がお華さんと京に参ります」
浩太郎の顔に喜色が広がり、
「分かってくれたか! ありがとう!」
と更に深く、頭を下げる。
「お華さんと京かぁ~。何だか流行の、珍道中になりそうですねぇ~」
優斎は、享和の頃のベストセラーとなった「東海道中膝栗毛」を頭に思い浮かべ、笑ってしまう。
浩太郎も、
「弥次喜多かい? むしろそんなんで済んでくれたら、ありがたい限りだよ」
とこちらも笑ってしまう。
(3)
そしてこの二人は翌日の朝、揃って、姉小路の屋敷に向かった。
麻布の長府藩の屋敷に着くと、門番に、
「北町奉行所の桜田」と言うと、門番もその浩太郎の格好から、特段、何も怪しまず二人を通してくれた。
そして、姉小路の住む離れに向かい、玄関先で、
「ご免下さいませ!」
と、些か丁寧に声を上げる。
すると、この時は綾瀬自ら、玄関に姿を現した。
浩太郎はすかさず、頭を下げ、
「私、北町奉行同心、桜田浩太郎と申します。で、こちらは医者の優斎にございます」
綾瀬は、少々顔を曇らせ、
「奉行所の方が、何用で?」
と言う。
さすがに奉行所と聞いて、少々警戒したようだ。
しかし、浩太郎は笑顔で、
「本日は、奉行所の用件などではございません。私は、こちら姉小路様にお世話になっております、お華の兄にございます」
と、再び深く頭を下げる。
さすがに綾瀬も、この言葉を聞いて一挙に緊張も解け、
「ああ、お華ちゃんの! そう言えば、奉行所に勤める兄が居ると聞いた事がございます」
と笑ってしまった。
浩太郎は申し訳無さそうな顔で、
「いつもいつも、ご迷惑をお掛けしておりまして、速くご挨拶にとは思っておりましたが、何分、姉小路様はご身分のお高い方。どうも気後れしてしまって、失礼ながら、もしかしたら綾瀬様で?」
と聞くと、綾瀬は大きく頷き、
「はい、その通りにございます。迷惑も何も、こちらこそあの子にはいつも気を遣って貰って、私などは感謝しているぐらいです。では姉小路様に?」
「はい。今回、お申し付けの件につきまして、お礼とお願いがありまして、そして、もしよろしかったら、一言ご挨拶をと思って参りました」
それには、綾瀬も、
「わかました。それでは姉小路様にお聞きして参ります。少々お待ちくださいませ」
と言って、下がっていった。
そして奥に下がった綾瀬は、本人に報告すると、彼女もさすがに驚き、
「何! お華の兄じゃと?」
「はい。何でも、今回の件で、お礼とお願いがしたいと仰ってますが」
ふんふんと頷いた姉小路は、些か嬉しそうに、
「承知した。では居間に」
と言う事で、
浩太郎と優斎は、居間に通された。
そう間も置かず、姉小路が二人の前に現れた。相変わらず、大奥年寄風の打ち掛けを纏い、席に着く。
それと同時に、二人は平伏し、浩太郎が、
「これはこれは朝早く、ご無理を申しまして、誠に申し訳ございません。私はお華の兄、北町奉行所の桜田浩太郎にございます。そして後ろに控えておりますのが、優斎という医者にございます」
と、また二人は平伏する。
姉小路は、微笑み、
「そなたがお華の兄か。話は色々聞いてるぞ」
と言うから、浩太郎は顔を上げ、
「あれは、口が悪いものですから……。つまらぬ話をお聞かせしまして、誠に申し訳ございません」
とこちらも、微笑みながら謝る。
すると、姉小路は、いきなり本題に入った。
「何、今回の京都上洛の件で、と聞いたが。もしかしたら不服か?」
それには、浩太郎も、真面目な顔で大きく手を振り、
「とんでもございません。私も幕臣の端くれ、此度の、恐れ多くも上様のお仕事に不服などあるわけがございません。ただ……」
「ただ、なんじゃ?」
浩太郎は、真っ直ぐ姉小路を見詰めながら、
「はい。私が案じておりますのは、姉小路様の護衛が、あれ一人で間に合うのか、と言う事にございます」
しかし、それには横の綾瀬が、
「あの子は、そりゃ強い。それは私も姉小路様とて、目にしておるぞ?」
それには浩太郎も、深く頭を下げ、
「はい。お二人には、あの子の技をお認めくだされておられます事、私に取りましても、日頃、どれだけありがたいと思ってる事か……」
そして、
「しかし、今回はご上洛との話を伺いまして、近頃の京都町奉行からの報告、そして伝え聞いているところによりますと、かなり思った以上に物騒な様子。恐らく普段あの子が、相手にするような連中とは少々違う様に思いまする。そして、この様な時、もし我が妻おさよが一緒に居るのなら、それ程心配もしません。ところが、我が妻はあいにく身ごもっておりまして、とても御役には立てません」
それには、姉小路も笑って、
「おお、それは聞いてるぞ、おさよは目出度い事じゃ。落ち着いたら、たまには遊びに来いと言っておくれ。で、そちらはお医者か?」
浩太郎も大きく頷きながら、
「ありがとうございます。必ず伝えます。そうでございます。この場合、代わりにふさわしいのはこの男にございます。この男は普段、お華の屋敷の隣で、子供相手の医者を務めております」
それには綾瀬が笑顔で、
「そうでないかと思ったが、やはりの。お華ちゃんが良く言ってますから」
今度は優斎が「ありがとうございます」と深く頭を下げる。
そして浩太郎は、
「この男、医者ではございますが、実は、一刀流の達人。お華をたまに手伝っておりますし、この度は長旅。医者が一人居れば、女性の皆様も何かとご安心なのではと存じます」
それと同時に、優斎が、
「私、実は元、伊達家の者にございますが、今はそちらを退きまして、医者を生業としている者にございます。聞けば、退いたとは言え、我が殿にとりましても非常に大事なお役目。そのお役目ですから殿もお喜び下さいますでしょう。どうか、今回の件、お許しくださいますようお願い申し上げます」
そして浩太郎が、
「もしやすると、お二方とも、もうご存じかも知れませんが、あの子は強い子です。しかし、あれは今まで人を殺した事はございません」
「おお、それは確かに」
と姉小路は頷く。
「何故かと申しますと、まずは、父親が北町に勤めて折りましたので、それだけは厳重に言い聞かせました。この事は、おさよも同じにございます。いくら、危険な事があっても、あの子達なら何とか出来ます。父も、奉行所の娘であれば、捕まえ、お奉行のお裁きが正しいあり方と申して降りまして、二人ともそれは、重々承知しておりますし、本来のあり方と分かっている筈でございます。特にお華は、相手を殺そうと思えば、ちょっと方向を変えるだけで、簡単でございます。父はそれを恐れました。ただでさえ、戦国並みの技を持っている者が、殺しも厭わないとなると、もう元には戻れません。あの子もそれが分かったのか、父が死んだ後もそれを続けております」
綾瀬が、大きく頷いて、
「確かにな。それは良く分かる」
すると浩太郎は、呆れた様な笑いで、
「ところが、それが身体に染みついてしまいますと、今回の京都行きなどでは、役に立たない恐れがあります。私としては、父とは逆にそれを恐れてしまうのです。お華一人ならともかく、姉小路様にまでご迷惑をお掛けするのではないかと……」
姉小路も大きく頷いて、
「なるほど、聞いてみれば、筋の通った話じゃ。確かに江戸と京は違うからの」
浩太郎は、ここで改めて、
「今回伺いましたのは、この事にございます。如何でしょうか?」
と聞く。
すると、綾瀬が、姉小路に向かって、
「お華ちゃんの事はともかく、お医者が一緒に参るなら、私共も、これほど心強い事はありません。私も良い事と思いますが……」
姉小路も、浩太郎の考えに、特に異論も無いから、
「そうじゃな。折角の京じゃ。万全の方が安心じゃからな」
と、快く承諾してくれた。
すると、るいが、お茶をいれてやって来た。
るいは、浩太郎の事を知っているから、笑顔で挨拶をする。
「これはこれは、るい殿。久方振りにございます」
の言葉に微笑みながら、皆に茶を出す。
すると姉小路は、浩太郎に、
「以前から聞きたかったのだが、お華はなぜあんなに強いのじゃ? 子供の頃から鍛えたのか?」
と聞く。
浩太郎は、些か笑いながら、
「そうでございますな。日頃、お世話になっております姉小路様でございますから、包み隠さず申しますが、私の家は、元々、甲府の者でして。そうです、あの有名な武田信玄の」
それには姉小路も、
「ほう。あの武田の……」
「はい、そして私共の家は草の者と言われる、忍びの家柄だったそうです」
「忍びの? ははあ~、だからその血を受け継いで、あそこまでになったと言う事か?」
しかし、浩太郎は少々笑いながら、
「ところが、そうでは無いのです」
と首を振る。前の二人は「え?」と呆気にとられた顔だ。
そして浩太郎は、
「まあ、本当に我が家の娘であるなら、仰る事その通りと存じますが……」
姉小路はさすがに混乱した。
「ど、どういうことじゃ?」
「はい。あの姉小路様。本人から、その辺お聞きになった事はございませんか?」
「うん。父から教わったとしか聞いておらん」
「本日、ご挨拶出来まして、誠にに有り難い事にございます。こうなると、一応、お耳に入れなければなりますまい。実は、私とあの子は、本当の兄弟では無いのです」
さすがに、その事には二人も驚き、綾瀬が、
「と言う事は、養女と言う事か?」
しかし、浩太郎は、首を振り、
「いえ、実はあの子。拾い子なのです」
「拾い子?!」
二人は更に驚き、目を丸くする。
浩太郎は、遠い昔を眺めている様な目で、
「昔の事、まだお華が赤子であった時の事にございます。あの子は元々、神田人形町の呉服屋の娘だったのです。ところがある夜の事。その呉服屋に盗賊による押込がありまして、家族と店の者全て皆殺しにあってしまいました。その頃、私の父は、私と同じ同心でございましたので、知らせで向かったのですが、その時には既に、家の中は血の海、下手人も去った後でございました。父は余りの事に気を落としていたところ。何やら、どこからか赤子の泣き声の様な音が聞こえて参ります。父は驚き、懸命に探した所、米櫃の中で、胸元に一本の花が飾られていた赤子を見つけたのです」
「そ、それが、あのお華と言うのか?」
姉小路も少々興奮気味で聞く。
浩太郎は「はい」と頷き、
「左様にございます。その両親は既にやられておりましたが、そのほんの直前、母親は何とか子供だけでもと、米櫃に隠したのでしょう。胸に花まで添えて……。しかし、そんな押込強盗があった中、あれは泣き声一つ立てず、我が父が来るまで、一切黙ってたと言うのが父の心を掴みまして、養女にしたと言うのが、あの子の生い立ちにございます」
さすがに、あまりに衝撃的な話を聞いて、二人は黙ってしまう。
浩太郎は続けて、
「ですから、甲府とも全く血は繋がっては無いのですが、ただ、二度とあのような目に遭わぬ様、そして身を守る為にと手裏剣を教えたのです。ところが、予想を超えたあまりの上達。これには父も喜んでしまいまして、つい身の危険を守る以上の技まで教えてしまったと言う事にございます」
と笑ってしまう。
そして、
「お仕えするのが、元上臈年寄、姉小路様でございますから、これもお話ししなければなりません」
綾瀬が、さらに驚いた様に、
「まだ、何かあるのか? 御前が、お年寄だったからお話するとは、いったいどういう事なのじゃ?」
浩太郎は、一度、平伏して、
「実は、この事が分かったのは、あの~覚えていらっしゃると思いますが、江戸城火事の折りにございます」
それには姉小路も、頷き、
「もちろん、忘れてはおらん。あの時、お華達のお陰でどれだけ助かったか……」
と言うと、綾瀬が「あっ」っと声を上げ、優斎に向かって、
「あの時、おさよに毒物の事を教えてくれたのは、そなただったな」
優斎は微笑みながら頷いて、
「はい。あの折。如何にも毒が仕込んであったのはすぐわかりましたので、おさよ様に、その取扱について、お教え致しました」
「ほう、では、もうあの頃から……」
綾瀬が感心しているところ、浩太郎が、
「あの折、お華達の働きはご存じの通りにございます。姉小路様のお情けにより、あの時襲った者達も、今は伊賀に帰り、畑仕事などを生業にしているそうにございます」
それには姉小路も微笑み、
「それはなにより」
と喜ぶ。
そして浩太郎は、
「で、その時でございます。私と優斎はご無礼ながら、お華達が心配だったので、脇の山に登って、いざという時は出て行こうと見ていますと、そこに、先日お亡くなりになりましたが、当時の伊賀の頭領、当代の服部半蔵様がお出でになりました。そして、お華の技を見た途端、驚愕なさいまして……」
それには姉小路が、
「ああ、半蔵門の半蔵か?」
「はい。頭領によりますと、お華の技は、確かに信濃、草の者の技だと申すのです。私も、甲府なら当然分かりますが、信濃などとは思いもよりませんでした。なんでも伊賀に伝わる話だそうで、皆様。約二百年余り前の、大阪の陣はご存じでございますよね」
それには、さすがに姉小路は頷き、
「当然じゃ、あれで権現様の天下は盤石になったからの」
「誠にその通りにございます。ではその折り、敵方で唯一、権現様を寒からしめ、何度も切腹寸前まで追い詰めた大将の名はご存じで?」
「え?」
と、さすがにそこまで細かい事は、姉小路も知らなかったが、るいが声を上げた。
「そ、それは確か、真田幸村とか言う、大将では?」
さすがに、元、別式女だけあって、その辺はよく知っている。
浩太郎は頷き、
「はい。その通りにございます。そしてその幸村が率いていたのが、信濃の草の者にございます」
姉小路もさすがにそれには驚いて、
「待て、待て。まさか、その?」
浩太郎は一度、平伏して、
「正しくそうなのです。その時、権現様をお守りしていたのが伊賀者。そして襲ったのが信濃の者にございます。要するに、今、お華に伝わるあの技で、権現様は死にかけたという事にございます」
これには、三人とも、さすがに大きな衝撃であった。
姉小路は、眉を寄せ、
「なるほど、権現様を襲った者の血を引いていたという訳か」
「はい。そして、お華の実の親が、実は、信濃出身者であったのが分かったのが、つい最近の事。私も今まで、単に筋が良い子だとばかり思っていたのですが、元々その様な血を引いているなら、当然と言えば当然かなと、確信している所にございます。しかしこれは、幕臣としては、罪と言えば罪なのかも知れません。姉小路様。それでも、よろしゅうございましょうや」
それには、姉小路も笑顔で手を振り、
「そんな昔の事、罪でもなんでもないわ。二百年も前の事なんぞ」
と笑い飛ばし、そして、
「それに、あの時、そんな娘が、千代田の火事に働きわらわを守り、更には、あの頃の上様までお守りしているのじゃ。まさに昨日の敵は今日の友じゃの?」
二人は顔を合わせ、また笑っている。
「そうなのです。運命というのは分からないものです」
と浩太郎も笑う。
そして、浩太郎達が帰ろうとする時、浩太郎はある事に気づき、
「あの姉小路様。実はもう一つお願いが……」
「なんじゃ?」
「いえ、大した事ではございません。実は私、仮とはいえ兄として、この優斎とお華を娶せたいと思っておりまして……」
これにはむしろ、優斎の方が仰天し、
「こ、浩太郎さん!」
と、袖を掴まんばかり慌てるが浩太郎は、少し笑いながら、
「この優斎には、時折、お華を嫁にと頼んでいるのですが、いつも言う機会がない、などと言っておりますし、お華はお華で、その内ね~とか言って、もう十年は経っております。この二人は、剣やら手裏剣やら、踊りや医者などの腕は人一倍凄いのですが、こういう事は、これも二人、揃いも揃って人より何倍も奥手」
その話には、るいも大笑いである。
「どうか、あのアホ娘の尻を引っ叩いて、速く嫁に行けと仰って頂けませんか。あれは、さすがに姉小路様が仰る事には、文句言いながらも従うと思いますので、どうか今回の旅で怒鳴りつけて下さればありがたく存じます」
と、再び平伏だ。
優斎は、余りの展開に困惑してはいるものの、浩太郎と一緒に頭を下げてしまう。
姉小路は、笑いながら和やかに、
「なるほどな。しかし、そなたも面白いな」
と口に手を当て、笑い、
「ま、尻はともかく、言うだけ言っておこう」
それには浩太郎も笑顔で、
「これはこれは、誠にありがとうございます。これにて、亡き父の最後の願いも叶いまする」
浩太郎達が帰ると、綾瀬は、
「しかし、それにしても驚きましたな~御前」
と言うと、何故か、姉小路は、懐紙で目元を拭っている。
「こ、これで良く分かった。わらわが、お華を可愛がってしまう理由が……」
それには、さすがに綾瀬も驚き、
「どういう事でございますか?」
と、聞く。すると姉小路は、
「わらわもな、実は捨て子だったのじゃ……」
「え? そんな事、始めてお伺いしました」
「わらわと水戸の妹は、京で親に捨てられてな、その時丁度、橋本の父に拾われたのじゃ」
綾瀬はもう、驚きのあまり声もでない。
そして姉小路は、
「あの子も、家のために芸者になった。わらわもそこの本当の娘が、帝に上がるというので、丁度話がきていた大奥勤めを承諾したのじゃ。そこまで似てるとはの。でも良かった。それなら何も気を遣うことはない。本当の妹として扱える」
と、寂しそうに笑う。
(4)
「え~! 私が?」
と、驚きの声を上げているのは、優斎の弟、祐三郎である。
「留守番と言っても、何もお前に医者をやれって言うのではない。殆どの事は、おかよさんがやるので、心配は無い」
優斎は、おかよに微笑みながら言うのだが、祐三郎は、
「とは、仰られても。ま、まず殿様のお許しを頂かないと」
と言うのだが、優斎は、
「ああ、それならもうお許しは頂いた。事が事じゃ。官位を頂いたばかりの我が家であるから、行ってくれればありがたい。と仰ってな」
と、さすがにそこら辺は早い。
しかし、祐三郎は尚も食い下がり、
「しかし、私などでは、おかよさんに御迷惑をお掛けするんじゃ……」
これには、おかよが、
「いえいえ、御心配は要りません。一生懸命やりますので、お気遣いなく」
と、和やかに言うので、
「は~」
としか言えず、頭を掻く祐三郎。
優斎は、一枚紙を出して、
「どうしても、おかよさんでは難しい場合には、これに書かれている他の医者に協力を頼めば良い。これらには、既に挨拶は済ませてある」
やはり、早い。
簡単に逃げ道を封じられた祐三郎は、仕方無く。
「承知致しました。おかよさん。どうぞよろしくお願いします」
と頭を下げてしまった。
おかよは、満面笑みで「はい」と頷く。
優斎は、
「まあ、ひと月ちょっとじゃ。なるべく早く帰ってくるからな」
と微笑む。
一方、お華は、
すぐに本所に行って、簪を受け取り、そして帰りには、女用の笠と、藍染めの手甲と脚絆を買い求めた。これはどれも日除け、並びにマムシ除けの目的で、女性の一般的な装束である。
戻ってきて、すぐ優斎の所に行ったら、祐三郎がお華を見て「ああ~」と俯いてしまう。
「ああ、サブちゃん居たの。頼むよ、私と先生は、しばらく屋敷を離れるからね」 祐三郎は、「へい、へい」と、お手上げ状態である。
優斎は少し微笑みながら、
「お華さん。簪、貰ってきたのかい?」
お華も、真面目な顔で、
「四十位で間に合うかなぁ~」
と聞くが、優斎は、とりあえず数を聞いておきたかっただけなので、
「大丈夫ですよ、それだけあれば。私もそれに合わせて動きますから」
「そう。まあ間に合わなきゃ、そこらの石でもいいしね。あ、そうそう」
と、思い出した様な顔で、祐三郎に、
「サブちゃん。もし屋敷で何かあったら、すぐノブさんを呼ぶようにね。そう言う時あんたじゃ役に立たないからさ」
しかし、それには祐三郎は、
「何を仰います。私も武士の端くれ。私が皆さんをお守り致します!」
と力強く宣言するのだが、お華には鼻で笑われ、
「何言ってんの。あんたが立ち向かったって、おかよさんの仕事が増えるだけでしょ」
とお華は、祐三郎の自信なんぞ、根底から打ち砕き、
「あんたじゃ無理。それよりそんな時、すぐに弥七さんの所に行って、捕り手を呼んでくるのよ。先生、弥七さんの家も教えといてね」
優斎は、ガックリ落ち込んでいる祐三郎を気の毒そうに見ながら、
「ああ、そうだね。それが良さそうだ」
と含み笑いである。
するとお華は、
「ねえ、先生。行きは東海道の様だけど、どの辺から気を付ければ良いと思う?」
それには優斎も腕を組み、
「そうですねぇ。お華さんも聞いてると思うけど、京は些か物騒らしい。特に今回の上様の婚姻には特に反対の声があるようだ。ただ、今回の姉小路様ご上洛がそれと関わりがあるのか迄は、分からぬとは思います。ですから、全ては京に入ってからで良いと思います」
「そう思う?」
「ええ、まあ大丈夫でしょう」
「そう」
と、お華は嬉しげに喜ぶ。
しかし祐三郎には、一転、
「ちゃんとやるのよ」
と冷たい一言。
祐三郎はテーブルに突っ伏して、今にも泣きそうだが、おかよがそっと肩に手を差し伸べ、
「祐三郎様、大丈夫にございますよ」
と優しい言葉を掛けられて、途端に笑顔で、おかよに頷く。
さて、そんなところで、準備も調い、あっという間に出発の日となった。
浩太郎達に見送ってもらい、優斎とお華は品川方面に旅立った。
品川まで降りてきた駕籠の姉小路一行に合流し、いよいよここからは、東海道五十次を京都までひたすら歩き続ける事になる。
お華は、
「先生、今日はどこまで?」
と聞くと、優斎は、隣の綾瀬と少し話し、
「今日は、川崎止まりだそうです」
「川崎かぁ~」
と、嬉しそうに頷くお華。お華にとっては、江戸を離れて旅に出るなど初めての経験であるし、優斎とも一緒なので、そんな嬉しさも手伝ってか、歩きも軽やかだ。
しかし、そんな思いとは別に、彼女は、知らず知らずの内に、歴史の新しい扉を今開こうとしている。意思とは別に不思議な事である。
男は駕籠の継ぎ手の男達と、優斎だけ、後は女ばかり五人の小さな一行は、多摩川を渡し船で超えていく。
~つづく~
今回もお読み頂きありがとうございます。
お華は、とうとう上洛致します。
とは言っても、今回は、まだ前段階。
お気づきの通り、今回は「公武合体」の話です。
姉小路が、京に行って、説得を兼ねた、事前打ち合わせに行ったと言うのは本当の話ですが、彼女にとっても、これが、歴史に顔を出す最後となります。
次回あたり、和宮親子内親王が登場します。
お華は、彼女に会えるのでしょうか?
ま、芝居上、会う事にはなるんですけどね(笑)
何しろ、橋本家の繋がりですし。
それでは、次回もよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。




