㉖ふるあめりかに袖はぬらさじ
(1)
「露をだにいとう倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」
開港間も無い横浜に出来た遊郭の「岩亀楼」の遊女・亀遊の辞世と言われている。
作家・有吉佐和子氏の短編「亀遊の死」にて有名であり、芝居でも取り上げられている。
私が言うのも何だが、小説だから脚色も多く、事実かどうか不明な部分も多い。
この辞世自体も微妙で、これは攘夷の連中による作り話との話もある。
ただ、コロリの件もあり、そう言った風潮があったのは事実の様だが……。
さて本題。
実のところ徳川幕府は、公式の政令として「鎖国」を決定した事は無い。
三代将軍・徳川家光の頃、「島原の乱」を契機に、海外取り引きする国を決めただけである。
もちろん、その交易は様々な制約があり、オランダ・中国・朝鮮といったごく一部の国に過ぎなかったものの、完全鎖国を宣言した事はありません。
しかしこの時代。アメリカとの条約発令を契機に、日本は完全開国の道に進んで行き、安政五年(1858)米国・オランダ・ロシア・英国・フランスとそれぞれ条約を結んだ。これを「安政五カ国条約」という。
もっとも、この頃は勅許なく調印されたため、安政の仮条約とも言われる。
しかし、お華周辺では、そのような事は関係無く、相変わらず「コロナ稿」ならぬ「ころり稿」のまっただ中であった。
ただ、お華の屋敷の中だけは、皆の努力もあって死人も出さず、何とか土俵際で止まっていた。
子供を抱えた町人の母親には大喜びで、居間や優斎の診療所にもいわゆる入院の子供が一杯になっていた。
ひと月前。
ここに運ばれた遠山の金さんの孫も何とか持ち直し、この頃は長屋を出て、広い居間の端に立ち障子で囲まれた所で寝ている。
彼にとって幸いなのは、あまりに他の病気の子供が多く、お華が若様に説教する暇が無いことだった。
しかし、完全に治ったおゆきやおふみが、優斎の手伝いを始める様になると、多少手の空いたお華が、妙な笑顔でやって来る。
「あ、お華さん」
と既に仲良くなった若奥方・美衣に、
「どうです奥様。様子は」
「ええ。ドンドン良くなっている様です。もうお一人で厠にも行けますし」
「そうですか~」とニコニコしながら若殿が寝ている横に座ると、彼は恐怖の顔で布団を被ってしまう。
「お母様に、お華さんのお話はちゃんと聞く様に言われてから、何だか怖がっているようです」
と美以は、おかしそうに笑ってしまう。
お華は、フフンと鼻を鳴らし、
「困りますねぇ。そんなんじゃ、お爺さまが枕元に叱りつけにきますよ」
と笑い。
「景彰様!」
と簡単に布団を剥がした。
景彰は口を尖らせて、
「止めてくれよお華~サミイだろ!」
お華はそんな事は、意に介さず、
「もうそろそろ、しっかり起きて下さい。優斎先生も後十日ぐらいだって言ってましたよ」
それには美以の方が嬉しげに、
「そうですか~それは良かった」
しかし景彰は、不満の顔で、
「良くは無い。寒いだけじゃ!」
と文句を言うが、誰も聞いてくれない。
お華は、景彰の横に座り直し、
「でも若様。何回も申しますけど、しばらくお酒は駄目ですよ。残念でしょうが諦めて下さい」
と冷徹に言い放ち、
「一応、大奥様の方からのお知らせでは、城のお勤め、少し伸ばして戴く様、お願いして戴いたそうです。もっとも、今の状態で行っても誰も恐くて話し一つ出来ないでしょうから、丁度良いと思いますけどね」
それにはさすがに、景彰も残念そうな顔で、
「やはり、そうなるかの?」
と言うが、お華は、
「こればっかりは仕方ありません。さすがに、武士も民もあれだけ亡くなった病気です。ただあたしは、若様に取っては、不幸中の幸いという気もしますけど」
それには、景彰も頷き、
「ああ、例の話か。しかし、それはそれで困ったもんじゃの」
「大奥様にも申し上げましたけど、今はただ、西の丸の御方だけをご覧になってお勤めするしかありません。これなら余計な災いは無いでしょうから」
すると景彰は、
「そなた、水戸などの様子も知っているのだろう?」
それにはお華は笑い。
「そんなもの。聞いてどうするのです」
景彰は頭を掻いて、
「そんなものって……。いや、勤めに入る前に、一応知っとこうと思ってな」
それにはお華は笑って、
「その辺、お爺さまにそっくりですね~」
などと言うものだから、本人はもちろん美以も笑ってしまう。
お華は軽く頭を下げて、
「恐らく、お上から水戸藩全体に何らかの罰が下される様ですよ。まあ、井伊様ですからどこまでも厳しいのでしょう。でもこれは知らんふりしていて下さい。恐らくお爺さまもそうなさるでしょう。これこそ、痛くもない腹を探られる嵌めになるかもしれませんから。そして、すでに若様は五カ国のご条約はご存じでしょう?」
景彰は大いに頷いて、
「おうおう、それは病になる前に聞いていた。どうなるんじゃろうなぁ?」
それにはお華が、
「勘定のお勤めに入ったら大変だと思いますよ。何かと。そして、横浜が今年六月には開港されるそうです」
それには、さすがに景彰も、いや美以さえも驚いた。
そして、
「お華さん、開港ってどうなるんです?」
お華は微笑んで、
「新たな町が出来るんですよ。しかも外国の。恐らく、一杯外国人が入ってくるでしょう」
「ヒヤ~」
と景彰は声を上げる。
お華は続けて、
「大奥の瀧山様のお話では、恐らく道・橋など、費用が余計に掛かるだろうと仰ってまして、長崎の様に儲かるまでには相当、時が必要だろうと」
「なんと……」
景彰の顔が、曇っている。
しかしお華は、笑顔で、
「でも、若様が今から心配なさることは無いですよ。当分は、せいぜいあれ調べてこいとか、あれを聞いてこいで走り回るだけでしょうから。これも同じく、黙って聞いてれば良いですよ。でね、もし何か有りましたら私に聞いて下さい。調べてきますから。お爺さまの時もそうしてましたからね。何かの御役に立てるかも知れません」 それには、景彰も明るい顔になって、
「そうか。悪いがよろしゅう頼む。さすがに私もアメリカの事は分からんからな」
夫婦二人は、幸せそうに笑う。その様子を見るお華は、少し心地よい気分になった。
(2)
安政六年六月二日。正式に横浜が開港された。
当時の横浜は、神奈川奉行(外国奉行兼)の管轄であり、中央の運上所を中心に、南東を外国人居留地、北西に日本人住民地から作り上げた。
のちに海岸から少し離れた、大田新田に岩亀楼なる外国人相手の遊郭まで出現し、
た。
それはともかく、コロリもそろそろ下火になってきた頃、優斎がお華に、
「具合見て、また横浜行ってみませんか?」
と誘われた。
優斎は前々からの事で当然ながら、お華もどんな風になったのか興味はあった。 だが、その具合が中々良くはならない。
流行病は、それほど簡単に遊びに行かせてくれなかった。
結局、翌月の或る日と言う事になった。
今回は優斎の弟、裕三郞も知り合いの幕府の旗本・立石斧次郎を連れて一緒に行く事になった。
斧次郎は、お華と初めてではない。
前回横浜に行ったときに、小栗上野介のお供にいた男である。
「サブちゃんとお知り合いだったの?」
と聞くと、裕三郞の方が答え、
「勝先生のご紹介で、仲良くさせて戴いているのです」
釜次郎も、愛想良く笑顔である。
「そっかぁ、勝先生の。んで?」
裕三郞は、
「ええ」と斧次郎の肩を叩き、
「この人は元々、長崎の通詞ですが、今度は英語と言う事で長崎の英語伝習所にいましてね。今は横浜で一緒に教わりに行ってるんですよ。勝先生が私に紹介してくれた所で問屋なんですけど、今、私も通っているんです」
優斎は既に聞いていた事だが、お華は初めて聞くので、
「英語って、あのアメリカの? それは凄いじゃ無いサブちゃん。剣は下手だけど、そっちの方は先生並みね」
と大笑い。
しかし、裕三郞は溜め息を吐いて、
「結局、こういう結論になるんだよな~」
と呆れ顔。
しかし斧次郎は、
「いえいえお華さん、裕三郞さんは、中々お上手な英語でして、もう通詞にもなれるのではと先生にも言われております。伊達のお殿様も、さぞご満足ではないでしょうか」
と、嬉しい事を言ってくれる。
ちなみに、この立石斧次郎(長野桂次郎)は、この時まだ十七歳。
経歴の割にはまだ若く、その若さと陽気な性格で、後に日本人で始めて、アメリカである事を成し遂げる(?)
現代、メジャーリーグで有名になったイチローや大谷翔平より、遙か前に有名人になった日本で初めての男である。
まあ、その話は先の事……。
そういう事で、四人は横浜に向かった。
途中、優斎は、
「私も驚いたのですが、どうやら日本の生糸がえらく人気のようで」
それにはお華が、
「生糸? 向こうの人も着物を着るの?」
それには裕三郞が、
「んな訳無いでしょ、お華さん」
などと偉そうに言うので、お華もカチンとして、
「なによう! サブちゃん。何着てるっていうのよ」
裕三郞は、再び笑って、
「何、言ってるんです。それをこれから見に行くんでしょう?」
それには、さすがのお華もそれには驚いて、
「え? もう女の人も居るの?」
今度は斧次郎が、
「そうです。実は、私共の英語の先生ってのは、その問屋の女将さんで……」
お華は目を大きく開けて、
「女将さん? そうなんだ~」
斧次郎は、
「お華さんもその方に教えて貰ったらどうです?」
それには、優斎と裕三郞も笑ってしまい。裕三郞は、
「我が国では初では無いでしょうか。女の人が語学を学ぶなんて」
お華は若干恥ずかしそうに笑って、
「何言ってるの。んで、その旦那様って方は何をなさってるの?」
それには、裕三郞が、
「さっき兄上が言ってた、生糸の輸入業者です。我が国の生糸は質が良いとおっしゃてて、伊達でも考えなきゃいけないかなと思ってる位です」
「へ~……」
などと言いながら、多摩川を超えていく。
それから暫く歩いて、ようやく横浜に着いたお華は目の前に広がった、見た事の無い町の姿に、思わず声を上げる。
「なにこれ? 前と全然違うじゃない!」
お華が以前来た頃の横浜は、単なる漁村で、急遽話し合いの場を作っただけの場所があっただけであった。
優斎も、さすがにこの光景には驚いていた。
前出の様に、日本人住民地と外国人居住地は別になっているので、余計にその違い、むしろ違和感が目の中に飛び込んでくる。
斧次郎は、和やかに、
「そうでしょう。我が国とは、やはり作りが違います。国が変わると全く変わるんですね~」
と、改めて感嘆している。
お華は、ある建物を指差して、
「あれは……。あれは木じゃ無いよねぇ~。何で作ってるの?」
それには裕三郞が、
「レンガと言う石の様な物です。あれは、粘土や岩・泥を固めて焼いて作る石なんですよ。中々面白いでしょ? 向こうは木じゃなくてああいう物ので建物を作るみたいなんです」
「へ~」
お華と優斎は、あまりの事に言葉が無い。
斧次郎は笑顔で、
「江戸の大工が、頭を抱えたそうですよ。皆さんがご存じの様な店や長屋であれば、慣れたものですが、全て特別注文で作った様です。でも我が国の大工は、さすがにこんなもの見た事も聞いた事もないですから、かなり大変だったでしょう。結局、外国の人に聞きながら作った様です。でも元々腕は良いわけですから、皆さん喜んでおられる様です」
お華も、
「そりゃそうよね~。でも、いい加減には作らなかったのは良い事よ。こちらの人間がいい加減に見られるよりはね」
などと言ってご機嫌だ。
そんな時、お華にとって一番興味のある物が突然目の前に現れた。
そして、お華は口に手をやりながらも声を上げる。
若い女性二人が、仲良くお喋りしながら歩きながら通り過ぎたのだ。
もちろん話の内容や、どの程度若いのかなど、全く分からないが、お華の驚きは、
「なんなの? あの白い肌は!」である。
お華は裕三郞に聞く、さすがに裕三郞は、
「白人と言われている人種の人々ですから、女性は、より白いのです」
するとお華は、
「じゃさ、あれはおしろい使ってる訳じゃ無いって事?」
裕三郞は大きく頷く。
そしてお華はお腹に手をやり、
「みんな、着ている物も珍しいけど、おなかは細いしお尻は妙に大きいし……」
芸者でもあるお華は、そういった佇まいにも驚いてしまう。
しかしそれには、斧次郎と祐三郎は微笑み、釜次郎が、
「これから会う方は女性なので、その辺、何でも教えてくれますよ。せっかくだからドンドン聞いて下さい」
それにはお華も、
「いいわね。あたしも来た甲斐があったってものよ。さぞ芸者連中も驚くでしょ」
するとお華は、
「で、その問屋さんは、どの辺なの?」
それには斧次郎が、
「はい。この道もう少し行った所です。そこにおられる奥様に指導戴いてます」
お華はなるほどねと頷き、改めて、
「でも、いきなり見知らぬ国で言葉教えるなんて、外国の女の人って強いのね~」
と感心するのだが、裕三郞は笑って、
「いやいや、お華さんほど強い女はいませんよ」
男二人は、意味が分かるので、大笑いしている。
お華は優斎に、眉を寄せながら、
「先生もそう思うの?」
といくらか詰問基調で言うが、もちろん優斎も、
「そりゃ、そうでしょ」
こちらも笑っている。
さて、玄関先の上の方に、
何て書いてあるか分からない看板の下に、四人は立った。
言葉を掛けて戸を開けると、そのご夫婦が出迎えてくれた。
男性の方はともかく、同じ女として、お華は挨拶もそこそこに、早速女性の方に目が釘付けだ。
日本で言えば、少々年嵩の女将さんという女だが、お華にその様な細かい事は分からない。
もっとも、お華の方も今日は潰れ島田で、姉小路から貰った海の柄をあしらえた高級着物で来ているので、むしろ逆に、出迎えた二人が、華やかなその姿に喜んだ。
中に請じ入れられたが、草履を脱がない事にまず、お華と優斎でさえドキマギしている。
裕三郞が気が付いて、小声で、
「向こうの家には玄関は無いのです」と言い。
「これは、どこでも一緒です」と言われて、二人はまず文化の違いに驚いた。
テーブルの前の椅子に座らされたが、お華はどうも落ち着かない。
当然ながら、それは優斎も同じで、まるで別世界に連れてこられた心境だった。
とはいえ、優斎は、我が弟が英語を習っているから、まずそれを丁寧に礼を言う。もちろん日本語で。すると祐三郎はそれに加え、
「医者だ」と紹介する。
旦那さんは、頷き笑顔で、
この先に本屋があるから、そちらを覗いて見ると良いと言ってくれた。
それを聞いて、優斎も満面の笑みで、礼儀正しく頭を下げる。
通訳が二人も居るので、それから意外と会話が弾む。
しかし、この夫婦が一番興味を持っていたのは、やはりお華であった。
芸者だからか? いや違う。
何とその夫婦は、「お華」というその名前を知っていた様だった。
そこの旦那さんは、斧次郎に向かって、英語で、
「hey Tommy!」
彼は、夫婦にトミーと愛称で呼ばれている様だ。
そして、
「もしかしたら、前に海軍の楽隊を救ってくれた女の人かい?」
斧次郎はその場にいたから当然知っているが、せっかくだから、お華に日本語で通訳した。
お華は驚愕した。今日会ったばかりの外国人に言われれば当然である。
「なんで、そんな事知ってるの?」
彼は英語で、
「私の弟は海軍に入って、トランペットを吹いているんだが、その時の話を何回も聞かせて貰ってね。お華という凄い日本人の女がいるって……」
裕三郞は通訳しながら、腹抱えて笑っている。
お華自身も驚いた。
「世間は狭いって言うけど、しかもアメリカでね~」
と言いながら、笑顔で頷く。
その奥さんも、こんな若い女がそれ程強いとは思わず、妙な尊敬の目で見ている。
しかし、お華の興味は全く別の事。
早速、裕三郞に、
「奥様に、違うお部屋でお召しものを拝見させて下さい。って言いなさい」
もう命令口調である。
まあ祐三郎も、先程の話を聞いていたので、
お華を手で指し、
「I'm very sorry~(この人が、奥様の洋服を拝見させて戴きたいと申しています。勉強したいそうです)」
英語で言うと、彼女は笑顔で大きく頷いて、
いきなり驚くお華の手を引いて、隣の部屋に連れてった。
お華は、その部屋から顔を出して、
「サブちゃん! ここに立って通訳しなさい!」
と命令され、苦笑しながら裕三郞は部屋の前で顔を背けて立つ。
優斎や斧次郎も苦笑し、そこの旦那でさえ頭に手をやって笑っている。
部屋の中では、その女将が上着を脱いだ時、お華の歓声が上がった。
「何、これ!」
と彼女が身につけているある物を指差す。コルセットであった。
近代から現在にかけて、主にヨーロッパにかけて一般的に使用されたいわゆる補正下着である。
お華は、何か壊れそうな物を確認するよう指で、チョンと触れる。
しばらくすると女将から、
「(せっかくだから貴方の着物? も拝見させて貰っていいかしら)」
と言った、裕三郞がそう通訳すると、お華はOK OKと笑顔で頷く。
これとハローは、お春に教えて貰った唯一知っている英語である。
「それなら、生糸の問屋なんでしょ。旦那様にも見てもらいましょ。あたしは大丈夫だから」
などと言うので、急遽、旦那も呼ばれ、笑顔でやって来て、
その前で、打ち掛けを脱ぎ、旦那に渡した。
旦那は満面笑みで喜び、女将と一緒にその着物をしっかり見詰めている。
お華は、
「姉小路様の名前言っても分からないだろうけど、そういう人から貰った着物と説明してくれる?」
と言われ、裕三郞は途端に真面目な顔になり、一生懸命英語で説明した。
(3)
夫婦に満足して貰うと、優斎とお華は少し会話の後、祐三郎が勉強をすると言うので、礼を言って、とりあえず教えられた本屋に行った。
斧次郎も案内役として着いて来てくれた。
お華は、
「次郎ちゃん悪いわね~。色々と」
もう次郎ちゃん呼ばわりの釜次郎は、一応旗本だが悪い顔をせず、むしろ笑顔で、
「良いんですよ。今日は祐三郎さんの勉強の日ですから。でも先程の着物の説明は私も勉強になりました。向こうの言葉を訳すだけで無く、自分の所の物をどう説明するのか。難しいものだなと感じてしまいました」
それには優斎も、
「そうだね~。向こうの物は我が国には珍しいけど、こっちの物にしても、あちらには、さらに難しいだろうからね」
「そうなんですよ。でもこれ、気を付けておかないと、通訳する場合は、良く分かって無ければいけません。本当に勉強になりました」
と、二人に頭を下げる。
二人は手を振って、大笑いしているが、これが本当に後の大きな、日本の貢献になるとは、さすがに優斎とお華が気が付くはすも無い。
お華は楽しげに、行き来している人や町を眺めながら、本を売っている商店の前で待っていた。
すると、ようやく斧次郎と優斎がようやく戻って来た。
「えらい長い間だったね~」
とお華が言うと、釜次郎は笑うだけだが、優斎は多少興奮気味で、
「いや~。斧次郎さんと一緒で良かった。オランダ語だけじゃ到底分からないから。色々な先進的な物が買えました」
と、何冊物の本を風呂敷で大きく包み、背中に背負った状態で現れた。
それを見たお華は、
「それじゃ、まるで薪売りのおじさんじゃない」
とアハハと笑っている。
確かに後に銅像にもなった、安政三年に亡くなった二宮金次郎の様だった。
それはともかく、お華は斧次郎に小声で、
「でもさ、ああいう本ってキリシタンとか載ってないの? ああいうのがあると大変だと思うけどさ」
さすがにそれには、斧次郎も厳しい顔で、
「ええ。開港するときに、その系統のもの。また宣教師などの入国はならぬと、これだけは厳重にお願いしたそうです。まあ、もっとも知らないで持ってるだけなら、それほどの罪にはならないと思いますけど、一応私も、その辺注意して、一応パラパラ確認しましたが、さすがに全部は……」
と不安げだ。
「そう。あたしもさ、どうでもいいじゃないとは思うけどさ、せっかく開国したなら、詰まらない事で駄目にはならない方が良いからね」
それには斧次郎も大きく頷いて、
「本当にその通りです。なるべくその様な事が無いよう、私も望んでいます」
三人は、そのまま、現代で言う山下公園あたりか、
港の最先端? 今も知られる「象の鼻」付近で、異国船を見学した。
それより、目の前に広がる海を、額に手を当て見詰めるお華は、
「アメリカって、この、ずうっと先なんでしょ? いや、良く来るよ~」
と感心している。
それは優斎も一緒だった。
「世界は広いと本当に実感出来ますよ」
その話を聞きながら、斧次郎も爽やかな顔で頷く。
さて、それから三人は、あれこれ他の商店などを覗きながら、戻って行った。
町は、先程の本屋の他、食料品店や、理解不能な店もあったが、何よりお華が驚いたのは、「三井越後屋」があった事だ。
「こんな所にも越後屋があるの?」
である。
出来たばかりらしい店で、日本橋にある店と同様、呉服販売である。
しかしその後、いくら越後屋であっても、横浜での呉服販売は不調だったらしい。
さすがに、外国人には珍しいとはいえ、なかなか難しかったようだ。
結局、1862年(文久2年)に火事があった時に、呉服販売を中止し、三井銀行の前身、三井御用所(幕府の関税など貿易に関する決済業務)に商売替えした様だ。
むしろ、より現代的になったとも言える。
それはともかく、お華達は充分に珍しい物を眺め、斧次郎に解説させながら、楽しく帰っていった。
(4)
見学が終わると三人は再び、のんびりとあの事務所に向かっていた。
ところがである。
正面先に人が、何かを取り囲む様、集まっていた。
それと同時に、悲鳴も上がった。
お華は「まさか」と呟く。
急いで近づくと、祐三郎が剣を抜き、先程の夫婦の前に立ち塞がっていた。
既にお華は走りながら、一瞬、地面に目をやり素早く小石を拾っていた。
そして前に居る三人の間隔を確認し、鋭く投げ打った。
それらは、夫婦の耳元に凄い風切り音を残し、いきり立っていた者達の鼻っ柱に見事に命中した。
男達は思わぬ攻撃で、鼻から血を吹き出し、剣を振り上げた姿勢のまま、後ろに下がりながら倒れた。
裕三郞はともかく、店の主人と例の奥さんは立ちすくんでいた。
到着したお華は、裕三郞に、
「あらあら刀なんか抜いちゃって。どうしたのの?」
幾分からかいながら、声を上げる。
彼は、少々ムッとしながらも、
「私にも良く分からないのです。叫び声が聞こえたから慌てて外に出たら……」
倒れ込んだ二人の浪人らしき男達が、鼻を押さえながら再び立ち上がり、大声で叫んでいる。
「何をする! ここは神国である! お前らなど異国人が来る場所では無い!」
それを聞いたお華は、
「馬鹿ね、訳の分からん事言ってんじゃない! 異人さんに言うなら、せめて英語で言いな!」
と、やり返すのと同時に、お華は、祐三郎に、
「サブちゃん! ここは良いから、早く奉行所の捕り手を呼んでおいで! 急いで!」
頷いた祐三郎は刀を納め、この地域の番所を知っていたのだろう、すぐ後ろに走った。
お華は打ち掛けを脱ぎ、笑顔で女将に渡す。
優斎の方は、背中に背負った本の風呂敷包みを斧次郎に託し、
「すまんが頼む」と言いながら、腰の木刀を抜いた。
そんな時だった。
例の店の主人が、恐い顔で懐から拳銃を取り出して男達に狙いを付けていた。
それを目の端に捕らえたお華は、素早く扇子を出し、パッと開いて主人の目の前に開く。
驚く主人に、
「駄目よ、それじゃ人殺しになっちゃう」
と言いながら、微笑み、どこで憶えたのか、一差し指を振る。
さすがにこれには店主も別の意味で驚き、拳銃を降ろす。
瞳が変わったお華は、流血しながらも再び立ち上がった曲者達と正対する。
そして斧次郎に、
「次郎ちゃん! あの後ろに居る人達に、そこを開ける様に言って! 英語でね!」
斧次郎も、お華の気迫に驚きながら、言われた通り大声で、
「the people in the back! to the edge!」
と、何回も叫ぶ。
お華は少し苦笑して、小声で、
「へ~、かっこいいもんねぇ」
と、同じく微笑む優斎。
男達も流血で、さらに頭に血が上ったのか八相の構えで、
「尊皇攘夷!」
と叫ぶ。
お華は相手を見ながら、
「先生、何の意味?」
優斎は、相変わらず余裕たっぷりのお華に呆れて、
「あとで教えますよ」
お華は頷き、そして二人は、ゆっくり男達に向かってゆっくり歩き始めた。
しかし、祐三郎達の先生である女将さんは「Oh my God!」と恐怖の顔で叫ぶ、
当のお華は些か呆れ顔で、隣の優斎に、
「なんで、いつもこうなるかね」
とぼやくが優斎は笑顔で、
「まあ、お華さんは事件を呼ぶんでしょ」
「え~そう?」
などと笑いながら二人は近づく。
浪人達は、あまりに気楽な様子の二人に、相当頭に来た様で、
「我が国の者が、異国人を庇う気か!」
と怒鳴るが、お華は「フン」と言うぐらいで、いつもの射程で止まる。
「先生! いつもの通りで」
優斎は黙ったまま、頭を下げる。
すると男達は大声で奇声を上げながら、刀を青眼に変え、斬り込もうと、一歩踏み出したが、そこまでだった。
お華は、袖を羽根の様に振り上げ、華麗に一回転し、二本簪を飛ばす。
お華得意の技。浪人達の調っていない髷に直撃である。
まるで花火の様に、髪の毛が四方八方拡散した。
見ている人々は、爆音無き爆発に、何が起こったのかとざわめく。
後ろの夫婦も、目が大きくなるが、余りの事に声が出せない。
続いて、お華は続いて二本、懐から取り出して打ち放った。
双方の刀を持つ手にその簪が、港・横浜の光を拡散させながら突き刺さった。
もちろん既に優斎は、二人の間に飛び込み、あっという間に双方の膝を叩き壊す。
あっけなく、悲鳴を上げて二人は倒れ込み、あまりの痛みに呻いている。
知っているとは言え、斧次郎もあまりの凄さに口が開いたままである。
そこに、祐三郎が呼んできた神奈川奉行所の同心や手先連中がやって来た。
お華が、
「あの二人に縄かけて!」
と言われ、早速、縄をかける為、浪人達を取り囲み、縄を打つ。
心配そうに見ていた女将や旦那を始め、回りの連中も、外国人だから我が国とは少し違った大歓声を上げた。
若い岡っ引きの一人が投げた簪を集め、お華に返しに来たのを、お華は笑顔で礼を言った。
すると、神奈川奉行の廻り同心なのだろう。
浩太郎と同じ様な格好の男が一人寄って来て、
「あんた達! 一体、何者だ?」
と、些か声高に声をかけた。
まあ、見た目が芸者と医者なので、訳が分からなかったのだろう。
しかし、
北町奉行所同心、桜田浩太郎の妹・お華と言った途端、その同心は驚愕した。
「あ、あなたがあの?」
途端に、声が変わり、緊張した面持ちで、頭を下げる。
北町の浩太郎も或る程度有名だろうが、お華はさらに有名。
アメリカのペリーを守った女として、地元、神奈川奉行では有名らしい。
でも、お華は小声で、
「この事はあまり事を大きくなさらない方がよろしゅうございます。あのご大老を怒らせると後が面倒。この者達は打ち首。そしてあなた様にも責任問題としてお咎めがあるやも知れませぬ。せいぜい喧嘩程度で、お奉行様にもよろしくこの事を」
その同心は、それを開けて、
「ご、ご大老……。こ、これはご親切な……。承知致しました~」
と、早速、下手人を早急に引き連れて行ってしまった。
隣で聞いていた優斎は、後ろを向いて含み笑いである。
それより何より、例の夫婦は、アメリカ人らしい大喜びである。
「Unbelievable! I can't thank you enough」
旦那さんは目を見開いて、お華の手を握り、大きく振る。
お華は少々驚き気味に、横の斧次郎に顔を向けると彼は和やかに、
「信じられない。ありがとうって言ってますよ」
お華は、あ~と言いながら、
「良いんですよ~」
とニコニコしている。
その夜は、夫婦の歓迎食事会となった。
丹那は、簪手裏剣に大層驚き、祐三郎を介して色々と聞いて来る。
そして、
「Why didn't you shoot a pistol」(何故、拳銃を撃たせなかったんだ)
と聞いて来た。
お華は微笑んで、
「拳銃じゃ、どこ撃っても死んじゃうかも知れない。あんな馬鹿者でも殺しちゃったら、殺人になっちゃうし、あまり気分の良い物では無いでしょう?」
と答える。
主人は大きく頷き、借りた簪を見詰め、
「しかし、良くあんなに正確に当てる事ができるものだ……」
と、大層感心している。
すると、女将が奥から小さな箱を持ってきて、
「Thank you very much for today」(これは今日のお礼よ)
とお華に渡した。
開けてみると、金色の鎖の様な物が一つ入っていた。
そして、それを出して見ると、途中に、何やらもの凄く綺麗な光を放つ石の様な物が着いていた。
しかしながらお華は、いや居合わせた日本人は誰も分かる筈がない。
斧次郎が慌てて聞くと、ネックレスという女性の装身具だと教えてくれた。
お華は声を上げて喜ぶが、斧次郎は、その光り輝く小さな石をよく見て、
「Maybe……」と女将に目を向けて、
「diamond?」
女将は大きく頷く。
斧次郎は驚愕し、
「お華さん! これダイヤモンドですよ!」
叫ぶ。
しかし、そんなもの自体、知らないお華は、
「なにそれ?」
「これは、もの凄く貴重な石で、外国で女の人が身につける物ですけど、それがまた、もの凄く高い物で、王女様といった高貴女の人やお金持ちの人だけが持てる物です! 我が国では金剛石と言われるものです」
さすがにお華も高い物と言う言葉には、申し訳無さそうに女将に目をやる。
女将も分かった様で、「off course」と笑っている。
そうなると、こうした場合、お華としては、お返しを考えなければいけない。
しかしながら、お華の場合、いつもの簪は基本的に武器だし、使い方を良く分からない西洋人では、頭に刺さって血だらけになるのがオチだ。
しかしお華は、「今日の記念に。そして良い思い出に」
と簪ではなく頭の櫛を彼女に渡した。
女将は、大きく喜んだが、当然、頭にどう刺して良いか分からない。
お華は立ち上がり、女将の後ろに回り、そこは芸者のお華。素早く綺麗に髪を纏め、櫛を刺してあげた。
女将は慌てて立ち上がり、違う部屋へ鏡を見に行ったのだろう。
そちらから歓声の声が聞こえる。
満面の笑顔で帰ってきた。
そして、旦那にも見せて喜んでいる。
斧次郎がお華に、
「あれは、芸者の時の?」
と言うと、優斎が和やかに、
「ありゃ、姉小路様の櫛でしょう。確かに、我が国で一番高いものです」
手で押さえながら笑ってしまうが、
斧次郎と祐三郎は、別の意味で驚愕している。
「良いんですか、そんな物お渡しして?」
と祐三郎が心配そうに言うが、お華は、
「大丈夫、まだあるから」
「まだあるって……」
その言葉には、優斎と釜次郎二人とも笑ってしまう。
結局、その日はそれから夫婦の歓待で、翌朝にやっと帰宅の途についた。
(5)
優斎は、さすがに診療所の事が気になり、朝早く一足先に出ていって、お華は、夫婦にお礼をして、祐三郎と斧次郎と一緒に、大川の河口を横目にゆっくり歩いている。
もちろん、金のネックレスを付けてである。
「しかし、相変わらず、お華さんは凄いですね~」
釜次郎が言うのだが、お華は昨日の晩からその話ばかりだったので、
「いいわよ、もう。ところで次郎ちゃんもサブちゃんと同じで、剣は苦手って事?」
それには斧次郎も盆の窪に手を当て、
「いや、情けない事にございます」
と、軽く頭を下げる。
しかし、お華は、
「良いのよ。人には得手不得手があって当たり前だからね。その代わりあんた達は頭が良いんだから、それで何とかしないとね」
「ありがとうございます」
と斧次郎が言うと、お華は「あ!」と声を上げ、
「先生に聞くの忘れてた」
それには斧次郎が、
「何です?」と聞くと、
「あのさ、そんのうじょういって、どういう意味?」
それには、斧次郎と祐三郎も少し苦笑して、斧次郎が、
「帝を尊び、外国人を排除するといった、最近、流行りだした言葉ですよ。どうも、水戸様から出て来た言葉のようで……」
明治維新の原動力といわれる水戸学の総本山の講道館。
現在でも保存されている弘道館には、斉昭自筆の「尊攘」の書が掲げられている。
お華は、少々厳しい顔になり、
「そのような、つまらぬ事を……」
と、怒気を含んだ声で言うと、祐三郎に、
「八丁堀に行くよ。兄上に、話をしなければいけない」
祐三郎は驚き、
「浩太郎さんに? な、何をです?」
お華は当然の様に、
「あそこの警備を、もっとしっかりしなきゃいけない。つまらない連中に引っかき回されないようにね」
それならば、祐三郎も大きく頷き、
「そうですね。やはり、その方が私も安心ですよ」
と斧次郎も一緒になって笑ってしまう。
「しょうが無いわね~あんた達にも」
とは言うものの、お華にも笑みが浮かんでしまう。
~つづく~
今回もお読み戴きありがとうございます。
さて、横浜。
山下公園など、何回行った事か……。
但し、大抵は良からぬ動機から(笑)であって、一度も開港当時の思いなど全く無かったので、今となっては、本当に勿体ない事を致しました。
ただ、確かにあの辺散歩すると、さすが港町と言う様な思いであったと思い出されます。
今でも、やはり東京の繁華街とは作りが違うとは思っていました。
しかしまさか、それを小説に書くとはね。
当時は、本来、横浜ではなく、神奈川を居留地にする予定だったそうですが、神奈川だと、街道に近く、あまりに危険だと言う事で、横浜に急遽決定というか、むりやり横浜にしたそうですが、その判断は、間違いでは無かった様です。
しかし、当時の人は、町並み、そして外国人達をどう思ったのでしょう。
お華のように、お気楽な人は良いですけど、その辺興味があります。
さて、次回は大変な事になります。
今、オリンピックですが、こちらもまさに、幕末スターター・ピストルが鳴らされます。
よろしければ、また次回もお読み戴くと、幸いです。
ありがとうございました。




