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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
21/65

㉑「すみやみよすけ」会議

(1)


「良いお店じゃないですか!」

 優斎の言葉に、おみよと佐助は、嬉しげに頭を下げる。

 浩太郎も明るい顔で席に着くが、お華は少々不機嫌そうに腰掛けに座る。

「そうだろ? 先生。父上はこういう事も頭に入れてたんだろうか? なんだか、今まで見た事の無い店だよ」

 前回も紹介したが、縦長の一階中央を仕切り、客側に杉板一本の今で言うカウンター、腰掛けを置き、反対側は佐助の調理場。

 おみよは、店側で接客をする。いわゆる小料理屋もしくはスナックの様な店である。

 二人は、笑顔で酒を傾けるが、お華はまだ妙な顔をしている。

「なんだ、お華。置屋の新しい旅立ちだ。なんでそんな詰まらん顔をしている。祝ってやらんか」

 と浩太郎に叱られるが、お華は、

「いや、おみよちゃんが幸せになる事には、私も嬉しいんだけどね。問題は父上よ。私を(だま)くらかしていたのがちょっとね~」

 それには浩太郎が、

「何言ってやがる。元々お前のために作ったのに、お前がいつまでものんびりしてるからだろう? 父上だって、それならと佐助とおみよに譲るのが正しいと思っての事さ。全てはお前の責任だよ」

 それにはお華はガックリ肩を落とす。しかし、もう一人の張本人は、その件にはひたすら口を閉じる。

 すると、おみよが、

「昨日も。おかあさんと奥様にも来て頂いて。誠にありがとうございます。旦那様」 

 浩太郎は笑顔で頷き、

「ああ、聞いてるよ。おさよも褒めてたよ。良い店だって。それに子供達の相手もしてくれて、済まなかった」

 それには、笑って首を振り、おみよ、佐助二人とも深く頭を下げる。

すると、ようやく優斎が口を開き、

「お店の名前決まったんですか?」

 と話を変える。

 それには佐助が頷き、

「はい。みよすけ。と決めました。正式には、すみや・みよすけ、です」

「おお、二人の名前を取ってね。すみやの兄弟店って事ですか。いい名前です」

 しかし浩太郎は少々厳しい顔で、

「これからが大事だ。油断するなよ佐助」

 佐助も笑顔で、

「はい。承知しております」

 三人は、笑顔で頷き、一斉に盃を上げる。

 するとお華が、

「兄上。信吉どうなの? ちゃんとやれてるの?」

 心配そうに言う。佐助の後釜として浩太郎の従者になった信吉だが、さすがにまだ十二という子供だ。

 母親という訳ではないが、お華にしても関わりのある、しかも自分で勧めたからだろう。

 それには浩太郎も笑顔で、

「ああ、最初は佐助にもついて貰ったが……すまなかったな佐助」

 それには佐助は笑って手を振り、

「とんでもございません。でも、あの年ですが、割としっかり歩いてましたよ」

 浩太郎もその言葉には頷き、

「さすがに俺も最初は、こちらの方が心配で、大丈夫か? 大丈夫か? なんて言ってが、嬉しそうに歩いていたよ。暫くすれば慣れるだろう」

 お華もそれには、胸に手をやり、

「それは良かった。だいたいさ、」

 とお華は佐助を指差して、

「この人だって、今でこそ、足は速いし、何かを頼めばあっという間だけどさ、最初は、父上に負ぶって貰って帰って来てたからね」

 それにはおみよも大笑いし、おみよは、

「本当ですか? この人が?」

 佐助はバツが悪いのか、下を向いて苦笑いしている。

 お華は、眉を顰めて、

「もう、父上に抱きついちゃって、大変でございます~なんて泣いてたんだよ~」

 さすがにそこまで言われると、みんな大笑いだ。

 浩太郎も、

「そうだったな~」

 と笑い、お華は、

「それに比べれば、マシよ」

 佐助は、拙いと思ったのか、

「さあ、これから、料理を出していきますよ~」

 と言うのだが、隣のおみよに、

「お華さんには敵わないよ……」

 と包丁を動かし、おみよは苦笑している。

 すると浩太郎は優斎に、

「あのな。今、三郎君がお屋敷の仕事が無い時はうちの子達と信吉に手習いを教えてくれてるよ」

 優斎もそれにはさすがに驚き、

「え? 三郎が?」

 お華は笑って、

「なに、サブちゃん、寺子屋やり始めたの。何かおかしいね」

 しかし浩太郎は、手を振り、

「いやいや。俺もちょっと様子を覗いていたんだけど、三郎君。中々、子供を教えるのが上手いよ。むしろ勘定方より、才能あるんじゃないか? 子供達も、素直に学んでいるし、信吉もやはり早く字を憶えなきゃならないけど、その事も考慮してくれてな。俺はむしろ感心したよ」

 それには、優斎にとっては弟だし、才能があると言われれば、たとえどの様な事でも嬉しいものだ。

「これはこれは、使って頂いてありがたい。少しでもご恩をお返し出来れば嬉しいんですが……」

 浩太郎は笑って、

「ご恩って程の事はないよ。三郎君は最近、英語って言うのを習っているらしくて、小春なんか、俺に、ハロー、ハロー言ってるよ」

 お華が驚き、

「ハロー?」

 優斎が苦笑して、

「アメリカやイギリスの言葉で、もしもしとか、こんにちはって意味ですよ」

 お華は「へ~」と、妙に感心している。

 優斎は、しみじみと、

「何とか、伊達家の役に立てば良いんですけど」

 と言うのだが、お華は笑って、

「まあ、剣の素振りしたって剣は震えてるし、控えめに言っても下手だからね~」

 浩太郎は驚き、

「お前なんでそんなこと知ってるんだ」

 それには、お華はククっと吹き出しながら、

「ついこの間、八丁堀の庭でね、なぜか素振りし始めて、あたしと姉上の前でどうです? なんて聞くんだよ~。姉上は下向いて笑ってるし、あたしはひっくり返って笑っちゃったもん。だからね、あんたはしっかり勘定方やりなさいって言っといたわよ~」

 さすがに優斎は呆れた顔で、

「あの馬鹿。よりによって奥様とお華さんに聞いてどうするんだ。全くその辺は相変わらずだ」

 と愚痴っぽく言うが、浩太郎とおみよ、佐助は下向いて笑っている。


 さて、佐助が次々料理を出していく中、優斎は浩太郎に、

「そういえば下田の方は、ペリーに代わって、何でも公使と言う者が入ったらしいですけど……」

 浩太郎もその話には目を大きくして、

「やっぱり、あんただとそっちの方が気になるか」

 するとお華が、

「公使って、何なの兄上」

 浩太郎は頷いて、

「うん。我が国で言う代官みたいなもので、国と国だからな、京都所司代みたいなもんじゃないか? 俺も正式に聞いた訳じゃないけどな」

「でもさ、それってもう普通に住んでるって言う様なもんなんじゃないの? もう今更、交易云々どこの話じゃないでしょ」

 優斎も大きく頷き、

「なんでも大統領と呼ばれる向こうの大将の代理って聞いてます。次々、無茶な事言ってくるんじゃないでしょうか」


 このアメリカ公使。名前は、タウンゼント・ハリス。

 初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使である。

 ペリーに変わって、この度就任した。

 元々は商人だったらしいが、1855年、大統領フランクリン・ピアースから、初代駐日領事に命された。

 ハリスは、就任にあたり、

通任訳兼書記官としてオランダ語に通じていた、ヘンリー・ヒュースケンを同行者として雇い、1856年(安政三年七月)香港経由で、来日、下田に入港したのだ。


 浩太郎も、静かに頷き、

「そうなんだよ。どうやらもう既に、大統領の親書を渡したいと、将軍様との体面を要求しているらしいよ」

 さすがにそれには、優斎とお華は、仰天した。

「え! もう、そんな事言ってるんですか? これは……」

 それにはお華が、

「何? 先生。これはって」

 優斎は頷き、

「それには相当な反発があるんじゃないかと思うんですよ。我が国で言えば、ただでさえ無礼であるし、更に、今のお上では……」

 それにはお華も、

「そうだよね~。たぶん、大奥が大反対すると思うよ」

 浩太郎は、板に両肘を付けて、頭を抱える。

「絶対、その時の警護は俺たちになる。今から不安だよ……」

 お華も大きく頷いて、

「そうだろうね……」

 と言うのだが、浩太郎は苦笑して、

「他人事の様に言うな。そんときは、お前だって引っ張り出されるかも知れねえぞ。大奥が反対だったら」

「げ! そうなる?」

 お華は自分に振られるとは思ってい無かったから、驚愕の顔だ。

 しかし、優斎は笑って、

「大丈夫ですよお華さん。アメリカも別に攻め込もうと言う訳じゃないでしょうから。そしてこちらも、まずは様子見ってとこだと思いますから」

 と安心させる。



(2)


 しかし浩太郎は、

「そうだな。まだそちらの方は何とかなるだろうけど、今、一番の問題は、むしろご公儀の中だよ」

「ご公儀?」

 それには、お華と優斎二人が驚いた。

 しかし、優斎はすぐ気が付いた。

「それは、まさか先日お話のお跡目ですか?」

 浩太郎は頷く。

「んん。お華が言ってたろ? 阿部様がお亡くなりになり、上様が御心配だから、ここは、溜詰(溜席)の井伊様に大老を。って話」

 お華が乗り出し、

「やっぱり、井伊様が?」

 浩太郎も、

「下馬評だとそうらしいよ。もちろん、まだ決まった訳じゃないらしいがな、あり得る話だ。先頃、大手の門番にちょっと聞いたんだよ」


 溜詰とは伺候席の一つだが、大名、旗本が登城すると身分によって詰める部屋が変わる。

 溜詰は、大名格の旗本に与えられた最高の席である。。

 ちなみに、江戸城に登城した大名が控える控え席の事で、各自身分によって、部屋が違う。

 他には、大廊下席、大広間席、帝鑑間席、柳間席、雁間詰など、身分や官位。役職などでそれぞれ決められる。

 その中でも溜詰は、その井伊家を初め、高松松平・会津松平家の当主の定席となっていた。

 また、永年の老中だった家や、特別な計らいで一代限りの席になる事があるが、井伊家は、それらも含め、筆頭格の旗本最高の家であった。

 

 そして一方、下馬評とは、今も使うが大手前の下馬の看板下で各大名達の家来達が、出世の行方を話し合う噂話の事。

 これは意外にも重要で、ここで情報を収集するどこかの家臣も居れば、瓦版の記者なども聞き耳を立てたりして、翌日の表紙になる事もある。

 もっとも、大老だから、噂などというレベルではない。

 あまりにも身分が上の為、決まれば、我が主人は我が身の行方にもかかわる。

 例えば、他に先駆けてお祝いを贈る。お祝いを言上する。など考える事は多い。 従って、これを事前に知る事は切実な問題なのである。


 するとおみよが、三人に酒を注ぎながら、

「あの、大老様ってそんなにお偉い方なんですか」

 と聞いた。

 するとお華が、

「大奥の身分の事はあなたも知ってるでしょ?」

 さすがにおみよは、一度、勤務しているから、

「ええ、それは大体……」

 お華は頷き、

「じゃ、姉小路様の事も憶えてるでしょ?」

「ええ。それはもちろん」

 頷いた、お華は、

「そうあの時の姉様ご身分はお公家出身の、上臈お年寄。確かにご身分は、御台様の次に偉い方なんだけど、本来はそれ程、力……権勢は無い役柄なのよ」

 それには優斎が、

「言葉は悪いけど、公家側のお飾りといった身分ですよね」

 お華は大きく頷き、

「本来は、ただの年寄筆頭が、大奥総取締なんだけど。何故か姉様の場合は、滅茶苦茶力を持っててね。またそもそも身分も高いし、御台様がいないからもう女王様っていう人だったのよ。ご大老というのはそれと同じ。本来はそれほど力は無い筈なんだけど、その人次第って話もあるのよ」

 優斎も大きく頷き、

「わたしも、最近、伊達のお留守居様にお聞きしたんですけど、今の井伊掃部頭さまは、何と十四男でお生まれになったそうで……」

 それにはお華も驚き、

「十四男? 十四番目って事よね?」

 浩太郎が笑い、

「だからそう言ってるだろ」

 と笑い。そして、

「しかし、十四男であれば、かなり大変だったろう。養子の話だって、家格の合う家は、そうそう無いだろうからな」

 優斎も頷き、

「そうらしいですよ。でも、上が次々死んでしまい、ご当主に。さすがに運が良いとしか言い様がありません」

 しかしお華は、

「で、どうなのお人は。どのようなお方なの?」

 優斎は頷いて、

「お留守居様のお話では、紆余曲折、様々なご困難の中、ご当主になったせいか、お気のお強い方だそうで、何というか、水戸の斉昭様の様なお方だと……」

 それには、浩太郎とお華は驚き、眉を寄せる。

 特にお華は、手を振り、

「水戸様? それはちょっとな」

 と名言はしないものの、不承知の顔をしている。

 すると、向こう側の佐助が、心配そうな顔で、

「旦那様。すると、私みたいな店は、あのご改革の時の様に立ち退きを迫られるのでしょうか?」

 同じく、おみよも心配そうな顔だが、浩太郎は笑いながら、

「心配は要らねえよ。幾ら良い店ってって言っても、こんな小さい居酒屋につべこべ言わねえよ。元芸者がいるって言ったって、今はただの女将だし」

 お華も頷いて、

「そうそう。大体、今。そんなことやってる場合じゃないでしょ? 先生」

 優斎も頷いて、

「ええ。そう思います。今は、アメリカ。そして他の国からも和親条約結べって色々言ってきている時だから、深川の飲み屋をあれこれ言ってる暇はないですよ」

 それには、佐助とおみよは、一様に安心した顔だ。

 そして、浩太郎は、

「言ってみれば、あの頃はむしろ平和だったって事だ。町人だけにキツいこと言ってれば良かったからな」

 優斎も、それには、

「そうですね。まずは、お跡目でしょう」

 浩太郎が、

「もう、お留守居様も仰っていたかい?」

 と聞くと、優斎は、

「ええ。まあ伊達家は直接関係はもちろんありませんけど、あっちこっちから聞こえて来るそうです」

「どんな事だい?」

 優斎は頷いて、

「ええ。一橋の慶喜様か、紀伊のご当主、慶福様という話が持ち上がってるとか」

「へ~。で紀伊様はそのままだから分かるけど、一橋様っていうお方は?」

 それには優斎も笑って、

「水戸斉昭様のご子息ですよ」

 と言う者だから、お華は呆れ果ててしまった。

「なんと、今度は、将軍家ですか……」

 それには浩太郎も腕を組み、難しい顔で、

「こりゃ、一波乱ありそうだな」

 と言うと、優斎も黙って頷く。

すると浩太郎は、お華に、

「お前。一度、姉小路様のところにお伺いして、その辺のところ、お伺いしてこい」

 お華は笑って、

「兄上でも、気になるの?」

 浩太郎は笑って、

「んな訳ないだろ。ただ、行く末によっては、我々にも覚悟が必要かもしれねえ」

 それには優斎も、

「そうですね~。まずは井伊様がどの様な方で、何を目指してるのか分からないと、下の者は動きづらいですからね」

「そうそう。そういう事だ。アメリカや英国・ロシアなんて国が現れてしまったから、それをどうするのかとかな」

 お華は、軽く頷いて、

「ふ~ん。ま、分かったわ。んじゃね、姉上と一緒に行ってくる」

「え? おさよと?」

「姉上は、子供が出来たりなんかして、姉様がお城を降りられても、ご挨拶一つ出来ていないって言ってたからね。子供達一緒に連れて行けば、喜ぶんじゃないかと思うし、話しやすいと思うからさ」

 それには、優斎は、

「さすがお華さん。その辺は良く分かってますね。子供連れだったら、思わぬ事まで教えてくれるかも知れませんからね」

 しかし浩太郎は、

「う~ん。しかし、ご無礼じゃねえか?」

「大丈夫、大丈夫。大奥でならともかく、麻布でそこまで冷たくしないわよ」

 お華は、笑顔で言う。

 まあ、こちらから頼んだ以上、それ以上の事は言えなくなった浩太郎は、

「まあ、わかった。でも、何しろ子供だから、その辺はお前、頼むぞ」

 お華は、盃を傾け、

「はいはい」

 と言い、優斎と二人笑っている。

 そうして、その晩は、そんな話で過ぎて行った。



(2)


 その後、お華とおさよは、子供を連れ、麻布の姉小路屋敷に向かっていた。

 途中、新之助はともかく、小春は「疲れた~」とむずかったが、お華が、

「何、いつも叔母ちゃんには向かってくるくせに!」

 とおさよと一緒に笑い。「ほれ」とお華は軽々抱き上げ、四人で進んでいく。

 

 屋敷に着き、門を入って離れに行くと、外に出ていた「るい」と顔を合わせて、お華は破顔した。

「るいちゃん。やっぱり、出てきちゃったの?」

 お華が話しかけると、彼女は、後からやって来た、おさよと、二人の子供を見て驚いた。

「これはこれは、お華さん。そしておさよ様ではございませんか。お久しぶりにございます。ようこそいらっしゃいませ」

 と頭を下げると、

 おさよも、「お久しぶり」と笑顔で頭を下げる。

 子供達は、さすがに武家の大名屋敷だから、キョロキョロしている。

そして、るいはお華に、

「ええ。とうとう、お言葉に甘え出てきました」

 お華は頷いて、

「どう?久しぶりの表での生活は?」

 と聞くと、これも笑顔で、

「ああ、もう気持ちが晴れたというか、安心できました。やっぱりこうやっていた方が自分に合います」

 それにはお華も笑って、

「それは良かった。今度、私の所にも遊びにいらっしゃい。私が案内してあげるから」

 るいは頭を下げ、

「ありがとうございます。楽しみにしています」

 と言った時、下女が寄って来て、

「いらっしゃいお華様。お華様のお陰で、最近はあまり穴を掘らずに済んでます。ありがとうございます」

 これには、お華も大笑いする。

 そして、るいが、

「御前に御用でいらっしゃったんでしょう。今、お知らせしてきます」

 早速、彼女は屋敷に入っていくと、今度は綾瀬も顔を出し、

「おや? あなたはおさよさん」そして、

「いや~お子さんも?」

 と、珍しい客を迎えて喜んでいる。

 おさよは、頭を下げ、

「申し訳ありません。姉小路様がお下がりになられたのは、お華から聞いてはいたのですが、この」

 と、子供たちの頭を撫で、

「この有様で、ご挨拶が遅れました。今日はお華が何かお聞きしたい事があるというので、ご迷惑とは存じますが、私も是非、ご挨拶と思いまして、連れて参りました。構いませんでしょうか?」

 綾瀬は子供達を眺めながら、満面笑みで、

「なんの。何も問題はありませんよ。御前も子供達のご挨拶であれば、聞かざるを得ないでしょう」

 とお華と一緒に大声で笑う。


 暇を持て余し、憂鬱な顔の姉小路だったが、思わぬお華とおさよ。そして子供達の来客と聞いて、顔が一転し、

「はよ、はよ」

 連れて来いと、表情が一転した。

 お華とおさよと子供達は、こちらも笑顔の姉小路の前に出て行くと、まずは平伏した。

 新之助は、浩太郎から特訓を受けたのだろう。

 背筋を伸ばし、深々と平伏したが、小春はまるで不思議なものを見るような顔で、

姉小路の顔を見ながら、ちょこんと頭を下げている。

 まずはおさよが、無沙汰の挨拶をし、子供達を紹介した。

 今で言えばまだ、幼稚園生と言った年の子供だから、たどたどしくても姉小路と綾瀬はニコニコとそれぞれの挨拶を受ける。

 姉小路は、笑顔で頷き、

「うん。よく出来た。立派な挨拶じゃ」

 と機嫌が良い。

 すると綾瀬が、下女に、

「何か菓子を持ってきやれ」

 と指図すると、「はい!」と彼女は台所に走る。

 お華が、苦笑しながら、

「申し訳ありません。まあ、子供を見れば何でも話して頂けると思いまして」

 などと言うから、姉小路は大笑いだ。

 すると、小春が立ち上がり、

「おばちゃんの所行っていい?」

 と言うから、てっきりお華だと思ったおさよは、頷くと、小春はなんと姉小路の所に行ってしまった。

「こ、これ!」

 とおさよは慌てて手を伸ばして止めたが、彼女をもってしても間に合わなかった。

 姉小路も驚いたものの、膝の上にチョコンと座る小春に、笑いが止まらない。

「ご無礼を誠に申し訳ありません。姉小路様。これ、小春!」

 と言うが、小春は姉小路の顔を見上げて、ニコニコしている。

「まあ、よいよい。子供のすることじゃ」

 と頭を優しく撫でる。

 むしろ、彼女にとっては滅多に無い事だから、逆に嬉しい様子だ。

 お華も笑顔で、

「姉様、意外に子供に人気なのですね~」

 何か、違った面を見た気がした。

 それには綾瀬も笑いながら、

「子供は良く分かるのよ。人の本質が」

 と言うのだが、お華は、

「その子はいっつも私に挑戦してくるんですけどね……」

 それには綾瀬は、

「敵か味方かすぐわかるのよ」

 と笑っている。

 それにはおさよと後ろのおるいまで、大笑いだ。

「敵ですか~?」

 と、すぐ、新之助を見て、妙な笑顔で、

「お前もか!」

 と聞くと、新之助は、

「私はいつになったらお華叔母ちゃんに勝てるのか、道場の先生に聞いてるんです」

 それにも、また、みんな笑ってしまう。


 さて、子供達は出されたお菓子を早速、頬張っている。

 おさよがそれを世話しているのを横目に、お華は姉小路に訪ねようとすると、

姉小路も、それを微笑ましく見ながら、

「子供達まで連れて、来たところを見ると、よほど面倒な事じゃな」

 それにはお華も笑い、

「そりゃそうでございます。とりあえず、ご機嫌を取り結ばないと、お聞きし辛いですから」

 などと言うから、姉小路と綾瀬は顔を合わせて微笑んでいる。

 するとお華は、

「まあ、本来私。いやこの子達の父は、奉行所の同心でございますから、どうしようも無い事なんですけど、やはり最近の事は、とても通常の事ではございませんし、まずはお伺い出来るものなら、お伺いしてこいと言われましてね。私としましては、こんな事に姉様を巻き込むのは、嫌なんですけど」

 姉小路は鼻で笑い、

「何言ってる。そなたはむしろ巻き込みたい方であろうが」

 と笑い、続けて、

「そなたが聞きたいのは上様の事であろうが」

 と、額に皺を作って聞く。そして、

「あ! 上様といえば、そういえばそなた。奥金庫の盗賊捕まえたらしいの?」

 それにはお華は笑みを浮かべ、

「そのような事良くご存じで。あれは、滝山様から、新しい御台様をお迎えするのに、大奥の恥になるからとか仰られたものですからね」

 姉小路は、吹き出して、

「まあ、分からないでは無いがな」

「地震もあったものですから、些か時間がかかりましたが、何とか。いや、まあそれは良いのですが、やはり御台様をお迎えになりましても、やはり、御養子と言う事になってしまうのでしょうか?」

 それには姉小路も難しい顔で頷く。

「やはり、お身体がな。それにも関わらず、アメリカの者などに面会など、余計な事をしてくれる」

 お華もそれには頷き、

「そうでございますか……。実は本日お聞きしたかったのは、先日お亡くなりなりになった、姉様ご贔屓の阿部様の後についてでございます」

 それには、姉小路も、

「これ! 何がご贔屓じゃ」

 と慌てて怒るが、綾瀬も知っているだけに笑ってしまう。

「これ、お前まで」

 と言っているが、そこにお菓子をカスを口に付けた小春が、姉小路の前に来て見上げていたから怒るに怒れなくなり、

「あらあら」

 と懐紙を取り出し、小春の口を拭いてやり、また膝に座らせた。

 お華は、口を押さえ、笑いを押し殺しながら、

「私も奥方にお話をお伺いして参りました。恐らく後は、井伊様がご大老になられるのでは。そして、殿がしてきたことは全て取り消されるだろうと」

 それには、姉小路も大きく頷き、

「恐らく、そういう事になるじゃろう」

「そうでございますか。やはり、ご大老に」

 姉小路は頷き、

「それだけなら致し方もないが、問題はお跡目じゃ」

 それには、お華とおさよも、背筋を伸ばし、

「やはり、そういう事になりますか?」

 と、おさよが聞いたが、姉小路は大きく頷いた。

 すると、お華が、

「今、巷では(伊達の留守居だが……)紀伊様か一橋様かと言われております。やはりその通りで?」

 それも姉小路は頷く。

 お華も、頷きながら、

「実は、私自身が知りたいのは、井伊様というお方なのです」

 しかしその問いには、姉小路も首を振り、

「残念ながら、わらわにもあの方の事はようわからん」

 すると、お華が、

「何でも、水戸の斉昭様と双璧だというお話なのですが」

 それには大きく頷き。

「それは、確かにその通りじゃ。だが、水戸様はお前も知ってる通り、下世話に言う、言うだけ大将と言った様なお方。むしろ扱いは楽じゃ。言うだけ言わせておけば、何も出来ない方であるからな。阿部様もそう扱っておられた。だが、井伊様は、さすがに十四男から、当主に成り上がったお方じゃ。それだけでも、違うと思わぬか?」

 お華とおさよは大きく頷き、お華が、

「兄もそれをお伺いして、これは戦になるのでは? と心配しております」

 それには姉小路は手を振り、

「それは無理じゃ。まず水戸が、そこまでやれるとは思わん」

「そうですか……」

 しかし、姉小路は、もっと難しい顔をして、

「それより、今、外国から、我が国を開けと次々言われておるのじゃろう」

 それにはお華が、

「はい。アメリカ国だけで無く、イギリスやフランス、またロシアなどからも来ているとのお話です」

 と言うと、姉小路は、

「むしろ、そちらの方が大きな問題じゃ」

 お華は少し笑って、

「今や、アメリカなどは下田に軍艦を置き、アメリカのおなごまで来ている様でございます。これではもう殆ど、領土と言っても良い有様で……」

 姉小路は、一つ溜め息を吐き、

「これが、京に知れたら、かなりの問題になるじゃろうな。ましてや交易も始めたとなっては、かなり難しい事になる」

 こんどはおさよが、

「そんなに……。で、京とは一体」

 それには姉小路は即答し、

「朝廷じゃ!」

 二人は驚き、

「朝廷? とすると帝様にございますか」

 と二人で叫ぶ様に言う。

「当然じゃ。国のことは、幕府にお任せになってるとはいえ、こと国外については、そうは簡単にいかない。当然公家どもも、一斉に反対に回るから、帝とて同じご意見になる。それをうまく処理出来るのかの~。井伊様では心配だし、江戸でも水戸様も反対になるだろうからな」

 お華は、大きく頷き、

「なるほど、そういう事でございますか。だから、水戸様に繋がる一橋様では、揉めると言う事でございますね」

 姉小路は大きく頷き、

「その通りじゃ」

 と小春の頭を撫でてやる。

 しかし、お華は、

「ま、そういう事なら良いのです。所詮、上つ方の争い。江戸の町民達が被害を受けるのでなければ、まずは安心でございます」

 と笑う。

 その日は、夕刻近くまで、姉小路の屋敷で、子供達と一緒に過ごす、お華とおさよだった。



(3)


 翌日、浩太郎は、信吉を連れ、深川に向かっていた。

 歩きながら、昨晩、おさよから聞いた話を思い出し、つい、

「朝廷か……。さすがにそこまでは思いつかなかった」

 などと独り言を言うものだから、後ろから信吉が、

「何です? 旦那様」

 と言われてしまったので、浩太郎は、

「ああ、すまんすまん。何でも無い」

 笑ってしまう。(俺とした事が)という顔である。


 ところで、浩太郎の受け持ちは、両国から浅草方面なので、本来、深川は場所違いなのだが、午前中、奉行所にまだ居た浩太郎に、呼び出しがかかったのだ。

 平吉の使いだった。

「どうしたのだ?」

 と聞くと、使いは頭を下げ、

「実は早坂様が、どうも困ってらっしゃる様で、旦那様のご意見を聞きたいと仰るもので、親分が内密にと……」

 しかし、浩太郎は、

「なんだ~?」

 と驚いてしまう。

 早坂徳之介(とくぼん)は、この度晴れて、見習いから本勤に出世し、今は、深川・本所を任されているのだ。

 とはいえ、出世を手伝ったとも言える浩太郎は、そう言われると動かざるを得ない。

 平吉を先に行かせ、信吉と二人、急がずに向かっていた。

 着いた場所は、深川の或る長屋だった。

 浩太郎は、回りを取り囲む野次馬達を、分けて進むと平吉が外で待っていた。

 手を上げた浩太郎は、

「どうしたんだ平吉。内密にってのは」

 浩太郎の到着に安堵したような平吉は、浩太郎に小さな声であらましを語る。

 しかし、その内容には、浩太郎も不思議な顔で、

「ちょっと待て、平吉。それぐらいなら、お前でも判断出来るだろ」

 と言うと、平吉は頭を掻きながら、

「折角、ご出世になった旦那ですし、この事はさすがに旦那が一言言って頂いた方が、回りにも良いんじゃないかと思いましてね」

 それには、浩太郎も大きく頷いた。

「なるほどな。悪いな平吉。気を遣って貰ってすまん。で、手配は?」

「はい。既に下ッ引きを飛ばしております」

 と笑う。

 浩太郎は再度頷き、

「いや。本当に済まない」

 言いながら肩をポンと叩き、浩太郎は早速現場に入って行った。 

 すると、

「あ、桜田様!」

 と、妙に嬉しそうな、とくぼんである。

 その前には、女と見られる遺体が横たわっていた。

 浩太郎は、そこに入る前、信吉に、

「いいか。何があっても一切驚いてはならん。俺の話を良く聞いとけ」

 と、言ってあった。

 とは言え、まだ幼いと言える信吉には、目の前の死体は衝撃的なものである。

 それを隠すのに必死の様だ。

 その様子を横目で見て、微かに笑う浩太郎だが、とくぼんに対しては、厳しい顔を向けた。

「一体、どういう事だ。俺まで呼び出して」

 とくぼんは、頭を下げながら、

「実は、この仏の死因が判断出来ません。どうしたら良いものかと……」

 その言葉には、少々呆れた顔で、仏の横に座った浩太郎は、仏に一度頭を下げてから、手を合わせた。同じく横の信吉も手を合わせている。

 浩太郎は、とくぼんに、

「何が判断出来ないと言うんだ」

 それについて彼は、

「はい。一見、首つりの様にも見えるのですが、上で縄は切れてますし、布団の上でこの格好で、亡くなっていたようです。どうもしっくりこないのです」

 しかし、その言葉を聞いた途端、浩太郎の目は厳しくなる。

「馬鹿もん! お前は()(えん)(ろく)(じゅつ)を読んでいるだろう。あの通り調べれば直ぐ分かるじゃないか!」

 と、信吉も飛び上がる様な大きな怒鳴り声で、とくぼんを叱りつける。

 しかし、彼は妙にモジモジした素振りで、蚊の鳴くような声で、

「じ、実は、私はまだ読んで……」

 などと言うので、浩太郎は再び、怒声を上げる。

「ばかやろう! お前が見習いの時から読んでおくように言ったろう。そんな事は、同心にとっては基本中の基本だ! お前の親父さんに知られたら、勘当もんだぞ!」


 ()(えん)(ろく)(じゅつ)という書は、中国の南宋時代に出版された「洗冤集録」という法医学書を元にして書かれた江戸時代の医学書である。

 日本で最初の法医学書であり、当時、奉行所町方同心、必読の検死参考書であった。


 平吉は土間に立ちながら、微笑んでいる。

 彼の亡くなった父親の親分も、浩太郎の父親の感化を受け、色々教えて貰っていたから、平吉も父親からしっかり受け継いでいた。そんなこともあって、浩太郎は、平吉が気を遣ったのも分かる様な気がした。

「だいたいな。あんなものは、お華でさえ、子供の時に読んでたぞ。それはそれは楽しそうにな」

 何だか知っている平吉は、その事は初耳だったが、分かる様な気もした。

「お、お華さんまで……」

 と、さすがに、とくぼんもガックリしている。

 浩太郎は仕方無く、仏の死体改めに入った。

 まずは、一度立ち上がり、上に引っかかっている縄を手に取り、その切り口に目をやる。

 信吉は、もう落ち着いたのか、真剣に浩太郎のやっている事を、真剣な顔で見ている。

 そして浩太郎は、また座り、仏を横にして首筋を調べる。

 それから更に、信吉に命じて、仏の着物の足下、裾をまくり上げる様に命じた。

 さすがに初めての信吉は、おっかなびっくりという感じであるが、そんな事で浩太郎は怒らない。

 そして、浩太郎は仏を後ろにし、背中の小袖を小柄で切り裂いた。

 浩太郎は頷き、とくぼんに顔を向け、また厳しい目で、

「これは、明らかな殺しだ」

 と言い切った。

 さすがにとくぼんは目を丸くし、

「こ、殺しですか?」

 浩太郎は頷き、

「これは基本的な事だ。無冤録述を読んでりゃ直ぐ分かる」

 信吉は、あまりの即断に驚いている。

 浩太郎は、情けない顔で、

「いいか、早坂。この縄は、刃物で切られた物だ。お主が斬ったので無ければ、この仏か、下手人が斬った事になる。仏が斬るぐらいなら死ぬわけない」

 それは当然だ。信吉にも分かる。

「つまりこれは、まやかしだ。殺した後に、縄だけ吊ったのさ」

 今で言う、フェイクという事だ。

 そして、浩太郎は信吉に、

「お前さんも憶えておきなさい。何かの事情で、自分で判断しなければならなくなるかも知れない」

 と少し笑い、信吉は真剣な顔で頷く。

 そして浩太郎は、

「次は、この首だ。早坂、首を吊ったら、どういう跡が出来るか知らんのだろう」

 とくぼんは、自分で自分の首を吊る仕草をして想像しているが、浩太郎は、横に座る信吉に、先程の縄で首つりをする。当たり前だが、もちろん形だけだ。

「いいか。首つりの自害なら」

 と、信吉を横に向かせ、正面に座っているとくぼんに、

「首から耳の横までの跡になる筈なのじゃ。か、しかしこの仏は首の後ろにまで、一周跡が付いている。ほれ」

 信吉もとくぼんも頷いている。

 すると信吉が、

「旦那様? あとの足と背中を見たのは、何の為ですか?」

 と、子供らしく聞く。

 それには浩太郎も笑顔で頷き、

「うん。いいか? 首つりで、吊ったまま死んだ場合。血は足下に集まって、痣の様(死斑)になるんだ。また、寝ながら死んだ場合は背中に、痣が出来るんだよ。これは早坂。無冤録述に書いてある。そして信吉は、優斎先生に聞いてご覧。分かる様に教えてくれるよ」

 と笑い。

「従って、この仏は殺されたのじゃ。もう既に平吉が、これの消えた旦那を手配している」

 それには、とくぼんも驚いて、

「え? もう?」

 浩太郎は、呆れた顔で、

「平吉だって、この事は長い親分生活で良く知ってるし、何より先の親分から受け継いでいる事じゃ。お前さんが悩んでいる間。さっさと次に進んでいたんだよ。お前がどうかより、下手人を逃がしちまったら、本末転倒だからな」

 これには、とくぼんもガックリだ。

「しかし、平吉に感謝しなければばらん。俺だけ呼んで、他に妙な噂を流れない様にしてくれたんだ。礼を言っとけ!」

 と言ったが、とくぼんが頭を下げた時、その時だった。

外の方から声が上がった。


「おいらが何をしたって言うんだ!」

 これを部屋の中で聞き、浩太郎を先頭にみんな慌てて外に出た。

 妙な男が、短刀を片手に叫んでいる。平吉の下ッ引きが前後を取り囲んで居た。

 手前の若い男に、浩太郎が聞くと頭を下げ、

「ええ。ご命令の件を言って、こちらに連れて行こうと思いましたら、途中で逆上した様で……」

「なるほど」と頷いた浩太郎は、長屋の井戸横に立っている男に大声で、

「仏は、殺害されたものと決まった。昨晩からの出入りは本人の他、おめえしかいねえ。奉行所にて、その辺聞かせて貰おう!」

 と十手を取り出しながら、言い放った。

 彼にしてみれば、このまま奉行所の取り調べなどを受けたら拙い事があるのだろう。

「いやなこった! おいらから離れろ! 怪我するぞ!」

 にっちもさっちもいかなくなった男は、短刀を持ちだしたのであろう。

 が、それはわざわざ自白しているのに等しい。

 下っ引きもつまらぬ言い草に、いつまでも付き合っていられない。遠目にはこの長屋の住人も心配そうに眺めている。

 刃物を持ち出されたら、どんな被害が出るか分からない。

 すると、一人が一気に飛び出した。

 十手で短刀を避け、叩きのめそうとしたのであろうが、意外にその男は出来る男で、巧みに刃を振り回して、近づけさせない。

 浩太郎は、舌打ちして、

「仕方無い」と呟き、十手を左脇の帯にしまい込んだ。

 それは何を言っているのか分からなかったが、後ろにいる信吉にうっすら聞こえ、注目していた。

 そして、もう一人が、男に向かって行ったが、同じ様に後ろに下がらせられる。

 短刀を上に振り上げた、その瞬間。

 若干沈み込んだ浩太郎の右手が、空に高く振り上げられた。

 その時、後ろの信吉は、いつか見た光景をとっさに思い出していた。

 そう、浩太郎は右の小柄を飛ばしていた。

 瞬きする間に光を反射して、男が短刀を持っている右手に突き刺さった。

 簪とは違って、力のある小柄は、男を後ろに飛ばし、見事に井戸に立つ柱に突き刺さった。

 余りの事に、男は短刀を吹き飛ばしてしまった。

 それを見て、ほぼ同時に、下っ引きが一斉に飛びかかり、あっという間にお縄になってしまった。

 むろん、知っている平吉は、微かに片頬を上げただけだが、信吉は目を大きく見開き、腰を抜かさんばかり驚いていた。

「よかった。早く片がついたな」

 と言っている浩太郎に、側に寄ってきた信吉が、

「旦那様。まるでお華さんみたいですね~」

 と言われた浩太郎は、あまりの言葉に気の抜けた顔で、ガックリと膝を折ってしまった。

 聞いていた平吉も、素早く口を押さえ、含み笑いしている。

 浩太郎は、とくぼんと平吉に、悲しい顔で、

「お華並みだってよ」

 と頭に手をやる。

 信吉は、どういうことだか分からないがニコニコしている。

 今度は平吉が浩太郎に寄って来て囁く、

「これは、誠にお気の毒な事で……」

 と気を遣うが、笑いは止まらない。

 あ~あ、と言いながら、浩太郎はとくぼんに、

「こんな事言われたら……。もういい。今回の事はお前の手柄と言うことで奉行所にご報告しろ。お前の初手柄だ」

 とは言うのだが、いささか元気がない。

 それから、

「早坂! 今日から、さっき言った無冤録述を熟読しとけ。当然、お父上がお持ちだろう。恐らく叱られるかも知れんが、知らないではこの先勤まらない。分かったな」

 とくぼんも、気の毒な様子で、「はい」力なく返事をする。


(4)


 腕に大きく手拭いが縛り付けられている下手人を、浩太郎は後の手配があるから、 平吉を先頭に、下っ引が北町奉行所に引き立てて行った。

 門内に入り、下の者に牢入りを命じていた時、たまたま与力の佐久間が、通りかかった。

 佐久間は、気楽な様子で平吉に、

「お! またお華か?」

 と聞かれた平吉は堪らず、笑みを浮かべながら、

「これはこれは、佐久間様」

 深く頭を下げるが、

「いえいえ、これは早坂様のお手柄で」

 と言うのだが、さすがに吟味与力の佐久間の目を欺す事は出来ない。

 引っ張られている男の手拭いを指差して、

「何言ってる。あんな事出来るのはお華ぐらいだろ」

 と言われてしまった。

 平吉は、クククと笑いながら佐久間に近寄り、小声で、

「実は、本当に捕まえたのは、うちの旦那で」

 それには佐久間も、

「え、浩太郎か?」

 と驚く。

 そして平吉は、更に小声で、事の成り行きを伝えた。

 佐久間は、驚きというよりも、あまりの話に、

「小僧にか!」

 と大笑いしてしまう。

 すると、当の浩太郎がやって来た。

「これ、平吉。ちゃんと牢の方確認してこないか」

 と、元気のない声で、命じるが、目の前の佐久間に、

「お聞きになったのですか?」

 佐久間は上機嫌で頷く。

 浩太郎は仕方無く、

「うちの信吉は、先頃、お玉が池の医学所の付け火で、下手人をお華が捕らえたのを目の前で見ているものですから、私のと重ねてしまったと思うのですが……」

 佐久間は笑い、

「仕方あるまい。さすがにお華のやる事は派手だからな。子供にはどうしてもそちらの印象が強くなる」

 浩太郎も、苦笑して頭を下げる。

 そして浩太郎はふと気付いた。

「おや? 佐久間様。今日はどうして奉行所に?」

 彼は嫡子、佐久間健二郎に与力職を譲り、隠居する事を発表したばかりだったからだ。

 それには、佐久間は浩太郎を、建物脇の腰掛けに誘い、二人とも座ると、

「実はお奉行様からな、暫く健二郎の後見役として、暫く残ってくれないかと言われてな」

 浩太郎は眼を大きくして、

「お奉行様が……。しかし、また何故でしょう?」

 その質問には少々小声で、

「何やら、お上に移動なりあるらしくての。それでと言うんじゃが。お前、何か知ってるか?」

 と聞かれた浩太郎は、直ぐ気付いた。

 しかし、少々苦笑気味で、

「あの~。結局それもお華が聞いて来た事なんですがね……」

 それには佐久間もおかしくなって、

「何、それもお華か? しかし、あの子は凄い娘になったもんじゃ。与力同心より情報が早いとは……」

 浩太郎も頷き、みよすけで話していた事を話した。

 佐久間は大きく頷いた。

 浩太郎は、そしてもう一つ。

「なんと、姉小路様だと? あの子は目付か隠密並みじゃな」

 と感嘆の声を上げ、

「しかし、そうかそうかお跡目か……。それでようやくわかったわ」

 浩太郎は、

「水戸様ぐらいお気の強い方らしいですが、立場は全くの逆。一橋様と紀伊様ですから、どちらも退かないだろうと。そして外国の事もありますので、ご改革のような事にはならんだろうとの事だそうにございますが、それもどうなるか、という事でございます。恐らく、お奉行様はそれを恐れての事かも知れません」

 佐久間は大きく頷き、

「そうだろうな。何の事はない。わしよりお華に任せた方が良いのではないか?」

 と、それには浩太郎も笑ってしまう。

しかし、佐久間は、

「そうか。確かにそんな状況では、健二郎には荷が重かろう。難しい時代になっちまったな~」

 浩太郎もそれには頷き、

「誠に、今後、一体どういう事になるのか、想像もつきません……」

 並んで座る二人は、腕を組み、厳しい顔に変わってしまった。



~つづく~



 今回もお読み頂きありがとうございます。


 今回は佐助の店からの始まりでした。

 モデルは、浅草のホッピー通りの居酒屋を念頭にしておりました(笑)

 あそこは江戸時代には、伝法院脇にありました。

 伝法院ってのは、庭園が有名で、江戸初期、作庭の名手「小堀遠州」が作ったと言われています。 

 未だに残っておりますが、常時見学と言う訳ではないのでご注意を。


さて、この小説。何か重大な出来事の前には会議が行われていますが、今回は特に何が重要というより、実際にあまり意味が無い。

 何てったって、大獄前ですからね~。

 まあ、同心・医者・芸者にとっては、とても想像つかない事態になりますから、手の出し様もありません。

 ただ、天保の改革を経験したお華にとっては、そりゃ恐ろしかったでしょう。

 しかも、今度の相手は「大老」。

 この役職については次回説明することとして、あまりにも位が高すぎて、逆にお華には見てるだけの結果になってしまいます。

 天保の改革は、庶民には切実な、大きな歴史的な出来事ではありましたが、所詮は江戸中心のお話。 

 しかし、これからは日本全国が対象になってしまいます。

 個人的な事ではございますが、江戸中心の事を考えている私には、ここからは書くのが難しい。

 もしかしたら、ぐだぐだになるかも知れませんが、どうかご笑納下さいませ。


 ところで後半の偽装殺人事件ですが……。

 江戸時代といっても、中々、先進的な事もやってたんだなと感心してしまいます。

 なぜなら、今も基本的には変わらないからです。

 確かに、解剖などは行いませんから限界はありますが、それでも大したもんだなと思います。

 

 それでは、次回、

「とうとう奴がやって来ます」(笑)

 どうぞ、よろしくお願いします。


 では次回もお読み頂ければ嬉しいです。

 ありがとうございました。

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