㉘トミーの奇跡
(1)
安政七年三月三日。桜田門外の変が発生。
大老・井伊直弼を襲い、暗殺した事件だ。
幕府も驚愕の事件だったが、しばらくは伏せられて、直弼は、急病で伏せっているとされている。
しかし、あれだけの目があって、誤魔化すことは不可能だった。
当然、一夜のうちに、江戸中に話は広がった。
さて、翌日のお華。
昨日の分を取り戻すべくなのか、火鉢の前に陣取りボーッとしている。
そこに、優斎とおかよがやって来た。
「ああ、おはよう先生。おかよちゃん」
しかし、優斎はそんな事より、
「ねえ、お華さん。桜田門の話、本当かい?」
と第一声。お華は苦笑しながら、
「早いね~先生。ちょうど、私の目の前で起こっちゃってね~」
「え? 目の前? んじゃあんたも?」
優斎の目は鋭くなる。
しかしお華は、それにはさすがに手を振って、
「やりませんよ。信吉も居たし。大体、どっちの味方していいか分からないし」
それにはおかよが笑う。
「おかよちゃん。前、手伝って貰ってありがとうね。お奉行様に報告しといたよ。ありがとうね」
二人は上に上がって、お華と同じく火鉢の周りに座りながら、おかよが手を振り、
「やっぱり? あれはそうだったの?」
と聞くとお華は頷き、
「あの人が、ご大老の首を取ったみたいよ。でも、力尽きて結局自害しちゃったけどね」
「え~」
おかよも驚く。一瞬の出会いだったが、よく憶えていた。
すると優斎が、
「聞きましたよ。薩摩ですって?」
お華は頷き、
「殆ど水戸らしいんだけど、何故か一人だけ薩摩なのよ。今頃、薩摩のお屋敷じゃ大騒ぎじゃない?」
優斎も大きく頷き、
「そうでしょうね~」
と腕を組んで、大きく頷く。
当然ながら、既に日本中、下手人逮捕に目付が動いている。
結局、後に殆ど捕まり、斬首されている。
その遺体は千住回向院に、今も埋葬されている。
お華は、優斎に、
「そう言えばサブちゃん。この事で戻って来ちゃうかしら?」
と聞く。
「はは、あいつは事件があったことすら知りませんよ。さすがにひと月掛かりますから……。結局、帰るまでわからないでしょう」
お華は微笑み、
「そうだったね。知ったところでしょうがないか……」
「そういうところです」
優斎も微笑む。
と言う事で、その時の祐三郎、つまり遣米使節一行だが、この頃サンフランシスコを目指し、あと四日という位置に居た。
実は途中、激しい嵐の為、石炭を使いすぎ、ハワイホノルルに立ち寄り、石炭の補給などを行っていたから、随分と遅れてしまった。
ちなみにハワイにおいて、一行は、当時のハワイ国王・カメハメハ四世に拝謁している。
祐三郎は、ハワイでさえ、驚きの連続である。
「斧太郎さん。私の国にも海はありますが、これほど綺麗だと思いませんでした」
それは、長崎にも行っていた斧次郎も同じで、
「本当ですよ。こんな所に国があったなんて。でも、アメリカの属国になっているらしい。その辺は私達も気を付けないですね」
などと言い合う。
そして一行は、良く分からない王様に拝謁する事になった。
とはいえ、その緊張と恐れは計り知れない。
ところでハワイだから、当然熱い。
この頃日本なら二月十八日だから、その違いにも驚いていた。
さて、ハワイ国王、若干二十八歳のカメハメハ四世の招きで、一行は王宮に向かった。
儀仗兵の歓迎を受け、王宮に入っていく。
王は、礼装で帯を肩からかけたいでたちで、迎え入れ、
「日本の使節にお会い出来て、嬉しい。不足な物があったら遠慮無く言ってほしい」と、同時に、「我が国もアメリカ同様、条約を日本と結びたい」と要求してきた。
それには、皆を代表して、小栗が祐三郎を伴い、
「帰国後。将軍様に至急、伝えまする」
と、言い、歓迎に感謝した。
そして、一行を何より驚かせたのは王妃であった。
日本で言えば、御台所様。
とは言え当然、その身なりは全く違う。
二十四、五歳ぐらいなのであろうか、胸元を開けた、いわゆるロングドレスで登場した。
気品に満ちた、美貌の女性で、親しく皆に声をかける。
祐三郎と斧次郎はあっちこっち大急ぎで駆け回っている。
しかしこの頃は、現地のハワイ語混じりの英語なので、二人とも翻訳に四苦八苦だ。
のち、宴が終わり、宿舎に帰った一行は、
「ご亭主は襷掛け、女将さんは諸肌脱ぎで珍客に会う」
などと言って、皆で大笑いになったとか。
しかし、王は王である。
皆のぎこちなさは隠し様もなかった。
「一同、国王との謁見に気後れした様子が見受けられ、小栗公は歯がゆい思いをしただろう。これではワシントンではどうなってしまうのか心配だ」
と同行者の一人は、そう書き残している。
(2)
そして一行は、ようやくハワイを出発し、サンフランシスコに向けて出発した。
この六日後、日本では「桜田門の変」が勃発している。
が、もちろん、一行は誰一人、知る由も無い。
一行はただただ、先を突き進む。
万延元年三月九日、そうこの年、改元があった。
桜田門の事があり、江戸城本丸で火事があったからと言われているが、本当の事は不明である。
と言う事で、その日夜明け前に、ポーハッタン号はサンフランシスコに近づいた。
甲板で、その様子を眺めていた斧次郎は、船内に駆け込み、祐三郎を起こす。
「おい! もうすぐ着くぞ!」
言われた祐三郎は慌てて、斧次郎の後を追っかける。
二人はデッキの柵に寄りかかりながら、ゴールデンゲート。だが、この当時はまだ橋は架かっておらず、ただの海門である。
それを通り過ぎ、目前に広がる港の様子が近づくにつれ、二人とも驚愕した。
艦首に日の丸を揚げたポー八ッタン号が港に近づくと、早速、水先案内の小舟がやって来て誘導する。
そして港についた船を確認すると、他の巡視船たちが到着を祝し、二十一発の祝砲を放つ。ポー八ッタンも答礼の砲を放つ。
祐三郎たちの回りは、砲煙に包まれる。
先に到着している筈の咸臨丸は、暴風雨で船体が痛み、既にメーア島海軍工廠で修理中との事だった。
しかし、祐三郎は、この港の様子に驚愕している。
港はもちろん、日本にもあるが、全く違うものだった。
彼は、横浜も知っているから、緊張はしていなかったが、レンガ作りの海岸と砲台。これらを見ただけで(こら、勝てんわ)と思ってしまった。
日本の、お台場を知っている祐三郎は、あまりの違いに驚きより悲しくなってしまった。
しかし、それよりも仰天したのは、埠頭に詰めかけた一般人の数だった。
祐三郎と斧次郎は顔を見合わせ、
「これは、敵か味方か?」と言ってしまうが、後ろから、
「歓迎されておるのだ」
と声がした。二人が振り向くと、笑顔の小栗上野介だった。
「これは、小栗様!」
二人は慌てて頭を下げる。
しかし、裕三郞は、
「私達を歓迎とは、それは……」
と言うと、小栗はさらに笑って、
「両国と変わらんよ。珍しい物を見に来たのじゃ」
「両国?」
祐三郎は驚いたが、当然すぐにわかり、
「では、私達は見世物同然と?」
小栗は大きく頷き、
「考えてもみよ。遙か極東から、髷を付け、刀を持った見た事もない服装の連中だ。見世物としては、これ以上のものはあるまい!」
これには斧次郎も頷き、
「確かに。こりゃこれからどうなるんだか……」
不安になりながらも、なぜか笑ってしまう三人であった。
(2)
さて、彼らはハワイに寄ってしまった為、同時に出発した「咸臨丸」は、先に着いている筈だったが、この湾に艦影は見当たらなかった。
「咸臨丸」は初の日本船だったが、製造はオランダ。
今回の日本最初の太平洋横断は、勝安房守を館長としてアメリカに向かった。
当初は日本人のみで行うつもりであったが、しかし、普段船に慣れている船員も、さすがに太平洋横断は勝ってが違った様で、ポー八ッタン号と同じく、嵐には大変、難渋した様だ。
それに肝心の、勝は、船酔いが酷く、殆ど最後まで寝てばかりだったと、同乗の福沢諭吉が語っている。
「咸臨丸」は十二日前に到着していたのだが、その暴風雨で傷んだ船体修理の為、メーア島海軍工廠に運ばれてしまっていた。
そして、祐三郎達が到着して、咸臨丸に乗っていた軍艦奉行、木村摂津守喜毅が出迎えにきた。
斧次郎と祐三郎は格上の相手なので、緊張して出迎えたが、彼は皆と顔を見合わせるとあまりの嬉しさに、目付の小栗はともかく、祐三郎達にまで涙で手を握り、喜んでくれた。
さすがに未知の国での同胞の到着に、我を忘れ感激していた様だ。
船から下りた一行は、妙に多い人混みをくぐり抜け、列を組んで町中を進む。
後に、新聞に、
「日本人は列を組んで歩く事を知っている!」
などと、驚いている。
如何に、野蛮人だと思われていたかが、これだけで分かる。
それはともかく、祐三郎は、その町中を見回しながら、あまりにも高い建物が建ち並んでいたのには驚愕を隠せない。
横浜でも驚いていたのに、さらに驚いてしまった。
四、五階はある建物。その作り、まるで城の天守閣の様な建物が幾つも並んでいる。
これが、一般の町人が住む所と聞いてさらに驚愕した。
この頃の江戸幕府・諸大名は、二階以上の建物は禁止していた。
頭上から、殿を見下げるのは罷り成らぬ。という事らしい。
とは言っても、三階程度の商家などは、江戸末期にはあった様だ。
しかし、二階は中二階。三階を二階と称していたりする。
せいぜいその程度である。
だから、ここまで、しかもレンガ作りの馬鹿でかい建物と石畳の歩道には、凄いと言うより恐ろしさを感じていた。
彼は心の中で再度、(やはり、戦わなくて良かった……)
と、黒船来航の折を思い出し、つくづく実感した。
そして、是非、兄上にもご覧戴きたいと、心から思っていた。
その後、サンフランシスコ市が、遣米使節一行の歓迎会を開いてくれた。
アメリカでの最初の公式行事だ。
もちろん、一行もそれは承知していて緊張の極致といった様子ではあったが、ハワイでの件もあったからか、何とか無事に、終了した。
そして、その日まで艦内で過ごしていた一行は、
「インターナショナルホテル」に宿泊となった。
ここでは祐三郎達、今度は文化の違いの説明で大忙しである。
船と基本的に違いはないのだが、一同、生涯初めてのホテルである。
その説明と過ごし方の指導が大変だった。
祐三郎は、それも一段落して、部屋に戻ると何やら階下が騒がしい。
不審な顔で窓を開け覗いてみたら、人が部屋を見上げて一杯だった。
歓迎会でも、本当に歓迎してして貰って、ほっと一息ついたのにも関わらず、しかも夜中なのにこの騒ぎには、恐怖すら感じる。
しかし、良く見ると女性達ばかりだった。
そして、「トミー!」という歓声まで聞こえた。
それで、祐三郎はピンと気が付いた。
「斧さんのことじゃ……」
である。
斧次郎は、船の中で、その陽気さと、あちこち船内を、しょっちゅう見て回っていたので、外国人の船員達に人気で、殆ど少年に見えたせいか「トミー!」と可愛がられていたからだ。
ちなみに、トミーは、ピーピング・トム(覗き屋)から来ていると言われている。 祐三郎は慌てて、斧次郎の部屋に行って説明すると、彼も首を傾げて、困った顔だ。
「本当に私?」
「そうさ、試しに窓から顔出してみな」
と言われ、斧次郎が顔を出すと、もう大騒ぎだった。
そうまるで、1966年、赤坂キャピタルホテルに「ビートルズ」初来日で最初に泊まった時と全く同じ光景が、なんとビートルズより先に、そして何より、ただの日本人の若い武士がこれほどの人気になるとは誰一人、思っていなかっただろう。
しかし、何故彼に?
これについて、裕三郞は小栗上野介の部屋に行き、状況を説明すると、話を聞いた小栗上野介もあっけに取られるぐらいだ。
祐三郎は笑いながら、
「小栗様。見世物と仰っておられましたが、あいつ、団十郎より人気がありますよ」
と言うと、小栗は腕を組み、
「納得いかん。わしならともかく、なんで斧なんだ?」
などというものだから、二人で笑ってしまう。
ともかく、この人気は異常で、現地の新聞で、全国にこの事が紹介される程であった。
(3)
さて、同じ頃の日本。お華の屋敷である。
お華は出掛けていた様で、ちょうど帰って来ると、居間には優斎とおかよが遅い昼食を取っていた。
「あら先生、今お昼?」
上がりながらお華が聞くと、既に取り終えていた優斎が、一口お茶を飲み、
「お華さん。お出掛けでしたか」
お華は真ん前にぺたんと座り、
「ちょっと姉様(姉小路)の所にね」
と言うとすぐ、
「ねえ、先生。例の桜田の件なんだけどさ」
「え?」
とと聞き返す。
「それがどうしました?」
するとお華が片手を振って、
「あの、井伊様。お上では御病気でお亡くなりとなってるわよ」
と、些か笑いながら言う。それにはさすがに、
「え? だってあれは……」
もちろん、一部始終をお華に聞かされている優斎は驚いている。
おかよも、何の話だと眉を寄せ真剣に聞いている。
するとお華は、
「あのね。姉様からお聞きしたんだけど、どうもお上は、井伊様御病気でお亡くなりになったって発表されるらしいわよ。もうとっくに首が無いのに、上様は、お見舞いの品まで贈っているそうよ」
そこまで聞くと、優斎も意味を理解し、
「なるほど……」と頷く。
しかし、お華は、
「ねえ、先生が例えば、ご老中であっても同じ扱いにする?」
それには優斎も少し、顔をほころばせ、
「そんな、わたしなんて……。でも、分かる気はしますよ」
「え? そうなの?」
「それは恐らく、戦にしない為でしょう。彦根の方にしてみれば、戦にしてもおかしくありません。それにお殿様はご大老だった方。戦ともなれば、お上も一緒に戦わなければなりません。しかし、今、そんなことやってしまったら、国中、大混乱にもなりかねませんからね。しかも薩摩もいますし」
そう言われれば、お華も大きく頷き、
「やっぱり、そう」
「まあ、その代わり水戸様は、格下げと言う様な立場に追い込まれるでしょうし、斉昭様は、もうお仕舞いでしょう。これで我慢しろって言う事じゃないですか」
それはお華にも納得出来る。
すると、おかよが、
「祐三郎様は大丈夫でしょうか? この様な時に国を離れていて……」
と心配そうに言うのだが、お華と優斎は笑って首を振る。
「おかよさん。心配ないですよ。さすがに遠いですから。その事自体、まだ知らないでしょうし、知っていたとしてもどうしようもありません」
しかしお華は、
「でもさ、あの子達もそんな事を知らずに、国のために一生懸命御役に勤めているとは思うけどね、送り出したご大老の首が既に無いなんて、何だか気の毒というか、何というか……」
もう祐三郎は「あの子」扱いである。
優斎も頷いて、
「確かに。でも、井伊様には申し訳無いですが、これは単にお上の為というのではなく、我が国の人々の為になる事です。どうかしっかりやって来て欲しいです」
「でもさ、さぞ驚くだろうね」
「それは確かに」
と江戸で、お華が祐三郎の話題を出している、同じ時。
一行は次の訪問地に向かうべく、移動していた。
再びポー八ッタン号で、次のパナマに向かった。
ここでポー八ッタン号とは別れを告げ、今度はパナマ鉄道の旅である。
ここでも侍一行の人気は高く、多くの見物人であった。
それを何とかすり抜け、初めて見る汽車に恐る恐る一行は乗り込んだ。
汽車の存在自体は、祐三郎も優斎から聞いてはいたが、見るも乗るのも初めて。 そして、いざ動き始めた時の驚きは半端ではない。
あまりにも速い移動。そしてその騒音の大きさも、当然始めてである。
その驚きは、従者の日記にも書かれている位で、如何に衝撃だったのが分かる。
祐三郎も、もうこの頃は、トミーと呼んでしまっている斧次郎に、
「こりゃ凄いな。江戸から京、辺りまでどれくらいでつくんだろうね、トミー」
トミーは苦笑しながら、
「そうですね~どれぐらいなんでしょう」
とこちらも首を捻る。
明治時代で、約十二時間から十四時間と言われている。
江戸時代には、徒歩でほぼ二週間と言われていたから、想像の範囲を超えている。
一方、小栗は、祐三郎と斧次郎を呼び一緒に、アメリカ側の接待委員、ガルナイの所に行って、汽車について幾つか質問している。
通訳も、二人居れば楽というものである。
まず、小栗は、
「このパナマ鉄道の建設費は幾らかかったのか?」
「建設資金の調達方法は?」
など聞いている。
するとガルナイは、
「距離は四十七里半(約184㎞)。建設費は総計七百両(一両10万円として7000万)かかりました。そしてこれはアメリカ政府が出した物ではなく、発起人の呼びかけで、富裕な商人から寄付を集めて組合を作りました。乗客、そして物の輸送の収入をパナマ政府に地代として毎年六万ドル。残りを鉄道運営費用、そして組合員に分けるというやり方をとってます」
と説明してくれた。
いわゆる会社システムの話であるが、小栗はもちろん祐三郎達も通訳していて、驚いた。
基本的にこのやり方なら、幕府に金があるかどうかは関係無く、今で言う、国内のインフラ整備も可能である。
実際、小栗は帰国後、最初の株式会社を立ち上げる事になる。
さて、それから一行は途中船に乗り換え、多少の問題はあったもののようやく、
ワシントンに上陸した。
その船は、ただその為に、その場で一年近くも待っていてくれていたようだ。
如何にアメリカ政府が、一行を、心よりもてなそうとしたという現れだろう。
さて、「日本人が来る!」という事は、既に報道で知れ渡っていて、埠頭一帯は、更なる沢山の人で溢れ返っていた。日の丸と星条旗も海辺に翻っている。
(4)
とうとう日本人が初めて、ワシントンに来た。
祐三郎や斧次郎にとっても、とうとう正念場が来た! というところである。
そう、ただ来ただけで無く、経済交渉も始まる。
幕府・伊達を超え、日本人の明日を決める大事な会議だ。
緊張するのも仕方が無い。
主に担当する、小栗にしても厳しい顔をしている。
ところが、皆が下船し馬車に導かれると、アメリカ女性の大歓声が上がった。
そう「トミー」である。
正直当時の写真を見ても、どうしてこの人が? という容貌なのだが、身分の高い侍や、若い祐三郎もほっといて、ひたすら「トミー」の大合唱だ。
これには、一行も口を押さえて笑ってしまう。
さすがに斧次郎は、恥ずかしがって、ずーっと下を向いている。
しかし隣の祐三郎は、
「手ぐらい、振ったほうが良いよ。斧さんに人気があるのは、我々にも悪いことではないから」
と、苦笑しながら説得する。
言われた斧次郎は、ようやく頷き、手を振る。
すると、先程より数倍大きい歓声が、湧き上がる。
ある日記には、
「その様子はあたかも、無数のアリの群れが、左右で立ち騒ぐのをじっと見ている蟻塚研究の学生の様だった」
と評している。
一行は一時間以上かかって、宿泊地「ウイラードホテル」に到着した。
ワシントンではさらに、モルタル作りのビルが建ち並び、一行はまるで別世界にでも来た様に、驚いていたが、そのホテルはホワイトハウスに近い、地上七階建ての壮麗な一流ホテルだった。
この高さにはさすがに驚愕である。
日本で言う、単なる旅館であるのに江戸城どころではない。
これには、祐三郎。斧次郎に、
「これに籠城でもされたら、落とせまい」
などと言いながら笑う。
一行はホテルに入っても歓迎する人々に取り囲まれる。
もう、立錐の余地もないと行った有様だ。
祐三郎達は一生懸命挨拶しているが、あまりにも人が多く通訳総動員でも、まかないきれない。
しかし、この侍連中は、それほど珍しいのか?
自分も侍の格好している祐三郎さえ、意外な思いがした。
そんな時、小栗の言葉が浮かぶ。
「両国の見世物」
しかし、あそこもお華の屋敷から近いから、なんだかんだと行く機会もあるが、これほどではない。
「これは兄上に良い土産話が出来た」と微笑んでしまう。
もっとも、それよりさらにもみくちゃなのが、「トミー」である。
こちらはもう正気の沙汰ではない。
前から後ろから、着物を引っ張られ、祐三郎が見てももさすがに気の毒に見え、苦笑してしまう。
しかし、さすがにこれでは先が進まない、係の者がようやく出てきて、案内され、
ようやくレセプションルームに通される。
そう、侍が、レセプションルームです。
徳川幕府が出来て二百五十年、いい国、鎌倉時代からも、約八百年。
ようやく、時代が追い付きだしたというところだろうか?
レセプションルームで、米国政府高官とその夫人。またその娘達など次々に紹介される。
結局、ホテル到着から一時間以上経って、ようやく部屋に通された。
さすがにこの頃は、もう一行も文化になれたので、特に支障も無く寛ぐ事ができた。
だが、新見や村垣など上位の者は、椅子を片付け、絨毯の上に毛布を敷き、その上に正座していた。
分かってはいても、それでは落ち着かなかったようだ。
そこに、小栗などもやって来て、翌日以降の打ち合わせなどを始めている。
しかし、このホテルでも、窓の外には女性が大勢集まってしまっている。
もちろん、トミー目当てだ。
また、トミーは祐三郎に促され、窓を開け、手を上げたりしている。
見ていた者達は大笑いである。
ところで、この人出は、アメリカ人から見ても、ワシントン始まって以来らしい。
まあ、聞いたことの無い国の使節、しかも風俗衣服も見た事がない。
さらには、通常他国の使節は、せいぜい数人であるのに、日本の使節は76人という大人数。遠くからみてもインパクトは絶大だったのだろう。
まさに、小栗の言う通り見世物、若しくは、旅芸人の一団である。
それはともかく、一行はどういう気分だっただろう。
今度は、ホワイトハウスである。
日本で言えば本城。
しかも他国の本城に使節団が入るなど、史上初であるし、全員、それ相応の覚悟であっただろう。
そして一行は、騎馬将校がサーベルを抜いて、光輝かせなが先頭を進み、ゲベール銃を手にし捧げ銃の両方に並んだ兵士の中央を通り、軍楽隊の演奏と共に行進が始まった。
そしてとうとう、洋風庭園の中にそびえ立つ、ホワイトハウスの門を潜った。
そして一行は、ホワイトハウス内、左側の控え室に通された。
代表団が控え室で座っている時、斧次郎はガラス張りの窓の外を感心しながら眺め、そして視線を何気なく、壁際に幾つも飾ってあった旗に目を移す。
そして、中央付近にある一本の旗を見た時、この旅、最大に驚愕し、思わず立ち上がった。
そして、その旗が立っている所に走る。
同じ部屋で、監視役・案内役といった米国軍人が驚いて駆け寄り、
「What happend!」
と、慌てて声をかける。
それには斧次郎は、笑顔で掌を軽く上げ、皆の方向に顔を向け、
「三郎さん! ちょっと!」
と手招きして大声で叫ぶ。
突然呼ばれた祐三郎も少し驚いて、斧次郎の所に寄って行った。
「何だい? トミー」
と言いながら近づくと、トミーは旗の上の方を指差す。
祐三郎がその通り、目をやると、こちらもこの旅、一番と言って良い驚愕の顔になる。
「こ、これは……。しかし、なんでここに?」
と腰を抜かさんばかり、声が震える。
近づいていた米国兵も、うすうす事情が分かった様で、大笑いしだす。
実はこの男、楽隊員でもあり、この事情を一番よく知っている。
米国兵が、その事情を伝えると、
斧次郎は笑顔で大きく頷く。この男もその場にいたからだ。
しかし、祐三郎は説明を聞き、
「お華さんの土産?!」
と叫んで口に手を当てる。
そこに小栗が「勝手な振る舞いを!」と文句を言おうと近づいてきたが、斧次郎に旗の物を教えて貰い、この男も珍しく驚いてしまった。
そう、旗の上に刺さっていた物、それはお華の簪であった。
小栗と斧次郎は、その場を見ている。
ペリーが来航し、軍楽隊が演奏している所に斬り込もうとした侍を、お華は、あっという間に止め、その後、お華は日本の土産とか言って、旗の上に簪を、いつもの様に投げ撃ったのだ。
祐三郎は何故だか分からないが、涙が溢れてきた。
まるで米国旗を、花で飾っている様にも思え、何とも言えない感激に浸っていた。
すると、斧次郎が米兵に「なぜ、これがここに?」
と訪ねると、その米兵も英語で、
「我が隊を助けてくれた、女性が土産にくれた物。これは是非、大統領にお見せしなければと、お持ちしたら喜んで頂いて、しかもそれが、女性だったというので余計に驚いておられて……」
その話を日本語で聞いた小栗も、
「しかし、ここに来るのは、我々が我が国初だと思っていたが、まさか、お華に先を越されていたとは……」
と、苦笑いである。
それから代表団は、とうとうジェームズ・ブキャナン米国大統領に謁見。そして条約批准書を手渡すことになった。
イーストルームに案内された正使・副使の三氏が呼ばれた。
そして、旧暦三月二十七日(西暦5月17日)、批准書、正使である新見が国書を読み上げた後、直接、大統領に手渡された。
一度頭を深く下げ、イーストルームを出たが、すぐ呼び返され、
日本式の礼式は済んだので、今度は西洋式で、と言う事で、今度は大統領以下、並んで、握手で出迎え、今度は、
「日本が、鎖国以来始めて我が国と和親を結んで、最初に我がアメリカ合衆国へ使節を派遣された事は、国中の国民が喜んでいます……」
との挨拶があった。
この頃には、祐三郎と斧次郎達も呼ばれ、政府高官達と握手して、大統領からも労いの言葉があったが、大統領は閣僚から耳打ちをされ、斧次郎お顔を見て、笑いながら、
「君はアメリカ人か? トミー?」
などと言う者だから、一同一斉に笑ってしまう。
斧次郎は、恥ずかしげに下を向いたままだ。
そして、この日米記念すべきこの日の新聞には、
【日本人は非常に、厳粛な様子をしていた。その様子は面白がって見ていた観衆と比べると奇妙だが印象的であった。儀式の初めから終わりまで、日本の使節団員は顔を上げている時は大統領、しかもその顔だけを直視していた。その態度は最後まで崩さず、紹介された少数の著名な紳士以外の、周りの人の顔を見た日本人はいなかっただろう】(ニューヨークタイムス・1860/5/18)
また、
【国際社会へ出てきた日本人は、排他的ではない。落ち着きと知性がある】
(タイムズ・1860/6/2)
と好意をもって伝えている。
まあ普段、江戸城で勤務している者達には、当然とも言ってよい態度だが、米国の新聞記者には、遅れた日本の者達の、その態度は、とても奇妙に見えた様だ。
(5)
さて公式行事が終わった一行は、ホワイトハウス訪問から八日後、
「ワシントン海軍造船所」を訪れた。
当然ながら一行は、その技術力に驚いた。
特に目を引いたのが、蒸気機関だ。
見た事も想像すらした事が無い、その仕組みと巧みさで作られる蒸気機関。
そして、それを作るドリルや旋盤の使い方は、驚愕以外言葉が見当たらない。
この時、小栗の頭の中では、これらの設備を日本で再現するのに、どの程度の規模になるのか、詳細は分からないにしても、必死に考えていた。
これは、後の「横須賀造船所」建設に繋がっていったのだろう。
そして、もっと単純な事は、鉄がそこら中に溢れている国だと言う事だった。
咸臨丸の福沢諭吉も、
「町はずれのゴミ捨て場に、ゴミと一緒に使われなくなった鉄製品が捨てられている」
と書き残している位である。
さて一方、それとは別に、祐三郎は許可を貰い斧次郎と連れだって、造船所近くの病院へ見学に行った。
もちろん、我が国の医療体制確立の為と、優斎への土産話の為である。
二人は、その病院の受付に行き、
「Please keep it for a while」
と言って、そこに座っていた女性に刀を鞘ごと預けた。
さすがに、医療所に見知らぬ男が刀持って現れるのには、遠慮があったのだろう。 しかし、その若い女性は、事前に聞いていたのだろう。
思わず立ち上がり満面の笑みで承知した。
お願いしていた病院職員と思われる男性が案内に来たのだが、
その後ろに目をやると、大勢の白い服の女性の軍団が、歓声を上げて手を上げていた。
祐三郎はその時、一緒に連れてきた男の人選に失敗した事を悟った。
仕方が無いので、祐三郎はそれらをトミーに任せ、一人案内の男に、苦い顔で、「sorry sorry」と連呼しながら謝るが、その案内も吹き出している。
結局、祐三郎は案内の男と、病院内を回った。
しかし、よく考えてみると、トミーに群がる女性の多さは意外でもあった。
兄のところは、おかよ一人だ。
ベットの数を聞いて、それ程必要なのかと聞くと、男も頷き、
「医者は一人で何人も担当している。さすがに四六時中全てに目をかけるのは無理だ。従って、どうしても看護婦が必要となる」
それには、病院内の病室を見て回って、良く分かった。
ほぼ同時期クリミア戦争で、「クリミアの天使」と呼ばれた、ナイチンゲールが活躍したのもこの頃。
一気に衛生環境に目が行き始めた直後だと言える。
そう言う意味では、良いタイミングの訪問だっただろう。
これは、殿様や優斎にも良い話が出来ると喜んだ。
一通り、見学は済み、お土産も買って、新たな病院像を目にした祐三郎だったが、
斧、いやトミーはいつまでも対応に苦慮していた。
後ろで、腕を組ながら笑ってみていた案内と祐三郎だが、案内の男に、
「I'm going home」
と言って、刀を受け取り、その場を後にしたが、相変わらず、
「トミー!」と女の子達は手を振っている。
それから一行は、ワシントンから汽車で出発し、フィラデルフィアに向かう。
すると途中、前方に大きな河。サスケハナ川が見えた。
しかし、この河には橋が無く、一行はてっきり船に乗り換えるものと思っていたら、一緒に着いて来た接待係が、祐三郎に、
「このまま、お乗りになってて下さい」
というものだから、皆にそれを言いながら、祐三郎本人も驚いている。
すると、汽車はそのまま止まっていた船に進んだのだ。
村垣は、
「汽車で寝ていた者は、河を渡った事に気づかなかっただろう」(遣米使日記)
と書くほど、スムーズなものだった。
汽車にも驚いていた一行は、まるで手妻の様な出来事に、驚愕では足りない気持ちだったに違いない。
これで、祐三郎は、隣でこちらも驚いて居る斧次郎に、
「江戸湾で戦わなくて、良かったな……」
とつい、また言ってしまう。
斧次郎も、
「お台場なんざ、全く意味が無いな」
と苦笑する。
さて、一行はフィラデルフィアに到着しました。
無論、ここでも大歓迎。
それはともかく、ここの数日の滞在で、小栗は何と、日米初の
「日米通貨協議」を行っています。
そしてそこでは、日本・アメリカの通貨交換レートについて話し合われました。
小栗は、全く物怖じせず、極めて冷静に、日米金貨の成分分析を行う様、主張しする。
そして、とうとう通貨交換レートに不当な差があることを、アメリカ政府に認めさせる事に成功した。
これには、アメリカ政府はもちろん、新聞各紙も、この小栗の明晰ぶりに大変驚き、タフ・ネゴシエーターとして、紹介文を一斉に掲載した。
「東洋の奥地の侍が、こんな知識を持っているとは!」
という、論調だった。
その点、トミーと同じ様に、始めてアメリカで認められた男だと言って良い。
さて、次は、最後の訪問地、ニューヨークである。
これには船で向かった。
ここでも港は雲霞の如く、歓迎の人々が集まっている。
そして、砲兵の祝砲、十二発がならされる中、一行は降りていった。
しかし、何回目だろう? 祝砲はと祐三郎も微笑む。
そして、イギリス・フランス・オランダの船も日章旗を揚げて歓迎している。
上陸すると、今度も馬車が用意されていた。
斧次郎と祐三郎は、花と両国の国旗で飾られた条約書の箱と一緒に載せられた。
軍楽隊の演奏と共に、正使を先頭に、馬車が動き出し、ニューヨークの町で、
パレードが始まった。
新聞の報道では五十万と書かれた見物人が集まっていて、それはまるで、後年のニューヨークヤンキースの優勝パレードと同等の賑わいだった様です。
そして、何より「トミー」の人気は絶大で、女性の歓声は町中に広がりました。
この時、トミーは十七歳。
この前のフィラデルフィアでは、汽車から降りてくる日本人一行の中にトミーが見えないと、待ち焦がれていた娘達が騒いでいると、彼は、機関車の運転室から、ファっと飛び降り、皆を驚かせ、喜ばせた。
この辺は、天性のタレントなのだろう。
このあまりの人気で、なんと、
「トミーポルカ」
という曲まで出来てしまう。
こんな個人に、しかも外国人に当てる曲が出来るなど、日本は疎か、 世界初と言っても良いだろう。
この時も、通りの広場で、劇場付きの音楽家が、出来たばかりのトミーポルカを演奏している。
江戸幕府、遣米使節団の最大の収穫は、この男によって、日本に好印象を残してくれた事なのかも知れない。
祐三郎も、もうこの辺になると慣れてしまい、馬車の上で、トミーと一緒に女の子に向かって、笑顔で手を振っていた。
彼も若いし、顔もそこそこなので、勘違いしたアメリカの若い女性も手を振っているから、彼も幸せだっただろう。
こうして全て終了した一行は、今度は喜望峰周りで日本に帰ることとなった。
(6)
帰りは、ニューヨーク発の米海軍最新鋭戦艦「ナイヤガラ」号に乗船した。
この船は、ポー八ッタン号よりほぼ倍の四千五百八十トン、スクリュー式の帆船である。
祐三郎は、この帰路を選んでくれた事に感激もひとしおだった。
二百五十年前、仙台藩士の先祖達が通った海路を、今度は自分が通るのだ。
この感激は、仙台藩士しかわからない。
しかし、祐三郎は知らなかった。
日本人による、世界一周は祐三郎の一行は、二組目だった。
これも、妙な事に日本人最初の世界一周は、江戸時代後期(享和の頃)に伊達藩の水主が、ロシアの船で世界一周を達成していた。
しかし、その頃は完全な鎖国で、しかもロシアであるから中々、日本に入る事ができず、帰ったのは十三年後だったという。
藩主も先代であるし、身分も低いので、祐三郎が知らないのは仕方がないだろう。
そして、江戸初期の訪問と同じ様に、ローマの法王に会うわけにはいかなかった。
さすがにキリシタンの総本山に行ってしまったら、前回と同じ結末が待っている。 従って、今回は、若干道筋が違うのだが、それでも世界一周には違いない。
結局、アフリカ喜望峰を回り、日本へと進んでいく。
帰りは、一刻も早く帰国したいという、皆の希望もあって、寄港地も必要最小限だった。
そしてようやく、万延元年(1860)九月二十八日、足かけ九ヶ月の旅が終わった。
一行が船上から眺める先に、ようやく日本らしい霧に包まれた、その島影が目に入ってきた。
~つづく~
今回もお読み頂き、ありがとうございます。
とうとう、アメリカ使節団の話です。
これで、ようやく日本も新たな時代の扉を開いたと言っても良い出来事だと思います。
「トミー」について、私も初めて知った時には、本当に驚きました。
彼は、イチローや大谷翔平の様に野球で有名になった訳でも、音楽で有名になった訳でも無く、ただ、その存在だけで有名になった人です。
しかも彼に対して曲まで作られるなど、本当に驚いてしまいます。
(トミーポルカは、今でもYouTubeで聞く事が出来ます……と思います)
実は、私は彼に興味を持っていて、いずれ主役に小説を書きたいとさえ、考えていたぐらいです。
そして小栗上野介。
この人は、幕臣でありながら、現代に近い感覚を持っていた男で、
ただ一度、見学しただけで、横須賀造船所まで作り上げてしまった男です。
しかも日本で初めて、アメリカと経済交渉までやってのけ、その能力はアメリカ社会を驚愕させたほどです。
また後世、明治維新が早期に成し遂げられたのは、彼の功績だという人もいます。
残念ながら、のち、悲劇な最後を迎える人ですが、私が幕末で最も好きな人物の一人です。
公式の遣米使節団のお陰で、ようやく日本は鎖国が、完全に開けたと思います。
確かに、オランダや中国など、江戸時代中であっても付き合いがあった国はあったので「実は鎖国では無かったのでは?」と仰る方もいらっしゃいますが、しかし、その頃は、海外渡航、御法度。
半分鎖国だったという方が正しいかも知れません。
結局この後、多くの人々が海外に飛び出す事になりました。
例えば、同志社大学を作った、新島襄。
そして後の大蔵大臣で226にて命を落とした、高橋是清など。
やはり、オランダの風説書だけより、実際に日本人の目で見て、学ぶ事が
本当の開国だったのでしょう。
これで、ようやく日本も、世界との競争が始まったと言えます。
さて、アメリカの勢いはこの頃が最高で、この後、日本への影響力は小さくなって英国にとって変わられます。
そう、アメリカは、この後すぐ「南北戦争」が始まるからです。
申し訳無い事ながら、日本は丁度良い時期に使節を出したと言えますが、
日本は日本で、井伊の暗殺など、幕末の史劇が始まってしまいましたので、
こちらはこちらで大変な事になります。
それでは、また次回もお読み頂けるとありがたいです。
ありがとうございました。




