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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
17/65

⑰安政江戸大地震 (後編)

(1)


「恥ずかしいやら恐いやら、どうも顔を上げられぬ、鹿島の事触れ」

 (世相見聞録・浮世の有様)


 この時代、江戸の人々は、地震には常陸国の鹿島神宮の森に大きな石があり、地底の巨大なナマズを押さえ込んで揺れを防ぐ、いわゆる「要石伝説」という言い伝えを信じていた。

 “鹿島の事触れ”とは、毎年、鹿島明神の託宣で、豊凶、天災地変、疫病などを予告し、神符を町中で売りまくる下級神人の事である。

 しかし、さすがにこの地震の惨状を見てしまっては、むしろ我が身の危険さえ、感じてしまうぐらい、恥ずかしい事になってしまった。

 そして地震翌日には、「鯰絵」が怒濤の様に売られ始めた。

 内容は、擬人化されたナマズが、町の人々の接待を受け、地震を起こさない様にお願いするといった絵が主流。

 姿勢を低くし、酒をドンドン注ぎながら「どうかこれでお許し下さい」

 と接待する絵である。

 地震の被害にあっても、忘れないユーモアさはさすが江戸人というところだろうか?

 とは言ったものの、例えば浩太郎は後日、地震の復旧に加え、この手の瓦版取締も命じられる事になるから、ご苦労様というところである。


 実は安政地震と呼ばれる地震、ここ江戸だけの地震を指して言うのではない。

 この前年には、安政東海地震・安政南海地震も起こっている。

 現代的に言えば、この安政地震は南海トラフ巨大地震でもあったのだ。

 今回の江戸地震が起きる迄は、当時の通信事情も相まって、その事に気づく者は殆ど居なかった。

 実際、被害の範囲を考えると、最近の東北大震災(2011)に匹敵した地震であったと言って良いだろう。


 さて、江戸の地震から三日目。

 感覚的には翌日なのだが、朝も早くお華の屋敷に、浩太郎と義理の父親、吉沢甚内がやって来た。

 庭に敷いた、畳の端で寝ていたお華だったが、

「これは、旦那様。あら、大旦那様!」

 というおみよの言葉に、目覚めた。


 浩太郎はともかく、甚内が屋敷に来ることは滅多に無いので、お華も驚き、

「あら、お父上! 如何なされました?」

 と声を上げる。

 二人は笑いながら近づき、お華と同じ様に、畳に座ってしまった。

 お華は笑いながら、

「お構いも出来ませず、申し訳ありません」

 と、頭を下げるが、甚内も和やかに、

「良いのじゃ良いのじゃ、こうした時じゃ、気にせんで良い」

 笑って許してくれた。

 すると、こちらは片膝をついた浩太郎が、

「お華。こうした場合、奉行所は最初に何をするか知ってるな?」

 お華は笑い。

「何がこうした場合よ。一体、私に何をしろって言うの」

 するとお華は目を大きく開き「あ!」と叫ぶ。

「まさか私に、お助け小屋作るの手伝えとか言うんじゃ無いでしょうね!」

 と、浩太郎を睨み付ける。

 しかし、それには浩太郎も笑い、

「何言ってやがる。そんな事、頼める訳ないだろ。逆に大騒ぎになっちまう」

 甚内も大笑いだ。

「そりゃそうよね。いくら何でも、わたしにゃ無理だわ」


 お助け小屋というのは、地震意外にも、大火、飢饉など、在所を無くした者や、地方から逃げて来た者などを、臨時に収容する仮小屋だ。

 その構造は、長い丸太を合掌に組み、屋根に(とま)(菅・茅を編んだもの。雨露をしのぐのに使われる)を敷く。そして入り口には筵を下げる。小屋の中には、転がし根太丸太を地面に並べて、その上に松の六分板を敷き並べ、さらに畳を敷く。

 これら材料は通常、木場に備えてあった。

 ある与力は、

「千坪(約0.33ヘクタール)ぐらいの仮小屋は、半日で出来てしまう仕組が常に用意してあった」と、明治時代に述懐している。

 そしてこの時は、浅草広小路、幸橋御門外、深川海辺町にまず設置。

 後には、上野山下、深川永代寺境内が加わり、五ヵ所に設置された。

 

 するとお華は、

「で? そうじゃ無かったら、何しろって言うのよ」

 すると、浩太郎は、おみよとおゆきも呼び、

「実は、お前達には炊き出しを頼みたいんだ。出来れば、柳橋の芸者連中の中で、動ける者がいればそいつらも一緒に。お父上のお指図でやって貰いたいんだ」

 お華は目をパチクリして、

「炊き出し?」

 と言いながら、甚内に顔を向ける。

 すると甚内は、

「あのな。これは浩太郎殿がお奉行に願い出た事なんだ。向柳原の町会所で、地震で食べる物に困った人々に与えて貰いたいのだ。だが、それにはやはり人手がいる。ちょうどそこは柳橋に近い。あれらの食事も併せて、やって貰えればという事じゃ。まあ、その辺の汚い男に任せるより、喜んでみんな来るだろうと言ってな」

 和やかに説明する。

 お華は、大きく頷いた。

「ほう! 兄上にしては、割とまともな事お願いしたのね~」

 浩太郎は呆れた顔で、

「何が、割とだ!」

 と、少々怒る。

 しかしお華は、甚内に、

「お父様? すると、既に町々の施行なども、集まり初めているという事でございますか?」

 甚内は大きく頷き、

「その通りじゃ。既に今朝方、日本橋の番組(商家の町ごとの集まり)から、すでに千両、二千両と届いている」

 お華も、おみよ達もその額には大変驚いた。


 施行。現代で言えば、災害寄付金である。

 前回、お華が確認したように、この地震では日本橋やその他、繁華な町は無事だった町が多い。

 従って、思った以上、多くの金額が集まったと言って良いだろう。

 但し、これは単にボランティアが目的ではない。

 こうした時、無事だった所はそれらを無視すると、今度は標的にされ、打ち壊しなど、酷い目にあってしまう。

 最終的には、それらの予防と言っても良い。

 しかし、本心がどこにあろうと、避難民にとって施行はありがたい。

 

 お華は、おみよとおゆきに、

「あんた達は大丈夫? 具合悪くない?」

 と聞くと、二人とも笑顔で、「大丈夫」と答える。

 すると、お華は、

「二千両の施行なんざ私たちにゃ無理だけど、おむすび作るぐらいで、皆さん喜んで頂けるなら、こりゃ良い機会だよ。普段は、お座敷で三味弾いて踊るぐらいだけど、一度ぐらいは世間様の御役に立つってのも良い事だからね」

 それにはおゆき達も大きく頷く。

 するとお華は、早速おみよに、

「あのさ、柳橋の女将さん達にに言い回ってくれない? これは柳橋の名前を売るのにも役立つからね」

 おみよは大きく頷き、すぐ走り出した。

 するとお華は、甚内に、

「でも、お父様? そもそも、蓄えのお米は有るんですか?」

 その質問には、大きく頷き、

「ああ、それは大丈夫じゃ。上手い事に今年は豊作でな。それは全く問題ない」

「へえ、悪いことばかりじゃ無いって事ですね」

 甚内は笑顔で頷いた。

 するとお華は、何か思いついた様だ。

 立ち上がり、向こうで、何かに腰掛けて用心棒をやっていたノブに、

「ノブさん! ちょっと!」

 と、大声で呼ぶ。

 近くにいたサキに連れられて、早速ノブはやって来た。

「なんですお華さん」

 するとお華は、

「ノブさんの用心棒は、本日で御役御免とします」

 ノブとサキは妙な顔で見合わせる。

 続けてお華は、

「ノブさんは、私達と一緒に、炊き出しに行って貰います!」

 などと宣言した。

 ノブは当然驚き、

「炊き出しですかい?」

 と意外な顔をする。

 しかしその時、浩太郎が慌てて、

「お前、ノブさん連れて行ってどうするんだ。この人に握り飯作らせる気か?」

 と言ったのだが、お華は首を振り、

「そんな訳無いでしょ。ノブさんの本業は三味線屋!」

 浩太郎は妙な顔で、

「三味って、どういう意味だ」

 ノブ自身も不思議な顔だ。

 お華は少々笑顔で、

「あのね。私達が握り飯作って配っている間。ノブさんには三味線を、音高らかに弾いて貰うのよ」

 甚内は、薄々その意図に気が付いた様で、笑顔で頷くが、浩太郎はまだ理解出来ない。

「そんな事、こんな時に許されると思ってるのか?」

 お華は自信満々の顔で大きく頷き、

「ノブさんに弾いて貰えば、人々も分かり易いし、町会所の人達も、案内しやすいでしょ。三味が鳴ってる所……ってね。それに柳橋の芸者がやっているんだから、如何にもって思ってくれるわ。それにノブさんなら三味は問題ないし、こんな時だもん。みんなの心も安まるわ」

 浩太郎も、お華の言いたい事は理解したが、隣の甚内に、

「大丈夫なんでしょうか? お父上」

 甚内は、むしろ自分が楽しくなって来た様で、

「大丈夫じゃ、どうせ、今日、明日の事。何より、みんながしっかり分かってくれれば、我々の仕事もやりやすいというのは、ありがたい事じゃ」

 そう言われると、もう浩太郎も、頭を下げるしか無い。

「申し訳ありません、お父上。どうかこいつを、よろしくお願いします」

 しかし、ノブは余りの事に、

「お華さん。私が町会所で三味弾くんですか? 一体、何を?」

 それにはお華は笑って、

「まあ、ちょっと芸者には場違いって感じもするけどさ、ただ結構長くなるから、(すが)(がき)でもどうかしら。あなたなら何て事ないでしょ?」

 ノブは頷き、

「まあ、清掻なら確かに長く出来そうですが……」

 するとお華は、

「ただこれは施行だから、お代は出ないけどさ。でもお米は貰えるから。そうすればサキさんも嬉しいでしょ?」

 それにはサキが満面の笑みで、

「それは助かります」

 と頭を下げる。

 それで、皆、一斉に立ち上がった。


(2)


 町会所は、寛政の改革の折、老中松平定信により寛政四年(1792)に設立された勘定奉行出張所と言ったようなものである。

 天災などに備え、貧民救済のための用意、囲い籾の備蓄している。

 そして貧窮にあえぐ下級武家や貧民への低利融資などの為に、町入用金を節約して立ち上げた「七分積金」を原資にして、低利で融資を行う事務所である。

 浅草向柳原の籾蔵構内に設立された。

 基本的に、勘定奉行所と、町奉行会所係が監督、運営している。


 さてお華達は、浩太郎と別れ向柳原に向かった。

 すると柳橋手前で、早くもおみよと合流した。

 お華はおみよに、三味線箱を渡す。

 驚いたおみよは、

「え? なんで?」

 と首を傾げるが、お華の説明で、

「へ~、じゃ、ノブさんの控えって事?」

「そうよ。さすがに長いからさ、ノブさん一人じゃ辛いだろうからね」

 頷くおみよは、

「そうそう、みんな手伝ってくれるって」

 と、後ろに手を回すと、若い芸者連中が並んで待っていた。

 それら、若い芸者達に近づいた、お華は、

「みんな! ありがとうね。今日は柳橋の顔見せって気で頑張ってね!」

 と声を上げると、

「はい!」

 一斉に和やかな返事が返ってきた。


 するとお華は、隣で歩く甚内に、

「あのお父上?」

「なんじゃ」

「これが無事に終わりましたら、お願いがあるんですけど……」

 それには甚内は笑いながら、

「なんじゃ、褒美でも欲しいのか?」

 と聞くと、お華は首を振り、

「いえいえ。ご褒美なんて……」

「褒美ではないのか?」

 と甚内が首を傾げ聞くと、お華は笑顔で頷き、

「出来ましたらお奉行様に、柳橋芸者連中と言う事で、褒め状の一通でもお願い頂けないでしょうか?」

 甚内は意外な顔で、

「何、褒め状?」

「ええ。これはあの子達の為です。確かにお上に。そして世間のお役に立ったとお認め頂ければ、今後、あの子達の励みにもなりますから」

 と歩きながら、頭を下げる。

 甚内にとっても、それぐらいならどうと言う事も無い。

 機嫌良く、

「あい分かった。娘の願いなら聞き届けなければならんの」

 大笑いで頷いた。


 まだ、余震が収まらない十月三日の朝。

 そしてお華を先頭に芸者連中が、向柳原の町会所に到着すると、町会所に居た連中から、何とも言えない歓声があがった。

(おい! ありゃ何だい。なんでなんで女があんな一杯……)

(俺にも分かんねえよ~)

 などと、そこに居た男達は、驚きながらひそひそと噂している。

 すると、早耳の若い男が一人駆け寄ってきて、

(兄貴! ありゃどうも、柳橋の芸者連中みたいですぜ)

 などと言うものだから、それはすぐ全体に回って、

「え! 芸者かよ。こりゃ、良いね~」

 皆、笑顔で喜んでいる。

 既に話を聞きつけた、避難民達が、今か今かと並んでいた。


 甚内は早速、町会所の地主である座人と話を付け、みんなで仕度が始まった。

 すでに米の炊き上げは始まっており、お華は、芸者達に机、調理台などを調えさせ、そしてその奥の方に、座付手付の若い者達にノブ用の小さい舞台を作らせた。

 おみよは、ノブにその出来た舞台に上るのに手を貸してやり、ようやく準備が調った。

 町会所からは、芸者達の前に旗と御用幟を押し立てる男。

 そして、駕籠長持(非常用の竹製の目の粗いかご)を持って用意している男達が既に用意完了である。

 やがて、炊き上がった米が盥いくつかに載せ、芸者達の前に出された。

 お華は、和やかに、

「熱くても我慢して、笑顔を忘れないようにね! これも一つのお座敷よ!」

 と言い放ち、そしておみよに合図を送る。

 おみよは頷いて、ポンポンと台を叩くと、ノブは頷き、早速第一音を奏でる。

 相変わらず、心に響く一音だ。

 そして、あの吉原に勝るとも劣らない、清掻が始まった。

 回りの者達、そして女達に、そして甚内でさえ、

「ほう!」

 と唸り、皆にも笑顔が広まり、並んでいる人々も、何だか変わった炊き出しだと、騒ぎながら喜んでいる様子だ。

 すると、お華が、

「さ、やるよ!」

 の声に女達は頷き、早速、結びに取りかかった。

 後ろの机では、おみよとおゆきが、包丁を持って作業を始める。

 今回の炊き出しは、結び二つと、沢庵漬二切れと、梅干し一つである。

 それをセットに、女達自ら渡すか、駕籠長持にドンドン詰めていく。

 長持を持った男はそれを受け取り、四方に去って行き、希望する避難民に次々渡していくのだ。

 ノブの粋な三味線の音に載せられ、男も女も動きが軽やかな様に見える。

 一応、監視役として後ろに腰掛けている甚内は、その様子を微笑んで見ている。

 並んだ人々は、結びだけで無く、ノブの三味まで聞く事が出来てみんな笑顔である。

 避難民というよりは、むしろ行楽にでも来ている雰囲気で、音に酔いしれ、嬉しそうに結びを頬張っている。

 前述の如く、米は余るほど有るので、次々炊き上がり、娘達もドンドン結びを作っていくから、おみよとおゆきは、些か急かされながら包丁を振るっている。

 まるで、三味に併せて、総踊りでも披露している様子だが、それに惹かれてなのか、なんと隣近所の武家屋敷からも、見学する者が次々増えだした。

 ここ町会所の周辺には、井伊家、酒井家、松浦家などの屋敷がある。

 これら屋敷も地震では無事であった。

「何事だ!」と、さすがに突然の騒ぎに驚いたのだろう。

 しばらくすると、ちらほら、如何にも高貴らしき女性も、とうとう床几に座って見学し初めているのだ。

 甚内は、それらを眺め、

「姫様までいらっしゃるのでは?」

 と、おかしな事に顔を隠しながら驚愕している。


 するとそこに、すみやの平吉一家が、不思議そうな顔をしながらやって来た。

 しかし、お華と甚内の顔を確認すると、

「なるほど」

 と、笑顔で甚内に寄って来た。

「これは大旦那様。わざわざのご足労、ありがたい事に存じます」

 側で、三人は膝をつき頭を下げる。

「おおう、こりゃ平吉じゃないか。よく来てくれた」

 と、言うと、平吉は少し笑って、

「いえいえ、うちから直ぐでございますから。しかし、今回の炊き出しはともかく、このやり方は、やはりお華さまの思いつきで?」

 甚内は、少し頬を上げ、

「わかるか?」

 平吉は和やかな顔で、

「そりゃ、こんなこと出来るのはあの方しかいませんから。いや、しかし、こんな近くで、三味鳴らしながら、こんなに騒ぎですから何事だ? と確認しにきただけ何ですけどね。これは私も嬉しいですよ」

 そして平吉は笑いながら、

「うちも店開けようかと思っていたんですけど、こんなことされたら、誰も来ませんよ。しかもお華さんだし。こうなったら手伝いに来た方が正解だなって」

 甚内もあはは、と大きく笑い。

「お華には敵わないか」

「そりゃもう」

 二人は笑顔になる。

 すると、前のお華が気が付いた。

「おや平吉さん達。来てくれたの?」

 それには平吉とおていも呆れた様に笑いながら、

「来てくれたというか、引き寄せられたというか……」

 などと、お千代まで大笑いしている。


 すると平吉は、お華に、

「こういう事なら私達も、お手伝い致します」

 と言って、平吉は沢庵を切っているおみよに、

「お嬢様の刃物三昧なんぞ、絵になりません。私が変わります」

 おみよは笑って頷き、和やかに包丁を渡す。

 するとお華は、おていとお千代に、

「あなたたちも、今日は芸者になった様な気になって、やって頂戴。なかなか経験できない事だからね」

 と言われ、二人はは嬉しそうに、大きな返事でおむすびを作り始める。


(3)

 

 さて、ノブは聞いてる人達の笑顔が想像出来るのか、気分良く三味を弾いてるのが、お華には良く分かった。

 現代で言えば、野外コンサートの様なもの。

 彼にも良い経験だっただろう。


 そんな時だった、

 順番に並んでいた、顔は煤だらけ、そして、あちこち綻びた小袖を来ていた女が一人。

「申し訳ないでありんす。あちきにも一つ、お願いでありんす……」

 と、力ない声を上げた。

 しかし、その言葉を聞いた途端、お華とおみよの瞼は頂点に上がった。

 当然だ。この言葉は、実際にそこに行った事のある者でしかわからない。


 おみよは他の娘達の間を縫って、その女の前に立った。

 その時、その女もおみよに気づいた様で、驚愕の表情が浮かぶ。

「あなた! もしかしたら……」

 おみよの言葉に、その女は慌てて顔を背け、

「すいません」

 と、そこを立ち去ろうとした。

 したのだが、今度は素早く、お華がその前に立ち塞がった。

「あんた。花風さんじゃないの?」

 彼女は、お華の顔を見た途端、ついに固まってしまった。

 奥の、甚内もその様子を見て、首を傾げている。

 お華とは、吉原での捕り物騒ぎの時に仲良くして貰った、呼び出しの花風だ。

 彼女は、今の自分の状況が、余りにも情けなくなってしまったのだろう。

 涙が噴き出し、お華に頭を預け泣き出してしまった。

 お華にとっては、特に叱りつける事でも無いから、肩をポンポンと叩き、優しい笑顔で、

「どうしたっていうの。呼び出しほどのあんたが……」


 とは言え、吉原の呼び出し、つまり遊女の花風が、勝手に町会所にいる事自体が不思議だし、下手をすると大騒ぎになる。

 お華はとりあえず、

「ちょっと、奥に入りなさい。 少し落ち着いてから事情を聞きましょ」

 と、花風の肩を抱きながら、おみよに、

「この人の結び、一人前持って来てくれる? そんでお茶もね」

 おみよは大きく頷き、茶を入れに走る。

 その様子を包丁を持ちながら見ている平吉に、お華は、

「そのままでいいから、そこで話を聞いといてくれる?」

 と頼む。

 平吉も頷き、また包丁を動かし始めた。


 そうして、とりあえず花風を奥の控えに腰掛けさせ、結びを食べさせる。

 お茶を飲んだ花風は、頭を下げ、パクパクとお結びを口に入れ、お茶を一口。

 すると、

「生き返りました~」

 と寂しい笑顔を浮かべる。

 お華も、その間は黙っていた。

 どうせお腹に物が入らないうちは、花風も落ち着かないと思ったからだ。

 そして一息ついた花風に、奉行所関係者のお華は、とにかく聞かねばならない。

「まず、なんで、あなたがここにいるの。教えてくれる?」

 落ち着いた声で、問いかける。

 それは花風も承知していたらしく、すぐに、

「実は、あちきは地震の日。あの日が年季切れの日だったのでありんす」

 それにはお華は、さすがに驚き、素っ頓狂な声で、

「え~? あの日が最後だったの? それはそれは……お目出度いんだか、お気の毒なんだか……」

 一緒に座って聞いているおみよも驚きの顔だ。

「ま、まあいいや。それなら、誰も文句無いだろうし、奉行所にも関わりない。そうだよね、お父上」

 と、座っている陣内に声を掛けると、甚内は笑って何回も頷く。

 花風は少し驚いて、

「おのお役人様は、お父上様で?」

 と聞くと、お華は少々恥ずかしそうに、

「ああ。あの人は、私の兄の嫁さんのお父上なのよ。要するに義理のお父上なの」

 花風は、すぐ立ち上がり、深く頭を下げ、

「この度は娘様にご厄介を……」

 と言いかけるのだが、甚内は笑って、

「気にせんでよい。ゆっくり休みなさい」

 するとお華も、

「そうそう。年季明けなら、皆さんと一緒。なにも気にすること無いわよ」

 と微笑む。

 花風は、また深く頭を下げると、お華は再び、

「でもさ、地震の日、あれは子の刻ぐらいの時。それからどうしたっていうの?」

 すると、花風は頷き、

「へえ。あの日は特に何も無く、年季切れでござんしたから、ちょうどご挨拶回りしてる最中でござんして、そりゃもう驚いたもんにありんす。回りは、ガタガタと倒れてしまいますし、どこに逃げようかと。もういけんと思いんしてございます」

 お華とおみよは、大いに頷く。

 あんな直線の仲之町通りなんぞに、楼閣ごと倒れ始めたらどうなるか、容易に想像出来る。

 すると、おみよが、

「年季切れって事は、身請けもあったんじゃないですか?」

 と聞く。花風は頷きながら、

「まあ、年季切れは大門も知っていた事でござんすから、簡単に逃げる事は出来たのでござりんす。でも、五十間道過ぎたら過ぎたで、大変な有様」

 結びを食べて、落ち着くことが出来たのだろう。

 彼女らしく、詳しく話している。そしてお茶を一口して、

「でもあちきは、身請けの旦那の所に行かなければなりません。身上は浅草の呉服屋の旦那だったんでありんすが、言ってみたらそこはそこで、大炎上でござんす。その旦那も……。あちきは、これからどうすれば良いのかサッパリ了見出来ませんでした……」

 その話には、さすがにお華も頷いてしまう。

「そりゃ、そうよ。で、どうしたの?」

 と更に聞く。

「仕方がありません。とりあえず里(吉原)に戻ろうと思いんして、引き返したのでござりんすが……」

 すると花風は、ここで大泣きに泣き始めた。

「何も無くなってしまっていたんでありんす」

 顔を手で覆い、声を上げる。

 お華も驚愕して、

「何も? あそこが? 本当なの?」

 と、多少急く様に聞く。花風は顔を上げ、

「はい。残ったのは五件だけ」

「ご、五件? あそこが?」

 花風は頷き、

「残ったとは言っても、焼けなかったってだけで既に潰れておりましたけど……」

 お華は、甚内と平吉に向かって、

「聞いてる、全滅だって!」」

 二人は、少しおののきながらも、頷く。

 するとお華は、何か気づいた様で、

「それじゃ、あそこの遊女達は殆ど……」

「へえ……焼けてしまいました……」

 それにはお華は慌てて、

「んじゃ、あの時私が助けた、禿だったあの子も?」

 花風はまた、涙ながらに頷き、

「あの子はやっと振袖新造になれたんですが……」

 それには、お華とおみよも衝撃だった。

「なんと酷い」

 とおみよは悲しげに声が震える。

 お華は厳しい目で、

「そうなると、あの子達は今頃、浄閑寺って事?」

 花風は頷く。

 しかし、おみよは意味が分からないから、「なぜ?」とお華に聞くのだが、

「投げ込まれるのよ……これが一番無残なのよ……」

 お華にも、悔しげに大きな涙が零れた。

 お華とおみよは、そのままの姿勢で、そちらの方向に向かって手を合わせる。

 花風は続けて、

「それからは、私は一晩中、どことも無く歩き回って、どこだったのか憶えておりません」

 お華にもその時の気持ちは想像出来るから、何回も頷く。

すると花風は、呆れ気味の笑顔で、

「でも、こんな事になってもお腹は空くんでござりんすね。すると向こうの方から、清掻が聞こえて来てくるじゃありませんか。今まで何回も聞いた曲ですけど、あんなに上手い清掻を聞いたのは初めてで。そんな事も重なって、ついこっちにふらりと来てしまいました」

 それには、お華も満足な様で、

「そりゃそうよ。当代一の三味線弾きだからね。おみよだって弟子になるくらいだからさ」

 しかしその時、花風は眼を大きく開け、

「でもまさか、お華さんがお出でとは思いませんでした。何だか恥ずかしくて恥ずかしくて……」

 お華は、眉を寄せ、

「恥ずかしい事なんざ、一つもないよ。こんな目に遭えば、誰でもこうなるんだから。ねえ、おみよ」

 それにはおみよも大きく頷く。

「確かあんたにゃ、「行く所来なかった何時でもお出で」って言ったんだから、ただそうなっただけ。これからはとりあえず、心配要らないよ」

 花風は、涙を溢れさせ、

「ありがとうござりんす……」

 と頭を下げる。


 それからお華は、

「それならさ、あそこだから女郎だけじゃ無く、男も結構焼けちゃったんじゃない?」

 花風は頷き、

「もう、山の様にになってました……」

 つまり山の様な死体の山になっていたという事だ。

 それには、甚内や平吉も苦い顔をしてしまう。

「まあ、あの刻限だからね~。それなりの客も居ただろうし。しっかし、その姿、想像しただけでも、可笑しいんだか、空しいんだか……」

 すると花風は、

「私の店では無いんでありんすが、店の地下に、穴蔵作っていたご主人が、火事も起こって危ないのと、女達が逃げると困ると思ったのでしょう。そこに入れば大丈夫なんぞお言いで、女達を押し込んだらしいんでござんすが、火事が消えた後、扉を開けると……」

 お華は、想像出来はするが、些か恐ろしげに、

「ま、まさか……」

 花風は、苦渋の顔で、

「みんな、プクッ~と真っ青な顔や手が大きくなって、一人残らず死んでしまっていたそうです」

「ひえ~」

 お華は、頭を抱える。


「穴蔵の男女みなむしやきとなり、青くふくれて死せりとぞ」(視聴草・下、1855)


 おみよは、首を傾げ、甚内に顔を向け、

「あの大旦那様? 蔵に逃げて、なんでその人達はお亡くなりになったんでしょう?」

 甚内も厳しい顔で、

「そりゃ、恐らく窒息じゃろう。火事になると呼吸が出来なくなるというからな。大抵、焼けるより早く亡くなってしまうそうじゃ。それにそんな火事なら熱さも半端あるまい。あっという間に死んだのではないか?」

 それには、お華が、

「やですよ~父上~」

 と今にも泣きそうだ。おみよは少し可笑しくなった様で、

「姉さんは、意外とそういう話は苦手ね」

 と口を押さえながら、甚内と顔を見合わせて笑う。

 ようやく調子が出てきたのか、花風は、

「そうそう。生き残った四郎兵衛さんとこの若い衆に聞いたんでありんすが、何でも、焼け跡から鉄砲が……」

 その言葉には、恐怖から立ち上がったらしいお華が、グイっと首を上げ、

「鉄砲?」

 花風は頷き、

「へえ。何でも三十本程、見つかったって言いんした」

 

 四郎兵衛というのは、大門口横に、常時出入り口を監視。又は、喧嘩の仲裁役なども請け負った、世話役といった者で、代々世襲し、四郎兵衛を名乗り、配下の者を抱え、請け負っている集団だ。


「三十本!」

 その数には、お華だけで無く、甚内、平吉も驚愕した。

 お華は立ち上がり、

「花風さん。それ間違いじゃないね?」

 と、突然厳しい顔でお華が言うから、花風は驚いて、

「は、はい。いい加減な事では……」

 と、さすがに怯えて言うから、お華は笑って、

「いや、花風さんに何も罪はないよ。いや、それより大切な事教えてくれてこちらこそありがたいわ」

 微笑むお華、しかし、甚内には厳しい顔で、

「お父上! この事、お上の大事ではないでしょうか?」

 甚内も真面目な顔で頷き、

「お、おう。確かに」

 すると、おみよが、

「鉄砲って、そんなに大変な事なんですか?」

 聞くと、お華が、

「江戸は、ただでさえ「出女入り鉄砲」ご禁制の場所。いくら黒船が来たからって許可無く、鉄砲なんか持って来る事は違法なのよ。しかも吉原なんぞに……」

 出女入り鉄砲……有名な言葉だが、念のため。

 江戸幕府は、設立当初から謀反を警戒していて、大名妻女の無許可で関所を出る事。そして、鉄砲の江戸への持ち込みは厳しく禁止している。

 ちなみに、この時、焼け跡からは刀の焼け身は勿論、ゲベール銃三十挺・火縄銃七、八挺が見つかったと記録(身聴草)が残っている。


 お華は甚内に、

「お父上。この事は本日の内に、お奉行様にご報告しなければなりません。平吉さん!」

 平吉は手を止め、

「へい!」

 とお華の顔を見る。

「手伝って貰っている所、申し訳無いんだけど、この事至急、吉原で調べて欲しいの。別に捕まえろって話じゃないから、それ程時もかからないでしょ。その四郎兵衛さんや、今月は南町だろうから、そちらはほっといて、二、三話を聞いて来てくれる? そしてそのままお奉行所に。兄上がいれば兄上でもいいわ。悪いけどお願い出来る?」

 平吉は笑顔で「へい」と早速、襷掛けを取り、小走りで外へ飛び出した。

 そしてお華は難しい顔で甚内に、

「父上。この事お奉行様が、既にご存じなら良いですけど、もしご存じなかったら大変です。そして、何も知らないお奉行は、お城でお恥を掻かれる始末になりかねません。その上、父上。そして兄上は浅草広小路。今日は一番近い場所にいるので、お咎めが無いとは言えません。やはり本日中のご報告が必要だと思います」

 それは甚内にも意味が想像出来た。

「おう。承知した」

 と大きく頷く。


 と言う事で、その日は暮れ六つで、その日の作業は終わりとなった。

「みんな! お疲れ様。ありがとうね。頂いたお米。忘れずに持って帰るのよ!」

 というお華の言葉に、嬉しそうに頷き、それぞれ帰途についた。

 そして、お華は花風に、

「とりあえず、今日は私の屋敷に来なさい。帰ったら今後の事、考えましょ」

 微笑んで言うと、花風も、

「ありがとうござりんす。よろしゅうお願いもうしんす」

 と、四人は帰っていった。



(4)


 大門通って、屋敷に戻った一行。

 お華は、その辺走り回っていた子供達、信吉とおふみの兄弟に、

「あんた達、先生のお手伝い、ちゃんとしたでしょうね?」

 子供達は笑顔で、頷く。

 お華は優しい笑みで、

「偉い偉い」

 と頭を撫でてやる。

 さて一方、一緒に入って来た花風は、この屋敷の大きさに仰天していた。

「おみよさん……。ここがお華さんの屋敷なの?」

 いくらなんでも芸者のお華が、この様な屋敷に住んでいたとは想像の範囲を超えている。

 おみよは笑って、

「驚いた? でもね、ここは芸者の稼ぎで作ったんじゃないのよ。なんと先の将軍様のご褒美で頂いたのよ」

 その言葉には、花風は全く意味が分からなかった。

「し、将軍様?」

 と青い顔をしている。

 そんな時、前で子供とじゃれているお華が、

「そんな事どうでも良いのよ。これから幾らでも時間があるから、ゆっくり説明してあげなさい」

 と言うので、おみよも頷き、

「そうでしたね。どうせ、これからここに住むんだからね」

 と二人は納得しているが、花風は驚きを隠せない。

 するとお華は、

「サキさん!」

 と、ノブの嫁を呼ぶと、サキが寄って来て、

「ほら、ノブさんがお米貰ってきたよ。これで当分大丈夫だね」

 後ろに居たノブは、貰った米袋を肩に引っかけ、笑っている。

 女房はその事が一番の気がかりだったのか、本当に米を持って来たのを見て、満面の笑顔だ。


 そして、皆は屋敷に入り、やっと一息ついた。

「もう、畳。元通りにしたんだね」

 と、女将のお吉に聞くと、

「うん。この辺りはそれ程、怪我人とか出なかったのよ。地震も幾分止んだ様だし、大丈夫だろうって、先生が」

「ふ~ん」

 さてお華は、

「夕食の前に花風さん。まず聞くけど、本名は?」

 花風は、何だか嬉しそうに、

「はい。かよ、です」

 お華は笑って、

「そう。じゃ今日から、かよさんって呼びましょ」

 と言って、お吉に、

「おかあさん。今日からこの、おかよさん。この屋敷に住む事になりました。どうか、よろしく面倒みてくれる?」

 お吉は、可笑しそうに、

「全く、普通ならこの大地震で人は減るもんだけど、ここだけは一挙に人が増えたわね」

 と言いながら、かよに微笑んで、

「ごめんなさいね。小さい子もいるけど、我慢してね」

かよは、大きく首を振り、

「いえいえ、何と言う事も無いでござりんす。よろしゅう、お願い申しんす」

 お吉は、この言葉に眉が寄った。

 普通の娘や芸者が話す言葉では無いからだ。

 お華は、お吉のその不審に気づき、大笑いしながら、

「おかあさん。この人はね、元、吉原の遊女なの」

 それにはさすがの女将も仰天した。

「え? えぇ~?」

 彼女にしては当然の驚きだ。お華は続けて、

「かよさんは、源氏名、花風、吉原の呼び出しだったのよ。でもね、地震のあの日。あの日がちょうど年季切れの日だったそうよ」

 お吉は、更に驚き、

「呼び出し? 呼び出しっていったら、昔の太夫じゃない。それはそれは。おめでたいんだか、お気の毒なのかわかんないわね」

 と、お華と同じ事を言っているから、お華は勿論、おさよ、おゆきも大笑いだ。

 そして、

「まあ、そういう事だから、よろしくお願いします。それからおかよさん、そっちで寝転んでいる子供達は、信吉とおふみ。あの子達の両親は地震で死んでしまったのよ。親たちは子供だけは表に放り出して、自分たちは柱に潰されてしまってね。あんたも大変だけど、あの子達も大変。子供だけどあなたと同じ身だと思うわ。出来ればよろしくお願いね」

 かよは、真剣な顔で頭を深く下げ、

「はい。承知しました」

 するとお吉が、

「さすがだね~。姿勢もきちっとしてるし、挨拶の仕方も美しい。さすが、呼び出しって言うだけあるね」

「そうでしょ。そういうところ、おゆきも見習って欲しいね」

 と言うと、お吉は笑って、

「それは、あなたも一緒よ」

 と言われてしまい、おみよ、おゆき。そしておかよまで笑ってしまう。

 お華は頭を掻きつつ、

「あたしは、色々と忙しかったから仕方無いのよ」

 などといいつつ、

「おかよさん。あなたの今後なんだけどさ」

 かよは、お華の顔を正面に見る。

「この人は、吉原に居た事もあって、それこそ芸事に一番向いてると思うのよ。三味も出来るし、琴も弾ける。将棋も囲碁も打てる」

 それには、少し離れてお茶を飲んでるノブが、

「へ~琴も弾けるんだ」

 さすがに三味線弾きのノブはそこに反応する。

 しかしお華は、

「でもね。私も考えたんだけどさ。だからといってそれじゃ、吉原の延長ってだけだと思うし、新しい人生の出発には、ちょっとどうかなって」

 するとおみよが、

「でも姉さん。うちはお客との妙な事は御法度だし、大体、そんな事しようとしたら、姉さんの簪か箸が、お客にグサグサ刺さるだけでしょ?」

 さすがにその言い方は、みんなが大笑いする。

 お華さえ笑顔だが、

「いや。そういう事でもないのよ。出来れば、全く違った道を歩むのはどうかと思ってね。だからさ、おかよさん。おかよさんはお医者の助手ってどう思う?」

 おみよは「あ~」とうんうん頷くが、おかよは、驚いた顔で、

「え! あちきは、医者なんて学んだ事ござりんせん……」

 と、思い切り首を振るが、お華は、

「その辺は大丈夫よ。そのおみよだって、御改革で座敷に出れないときは二、三年、先生についてやってたしね」

 おみよも、

「そうそう。特に学ばなくても、やってるうちに分かりますよ」

 さすがに、かよは小さく首を傾げるが、お華は、

「やっぱりね。一度、違う場所に自分を置いてみるのも大切よ。これまでの籠の鳥だったんだから、一気に外に出てね。そしてこれはね。死んでしまったあの若い禿ちゃん達もそれを願ってると思うの。どうせなら、新しい事やってみてってね」

 おかよもその辺は理解しているのだろう。

 小さく頷く。

 すると、お華は庭の方に向かって、優斎を読んだ。

 しばらくすると、優斎は庭先までやって来て、

「お華さん聞きましたよ」

「え?」

 と優斎は、庭から上がりながら、

「ちょっと前、佐助さんが来ましてね。お華お嬢さんとノブさんに柳橋の芸者までいられたら、とても勝てませんよ~なんて言ってましたよ。浅草でも炊き出ししてたのに、ほとんどあっちにもってかれたって、浩太郎さんが悔しがってたって」

 それには、その当人達は口を押さえて大笑いしてしまう。

 お華は得意げな顔で、

「柳橋の芸者に、無粋の兄上なんか敵うわけ無いわよ」

と言い放ち、そして、お華は優斎に、かよを紹介した。

「この人はね、今日からここに住むの。よろしくね」

 優斎は、「おお」っと目をしばたたかせて、

「これはこれは。よろしくお願いします」

 と頭を下げたが、お華は、

「実はね、それについて先生にお願いがあるんだけど」

 その言葉には、優斎といえども些か、恐怖感を感じながら、

「な、何でしょう」

 と怖々答える。

 それを見た、おみよは堪らず腹を抱えて、笑いながら上半身が倒れてしまう。  お華も何だか不機嫌に、

「別に、厄介事じゃありませんよ」

 と言い、

「あのね。このおかよさん。ほら、おみよもやってた、看護のお仕事で雇ってくれないかしら」

 優斎には予想外だったらしく、

「か、看護ですか……」

 と胸を撫で下ろす。

 まあ、それはともかく、優斎は、

「わかりました」

 と、かよ本人の顔を見て、

「失礼ですが、今まで何を?」

 と聞く。しかし、それには言いにくいだろうとお華が先に、

「この人はね。元、吉原の呼び出しだった遊女よ」

 と、言うのだが、優斎は、仰天し、いわば呆れた顔で、

「吉原? 吉原って……え! まさか、吉原の女郎? しかも呼び出しって、昔で言う、何々太夫さんとか言う人ですか?」

 お華は大きく頷く。

 しかし優斎は、心配そうな顔で、

「そ、そうですか。でも良いんですか、看護の仕事なんて地味だし、お給金も安いですよ。そんな事やってた人に」

 お華は頷き、

「まあ、確かに、吉原の稼ぎに比べれば、全く大した事無いけどね。ただ、この人は新しい事をやって、これまでの人生を一新させる良い機会だと思うのよ。芸者じゃ、これまでの延長だし、小女や下女なんて新しい事でも何でも無いしね。そうそうサブちゃんに聞いたのよ。世界では、看護の仕事は女の仕事となっていて、むしろ医者より多いかも知れないって」

 それには優斎も大笑いした。

「三郎がそんな事言ってましたか。確かに、これからの時代。看護の仕事は女性の仕事の主流となるでしょう。ただ、医者よりっていうのは良く分かりませんけど、重要であることは確かです」

 すると、おかよが、

「私でも出来ますでしょうか?」

 それには優斎は、

「問題ありません。芸者も出来るなら、充分できます。おみよさんがそれを証明してますから」

 それにはおみよも嬉しそうに頷く。

 そして、おかよも嬉しそうだ。

 しかし優斎は、途端に厳しい顔に変わり、

「但し。もし本気で仰っているのなら、やって頂かないといけない事があります」

 それにはお華が驚いた。

「な、何です?」

 すると、優斎は深く一礼し、

「残念ながらおかよさんは、今のままでは出来ません。向こう一ヶ月程度、様子を見なければなりません。これは何も看護の仕事だからと言う訳では無く、どの様な仕事でも同じだと思います」

「様子!」

「そう。聞けば吉原だったとの事。そうであれば既に病気に掛かっている可能性があります。しかも呼び出しであったとすれば、人気だったでしょうから尚更です」

 突然の優斎の言葉に、お華は首を傾げながら、

「一体、どういう事?」

 優斎は、少し笑い、

「この事はむしろ、おかよさんが一番お分かりでしょう。私が恐れているのは、

瘡毒です」

 これには、お華やおみよは驚いたが、かよは大きく頷いた。

 おかよは、悲しそうに、

「確かに、そうかもしれません。私の親しかった遊女達も、次々、瘡毒に掛かって死んでいきましたから」


 瘡毒。今でいう梅毒である。

 優斎は、「ちょっと」と言いながら立ち上がり、おかよの前に座り直す。

「失礼しますよ」

 と一言、額に手をやり、頷くと彼女の片手を取り脈を取り始めた。

 どうやら、簡単な診察を始めた様である。

 これも、うんうんと頷きながら、

 口の中を見せて貰って、

「それでは、ご無礼ながら失礼致します」

 と両手を前に出させる。

 お華達はその様子を真剣に見ている。

 優斎は、両手の袖を引き上げさせて、表裏を確認し、同時に掌も確認した。

 大きく頷くと、今度はおみよに向かって、

「おみよさん。この人の着物を上だけで結構です。少し脱がせて、背中を確認して下さい。背中に黒い出来物など無いか、確認してくれませんか?」

 頷いたおみよが、立ち上がると、優斎も元に戻り、庭の方を向き背中を向ける。

 ここには、あとはノブしか男はいないから、女だけがその様子を見る事が出来る。

 そして言われた通り、おみよがおかよの小袖の上を脱がし、背中、正面を確認すると、小袖を元に戻し、優斎に、

「先生。特に目立った出来物などはありません。さすがに綺麗なものです」

 と少し笑顔で報告した。

 優斎は、それを聞いて笑顔でおかよに、

「今のところは、その心配は無いようです。ただ……」

 と言って、真剣な顔に変わり、

「この病気の厄介な所は、一時的に元気になる事です。確か吉原などでも、鳥屋につくとか言いませんか?」

 おかよは、大きく頷き、

「そうにございます。一旦病気になっても、やがて元気になりまして。遊女の間では、身ごもらない身体になったと、むしろ喜んでいるのでありんす」

 優斎は、厳しい顔で、

「本当にとんでもない事です。病気は治ったのではなく、ただ潜伏。隠れてしまっているだけなのです。そんな身体では子供は確かに作りにくいですが、出来たとしても必ず死んでしまいます。母親の梅毒がそのまま移ってしまうからです。とても喜ぶべき事ではありません」

 おかよは、頷く。そして優斎は、

「あなたも、今は何もありませんが、まだ大丈夫だとは言えません。せめてひと月は様子を見ないといけません。お気の毒ですが、今、これをやらないとどんな仕事も出来ません。もしそうであったら最悪、これから五年から十年以内には亡くなってしまいます」

 これには、

「五年!」

 と、女は皆驚く。

 そして、優斎は、

「でも、まあこれから暫く様子をみましょう。ひと月の間、おみよさんの介護を受けて下さい。いいですねおみよさん」

 彼女も頷く。

「そしてそれが、これからあなたがやろうとしている仕事でもあります。おみよさんから、その辺、よく聞いといて下さい。そうしてくれれば、一月後にはすぐ仕事が出来ます」

 それにはお華が、感心した顔で、

「なるほどね。看護を受ければ、どうすればいいか自分も分かるって事か。それなら、何も問題ないじゃない。あとは何事も無い事を祈るだけね」

「その通りです」

 と優斎と、女達は笑顔になった。



(5)

 

 そうして、みんなは平吉の女将さんが差し入れてくれた野菜の煮込みと、ご飯は昼のお結びで夕食を取った。

 しばらくすると、お吉がおみよに、

「そう言えばあなた、伊達様のお屋敷に行ってるんだよねぇ」

 おみよは、明るく、

「ええ、お姫様のお具合を。ただ、もうお元気な様子なので、今ではたまに三味の稽古にお付き合いしに行ってますけど。ねえ、先生」

 優斎も、箸を持ちながら、笑顔で頷く。

 するとおみよは、

「ああ、今度はおかよさんか。おかよさんなら、お琴も出来るからお喜びになるかもよ」

 と言うと、おかよはさすがに驚き、

「え! 伊達様って、あのお大名の?」

 おみよは頷き、

「あの方は、三味やお琴がお好きでね。お話も合うと思うよ」

 と言うのだが、ところが、お吉が、

「え~そうかしら」

 などと言い出すから、おみよが慌てて、

「な、何でよ。おかあさん」

 するとお吉は笑って、

「だって、あそこは(めい)(ぼく)(せん)(だい)(はぎ)のところだし……」

 それには、優斎がご飯を吹き出しそうになってしまった。


「伽羅先代萩」は歌舞伎の演目。

 正徳三年、市村座で上演された、当時は(泰平女今川)という題名で、伊達騒動を扱った芝居が元となっている。

 お吉が言っているのは、伊達家三代目当主・伊達綱宗と吉原の高尾太夫(伊達高尾とも言われる)のエピソードである。

 綱宗の意に従わない高尾太夫を、船の中で吊し斬りしてしまったという話が、現代でさえ、誠しやかに伝わっている。


 優斎はあわてて手を振りながら、

「参ったな女将には。女将は芝居好きだから仕方無いですけど、あれは誤解ですよ。三代目は確かに遊び好きだった様ですけど、それは芝居だけの話ですよ~」

 お華とおみよ、そして、本人おかよも呆気にとられている。

 お華はお吉に、

「ねえ、ねえお母さん。それ、どういう話?」

 と聞くから、お吉は得意な顔で話始めた。


 お華は笑って、

「確かにさ、おかよさんは呼び出しだから、その頃で言う太夫かもしんないけど、そんなに大事になる?」

 それには、お吉は、

「問題は言葉よ。ありんす言葉。お屋敷なんか芝居好きな人が多いから、すぐ大騒ぎになるわよ。しかも伊達様」

 優斎はもう頭を抱えている。

 お華は、おかよに、

「あなた、この話、知ってる?」

 さすがにおかよも、

「さあ、あちきも良くは……」

「そうだよね、だって、もう百年以上前の話でしょ?」

 と笑いながら、

「まあ、でも、それは別にしても、確かに言葉は変えた方がいいわね。どうせ、ひと月は様子見るんでしょ? ちょうど良いじゃ無い。おみよちゃんとおゆきで、この人の言葉も直してあげなさい」

 おゆきも笑顔で、

「はい。わかりました」

 と頷く。

「ねえ、先生。子供は言葉なんか、よく分からないだろうけど、父親は喜ぶでしょ? すると、恐いのは奥さんだよね?」

 ようやく立ち直った優斎も、それには、

「そうですね。詰まらない諍いが起こるのも馬鹿馬鹿しいですから」

「そうそう。これから生まれ変わった気持ちで、生きて行けばいいのよ」

 お華の言葉に、おかよも嬉しそうに頷く。

 

 地震により、お華の屋敷も人が増えて様子が変わったが、世間も同じ様に変わった。

 そして、時代もこの地震のおかげで、怒濤の様に変化し、まさしく混乱の時代になっていくのだが、お華や江戸の人々は、その事までは気付いていなかった。



~つづく~



 今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。


 文中にも書きましたが、この地震での犠牲者は、一万人と推定されてます。

 一方、天下分け目の合戦。「関ヶ原の合戦」での戦死者は、推定、七千人余りと

言われています。

 島原の乱以降二百年の間、一度も戦争が起こっていない江戸時代の人々にとって、この犠牲者の数は、本当に衝撃だったでしょう。

 この時、死者の扱いも相当混乱した様です。

 第一、早桶(棺桶)など全く足りず、仕方無いから筵に包む、それも無くなるとそのまま焼き場に戸板で運んだらしい。

 これは、仮名垣魯文の「安政見聞誌」に河鍋暁斎の絵と共に、描かれています。


 ちなみに、この当時の焼き場は、

()()()(さん)(まい)」と称される、小塚原・千駄木・桐ヶ谷・渋谷・焙烙新田と、

幕末に設定される南千住・深川霊巌寺・代々木村狼谷・上落合村法界寺がありました。

 さて、個人的な事で申し訳ありませんが、

 私は仕事で、内堀通り、もしくは日比谷通りをよく車で通ります。

 そうです、まさに江戸時代で言う大名横丁です。

 勿論、今は皇居前ですし、松が一杯植えてある綺麗な公園となっています。

 そして、その辺通ると、結婚式の前なのか後なのか、記念写真を撮ってる方々をよく見かけます。

 確かに、二重橋や大手門などもあるし、それら背景として使うのは、東京で一番綺麗で絶好の場所だとは思うのですが、私自身は、そんな大切な事をここで? 

と思って、いや苦笑してしまいます。

 一説には、あそこで圧死、焼死などで三千人は亡くなったといいますし、二重橋辺り、いや江戸城などは、元々お墓があった場所。

 今でも、ちょっと掘ればお骨が見つかるでしょう。

 私は知ってるだけに、いつも、そんなお二人の結婚生活に祟りなど起きないよう願って通ってます。

 あ、ちなみに、お骨に関しては江戸時代以前の、戦国時代あたりのものだと言われてます。決して人柱ではありませんよ。

 あの辺には元々、十六軒(?)程度の寺があった様で、どうも太田道灌の頃に建て、墓はそのままで移転したから、未だに遺骨が残っている様です。

 

 さて、天災が起こるとその時の政権は倒れる。よく言われる言葉です。

 この安政江戸地震では、数年のしないうちに、政権どころか、平安続いた武家社会を根底から覆してしまいました。

 それに加え、江戸時代前の江戸を浮かび上げるとか、私には何とも芝居チックな現象を起こした地震にも思えます。

 

 今回もお読み頂き誠にありがとうございました。

 次回も、よろしくお願い申し上げます。

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