⑲わくちんって何?
(1)
お昼前。お華は隣の優斎の診療所に行った。
「先生! 今、暇?」
と襖を開けて中に入ると、優斎とおかよが、真ん中に机を挟んでお互い、それを睨み付けていた。
しかし、気配に気付いたおかよが、
「あ、お華さん」
お華は、寄って来て笑いながら、
「何やってんのかと思ったら、将棋?」
おかよも笑って頷く。
優斎は、
「何ですお華さん」
と、少し不機嫌な様子で言いながらも、将棋盤から目を離さない。
すると、お華は少し、その盤面を眺めると、
「なんだ。もう詰んでるじゃ無い」
と言い出すものだがら、優斎が驚いて、
「え? ど、どこが、誰がです?」
お華は、また笑いながら、
「先生が詰んでるのよ。わかんないの?」
おかよは、向こう向いて、笑いを堪えている。
するとお華は、おかよに、
「おかよちゃん。ここはあそこじゃないんだから、わざと負けなくてもいいのよ。この人だって一刀流免許皆伝なんだから、勝負は厳しくしなきゃ」
おかよは、笑いながら頷いている。
しかし、優斎は眼を大きく開け、まだ理解していないようだ。
すると、お華は、
「ほら、ここで先生がどこ打ったって、銀をこう、こう!」
と指差して、
「ほら。もう七手で詰んでるでしょ」
「あ! ……」
優斎は、盤面に頭を落とし、ガックリだ。
「おかよちゃん。これ随分前から、この繰り返しでしょ?」
それには頷きながら、おかよも、
「でも、お華さんもよく分かりますね。お得意なんですか?」
むしろ、そちらの方が不思議だったらしい。
今と違い、囲碁・将棋などは、女がやるものでは無かったから、吉原にいて、嗜みとして教えられているおかよはともかく、お華がスラスラ言ってしまうのが不思議だったのだろう。
お華は笑って、
「あたしはね。小っちゃい頃、よく父上に教わったの。教わったっていっても、結局、遊んでいただけだけどね。よく町回りに連れて行かれると、縁台将棋なんかやってたわよ」
「へ~」
と、おかよは驚くが、優斎は悲しい顔で頭を抱えている。
お華は、横の腰掛けに座ると、
「いや、ちょっと先生に聞きたい事があってさ」
おかよが持って来てくれた、お茶を軽く頭を下げて言った。
すると、その時だった。
また、障子が開いた。
お華がそちらを向き、
「おう。サブちゃん」
と声を掛けるが、しかし裕三郞は
「お、お華さん……」
なにやら警戒して眉を寄せる。
ところが、その横で立っている、おかよが目に入ると、途端に直立不動になり、
「兄上……こ、こちらは……」
と聞くが、優斎はまだ負けた衝撃から立ち直れていない。
かわりにお華が、
「あのねサブちゃん。こちらは、おかよさん。今月から、先生の助手をやることになったのよ」
裕三郞は驚き、
「新しい助手ですか?」
しかし、おかよは手を振りながら、
「助手なんて……。ただのお手伝いでございます。かよでございます。よろしくお願い致します」
深くお辞儀をした。裕三郞も慌てて、
「私は優斎の弟、秋月裕三郞にございます」
と頭を下げる。
「あ、弟様で……」
おかよは深く頭を下げる。
しかし、お華は大笑いして、
「おかよさんじゃ、こんな子扱うのは簡単だろうけど、まあお手柔らかにね。で、この人は、伊達様の勘定方なのよ」
それにはおかよも驚き、
「え? 伊達様でございますか?」
てな話を勝手に始めているものだから、優斎もようやく我に返り、
「裕三郞。何かあったのか?」
と聞いた。
裕三郞も気が付いた様で、
「あの伊達のお嬢様から、今度はいつお見えか? と聞かれまして。聞きに来たのです」
それには優斎も頭を下げ、
「ああ、すまない。あさってにでもお伺いしたいと思うが、ご都合はどうだろう?」
すると裕三郞は、
「問題ございません。その様にお伝えします」
と答えると、お華が、
「今度は、おかよさんも一緒なの?」
「そのつもりだが」
すると、お華は、
「いよいよ、伽羅(芝居・伽羅先代萩の事)の始まりかな?」
と、大笑いだ。
優斎は慌てて、
「そんなわけないでしょ。その時は、ご足労ながらおみよさんにもご同道お願いしますから、大した騒ぎになりません」
しかし、
「そうかな~」
とお華、そして、おかよまで笑っている。
すると裕三郞は、
「そ、それでは急ぎ、この事お伝えします。ご免」
些か、逃げる様に行ってしまった。
優斎は、不思議な顔で、
「何慌ててんだ? あいつは」
それにはお華が、
「おかよさんが居たからビックリしたんでしょ。なんてったって、吉原の呼び出しの様な綺麗な人は、仙台の若造には普通一生、会えないからね」
と大笑いだが、おかよは恥ずかしそうに、
「いやですよ。お華さん」
手を振るが、優斎も、
「まあ、そうかもしれないな。さすがにあの若さにゃ毒だ」
と笑う。
「もう、先生まで」
と文句を言う、おかよだが、特に嫌な気もしない様だ。
その辺は、女心というところか。
さて、お華はそんな事を言いに来たのでは無い。
「ところで先生」
と始まった。
(2)
「どうしましたお華さん」
するとお華は、
「あのね。昨日の晩お座敷でさ、日本橋の薬種問屋のご主人から聞いたんだけど。あそこで……」
とお華は、座っている後ろを指差し、
「種痘所? てのが出来るらしいじゃない。勿論、先生も知ってるよね」
しかし、優斎は途端に渋い顔をして、
「あらら、聞かれましたか……」
お華は頷いて、
「うん。何でも疱瘡を直すって凄い薬を作るとか聞いたんだけど、これは先生に詳しい事聞かなきゃと思ってね」
優斎は、まだ渋い顔で、おかよに向かって、
「あなたにも聞いて貰いましょう。私の手伝いをやる以上は、知らない訳にはいきませんから」
「は、はい」
と、おかよが座ると、優斎はお華に、
「確かに、その話は本当です。あそこのお玉ヶ池の裏には、蘭方医の伊東玄朴様がお住まいで、今度そこで種痘所が出来る様です」
するとお華は、
「ああ、伊東様。それで疱瘡が直る薬って本当なの?」
優斎は静かに首を振り、
「薬というか、ある方法で、今、元気な子供達に、将来疱瘡にかからないようにすると言う技なのです」
それにはお華が「お~」と歓声を上げ、隣のおかよも目を丸くして聞いている。
ちなみに「疱瘡」というのは、今で言う「天然痘」の事である。
天然痘が我が国で発生したのは古く、平安時代以前から繰り返された病気である。奈良の大仏様が建立されたのも、その当時蔓延していた流行病(疱瘡)平癒の為と言われているほど、人の命を大量に奪った病気である。
そして、疱瘡は江戸時代にまで続いていた恐ろしい病であった。
「これは、一度、疱瘡にかかったら、二度はかからないと言う事に注目して、まず、疱瘡にかかった者から、膿を取り出し、それを乾燥させて、力を弱くして、改めて子供に小さな傷を作って、そこから感染させます。しかし、それは効力が弱いから、せいぜい熱が出るぐらいで、みんなもよく知ってる跡も残らず、綺麗な身体で快癒します。そうすると、一度疱瘡にかかってますからもう二度と掛かる事は無くなります。つまり、薬というものでは無く、どこまでも予防の手段でして、これを向こうの言葉では、ワクチンといいます」
と、優斎は説明した。
「わ、ワクチン……。薬じゃないんだぁ。でも凄いじゃない! 今はそういう事も出来るようになったって事?」
感心した顔で、お華は聞くが、優斎は、
「まあ、そういうことなんですけどね」
と、それほどでもない顔だ。
するとお華は、
「じゃ、うちの子達は、お願いしたらやってくれるかしら」
それには優斎も、
「ああ、おゆきさんまで、やって貰えるよう、既にお願いしてます」
その妙な言葉には、お華が不審な顔で、
「うちのって、兄上の所はどうするの? あそこだって二人居るのよ?」
当然、その疑問が湧く。
しかし、優斎は些か苦しそうな顔で、
「そこですよ。問題は。うちは全く問題はありませんけど、浩太郎さんの所は、そうは簡単にいきません」
それにはお華は驚き、
「なんで? もしかしたらお代がかかるの?」
優斎は手を振り、
「今までの様に朝鮮人参飲ませるよりはるかに安い。それに比べればタダみたいなもんです」
と少し笑う。
「じゃ、なんで兄上の所は駄目なのよ」
優斎は、真面目な顔で、
「駄目って訳じゃありません。ただ浩太郎さんは武家だからです。いくら疱瘡に効くといっても、あそこ、特に新之助君は嫡男です。得体の知れないものを迂闊には打てないと思うでしょう。御家の大事にも関わりますから。あなただって武家の娘。その辺は想像出来るでしょ? だから私はそれで、浩太郎さんに勧めるべきかどうか、悩んでいた所だったんです」
しかし、お華は少々怒りを込めた声を上げて、
「何言ってるんです! こんな事に武家も何もありません! 嫡男だからこそ、生きて貰わねばならないんです。仮に何か有れば、私が一生懸命看病します。それにあの父の孫。そう簡単に死なせやしません!」
おかよは目を丸くして、疱瘡そのものより、お華と優斎の言い合いに驚いていた。
優斎は頭を掻きながら、
「そ、そう? あなたがそう言うんだったら、お話してみましょうか」
お華に簡単に言い負ける優斎に、何だかおかしくなってしまう、おかよであった。
すると、お華は、
「それに兄上はね。きっと大丈夫よ。そんな武家の仕来りなんか、全然、考えてないと思うわよ」
しかし、まだ優斎は不安な顔だが、
「そうかな~」
「そうそう」
お華は満面笑みである。
優斎は、おかよに向かって、
「あなたも一緒に来て下さい。一応、ご挨拶しておいた方が良いでしょう」
それには、おかよも、
「ありがとうございます。とても勉強になります」
なんの勉強かわからないが、おかよも嬉しそうである。
(3)
三人は、昼過ぎ八丁堀に向かった。
「あたしよ~」
と戸を開けた途端、歩き始めている小春が、トコトコやって来て、
「あ、おばちゃんだ!」
などと、幼いなりに警戒した顔になっている。
お華は笑って、
「この小娘。なにがおばちゃんだ、よ!」
と言いながら、小春の頭を撫で、居間に入った。
続けて、優斎とおかよも続いた。
浩太郎は休みで、何か本を、新之助と一緒に読んでいるところだった。
「おう。どうした、三人で」
優斎、おかよは早速頭を下げて、優斎がまず、
「今日は、少しご相談がありまして……」
と言うものだから、本を新之助に渡し「またあとでな」と言いながら、
「おさよも居た方がいいかい?」
「ええ。出来ましたら」
すると、台所に居たおさよを、浩太郎が自ら立ち上がり呼びに行った。
優斎は、やって来たおさよに、
「すみません、お忙しいところ」
と頭を下げて言うと、おさよは笑って、
「いいのよ。どうせ、おきみちゃんの料理見学だから」
などと言うものだから、一斉にみんな笑う。
そして、浩太郎は、
「で、先生。相談ってなんだい?」
すると、優斎は、
「その前に。この人を紹介します。おかよさんと言います。こんど、うちの診療所を手伝って貰う事になりまして。まず、ご挨拶に参りました」
浩太郎は眉を上げて、
「あ、あれ? あんた一度、会った事あるよな」
おかよは頷いて、
「憶えてらっしゃいましたか。はい、以前、吉原で」
その言葉には、おさよと、ちょうど戻って来た、おきみも口を開けて驚いている。
それはともかく、浩太郎は、
「あんた。先生の助手になったのかい? それは良い事だ。下手な店に惹かれるより、よっぽどマシだ。すると、お華か?」
「はい。私、年季明けなのに地震で困っていたところ、お華さんにお会いまして、それからお世話になっています」
「ほう。そうかそうか」
と言って、おさよにも事の詳細を教えてやった。
「へ~それはそれは。今後ともよろしくお願いしますね」
「これは、誠にありがとうございます」
快く受け入れる浩太郎一家に、おかよは笑顔になってしまう。
すると、浩太郎が、
「そう言えば、三郎さんは知ってるのかい?」
と優斎に聞くと、
「ええ。今朝方、紹介しました」
すると、後ろのおきみから、
「一回戻ってらっしゃったんですけど、妙にニコニコして帰ってらっしゃいましたよ」
それには、浩太郎は大笑いして、
「まあ、あそこの呼び出しなんぞ、三郎さんじゃ、一生会う事は出来ないからな」 そしてお華も、
「全く情けない限りよ。伊達様も行く末、危険だわ」
おかよは困った顔だが、みんな大笑いとなってしまう。
「で、相談ってなんだい?」
「浩太郎さん。種痘所の話はお聞きですか?」
優斎は、いやに慎重に聞く。
すると浩太郎は、笑顔で、
「やっぱりその話か。俺も先生に話を聞きたいと思っていたんだよ」
などと言うものから、優斎は一気に緊張の力が抜け、お華は大笑いしている。
そして、
「ほら、言ったでしょ」
優斎は、如何にも負けたと言う顔で、
「私の所にいる子供達は、私やお華さんが責任者というか親代わりのような所がありますから、身体に良い物ということなら遠慮はしませんが、ここの子供達は武家の子。私だって元武家ですから、その難しさは良く理解してますから、お勧めするのも、気が引けてしまって……。しかし、良くご存じでしたね」
浩太郎は笑って、
「そりゃそうだよ。一応、北町にも設置の願いが届けられるからね」
それには、優斎も「あ~」と頷く。そして浩太郎は、
「奉行所の子持ちの連中もさ、最初は、それで疱瘡にかからないで済むと聞いて、喜んでいたんだが、詳しい話を聞いて、話がピタっと止んでしまったからな。でも俺は、ひょっとするとこれは願ってもない事じゃ無いかと思ってな、先生に詳しい話を聞いてから判断しようと思ってたんだ」
それを聞いて、武家には珍しい考えだなと感心していた。
小春に、首を絞められているお華は、
「これ! 小娘」と小春をグイッと前に座らせ、
「大体ね、兄上が、そう言う話を嫌がる訳無いのよ。兄上は、もともとお医者志望だったんだから」
それには、皆、驚いた。いや、当人が一番驚いた。
「なんで、お前がそんな事知ってるんだ、先生か?」
と優斎は、慌てて首を振り、
「そんな話は一度も……」
と否定する。
するとお華は和やかに、
「教えてくれたのは、父上よ」
その言葉には、浩太郎は仰天した。
そして、おさよも驚き、
「どういう事? お華ちゃん」
お華は頷いて、
「私がね。あれはそう、芸者になろうかと言う頃の話よ。父上がその時……」
と浩太郎を指差して、
「お華! 浩太郎は、医者になりたかったのを諦めて、わしの跡を継ぎ同心になる。それに比べてお前は好きな事が出来るのだから、気合いを入れてやらねばならんぞ! って言われたのよ」
おさよは、「へ~」と言うが、浩太郎は心底驚いて、
「おいおい、それ本当か? 父上はそんな事、本当に言ったのか? ここで」
と、彼は下を指差す。
お華は大きく頷き、
「私にしても、兄上が優斎先生と仲が良いのも、そのせいかって、ずっと思ってたよ」
そこまで言われると浩太郎は、おでこに手をやり、
「これは驚いたな。父上がそんな事知ってたなんて……」
するとお華は、へへっと笑いながら、
「父上だけじゃないよ。母上だって知ってたよ」
それには、浩太郎は気を失った様に後ろに倒れた。
「は、母上まで?」
お華は、優斎とおさよに、
「兄上はね。医術の本とか隠して読んでたのよ。それを或る日、母上が見つけて、父上に、慌ててここに走り込んで、休みだった父上に、浩太郎が、こんな、こんなって、これは春画では? って泣きそうな顔で言い付けるのよ」
それには優斎が、
「春画~?」
と驚いて聞くと、お華は満面の笑顔で、
「兄上、やっちまったか! と私もさ。それ父上と覗いてみたら、骸骨ばっかの、何が女の人なんだかわかんない絵でさ。父上は大笑いだよ。すると父上が、これは、かい……何だっけ?」
と優斎に聞くから、優斎もさすがに笑ってしまって、
「そ、それは、恐らく、解体新書では」
言った途端、俯いてしまう。
お華は頷いて、
「そうそう、それ。父上は、母上に教えてあげて、一件落着よ。だから、ここの人はみんな知ってるの。知らないのは、当の兄上だけ」
それには、おさよもおきみも大笑いだが、浩太郎は気を失った様に、畳に両手を付けて、ガックリしている。
「それはそれで、桜田家の一大事でしたな」
と、優斎はさすがにまだ笑っている。
浩太郎は、ようやく立ち直り、
「そんな昔の話はいい。今は、疱瘡の話だ」
と言うので、
優斎も、もの凄く気が楽になった様で、軽やかに話し出す。
「それでは、奥様もこの話、しっかりお聞きになりたいでしょうから。少し長いけどお聞き下さい。おさよさん。あなたにも重要な事です。基本的な事は知っておいて下さい」
二人とも、深く頷く。
疱瘡。つまりは天然痘。
この病気の発症は古い。日本では平安以前から流行りだした病気だ。
発病すると急激な発熱と頭痛に襲われ、それが収まると今度は口腔や咽頭などから発疹が発生し、それはやがて全身を襲う様になる。
結局それは、最後には脳にまで広がり脳炎などを起こし、最悪、命を落とす事になる。
はしか、水痘の症状に似ているが、その死亡率は30%から50%とも言われ、
江戸時代には、「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」と言われたが、実際は麻疹・はしかより命に関わると言ってよい。
そして、仮に命が助かったとしても、発疹の後が酷く、男であればジャンコなどと蔑まれ、女は(あばたもえくぼ)と言われるが、実際は、悲惨な人生を歩む事になる。
しかし、1797年に英国の医師「エドワード・ジェンナー」が、農家の人間が牛の牛痘にかかったら、その後、天然痘にかからないという言い伝えから、これはもしかしたら予防に使えるのでは? と考え、天然痘より先に、人体には軽い牛痘を摂取したら、その先天然痘にはかからない事を証明した事から始まる。
浩太郎とおさよ、そしてお華やおかよまで、驚きながら聞いている。
そして優斎は、
「これを向こうの言葉で「ワクチン」というそうです。ヨーロッパ諸国……浩太郎さんとお華さんは地球儀を見たからご存じでしょうけど、それは各国に広がり、ある国では、そこの王族……我が国でいう将軍家の様な家でも、子供達が受け、成功したそうです。お陰で、我が国も長崎、オランダ出島の医師シーボルトによって輸入され、広がりました。大坂では適塾の緒方洪庵と言う人が、市民に無料で施しているそうで、患者は激減しているそうです」
浩太郎は、何だか嬉しそうに、
「なるほど。それが聞きたかったんだよ。なあ、おさよ」
おさよも頷いて、
「はい。そうお聞きすれば、私も安心します」
するとお華は、
「じゃ、他の病気なんかもかからなくて済むの?」
と聞くと、優斎は顔を曇らせ、
「問題はそこです。残念ながら今は、疱瘡だけなんですよ。勿論、外国もはしかなどを研究しているそうですが、疱瘡ほどには達していないんだとか……」
優斎は続けて、
「しかしそうは言っても、疱瘡一つでも無くなれば、ご家庭にこれほど良い事はありません。これまでは大抵、赤の布を張り巡らす、神頼みしかありませんでしたが、これによって、治療するまでもなく、予防する事ができます」
優斎は、浩太郎夫婦に向かって、
「それと、今回の事とは別に、お二人には是非お願いしたい事があります」
それには、おさよが、
「なんでしょう?」
「はい。こちらの子供達も、もう外に出て遊ぶようになるでしょう。お二人、いや、奥様にはまず、外から帰った子は、必ず手を洗う事。そして、うがいも忘れずにする事。これらの指導を徹底して頂きたいのです」
「手洗いとうがいですか?」
優斎は大きく頷いて、
「はいその通りです。これは他の病気に、少しでも掛からないようにする為です」
前の二人も大きく頷く、聞いていたお華も、
「そう言えば、うちでも子供達にそんな事言ってたね。ねえ、おかよさん」
「ええ。先生のご指示で、必ず」
と大きく頷く。
すると優斎は厳しい顔で、
「実は私、非常に恐れているのです」
と言うと浩太郎が、
「何をだい? 先生」
「ええ。疱瘡もはしかも、あれは国を開いていたから広まったのではと言われてます。つまり元々、大陸の病気だったのではないかと」
「ほう」
「ところが今、我が国は再び国を開こうとしています。これが私の様な医者には恐怖なのです」
それにはお華が、
「なに、交易じゃ無くて、病気を広げるって事?」
優斎もそれには少し微笑み、
「まさか彼らもそんな事、望んではいないでしょうが、要心に越した事はありません。ですから、せめて手洗いとうがいなのです。これがせめてもの防衛手段です」
この事は、遠くない将来、現実として江戸を襲う事となる。
浩太郎もそれには、
「そうだよな。確かにそれは考えられる」
大きく頷いて、腕を組む。
すると優斎は、
「そこで浩太郎さん。あなたにも是非、手洗いうがいをお願いしたい」
などと言うので、浩太郎は組んだ腕を外し、
「え! 俺もかい?」
「はい。実は、本当の問題はあなたなのです」
その言い方には、お華とおさよは大笑いした。
しかし、優斎は、
「お華さんと奥様も同じですが、特に浩太郎さんは、町廻同心。一番危険ですから。誰よりも他人と会い、下手をすると外国人とも接触する何て事もあるでしょ?」
確かにその通りだ。お華はまだ笑っていて、
「そうよ。兄上のせいで子供が病気になったらどうするの? 子供達に申し訳無いでしょ」
と、前のめりで叱りつけるのだが、優斎が冷たい声で、
「お華さんは人の事言えないでしょ。お華さんだって、座敷に上がって色んな人と会うんだから。その辺、浩太郎さんと一緒」
お華は、目を大きく開け、
「そ、そうか……」
と頭を抱える。
今度は、おさよとおかよが声を上げずに大笑いだ。
さて、話はまとまり、お華達は八丁堀を後にした。
優斎は、追加の子供達の手続きで、途中で別れ、種痘所に向かって、お華とおかよは、二人屋敷へと歩いていた。
お華は、横に首を向け、
「申し訳無かったね。内輪の話に付き合わせて。うちはあけすけだからさ」
と笑って聞くと、おかよも笑って手を振り、
「いえいえ。今まで知らなかったお話ばかりで、楽しかったですよ」
お華は笑って、
「まあ、あの人達は、そういう話が好きだからね。付き合う方も大変よ」
おかよは微笑む。
するとお華は、
「まあ、うちはどうかと思うけど、あなたが他に伺う場合、例えばお大名の屋敷でも似たようなもんよ。違うのは、お付きの人が多いだけ」
「そんなものですか?」
お華は頷いて、
「同じよ。所詮は人の集まりだからね。気後れしないようにね。まあ、先生がいるから、その分、楽だと思うけど」
おかよは、笑みで頷き、
「そう言って頂くと、気が軽くなります」
そんな事言い合いながら、二人は大門を潜った。
(4)
数日が経ち、その摂取の日が来た。
おさよと子供達、そして、おきみが屋敷にやって来た。
外に居た、二人の子供達は、友達が来たとでも思ったのか、走り寄って、じゃれ合い始める。
それを微笑みながら、おさよは、お華の所にやって来た。
「いらっしゃい、姉上」
おさよは笑顔で頷き、庭から登って、隣に座る。
「あの子達は、何か勘違いしてるけど……」
と笑いながら、
「摂取って、痛いのよね。大丈夫かしら」
それにはお華も、
「先生に聞いたら、チクとするだけとは言ってたけどね。でも初めての事だから、泣きまくるんだろうね」
笑って答える。そして、
「今日は、こっちに泊まるって事で良いの?」
おさよは頷き、
「お許しを頂いたわ。その方が何かとやりやすいでしょ」
「うん。今夜は眠れないって、先生言ってたわ」
やがて時間となって、お華が、
「ほれ! もう行くよ!」
と大声で一言。四人を引き寄せ、おゆきが頷く。
号令の元? お華とおさよ、その他大勢は、大門をくぐり、直ぐ近く、お玉ヶ池のほとりにある。医師、伊東の屋敷に向かった。
伊東玄朴。
肥前の国、今の佐賀県出身で佐賀藩士の蘭学医である。
安政五年五月七日、これも同じ蘭方医である大月俊斎・戸塚静海らと共に、ここに「お玉が池種痘所」を開設した。
と言うわけで、お華の子供達はその開設から半年後、種痘を受ける者となった。
ちなみに、ここは後年、東京大学医学部発祥の地とされる。
さて、屋敷玄関先に行くと、既に優斎とおかよが座っており、笑顔で待っていた。
「奥様、お華さん。お待ちしていました。もう既に用意出来ています。どうぞそのまま、お入りください」
と言っていたものの、子供達の顔は、恐る恐る玄関を上がると言った、妙な緊張感に満ちている。
今で言えば、病院である。
一種異様な雰囲気を感じ取ったのかも知れない。
少なくても、遊びに来たわけではないのは感じ取れるから、彼ら彼女なりに警戒しているのかもしれない。
だが、おかよが優しく、
「さあ、みなさん。こちらに来て下さい」
と笑顔でいうものだから、子供達はゾロゾロとその後ろについて行く。
その様子を見て、お華とおさよは、二人とも口に手を当て笑っている。
大広間に連れて行かれると、人増分腰掛けが用意されていた。
端では、優斎初め、何人かの蘭方医達が、仕度をしていた。
それら子供達とおゆきを座らせると、お華が前に座り、
「あんた達。特に、新之助と信吉! チクッとするけど、あんた達は男なんだから泣くんじゃありませんよ。特に新之助は絶対駄目。父上に叱られるからね」
とキツく言うが、二人は何か察した様で、ガックリと肩を落とす。
「そして、小春とおふみ、あんた達は恐いだろうけど、おかよさんが近くにいるから心配しなくて良いからね。分かった? 小春」
小春は、小生意気な顔で頷くが、片手はおかよの袖をしっかり握っている。
ただ、おふみはまだ小さいから、何が何だかわからない様でニコニコしている。 ところが、一番厳しい顔していたのは、おゆきだった。
お華は笑って、
「どうした、おゆき。あんたが怖がってたら、おかしいでしょ。おふみに笑われるよ~」
と笑って言うが、
「姉さん……」
などと泣きそうである。
それを後ろで立って見ているおさよは、吹き出してしまった。
さて、そんな事で、医師がそれぞれ位置に付き、種痘が始まった。
Y字の器具(二叉針)にワクチン(牛痘を乾燥させ、効果を弱めたもの)を付着させて、それを上腕部に刺し、傷を付けてワクチンを皮内に摂取する。
今の注射とそれ程の違いはない。
ワクチンは、その頃オランダの植民地であったインドネシアのバタヴィアから、長崎経由で輸入したものである。
種痘は、一斉に始まったが、思ったよりあっという間に終わった。
優斎が笑顔で、「終了です」と言うと、
お華が、
「もう、終わったの?」
驚いて聞く位だった。
そのせいか、おゆき以外は、誰も泣かなかった。
むしろ、手際が良く何が起こったのか、承知していないのだろう。
ただ、おゆきは、目尻に涙を浮かべているので、お華は笑って、
「もう。あんたは一番年上なのに、泣いてどうするの!」
とからかわれている。
「じゃ、みんな。屋敷に戻りましょう」
と優斎とおかよが子供達に言うと、お華とおさよは、ほかの先生方それぞれに挨拶と礼をして回って居る間に、外に出て行った。
屋敷に戻ると、大広間の敷居を挟んだ向こう側に布団が人数分敷かれていた。
おきみとおみよが、用意してくれたものだ。
「悪いね、おきみちゃん」
と入って来たお華に言われ、
「良いんですけど、お華さん。これで大丈夫ですか?」
おきみが聞くが、お華は手を振り、
「上等、上等!」
笑って答える。
とはいえ、まだ時刻は昼。
寝なさいと言ったって、これだけ子供が居れば寝る訳が無い。
「ほら、あんた達。気持ちが悪いなと思ったら、すぐそこに行って寝るのよ」
などとお華が大声で言うが、聞いているのか、いないのか?
自分でも笑いながら、お華は、おさよと一緒に庭側の居間の端に座る。
だが、おゆきだけは、もう布団に入って横になっている。
「思ったよりも早く済んだわね」
おさよが言うと、お華も頷いて、
「気を遣ってくれたのかね。でもこれで、あの病だけは防げるっていうのはありがたい事だわ」
おさよも頷き、
「本当よ。時代が進むっていうのは悪いことでは無いわね」
「そこそこ。何でもかんでもってのはどうかと思うけど、やっぱりこういうことはね……」
しばらく経つと、優斎・おかよが戻ってくると、早速子供達を集め、布団に寝かせて診療を始めた。
発熱も無く、今のところどの子も問題は無かった。
「みんな。今日は残念だけど、ご飯食べる時以外は、ここで寝てなきゃいけません。そして、もし気持ち悪くなったら、ここの、おかよ姉ちゃんに直ぐ言いなさい。わかりましたね」
お華は、おさよに、
「今日は、こうやって一緒に居た方がいいわね。兄上もそれで良いって?」
「ええ。まあ、旦那様も気が楽でしょ」
それにはお華、
「どう気が楽なのか、妖しいもんだけど……」
と二人で笑い合う。
(5)
それから、特に身体の不調を訴える子もおらず。
珍しく、大勢で、早めの夕食を取っている。
意外に元気で、おかずが多いだの少ないだの大騒ぎだ。
お吉は、子供が大勢集まって、
「良いわね。こんなに子供がいると、賑やかで……」
と楽しそうだ。
おさよが、
「ごめんなさいね。煩くて。大勢で迷惑掛けちゃって」
と済まなそうに言うが、お吉は慌てて、手を振り、
「何を仰います奥様。私も年なんでしょうか、こんなに大勢の子供と一緒に食事が出来るなんて、夢の様にございます」
「まあね~。お母さんも、私達も座敷じゃ、大人それも男ばかりだし、子供達ってのはまず無いからね。ねえ、おかよちゃん」
おかよも、少し首を傾けて、
「私は割と多かったですよ」
「え? そうなの?」
おかよは頷いて、
「ただ、それはみんな禿の子達でしたし、楽しそうというよりもお米が食べられて嬉しいって子ばかりでしたから、とてもとても」
お華も大きく頷いて、
「あ~そうだったわね。やっぱりそう現実そのままじゃ、確かに楽しいって感じじゃないわね」
おかよは頷いて、
「そうなんですよ。ああいう格好してると、子供でも言う事は大人ですから。やっぱり気の毒です」
お華とおさよは、なるほどと大きく頷く。
そして、お華は優斎に、
「どうなの。今の所、大丈夫そうなの?」
と、聞いた時だった。
茶碗を持ちながら、小春が、
「お父上!」
と叫んだ。
そう、浩太郎と佐助が屋敷にやって来たのだ。
「あら、兄上。さすがに心配だったの?」
と、ニヤニヤしながらお華が聞くと、
「当たり前だろ。万一の事があっちゃいけないからな」
刀を外し、廊下に腰掛けると、
「先生、どんなもんだい?」
と聞く。
優斎は頭を下げ、
「今のところは問題ありません。このまま夜寝てくれて、何も無ければ成功と言って良いでしょう」
浩太郎は、嬉しそうな顔で、
「そうか。それは助かる」
すると浩太郎は立ち上がり、
「俺たちは、すみやで飯は済ませた。それじゃ、佐助を置いておくから、何かあったら呼んでくれ」
おさよは笑顔で、
「承知致しました」
と頭を下げるが、お華も、
「ありがとうね」
の声を背に、浩太郎は去って行った。
やがて食事も終わると、お華は、
「さあ、みんな寝るよ。あっちの布団に入りなさい」
と、声を掛ける。
優斎は、
「じゃ、佐助さんと私も引き取りますよ」
と立ち上がる。佐助も頭を下げる。すると優斎は、おかよに、
「悪いけど、子供達の様子を頼む。急に熱が出たり、おかしいなと思ったら遠慮無く呼んで下さい。お願いしますね」
「承知しました」
おかよも笑顔で頷く。
そんな訳で、お華・おさよ・おかよと子供達は、広間の奥で横になった。
もっとも、おかよは寝てしまう訳にはいかない。
子供達の枕元にすわり、様子を見ている。
おさよは、
「ごめんなさいね。おかよさん」
とお華と一緒に横になる。
多少、騒いでいた子供達も、お華の小言に押さえつけられようやく眠りについた。
おかよは、時々、子供の額に手を当て、熱などが無いか確認している。
さて、夜も深くなると寝ないでいようとしていた、おかよもうっつらうっつらし出す。
が、時々、パッと目を開け、また熱の確認や、布団を直してやっている。
しかし、ちょうど丑三つ(23時頃)の鐘が鳴った時分だった。
目を開けたおかよは、子供達の事より他の事で、眉を顰めた。
妙な、鼻腔を刺激する匂いに気付いたのだ。
彼女は直ぐ理解した。これはつい先日、嫌と言うほど嗅いだ匂いだったからだ。
「お華さん! お華さん!」
と小声で、お華を起こす。
お華は、パッと飛び起き、
「地震?」
と、叫んでしまう。
当然、おさよも同じであるが、さすがに、
「地震な訳ないでしょ」と笑い、彼女もその匂いに気付いた。
「ここじゃ、無いわよね」
その言葉に飛び起きたお華は、慌てて台所に走り、直ぐ戻って来て、
「うちじゃないわよ」
みんな一応に安心はしたものの、おかよは、
「でも、これ近いですよ」
その言葉に、お華は今度は外に向かった。
おさよも同じ様に、外の廊下に走る。
下に降りたお華は分からなかったが、幾分上の廊下で辺りを見回したおさよは、ある地点で、指差し、
「あそこよ!」
と、叫んだ。
それは、屋敷の外であった。そこから炎ではないが、火の粉が上がっていた。
だが、おさよの位置で見えるのだから場所は近い。
おかよは、慌てて子供達を起こし始める。
おゆきは、まだ年嵩であるから、すぐ気付き、一緒に起こし始める。
お華は、お吉などの部屋に走り、お吉とおみよを起こし、羽織を衣紋掛けから取って、おさよは小太刀を帯にしまい、ノブと優斎の所へ。
おさよはノブの長屋の前で、ドンドンと表を叩き、二人を起こす。
お華は、ガラっと襖を開け、
一階で寝ていた佐助の枕を、蹴飛ばして起こし、
「佐助さん。大至急平次さんと兄上の所へ。屋敷の近くで火事よ!」
佐助も火事と聞き、まだ目も空かぬが、
「へい。承知しました」
と飛び起き、走って外へ。
やがて、早鐘が聞こえて来た。
お華とおさよは、それらが終わって、急いで大門外に出ると、右側にある優斎の診療所に、大荷物持った二人の男が、
「優斎殿! 優斎殿!」
と、戸を連打する。
勿論、既に起きていた優斎が表に出ると、その男達が、
「申し訳ありません。種痘所が火事なのです……」
その言葉を聞き終わる前に、優斎は、診療所正面から外に出て眺め、振り返り、
「それは、例の株ですか?」
挨拶も抜きに、彼らが持っている物を指差し聞くと、二人は大きく頷く。
「分かりました。では、とりあえず中へ」
そこにお華達が行くと、
「先生、今のは?」
「種痘所の連中です。種痘の株を持って来ました。どうも種痘所で火事の様です!」
「ええ!」
それを聞いたお華とおさよは慌てて、種痘所に続く道、正面に飛び出した。
お玉が池の社の向こうに建つ、種痘所から確かに火が勢いよく上がり初めていた。
二人は顔を見合わせ、そちらの方に走っていくのだが、二人とも一斉に足を止めた。
数人の怪しき連中の前に侍が一人。
誰かを庇いながら、抜刀の上、立ち塞がっていたのだ。
そこへ平次が、慌てて子分を引き連れやって来た。
「お華さん。奥様も!」
と慌てて頭を下げるが、お華は、
「平次さん、どうも火付らしいわ。ほらあそこ」
と指で指し示す。
「あれはどなたなんで?」
お華は笑いながら首を振り、
「わかんないけど、どうだろうね」
お華には任せて良いのかどうか判断しかねている様だった。
しかし、おさよは厳しい声で、
「無理よ、お華ちゃん」
「やっぱり?」
と呆れた様に笑う。
すると、そこに火消しの連中も、列を組んでやって来た。
おさよは、その先頭の、頭らしき火消しの男を呼び止め、
「私は北町同心の家の者。ここから行くのは危ない」
指差すと、確かに斬り合いの様な雰囲気が、その頭にも見えた。
「じゃ……」
という頭におさよが、
「あの社から回り込んで行きなさい。そして急いで消火を!」
文句を付ける隙も無く、斬り込むように言い付ける。
承知した火消し達は、あまりの事に目を大きく開けながら、頭の指図で、お玉が池の向こう側から、火事場に向かって行った。
そのころには、なんと子供達も、おかよに包まれながら診療所から出てきて壁に沿って並んでいる。既に、優斎はもちろん。ノブ夫婦も様子見で出てきている。
お華は、おかよと、おみよに、
「その子達頼むわよ」
と言い残すと、お華とおさよは、前に向かって、歩き始めた。
まるで、炎の光の中に包まれ、進んでいくようだった。
それを見詰める、新之助は優斎に、
「先生。母上とおばさん大丈夫でしょうか?」
と、恐ろしそうに聞くが、優斎は笑って、
「あの二人なら、大丈夫だよ。小春ちゃんもしっかり見ておきなさい。あの二人がどれだけ強いのか……」
と言うので、多少驚いた顔で、二人は頷いた。
信吉・おふみも訳が分からないから、恐ろしそうにおかよにしがみ付いている。
「お前ら、火付の上、この人を殺す気か!」
と大声を上げ、下手人達と思われる連中の前で、誰かを後ろにして八相に構えている。
その武士も、多少はやるようなのだが、多勢に無勢。
じりじりと押され始めている。
その時だった、連中の一人の浪人らしき者に、打ち込みと同時に、体当たりで身体を押され、倒されてしまった。
その衝撃で、刀も飛ばされてしまった。
そして、その侍が、
「手間取らせやがって!」
と、刀を振り上げるその前に、
おさよの「お華!」の声が飛ぶ。
勿論お華は「承知!」
と同時に、二本、炎に包まれるような光をまき散らし放った。
それは、その男の腕に突き刺さって刀を飛ばし、もう一本は、男の頬にぐっさり突き刺さった。
男は、悲鳴とも違う妙な雄叫びと共に、後ろに倒れてしまった。
驚いたのはむしろ、助けられた方の侍だった。
「い?」
彼には衝撃だったろうが、出来た男ですぐ自分の刀を手探りで探し出し、青眼に構えたのだが、
「お武家様! ここは私共にお任せ下さいまし」
幾分和やかな声で、お華が叫ぶ。
後ろを見ると、女が二人。
すっと、火炎の光を受けて、まるで弁天か、昔見た、阿修羅像の様に思えた。
すると、おさよが厳しい声で、
「我らは北町の者。火付の下手人とみた。速やかにお縄を頂戴しなさい!」
するとお華が、
「おお、兄上!」
と叫ぶと、火消しに取り組む男達の中から、黒羽織の浩太郎を見つけた。
浩太郎も、後ろから、
「火付の下手人! もうここは囲まれた。おとなしくせよ!」
大声で叫ぶ。
それには後ろの小春が気付いた様で、
「お父上だ!」
とニコニコして飛び跳ねている。安心したのだろう。
しかし、その連中の頭目と思われる、頭巾を被った男が、
「こうなったら仕方ありません。前の女達を倒して逃げましょう!」
などと、半分泣きそうに叫んだ。
血路を開く積もりの様だが、
「捕まったら、火炙りよ。まあ、仕方無いわね」
と、襲いかかる男達に向かって、その阿修羅像が炎に炙られ、華麗に舞った。
後ろで見ているおふみが、回った回ったと喜んでいる。
しかし小春は、注意深く覗き込んでいる。
優斎は、二人を眺めて笑っているのだが、内心、この火付に対し、怒りがふつふつと浮かび上がっていた。
そして、その何本もあるに見える阿修羅の手が、まるで羽ばたくように動いた。
しかし、実際はそのような絵になるようなものでは無く、余す事無く、簪は男達の頬と、膝上にまるで光線を打ち抜く様に突き刺さった。
四人は同時に、驚愕の顔で、その場に止まってしまった。
すると、今度は弁天様だ。
まるで一陣の風と言う様な速さで、男達の間に飛び込む。
そして簪に当たっていない方の腿を、次々斬り去る。
こちらには、新之助が仰天していた。
「あ、あんなに早いの? 母上……」
それはノブが、クスクス笑っている。
するとお華は、
「さあ、あんた。もう諦めなさい!」
と叫ぶ。
そして、頭に刺さっている簪を、斬り捨てるように打ち放ち、男の頭巾を打ち抜くと、それはひらひら後ろに落ちていった。
しかし、お華の、
「坊主?」
の言葉で、優斎の怒りが頂点に達した。
横のノブから、仕込み杖を「借りるよ」と承諾も無いまま、持ち出して飛び出し、その坊主の方に掛け出した。
そして、
お華も今まで聞いた事も無いような大音声で、
「この大馬鹿者!」
と叱りつけ、ノブの仕込み杖を抜き、峰で思い切り横に、斬ったと言うより、思い切り、殴り倒した。
お華とおさよは余りの事に、目を丸くして驚いている。
ノブの刀を叩き付けられたその坊主は、まるで紐の切れた操り人形の如く、崩れて下に転がる。
そして優斎は、
「医者ともあろう者が、付け火とは何事だ! 向こうには幼い子供もいるんぞ!」
と、刀で新之助達を指し示し、
「技が及ばず、己の未熟さを考えもせず、子供達の命も構わず焼き殺そうとは、全くもって許せぬ!」
優斎の怒りはさらに頂点に達していた。
そして我を忘れ、刀を振り上げた時。
その腕を軽く掴み止めた者がいた。
浩太郎である。
「先生。それぐらいで」
気付いた優斎に軽く微笑み、
「火付は極刑。無駄ですよ」
「あ! こ、これは失礼を……」
優斎は、熱が急激に冷やされ、自分を取り戻した様だ。
しかし、お華はぴょんぴよん飛び跳ねながらやって来て、
「いや~先生が本気で怒るとこ初めて見たよ」
と、ニコニコしている。優斎は、頭に手をやり照れている。
すると浩太郎が平次達に、
「おうみんな。こいつら番屋へ頼む。朝に北町に頼む」
平次親分が頭を軽く下げ、「へい」と若い者に指図する。
するとお華は、今度は道の端で、ぼうっとして座っていた侍と、これも医者らしき男に、
「お武家様? あなた様はあの屋敷の?」
近寄って聞くと、侍も何だか照れた顔で、
「ああ。もともとあの屋敷は私の屋敷だったんだ。今日はちょっとな」
それにはお華も柳橋の芸者の顔で、
「それはそれは。ではここにいてもなんですから、お二方とも私共の座敷の方で一休みを」
と勧めると侍は笑顔で、
「すまんな」と軽く頭を下げる。
もう一人は、実は種痘所の責任者。伊東玄朴と言う男だった。
こちらには優斎が、
「先生。とりあえず心配はいりません。先生もひとまずこちらの屋敷の方へ」
伊東は笑顔で、
「優斎どの。先程は、良く言うてくれた。本当にあの通りじゃ」
「いやいや」
と二人も屋敷に入って行った。
そしておさよは、子供達の所に行って、
「ほら。あんた達もお部屋に入らなきゃ。まだ安静にしてなきゃいけないのよ」
と言われ、子供達は皆、先程の手練を見せつけられたからか、「はい!」
と厳粛な声の返事で戻って行ったが、付いていくおさよと、おかよは顔を見合わせて笑みを零す。
(6)
とりあえず、侍、伊東と医者二人。
そして、お華とおさよ。優斎と浩太郎達が細やかな宴となった。
おみよとおかよは、子供達が、一つ向こうの部屋にまた寝かされたので、それに付いている。
お華は、その侍に、
「そう言えば、お名前をお伺いしていませんが、あなた様はどちら様で?」
すると、伊東玄朴が代わりに、
「この方は、お旗本、勘定奉行の川路様だ」
それにはさすがに浩太郎以下驚いて、思い切り頭を下げる。
後年、幕府崩壊とともに自害することとなる、あの川路聖謨だったのだ。
今は旗本であるが、実はこの男、御家人出身である。
「これはこれは勘定奉行様とは存じませず、無礼の数々、どうかお許し下さいませ」
お華が、丁寧に謝った。
浩太郎も、
「こんな同心の私なんぞ、同じ席に座らせて頂き、誠に申し訳ありません」
とさすがに、恐縮して、優斎と一緒に再び頭を下げる。
しかし、川路は、
「よいよい。今夜は無礼講じゃ。わしも恥ずかしいとこ見せちまったからな」
それにはお華が手を振り、
「いえいえ、あの人数をお一人であそこまで押さえつけるなぞ、勘定奉行様とは思えぬ、さすがの使い手と存じます」
と言うのだが、川路は運ばれた酒を口に運びながら、
「何を申す。そなた達、女二人に助けられるとは、わしも情けない限りじゃ。のう伊東殿」
と笑い、玄朴も笑顔で、
「いや。私も驚きました。この世にあんなに強い女子がいるなど思いもしませんでした」
それにはさすがに、お華とおさよは頭を下げる。
すると川路は、
「そなたお華と言ったの?」
「ええ」
「名前と言い、この屋敷といい。そなたもしかしたら、先の上様からご褒美を貰ったという、あのお華か?」
それには、本人は勿論、浩太郎達も笑顔になってしまう。
ただ、向こうの部屋で聞いているおかよは腰を抜かし、静かにおみよに近づいて無言でポンポン叩き、(本当か)と聞いている。もちろんおみよは大きく頷く。
おかよは、子供の世話より、そちらの事の方が頭が一杯になった。
なにしろ、吉原の遊女が、上様御褒美の屋敷にいる事自体、信じられる事ではない。
すると川路は、
「わしは昔。その頃ご老中であった水野様に取り立てられてな。今のわしが有るわけじゃが、お華と言えば、その水野様を地獄の底に追い詰めた張本人であろう」
その言葉にはさすがに、お華は慌てて、
「いえいえ。あれは、私などではございませんよ。あれはすべて姉小路様です。私なんぞは、ただの芸者でございますから」
と言うと川路は笑い。
「何、責めているわけではないのだ。しかし、そこで直ぐ姉小路様の名前が出てくること自体、信じられぬわ」
「まっこと」
と医者連中まで笑っている。
しかし川路は、
「まあ、あのお方はやり過ぎたからな。もう少し、やり様もあったと思うんだがな」
それにはお華も、
「私もそこは同じにございます。厳し過ぎたのはその通りですが、根本は決して間違ってはいなかったと思うのですが……」
と、少し言葉を濁す。
それには川路も笑って、
「問題は、妖怪だろ?」
さすがにその名には、一同笑ってしまう。
すると浩太郎が、
「あの方はまだ、お元気なので?」
さすがにそれには優斎が笑って、
「浩太郎さん。まだ元気は、ちょっとマズイ」
と言われ、さすがの浩太郎も、あっという顔で頭を掻く。
川路は笑いながら頷き、
「まだ生きてるようだ。わしは水野様には引き立てられたものの、あの妖怪にはえらい目にあったからな」
それには優斎が、
「えらい目ですか?」
「ああ。どうも、同じ様に水野様に引き立てられた者は、敵だと思ってたらしくてな。あの頃さすがの水野様でさえ始末に負えなくて、わしは急遽、佐渡や奈良の奉行に追いやられてしまったからな」
「あらま」
とお華が驚く。しかし川路はニコニコしだし、
「ところがお前さん達が、あの男を四国の先まで追いやってしまったんだろ? あれには本当にありがたかった。むしろ感謝しているぐらいだ」
これには、また一同大笑いだが、おさよとお華は、恥ずかしげに微笑む。
すると、浩太郎が優斎に、
「そう言えば先生。今日はどうしたのだ。いつもの先生らしくも無かったな」
それには優斎も赤くなる額に手をやり、
「何とも……。いや、ああやって」
と子供達に目を向け、
「私のお勧めを信じて、疱瘡のワクチンをしてくれたとは言っても、あの子達はまだ子供ですからさぞ恐かっただろうに。ところが、あの連中は、何が気に入らないのか火を付けて亡き者にしようとした。それが途轍もなく許せなかったのです」
浩太郎夫婦やお華、伊東なども頷いている。
「伊東様はご存じでしょうが、また、奈良奉行をやられた川路様には申し訳無い事かも知れませんが、疱瘡は奈良が都であった時からの病。そしてそれは今の今まで続く病にございます。奈良の頃は、当時、朝廷で頂点に立っていた藤原氏でさえ、当時太政大臣だった藤原北家以下、疱瘡で四人兄弟纏めて死んでしまい、朝廷は大混乱に陥ってしまった事さえあります」
それには川路は頷くが、浩太郎は驚いた。
「そんなことよく知ってるな、先生」
それには優斎は笑い、
「川路様、伊東様からお聞きだと思いますが、私は元伊達家の武士でございまして、伊達家は本姓が藤原にございます。ですから家臣はよく知っているのでございます。さらに、浩太郎さん。我が伊達藩祖の正宗様が独眼竜だったのはご存じだと思います」
「おうおう」
「実は、あの目がご不自由になったのは、疱瘡によって失明されてしまったのです。ですから、家臣であった私にとっては特別な意味のある病気でもあるのです」
浩太郎は勿論、お華でさえ、驚いている。
そして優斎は更に、
「それらを含め、あの頃は、天罰と信じ陰陽師に任せきりで、医者達は何もしてこなかった。千年近く前から分かっていた病なのに、今でも治し方は一緒、赤い布を貼って、神頼みです。これでは医者として怠慢だったと言わざるを得ません。そして、今回のワクチンだって、蘭方医が見つけたと思われているようですが、とんでもございません。これは外国の医者が、それこそ命を賭して作り上げたものなのです。そうですよね伊東様」
伊東も苦笑して頷くしか無い。優斎は続け、
「まだ医療所の方々は、素直に受け入れているからマシですが、それに火を付けて無かった物にするなど、誰に命じられた物か知りませんが、恥を知るべきだと思ったのです」
と優斎は、両手を前につき、苦しい表情だ。
すると川路も、
「いや、全くその通りだ。今、次々外国から条約をとひっきりなしに言ってくる。外国方の小栗様や、岩瀬様など大変の様じゃ。これから、もう神頼みは当てにならん、実力を付けなければならん。医学も、船を作る技術もじゃ。もう殆ど開国になったと言える。急がぬと間に合わん」
伊東も、
「本当にその通りにございます。国一丸となって、遅れた技術を追い付かなければなりません」
などと、この頃はまだ言っている事が、維新の志士と言われた連中と変わりが無い。
しかし、優斎は難しい顔で、
「疱瘡はなんとか目処が立ちましたが、まだ我が国には、なんとかせねばならぬ病気、例えば、はしかや、最近九州の方で流行っていると言われるコロリなどもございます」
伊東も頷き、
「そうですな~それらを研究してくれる人材を早く育てねばなりませんな」
それには、浩太郎も酒を呑みながら、
「人材か……」
と、遙か将来を見るような目で、庭を眺める。
しかし、お華には難しすぎたのか、微笑みながら首を捻っている。
~つづく~
今回もお読み頂きありがとうございます。
さて今回は、現代の皆様も当事者であるワクチンのお話です。
今でも、「このワクチンは副作用はどうなのか?」とか「信用できるのか?」
など、日々、マスコミ等で騒がれておりますが、この疱瘡ワクチンについても、構造は今と変わらぬ、騒ぎとなっています。
しかし、この桜田家の子供達とお華の所の子供達は、日本で初……ではないですが、ほぼ、初と言って良いワクチン接種者となりました。
この時期に、このお話を書けるのは、何やら因縁めいていてそれも面白いですが、日本で最初にワクチンを、それも牛痘を打つなんて、今の人々よりさらに、勇気があると思ってしまいます。
ちなみに、現代の遺伝子科学で言うところでは、実はこのワクチン、実は牛痘ではなく馬痘だったそうです。結局同じ事だった様ですが、今なら大騒ぎでしょうね。
この物語は、江戸が舞台なので、幕末とは言っても、病気関連が大きな出来事になります。
新撰組も維新の志士も殆ど出てきません。
そう、もう最後の最後なんですよ。それが前面に出てくるのは。
そんな、ちょっと変わった維新史をお楽しみ頂ければ嬉しいです。
それでは、また次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました(._.)




