⑯安政江戸大地震~前編~
(1)
静寂な夜。
既に寝入っていたお華だったが、その身体が突然、宙に浮き上がった。
目を覚ましたお華は暗黒の中、状況が全く解せなかった。
しかし、その身体が布団にドンと叩き付けられた時、即座に理解した。
さすがにお華、素早く身体を起こし、枕元の簪をとっさに髪に付けたのだが、今度はもの凄い横揺れに、片膝を立てていた身体が大きく横に吹き飛ばされた程、転がってしまった。
彼女にとっては、長い揺れだった。
「これは地震!」
そして直ぐさま長い揺れに逆らう様に、襖戸の方に転がり、スパン! と開けた。
お華の両側では、既に悲鳴が上がっている。
彼女の生涯で、地震は幾度となく体験してはいるものの、これほどの揺れは初めてだった。
敵には強いお華も、大地の怒りとも言えるこの咆哮には敵う筈も無い。
そうとなれば当然(三十六計逃げるに如かず)である。
お華は大声で、
「おかあさん! おみよ! おゆき! 大丈夫?」
お吉とおみよは、これも自分で戸を開け、四つん這いで姿を現した。
すると、少し奥から、
「姉さん! 戸が! 戸が開かない!」
と、既に泣き声の様な叫びが聞こえた。
おゆきである。
揺れは止まらないものの、お華はおゆきの部屋の前に、これも四つん這いで近づき、一気に立ち上がった。
そして、
「おゆき! 戸から離れなさい!」
突き刺すような、言葉でおゆきに命じる。
おゆきも、「は、はい!」と何とかその場を離れると、お華は即座に襖戸を蹴り飛ばす。
それはパーンと音を立て、もの凄い勢いで、おゆきの横に飛ばされた。
そしてそれと同時に、おみよが同時におゆきの部屋に飛び込み、彼女の着物を掴んで、廊下に引き摺り出した。
頷いたお華は、お吉に、
「おかあさん! とにかく外に逃げるよ。いいね」
頷いたお吉と、おみよ達は、お華の後に付いて居間の方に向かって行く。
この時、時間は現代で言うと、夜十時頃。
もうお分かりだと思うが、これがいわゆる、「安政江戸大地震」の発端である。
近年の関西淡路大地震や東日本大震災をご記憶だろう。
関西淡路では六千人の死者を出し、東日本に至っては二万人の大惨事だ。
江戸時代で言えば、元禄地震が有名である。
この地震では、本所、深川を全て海の中に引き摺り込んだ津波が発生している。
それから江戸・東京で起きた大地震と言えば、大正時代の関東大震災である。
この地震では、約十万人の死亡者を出したと言われる。
そのような大震災などに比べ、安政江戸地震は、推定震度6。
死亡者も公式発表では七千人程。津波も起きなかった地震である。
しかし、この地震が他とは違うのは、江戸直下いや首都直下型地震であったのだ。
震源地は、江東区、若しくは荒川河口と推定されている。
ちなみにだが、被害者数はあくまで、表向きである。
この時代、町民は「宗門人別改帳」や寺の過去帳などもあって、比較的、正確な数字を算出出来ると言われているが、問題は武士階級の被害者で、あくまで届け出の人数に過ぎず、それも、その家族などは含まれておらず、加えて、根本的に死者の数を正確に届けるなど御家の恥。などという文化があるから、正確とはほど遠い。
とはいえ、現代研究者の調査などから、恐らく合計一万人と推測されている。
そして、何と言ってもこの安政江戸大地震の特色は、江戸の、いや東京の、本来の姿を見せてくれた、特異な地震と言えるだろう。
さて、お華は、
「上! 上に気を付けて!」
と叫ぶ。
暗い中だが、既に相当数の瓦が庭に落ちている。
「足が痛いだろうけど、我慢するのよ!」
そして、地震の収まり具合を図って、一斉に草履を持ち表に出た。
外に出たお華は、即座に、
「優斎先生! ノブさん! 大丈夫!」
と、大門方向に大声で叫ぶ。
ノブ夫婦の方には、おみよが、そして優斎の方には、お華が行く。
優斎は、少々笑いながら出てきて、
「いや~驚きましたよ」
と、お華に話しかけながら、出てきた。
一方、ノブの方は、戸を開けて二人一緒に出ようとしていたが、おみよが、
「上に、気を付けてね!」
と叫ぶ。
女房のサキが微笑み、ノブの頭に手をやりながら、二人一緒に走って出てきた。
お華が近づき、
「ノブさんも、地震にゃ敵わないか」
と笑うと、ノブも笑いながら、
「いや~私もビックリしましたよ。身体が鞠のように跳ねてましたから」
頭を掻きながら言うと、
「それそれ。私もよ~さすがに、お仕舞いか? なんて思っちゃったもん」
すると、優斎が、
「そうだよね。さすがに簪じゃ敵わないからね」
皆、心に余裕が出来たのか、大笑いである。
「じゃ、先生。私たちで広間の畳出しましょ。怪我人なんかも来るかも知れないし」
「そうだね。とりあえず十枚ぐらい出しとけばいいでしょ」
二人は早速、瓦が落ちてくるのを見計らって、サッと部屋に戻り、瞬く間に庭へ、畳を投げ出した。
それから暫くすると、一人男が走って、大門を潜って来た。
おみよが笑顔で、
「佐助さん!」
と手を振って迎える。
佐助もそれに笑顔で答える。
畳を出して戻ったお華も、佐助を見て、
「おお、佐助さん。向こうはどう? 問題無い?」
眉を寄せて聞く。
やはりお華にとっては、八丁堀は心配である。
佐助は大きく頷き、
「はい。旦那様、奥様とお子様も大丈夫です。それと、隣の大旦那様、大奥様も大丈夫でした。旦那様にそれを伝えてこいと言われまして……。まあ、強いの三人も居れば、お華の所は大丈夫だろうがな……と」
それにはお華も笑い、
「強くたって無理よ。あたしも立てない程だったもん」
佐助も笑って頷く。
お華は優斎に目をやりながら、
「サブちゃんは、お屋敷に行ったの?」
「はい。奥様が直ぐ行けと仰られ、飛ぶ様に行かれました」
「やっぱりね」
とお華と優斎は、微笑んで頷く。
その時、また横揺れが始まった。
「まだ揺れてるね~」
お華は、呆れ気味にぼやく。
そんな話をしながら暫くすると、また大門から誰か入って来た。
なんと、子供連れの様だっだ。
妖しい者というより、両手に子供を連れてだから、警戒するより皆、目を丸くする。
その男は、気づいたのか笑顔で、
「お華お姉様!」
と、芝居じみた大声で叫んだ。
「え?」っと、闇の中微かな光で、その男の顔をジッと見て、「お~」
と驚く。
「亀じゃないの。一体どうしたのよ。しかも子連れで」
「申し訳ありません。この子達を預かって貰えませんか?」
その言葉には、おみよと、やって来ていたお吉も、妙に嬉しそうだ。
佐助が妙な顔で、おさよに、
「誰だい? あの人」
と耳打ちすると、おみよは笑顔で、
「亀さんよ。猿若の三代目中村仲蔵さん。姉さんのお弟子よ」
その言葉には、佐助も驚いた。
こんな地震の夜、芝居で有名な仲蔵が来るなど、予想外も良いところである。
まあ、佐助にはそうだが、お華には特に何と言う事も無く、
「あんた何やってんの。こんな地震で大変な時に」
仲蔵は、頭を掻きながら、
「いやね。私、今日は本所尾上町の料亭にいたんですけど、あの地震でしょ」
それにはお華も笑って、
「あんたはまた。そんなところで女遊びしてたんでしょ?」
などとからかうが、仲蔵は思い切り首を振り、
「いやだな~今日は踊りの浚いの会に付き合ってたんですよ」
少々不満そうに文句言う。
お華は、連れてきた幼い女の子の方を優しく引き寄せながら、
「まあ、そうしときましょ。で、どうしたって言うのよ」
仲蔵は頷いて、
「でね。子の刻の鐘も鳴ったし、ここらでと立ち上がろうとしたその時でございます。あれですよ下から浮き上がるような揺れが始まりまして……」
「おうおう、で?」
「ええ。それで逃げようと思ったんですけど、二階だったんで、一階に降りたら潰されると思いましてね。思い切って二階屋根から逃げようとしたら、また大きな揺れ。すると今度は、まるで芝居の様に屋台崩しですよ。二階が一階にズルズル落ちちまって……。でも、怪我はしてなかったんで、そのまま二階の屋根から」
お華は笑顔で、
「ほう。さすがは役者だね、動きが機敏だ」
すると仲蔵も少し笑って、
「上ろうとすると、妙に足が重いんです。下をみたら、踊りに来ていた娘達が捕まってて、いや、あれには驚きましたよ」
お華は大笑いして、
「さすが、あんたの女遊びは、ひと味違うねぇ~」
「やめて下さいよ~」
と仲蔵は笑い。
「まあ、そうやって助かった者を引き上げた時です。何気なく回りをみたら、えらい事になっていて、真向かいの森下町は既に火の海、堅川の相生町も火が出てるし、あわてて船で逃げようと、待たしていた船に、逃げた者達と一緒に乗ろうとしたんですがね。そんな時です。この子の泣き声が聞こえて来まして……」
仲蔵は、女の子の頭を撫でる。
お華は、少々厳しい顔に変わり、
「そう。で、それで?」
「ええ。声の方に向かって行ったら、元町というところらしいんですが、この子達二人が潰れた長屋の前に立ちすくんでいるのです。この子は「おかあちゃん」と泣き叫んでいるけど、男の子は大したもんで、近寄るのを抑えているんですよ。涙を流して。恐らく、巻き添えになるのを防ごうと思っていたんでしょうね」
この話には、一緒に聞いている、おみよ、おゆきと佐助など、そしてお吉も涙を流して聞いている。
仲蔵は続けて、
「私が近づくと、潰されている母親がまだ息があった様で、私に最後の力を振り絞って、私にこの子達をお願いしますって……そのまま息絶えてしまったんです」
遠くで聞いていた優斎は、その話を聞いて、
「お華さんと同じじゃないか。そう言う事なら、お華さんも断れないだろう」
と思って近づきながら、もう一人の男の子の方を見た時、優斎の目は大きく見開いた。
お華の方は直ぐ、
「わかったわ、かめ。そういう事なら、この子達は私が預かるよ。いいね、おかあさん」
お吉は勿論、大きく頷く。
お華が快諾してくれたので、仲蔵は途端に笑顔になり、
「女の子の声を聞いた時、実は私には、あの時の芝居小屋の火事が頭に浮かんでしまいましてね」
それにはお華も笑い、
「ああそうか。あんたも一緒だったもんね。あの時」
すると仲蔵は、
「場所は両国。それならば、ここは姉さんにお願いするしか無いと思いましてね。お玉ヶ池の前って聞いてましたけど、これほど大きい屋敷だなんて、相変わらず、訳が分かりませんね~姉さん」
お華はケラケラ笑い、
「色々あんのよ。でもあんた。あんたも早く帰んなきゃマズイんじゃないの? たしかあんたは、浅草聖天町だったわよね」
「ええ。そうなんですけど。どうしようかと迷ってまして……」
するとお華は、佐助に顔を向けて、
「佐助さん。悪いんだけど、この人、両国橋の船宿に連れてってくれる? 柳橋のお華太夫って言えば、多分、舟出してくれるでしょ。両国橋も潰れていない様だしね」
佐助は、即座に承知する。
するとお華は、
「あ、ついでにね。川沿いでいいから、深川の辺りも見ながら八丁堀に帰ってくれる? 本所がそんな感じなら、多分深川も大変な事になってると思う。遠目でも一応確認してくれる? そして兄上か姉上に報告しといて欲しいの。橋渡らなくていいからね。火が上がってるかどうかだけで良いから」
佐助は大きく頷き、
「承知しました。では仲蔵さん。参りましょう」
仲蔵も頷き、そしてお華に、
「それでは、ご厄介掛けて申し訳ありません。この子達よろしくお願いします」
深く頭を下げ、子供達に声を掛け、佐助と去って行った。
それを見送ったお華は、ようやく、ここで涙を一筋流した。
ところで優斎は、男の子の方を見たまま、まだ妙な顔をしていた。
優斎は、男の子の側に膝を突き、
「おみよさん。灯りをお願いします」
しっかり者のおみよは、もう提灯など用意していた。
言われたおさよは慌てて、「はい」と提灯を差し出す。
すると、その男の子に優斎は、
「おまえさんは、私の顔を覚えているかい?」
すると、その男の子は大きく頷き、
「あ、先生! 憶えているよ!」
その子は、知っている人が居て、安心したのかも知れない。
笑顔で答えた。
それを聞いてお華の方が驚いている。
それから優斎は、お華を指差して、
「この、おば……いやいや、お姉さん憶えているかい?」
なんと、男の子は頷き、その質問にも笑顔で答えたのだ。
眉を寄せ、少し慌てたお華は、その子の前に優斎と同じ様に膝を突き、優斎に、「え? どういう事?」
それには、皆も不思議そうに話を聞いている。
優斎は笑って、
「お華さん。憶えていませんか? いつだったか三郎と助けた男の子ですよ!」
お華は、「サブちゃんと? あ!」
「思い出しましたか?」
「え~? まさか、あの味噌鍋の子?」
お華は余りの事に驚愕している。
しかし、
「でも、あの子はもっと小さかった様な……」
それには優斎も大笑いして、
「子供はすぐ大きくなるんですよ」
「ひえ~」
お華は思わず悲鳴を上げてしまう。
優斎は立ち上がりながら、
「結局、お華さんと同じ目に遭った娘。そして自分が助けた男の子、それをまた助けた事がある役者に任されたって事ですよ。全く、縁というのは恐ろしいもんですね」
とうとう、お華は本当に顔を伏せて泣き始めてしまった。
微笑んでいるおみよは、おゆきを呼び、
「おゆきちゃん。この子達はあなたの弟と妹になったよ。あっちでお世話しなさい。この子達もあなたと一緒だから」
おゆきには、最後の言葉だけで、うすうす理解したようだ。
二人を連れて、畳の方に連れていった。
(2)
お華は、まだ余震が続くものの、屋敷が落ち着くと、
まずおみよに、
「両国は大丈夫の様だから、今の内、あなたは本所の爺さんの様子を見てらっしゃい。怪我でもしてるようなら、何とかここに連れて来るなり、戻って先生を呼んでね」
「はい」
彼女も、自分の祖父だから最初から気になっていたのだろう。
頷くと、すぐ門を出て行った。
「じゃ、私は、すみやと北町。それとお城をちょっと見てくる」
と優斎に言って、お吉やおゆき、そしてサキに、
「おかあさんとみんな。悪いけど、もし患者さんが来たら先生のお手伝いをお願いします」
と頭を下げ、そして、
「ノブさん! 、あんたは用心棒お願いね」
それにはノブも「あちゃ~」と手を顔に当てる。
お華はその様子に笑いながら、門を出て行った。
お華はまず、柳橋に向かった。
ここは、自分の所と同じく、それ程の被害は無かった。
避難した芸者なども外に筵引いて座っていた。
「あんた達、大丈夫?」
お華が声を掛けると、座っていた若い芸者連中は笑顔で、
「大丈夫です」
と明るく答える。
お華は頷きながら、
「怪我した子がいたら、うちの先生の所に行って。皆にもそう言っといてくれる?」
「はい。わかりました」
返事を笑顔で聞いて、お華はそれから蔵前のすみやに向かった。
この辺りも、軒が崩れたりの被害はあったが、出火は無かった。
もちろん、すみやも同じで、少々の被害で済んでいた。
そして、平吉、おていとお千代は店前で、立ちすくんでいた。
「平吉さん!」
「あ、これはお華お嬢さん」
平吉は、笑顔で近づいてくる。
おてい達も気づき、一緒にお華の元へ、
「みんな。怪我は無い様ね」
お華はみんなの顔を見て、素直に喜ぶ。
平吉は腰を低く、
「これは、お嬢様自ら、お見舞い下さりありがとうございます」
と深く頭を下げるが、お華は手を振って、
「お嬢様なんて、もう良いわよ。最近はもうおばさん呼ばわりなんだから」
などと笑い。
「それより平吉さん。中は大丈夫だったの?」
それには、平吉も軽く頷いて、
「まあ、食器なんぞ結構やられてしまいましたが、その他は大丈夫でございます」
「そう。それじゃこの事は私が兄上に様子を伝えておくから、今日は、このままここに居て頂戴」
それには平吉は、驚いて、
「しかし、こんな所にジッとしていても」
というのだが、お華は首を振り、
「まだ揺れてるし油断は出来ないわ。ここだって、いつ火が上がるかも分からないからね。本所辺りも大変みたいだし、風向きが変わると米蔵だって、どうなるか分かったもんじゃないでしょ? だから、このままそちらの方をお願いしたいの」
お華の言う通り、米蔵の異変はすぐ知らせてくれた方が、奉行所も助かるし、庶民も助かる。とても重要だ。
「もし、米蔵に異変が起こったら、その時は奉行所まで走って。女将さんだって、その方が良いよね」
笑顔でそう言われてしまうと、平吉も反論出来ない。
おていは、ありがたそうにお華に頭を下げる。
浩太郎の代わりに指図を終えたお華は、
「私はこれから、お城に行くわ。誰か来たら伝えて頂戴」
と笑顔を残し、頭を下げる平吉一家を背中に、お華はまた歩き始めた。
一人、城に向かったお華は、すみやがある鳥越町から真っ直ぐ歩いて、下谷御成道方面へ向かった。
しかし、しばらく歩いているさなか、幾人もの町人だけでは無く武士などが、真っ青な顔で、次々に逆方向に逃げて来た。
「なんだ?」
と思ったお華は、ふと右に目をやって驚いた。
まだ真夜中だから、むしろ綺麗に四方八方に光を上げ、大炎上していたのだ。
慌てたお華は、逃げてくる町人の娘を呼び止め、事情を聞くと、下谷・浅草などが燃えてみんな逃げていると言う。
礼を言ったお華は、
「場所によって違うのね……」
などと、独り言を言ってしまう。
お華は、この時はまだ、それ程の危機感には襲われていなかっただろう。
要するに、火事に慣れている江戸住民の感覚と変わらなかった。
半鐘も鳴り響いているので、それで済むのでは? と心のどこかで思っていたかも知れない。
しかし、実はこの時、町火消は全く活動していない。
いや、出来なかった
そう、無駄だからだ。
江戸時代の消防は破壊消防。
既に、地震で破壊されている町で起こる火事など、止める術など無い。
鐘は、単に危険を知らせているに過ぎなかった。
夜にも拘わらず、次々道の混雑が酷くなっていくので、当初の予定を変え、御徒町で左に方向を変えた。
この道は、現在では「昭和通り」と言われる道である。
それから、突き当たる神田川沿いを上り、筋違橋を渡って真っ直ぐ、日本橋方面に向かった。
途中お華は、ここでも逃げる者に話を聞きながら歩いたが、何でも神田小川町。いわゆる下級武士が多く住む一帯も大火となっているようで、あの人の多さはそれも加わってか、と確信した。
そしてそのまま日本橋を渡り周囲を眺めるのだが、今度はお華。何だか拍子抜けした気分になってしまった。
勿論、地震の影響は確実にあり、こちらでも庇や瓦が落ちたりしているのだが、家屋そのものには大した影響がなく、どこからも火事は上がっていない。
暫く、お華は日本橋の通一丁目から、南伝馬町辺りまで歩いたが、やはり、さしたる事は起こっていない様だった。
ただ、これは他でもそうだったが、蔵だけは大変な被害だった。
白壁に、まるでガラスに銃弾が当たったような、ヒビが全体に行き渡っている。 崩れ落ちるか、そうで無くても、瓦、鉢巻きや白壁も落ち、むしろ、それらの崩壊によって死んだ者が多かったなどと後に言われる程、それだけ大変な被害だった。
それを確認すると、お華は踵を返し、今度は呉服橋を渡った。
橋を渡れば、すぐ北町奉行所の前になるのだが、またもや反対方向から人がやって来る、町人なのか武士なのか分からない男女が、驚愕の顔で、次々逃げる様に走り去って行く。
それにはお華も、
「これは、奉行所から?」
などと思いながら、急いで奉行所大門に向かった。
だが、門番が居なかった。
だから何事も無くそのまま奉行所に入ったのだが、左右を見回してもそれ程の被害の様子は見えなかった。
ただ、日本橋と同じ様に蔵には大きなヒビが入り、そのうちの一つは崩れており、また武家長屋にも多少の被害が出ていたが、何より奉行宅と繋がる、奉行所そのもの、そして同心部屋には大きな問題は無かった。
ただ、誰も外に出ている者が意外に少なかった。
「逃げちゃったのかしら?」
首を捻るお華である。
まるで放置された屋敷の様だが、まあ、被害が思った程では無かったから、それでは次はお城へと、多少、崩れかけた大門を出た。
道沿いに大名横丁に向かおうと外に出て、そのまま右へ、右へと進んだ。
そして、角を曲がり、五六歩進むとお華の足がピタッと止まってしまった。
お華の顔は一瞬、まるで空間識失調にでも陥ってしまった様にボンヤリしてしまったのだ。
空間識失調とは、突然、平衡感覚を失った状態の事を言い、主に航空機のパイロットが陥り易い状態の事で、大事故に繋がり易い状態である。
まあ、この時代の事だからそれと同じかどうかはともかく、腰抜かしてひっくり返る寸前の衝撃であった。
何しろ目の前の風景が、お華がこれまでの生涯で見た事の無い、全く違った風景に変貌していたからだ。
大名小路はその名の通り、通常は幕閣の重要な役職やご親藩などが住まいする、大名屋敷だらけの通りである。
ところが、この日は城の下に広がる大大名屋敷の殆どが拉がれ、壁は粉々に崩壊し、業火があちこちから舞い上がっていたのだ。
今で言えば、総理官邸と各省庁が、一度に消え去ったと言う様なものである。
とはいえ、お華は少し気を取り直し、少々遠目ながら城の様子も眺めた。
しかし、まだ夜明け前。
満足に見えるはずも無いのだが、煙だけは上がっている様子は見えなかったので、少しだけ安心したその時だった。
向こうから、侍連中が集団で、小走りでやって来た。
厳しい顔のその者達は、お華に気付く事も無く通り過ぎて行った。
お華はその中に「とくぼん」を見つけたが、彼はお華に気付かず、珍しく難しい顔で通り過ぎてしまった。
しかし、一団、最後の方から、
「お華!」
と声が掛かった。
浩太郎だった。
どうやら北町の同心連中だったらしい。
ただ、こういった状況の為、着物はバラバラだった。
浩太郎も、羽織の無い着流しの一人であった。
お華もそれに気付き、ようやく笑顔になる。
「兄上!」
と手を上げる。
浩太郎も難しい顔で、
「お前がここにいるって事は、屋敷は大丈夫だって事だな?」
「うん。私も佐助さんから聞いたよ。お父様お母様も大丈夫だった?」
それには、笑顔に変わり、
「ああ。子供達抱きしめて、良かった良かったってな」
お華も笑って、
「まあ、そりゃそうでしょうね」
すると浩太郎は、
「城に行こうとしてるのか?」
お華は頷いたが、
「そう思ってたんだけどね。煙も上がってないようだし……。いやいや、兄上。これは一体どういう事?」
それには浩太郎も呆れた顔で、
「俺だって分からんよ。しかし大変な事になった。平川の門番にお聞きしたら、お前の言う通り、お城に火は上がってない様子だ。だから城に上がるなら、平川だ。他は使えん」
「使えん? それはどういう事?」
浩太郎は頷いて、
「大手は、下馬札前にある酒井様の屋敷が大崩れで、火も激しくあがり、さらに大手自体も崩れていて、今はとても通れねえ。そして西丸下のお屋敷も大火でな。混乱していて、とても桜田門は通るどこじゃねえんだ」
「ひや~。そんなに酷いの?」
「そう。それに反対の清水門や竹橋の蔵は大崩れ、九十三間多門櫓(約169m)なんかは下に落ちて、大番屋も潰れた状態だ。使えるのは平川だけ。それだって何とかっていう有様だ」
もはやお華は、言葉を失ってしまった。
しかし、伝える事は伝えないといけない。
気持ちを切り替え、首を上げて、
「あのね。私の方だけど、本所深川は大火。そして下谷、浅草も大火よ。平吉さんのすみやは大丈夫だった。だからそのまま、米蔵の火に気を付ける様に言ってある。これでよかった?」
浩太郎は大きく頷き、
「おう。それで充分だ。しっかし、大変な事になっちまったよ~」
「そうね。あとは大丈夫だったの?」
すると浩太郎、今度は小石川の水戸屋敷の話を始めた。
「ほら、あそこの名物、百件長屋知ってるだろう?」
お華は頷き、
「ああ、あの有名な。屋敷ぐるり回ってる奴でしょ?」
「そう。それも大破損だと。屋敷も潰れ、当主斉昭様は庭の茶屋に逃げてるらしいぜ」
お華はまた驚き、
「小石川まで? あんな所まで、そんな事になってるの?」
「そうだ。訳分からんよ」
浩太郎は苦笑いだ。
するとお華は、
「じゃ私は、とりあえず阿部様のところへ」
それには浩太郎も驚き、
「え? 御老中の屋敷に?」
お華は少し笑い、
「いや、私は奥方様が心配なのよ。いつもお世話になってるから」
浩太郎は、理解したのか何度も頷き、
「おお、奥方様……。うん。それも大事じゃ。それから、姉小路様か?」
今度はお華が、
「そのつもり」
と頷き、二人は別れた。
(3)
さて本来、老中の阿部家は、城に向かって奉行所の正面。
普段なら、至って分かり易い場所にあるのだが、今日は一体どこが道だか、屋敷なのか分からない状態だったから、正に手探りと言った様子で、辿り着いた。
しかし当然、門も崩れ落ちており、道も罅割れしている。
それらを何とか避けながら、そして乗り越えながら、屋敷の中に入っていった。
屋敷自体も壮大に潰れており、潰れた屋敷からは、炎が激しく立っている。
従って、それらは昼間の光景の様に、ハッキリ見える。
あちこちで、人も倒れている。
寄らなくても死亡が確認出来る有様だ。
お華は、とにかく先へと進んでいくと、大きい声が聞こえた。
「お華ちゃん!」
先の方の幾らか開けた所に、何人かの若い女中に囲まれて、地面に敷いてある畳に座り、腕をだらんと伸ばし横の女中に支えられている女がいた。
お華も気付き、
「これはこれは奥方様! ご無事で!」
とりあえず安心したお華は慌てて、側に走る。
そう。この女は阿部伊勢守の正室、謐であった。
手前に座り、頭を下げたお華は、彼女の異変にすぐ気が付いた。
「お華。わざわざ、よく来てくれた」
と笑顔で言うのだか、その笑顔は、本来の笑顔で無かった。
お華は、すぐ側に寄って聞く、
「お方様、その腕。どうなされました?」
すると、
「い、いや……。逃げる時、上からの瓦に腕が当たってしまってな……」
笑顔なのだが、苦痛で顔が歪む。
それを聞いたお華の顔が、一瞬で戦いの表情に変わった。
「お方様、失礼致します」
と、お華は、だらんと伸ばしている腕を慎重に触る。
しずは、瞬間の痛みに顔に皺が寄る。
お華は、その腕を、チョンチョンと上から押し、
「どこが一番痛いですか?」
「そこじゃ」
と居たい場所を教える。
お華はやはり。と頷き、
「このままでは、大熱を出し亡くなってしまうか、骨が曲がって付いてしまいます」
と言うものだから、本人は勿論、回りの女中も驚いている。
そんな時、向こうから、
「奥方様! 御駕籠の用意が出来ました!」
と年配の、如何にも偉そうな武士がやって来た。
すると、しずが掠れた声で、
「江戸家老じゃ」
と教えてくれたので、お華はそのご家老に、
「なりません。応急処置をしてからでないと、大事に至ります。御駕籠は少々お待ち下さい!」
意見と言うよりは、怒鳴りつける様に言い放った。
その家老は、見たことの無い女が突然出て、強烈に叱られたものだから、目を白黒して奥方に目を向けると、奥方は痛みを堪えながらお笑顔で、
「これは、お殿様もご存じのお華じゃ……」
この言葉に、家老も驚いた。普段、よく聞いていたのだろう。
しかし、事は緊急。
「どうすると申すのじゃ?」
とお華に問いかけると、お華は、
「お任せを」
と言うと、すぐ奥方の隣の女中に、
「あなたは、奥方様の前に四つん這いになって下さい!」
などと言い付ける。
その勢いに抗う余裕は無い。
言われた通り、彼女はすぐ、奥方の前で四つん這いになる。
「背中を真っ直ぐに!」
と追い打ちを掛けるように言われ、その通り奥方の前で、まるで机の様に姿勢を取った。
そしてお華は間髪入れず、並んでいる女中達に、
「皆さん。手拭いなんか持ってる人はすぐ出して!」
と命令する。正に命令だ。
さすがに戦闘モードのお華に逆らう事はやはり難しいらしい。
お華は立ち上がり左右を見回し、後ろに座っている女中に、
「あなた!」
と指差し、そしてその指を横に動かし、
「あそこに落ちてる、あの細長い板。あれを持って来てくれる?」
と言った後、お華はすぐ手前の女中に、
「四つん這いのこの人の上にに手拭い三枚広げて置いて頂戴!」
言い付けると、奥から女中が、言い付けられた板を持って来た。
そしてお華はしずに、
「少々我慢を」
と、諒解を取り、ゆっくりその四つん這いの背中、手拭いの上に置いた。
娘も四つん這いの意味がようやく分かったようで、何故かにニコニコしている。
実は、痛さに堪えながらの奥方も何だか妙な展開で、喜んでいる様子だ。
そして、お華は細長い板を持って来た女中に、長い板を立たせて持っている様に言い付ける。
今度は、横で妙な顔で眺めている家老に向かって、笑顔で、
「申し訳ありませんが、事は緊急。大変ご無礼ですが、お刀をお借り致します」
と言うと、了解のの暇も与えず、素早く家老方から脇指を抜き取ってしまった。
「あ!」
嫌と言う暇も無かった家老は悲しげな悲鳴を上げたが、そんな事は全く気にせず、お華は立たせている女中に向かい、
「動いては駄目よ!」
叫んだお華は、まるでおさよ張りの構えとなり、簪を投げる時と同じ、目が光る。
持っている女中は、余りの迫力に、硬直して身体が固まっている。
そしてお華は、一気に背中から刀を抜き、素早く板を三つに斬り放った。
勿論、普段お華は、簪。
脇差など小太刀は得意ではないが、これぐらいなら大した事では無い。
が、回りの者、そして家老など一同は、余りの早業に一斉に目を剥いて驚いた。
すると、後ろの方から、手を叩きながらやって来た侍がいた。
「さすがお華。しかし、そなた何やってるんだ?」
その言葉に、振り向いたお華は、すぐに膝を突き深く頭を下げ、
「あ、これはこれは御老中様。暫くお待ちを……」
まず、刀を硬直している家老に、頭を下げて返し、
そしてすぐ、お華はその斬り落ちた板一枚を取り、奥方の腕の下に差し込むと、残りを双方に当て、同時に敷いてあった手拭いを次々結んだ。
そう、折れた腕の固定だ。
お華流、骨折の応急処置であった。
それを見て、阿部は驚き、
「何じゃ、腕を折っていたのか?」
阿部もその処置がどの様なものかは知っていた様だが、まさか、お華が奥方を治療しているとは思わず、
「お華。そなた相変わらず、驚く事しておるな~」
地震で、自分の屋敷も崩壊している事より、むしろこちらの方が驚いた様だ。
残りの手拭いで、腕を首に吊る。
「奥様。どうでしょう。痛くはございませんか?」
しずも、何だか可笑しそうに、
「ありがとうお華。なんとか大丈夫よ」
と、奥方にも拘わらず、お華に小さく頭を下げた。
お華は立ち上がり、今度は家老に、
「向かうのは、中屋敷にございますか?」
家老は、少々慌てて、
「お、おう。そのつもりじゃ」
お華は少し頭を下げ、
「それでしたら、なるべく揺らさぬようお連れ下さい。腕に響きます。そして、今のはあくまで緊急の応急処置。お屋敷に着きましたら、外科のお医者を至急お呼び下さいます様、お願い申し上げます」
家老は、素直に頭を下げ、
「あい分かった」
と答える。
するとお華は、
「確か、中屋敷は、本郷丸山町にございましたよね?」
家老は、
「そうじゃそうじゃ」
と頷く。
「ならば、ご家老様。下谷、浅草、小石川の方は、避難する者で大変な事になっている様です。道順には、充分お気を付け下さいませ」
「ほう! そうかわかった。すまんな」
いえいえと言いながら、今度は、老中の阿部に、
「ご老中。さすがに着物着る暇はありませんでしたか?」
と、少しお華は笑う。
筆頭老中の阿部は、真っ白な寝間着のまま、そして脇差を一本指しているだけだったのだ。
しかし、その白もさすがに薄汚れてしまっている。
さすがに恥ずかしかったのだろう。
「しかたあるまい。逃げるのに精一杯だったのじゃ」
少々。怒り気味で言い訳している。
しかしお華は、笑って頷き、
「すると、そのままで上様の元へ?」
「まずいか?」
と少々心配になって言うのだが、お華は笑いながら首を振り、
「いえいえ。事は緊急。お着物は致し方ございませぬ。ただ行かれるなら、今は大手、桜田、竹橋などは全て使えぬとの事です」
阿部は大いに驚き、
「なんと、大手も使えぬと?」
お華は、「はい」と頷き、浩太郎に教えて貰った状況を伝え、
「お気の毒ながら、普段、不浄門と言われる平川を使うしかございますまい。しかし、その格好であそこを通ると、大奥で大人気になりますよ」
と大笑いだ。
阿部も、頷き笑いながら、
「すまん。よう教えてくれた」
そして、振り返り、
「では、皆のもの参るぞ!」
と、阿部は屋敷? 屋敷跡を後にした。
奥方は、何人かの女中の手を借り、腕を動かさず慎重に駕籠へ乗った。
「お華。本当に済まなかったな」
笑顔で言うと、お華も笑顔で、
「お気になさらず。どうぞ、お気を付けて」
と頭を下げ、同伴の家老にも頭を下げるが、眉を寄せながら、
「揺らさないようお願いしますよ」
家老は、些か恐怖に駆られたのか、うんうん頷いて、一緒に出て行った。
(4)
さて、老中阿倍の奥方を見送り、お華は一息ついて、
「さて、姉さんの様子を見に行くか」
と、彼女も慎重に出て行って、桜田方面に向かった。
浩太郎が教えてくれた通り、左右は悲惨な状態であった。
道端には負傷者が、
「水を~」
と呻いており、その家の人間だろう、柄杓を持って、一生懸命介抱している。
しかし、お華にはどうすることも出来ない。
申し訳無いと思いながら、彼女は先に進む。
江戸には、町火消しの他、若年寄配下の旗本で構成されている定火消や、大名火消なども決められているのだが、町火消と同じ様に、どうする事も出来ない。
と言うよりも、大名小路にある定火消は役宅自体が損壊し、配下の火消同心などは、とっくに逃げており、大名火消にしても、自分の屋敷の手当が忙しく、火消しどころではないのだ。
先にも言ったが、この地震では、被害は火事だけでなく、屋根瓦や蔵の崩壊が目立っている。
それによる死者も怪我人も多い。
妙な話だが、これらは全て、享保時代・八代吉宗の頃から、防火の為、設置を勧めていたもので、あの奢侈禁止を前面に掲げた、天保の改革の水野忠邦でさえ、瓦と土蔵作りは禁止しなかった。
贅沢は禁止と言っても、大火で起こる幕府の財政を考えれば、無理押しは出来なかったからだ。
ところが、今回は、全くの裏目と出た。
火事では無く、地震にはむしろ逆の結果が出てしまったのだ。
そして、大名小路、特に西丸下にまであの様な被害が出た原因の一つは、この頃の黒船騒ぎだと言われる。
沿岸警備を厳しくし、台場まで作っているから、当時の資料には、
(近年砲術流行故、諸家煙硝(硝酸カリウム)の貯へ多くして、これに火移りて焼けるも少なからず)
と書かれていたりする。
それが確かな事かどうかは不明だが、あり得ない事では無い。
お華の目には、今も西丸下の親藩など屋敷を構える地域は、異常な程、まだ大炎上している。
ところがだ。
それも桜田門を過ぎ、井伊家の屋敷までくると、まるで別の江戸に来たかの様に、一切、被害が止まっていた。
これまで見てきた、瓦の落下や、塀の破砕さえ無かったのだ。
お華は、この余りの違いに首を傾げてしまう。
そのまま今で言う、六本木通りを歩いて行くのだが、やはり、こちらの方は、行けば行くほど無事である。
というより、いつもの江戸を歩いている様に思えた。
暫く歩いて行くと、麻布、長門清末藩屋敷、姉小路の住む屋敷に着いた。
ここではいつもの通り、門番に挨拶をして、中に入っていく。
そして、勝光院(姉小路)が住む、離れに行く。
庭の幾つも掘られて埋められた穴を眺め、少し微笑しながら、庭先から、
「綾瀬様~お華にございます!」
と、声を掛ける。
すると、廊下、横の方から綾瀬が出てきて、
「おお、お華。どうしたのじゃ?」
と、笑顔で迎える。
しかし、この言葉で、お華は何も無かったんだなと察した。
(お気楽な……)
と思いながらも、
「姉様、お見舞いに参りました」
しかし、綾瀬は、
「何じゃ、お見舞いって?」
と聞くので、とうとうお華は笑い出して、
「地震のお見舞いですよ。大丈夫かなって心配して来たんですよ」
腹を抱える。
綾瀬もようやく気づいた様で、拳で反対側の手を叩く。
「あ、あれか夜の」
すると綾瀬も笑い出して、
「結構、大きかったからな。御前様(姉小路)もそれはもう大騒ぎじゃったぞ」
それには、お華も驚いて、
「え? 姉様、地震が苦手なのですか?」
綾瀬は大きく頷いたが、障子越しの向こう側から、
「これ! 余計な事を!」
と怒られてしまった。
綾瀬は、笑いを堪えながら、
「お華にございます」
と障子を開けた。
お華も早速、居間に上がり、姉小路に平伏し、ひよっこっと顔を上げ、
「姉様にも怖いものがあったんですね?」
などと言うものだから、姉小路は一つ咳払いして、
「やかましい。わらわは、ああいうのは苦手なのじゃ!」
と、庭に目を向ける。
お華は改めて、
「まあ姉様が、ご無事でなにより。今日はその事でお伺いしたのです」
と頭を下げる。
しかし姉小路は、
「何を大袈裟な。確かにわらわも驚いたが、それだけの事じゃ」
少々、冷たく言うのだが、これまでの地震の有様をお華に聞くと、姉小路は勿論、綾瀬も驚愕して、青い顔になってしまう。
「昨夜、お城のお上は吹上の茶屋まで、ご避難された様にございます」
「なんじゃと?」
姉小路は、些か慌て気味に、
「それでは、千代田の城は、崩壊したという事か?」
お華は首を振り、
「いえいえ、そこまで酷くはありません。恐らくお若い上様ですので、驚かれたのでしょう。それでは、お二方とも何もご存じではないのですか?」
二人は揃って頷く。
「実は、昨日の地震は、そりゃ大変な物でした。まず、本所・深川・浅草・下谷などは、崩壊の上、大火にございます。そしてお城の門から、両奉行所の間、いわゆる大名横丁と言われる所、そして西丸下のお屋敷も同じく、お曲輪の全て破壊、そして大炎上にございます」
姉小路もさすがに青い顔で、
「何と……西丸も」
言葉を逸している。
すると綾瀬が、
「それで、他は大丈夫なのか?」
と聞くのだが、お華は厳しい顔で首を振り、
「いえ、小川町から小石川も、同じく大被害。あそこは武士も多い所ですが、大変な状況。そして、小石川の水戸の上屋敷まで、同じ様に総崩れの大火で、なにやらご家老のお二人が圧死されたとの事。斉昭様はお助かりの様ですが、何でも屋敷内の茶屋にご避難との事にございます」
そう、この地震で、「水戸の両田」と言われる、
戸田忠太夫(蓬軒)、藤田誠之進(東湖)が圧死してしまった。
この事は、水戸の将来に暗雲が漂う事になる事件であった。
姉小路は退いたとはいえ、以前は大奥筆頭。
その事がどういう事かよく承知している。
「では、ご老中以下、全てと言う事か?」
しかしそれにもお華は首を振り、
「お命がということでしたら、ご老中の阿部様以下、お命は助かった様です。ただ、阿部様の奥方などは、落ちてきた瓦に腕をぶつけ、腕を折ってしまったりなさってますから、少し間違ったらご老中も大変な事になっていたでしょう」
「まあ~」
二人は、珍しく腕を組んで、難しい顔をしている。
そしてお華は、
「こんな有様でございますから、こちらは? と思いまして、駆け付けた次第にございます。しかし……」
とお華は口調が軽くなり、
「もうですね。桜田の井伊様あたりを過ぎますと、まるで別の江戸に来ている様な、穏やかさにございますから。こちらも綾瀬様のお顔をみて、先程まで有様が嘘の様です」
などと大笑いする。
しかし、姉小路は真面目な顔で、
「そういった事ならば、早速、お見舞いに行かねばなるまい」
と言ったのだが、お華がそれには首を振り、
「姉様。残念ながら今行っても、邪魔になるだけです。恐らく今、消火、棺桶の運搬、御家の方々も中屋敷などにお移りになっている事でしょう」
姉小路も、それは察した様で、
「そうだな。しかし、大奥の滝山に声をかけねば」
しかしお華は、
「恐らくそれも無理かと。そもそも姉様ご自身では到底、お城には上がれません」
それには姉小路も訝しげに、
「何故じゃ?」
お華は頷いて、
「はい。今も申し上げた通り、そもそも通行出来るかどうかわかりません。そして、第一、御門が殆ど使えません。大手は、下馬評横の酒井様のお屋敷が潰れ落ち、火災が酷く、近づけません。それは桜田も同じでございます。大体、ご門自体が崩れております。そして竹橋や田安門も同じく、あの長い多聞櫓なども堀に落ちている有様。唯一使えるとしたら、平川だけです。しかし、その平川も、その前がそんな有様ですから素直に通れるかどうか」
その言葉には綾瀬が、
「ひえ~」
と驚きの声を上げる。
お華は、冷静な声で、
「もし、どうしても行かれるとしても、今日明日は無理かと。姉様と言っても、御駕籠では通してくれないでしょう」
姉小路も、理解したようだ。しかし、
「なるほど。そなたの言う通りじゃ。しかしな、黙っている訳にもいかぬからの~」
するとお華は、
「それでは、滝山様にご書状をお出しすればよろしいのではないでしょうか。それならば、私が平川からお持ちします。さすがに一人であれば通れるでしょうから」
その提案には姉小路も、笑顔で頷き、
「そうじゃな。そうしてくれるとありがたい」
「はい。それなれば早ければ明日。遅くとも明後日にはお持ち致します」
それに頷いた、姉小路は頷いて、場所を文机に変え、墨を擦りだした。
すると、お華は綾瀬に、
「昨日の夜は、本当に驚きました。寝てると、いきなり身体が上に飛ばされるんです。敵襲か? なあんて思ったぐらいです」
笑うお華に、綾瀬も頷き、
「ここはそれ程では無かったが、確かに大変な揺れだったの~」
「とは言っても、屋敷や八丁堀も大した事は無かったので、一端は安心したのですけど、様子を見に神田川を超えたら、これがまた大変な有様で……。これは! とお城に向かったんです。ですが、日本橋や奉行所などは、それ程でも無かったので、安心した途端、今度は大名横丁です。地面が割れてるんですよ。あれには本当に肝を潰しました」
お華は、思い出しながら顔をしかめる。
そして、
「でも、不思議なんです」
綾瀬が難しい顔で、
「何がじゃ?」
聞くとお華は、
「何だか、計った様に潰れている所、大丈夫な所がハッキリしてまして。大地震っていうのは、ああいうもんなんでしょうか?」
と、綾瀬に聞くが、綾瀬も首を傾げる。
すると、姉小路が一時、筆を置き、お華に顔を向ける。
「お華。そなたは、江戸の城。誰が最初にお作りになったのか知っておるか?」
お華は、突然の質問で面食らったが、おでこに指を当て、天井を見詰める。
「あ! え~確か、太田道灌様というお方では?」
姉小路は、笑顔で頷き、
「そうじゃ。その後、権現様がご入城になった。しかし権現様は、ご入城なされてすぐ、川の掛け替え、埋め立てによる土地の拡張など、ご苦労され、江戸を作り替えなされて今がある」
「はい。それは、父より少々伺った事がございます」
姉小路は頷いて、
「今日、そなたが見た、潰れ燃えた所は全て、権現様が手をお入れなされたところなのじゃ」
それには、お華が驚き、
「お待ち下さい。それは一体どういう事なのでしょう」
姉小路も笑い。
「わらわも聞いた話だがな。例えば、大名小路」
「はい」
「あそこは元々海だった事、知っておるか?」
それにはお華は驚愕し、
「う、海? それは誠の事で?」
真剣な顔で、姉小路に問う。
姉小路は大きく頷き、
「あのな? 和田倉御門、あるじゃろ?」
「はい」
「和田倉御門の和田と言う言葉。これは昔の言葉で、海と言う意味なんじゃ」
お華の両目が大きく開く、
「海にございますか?」
「そうじゃ。そして日比谷御門の日々という言葉は、海苔を取る竹の道具の事を言うそうだ」
お華は仰け反り、
「へ~」
と驚き、それは綾瀬も一緒だった。
それから姉小路は、
「小石川も小川町も同じじゃ。川が付いているじゃろ? あれも元々川だった所じゃ。それを権現様が、埋め立てあのような町になされたのじゃ。全てその様な所が被害に遭っている。外国も来るこの難しい時に、地震で? いやお怒りで権現様のお心が現れたのかも知れんな」
「は~」
再び、姉小路は向き直り、筆を走らせる。
お華は、綾瀬の顔を見ながら、
「なるほど。そうお聞きすれば、納得できます」
と微笑み、そして、
「そう言えば、平川門も川がついております。ところがあそこだけ無事だったのです」
それには、姉小路も微笑んで、
「まあ、あそこは不浄門とされてきたからな。権現様も大奥の女達には特別にお許しになったのであろうよ」
などと言うから、お華と綾瀬は、
「なるほど!」
と大笑いしている。
さて、手紙を受け取り、お華が帰ると、綾瀬は姉小路に、
「結局一番に、心配して来てくれたのはお華でしたね~」
と呟くように、話しかけると、姉小路は微笑み、
「全く、可愛い子じゃ」
と、クスクス笑う。
(5)
お華は、姉小路の所を出た後、大川の方向に進み、新橋へ向かう。
亡くなった遠山金四郎の大奥様、けいの屋敷に向かう為だ。
ここ、そして周辺も大きな被害はなかった。
お華は、門番に挨拶して中に入り、教えられた庭の方に行くと、
なんと、庭に畳を敷いて、若君と母親。そして、けいを初め、女中達が座って茶を飲んでいたのだ。
お華が来た事に、気づいた、けいは嬉しそうな顔で正面に呼ぶ。
お華も和やかな顔で、若君、そしてその母君に深く礼をし、大奥様のけいに、
「これはこれは、大奥様。さすが北町奉行、遠山の金さんの奥様。こんな時でもお茶会ですか?」
と語りかけながら、深く頭を下げる。
さすがに、けいも大笑いして、
「そうかい? 旦那様らしいかの?」
お華は頷いて、
「桜にゃ些か早いですけど、さすがに、やることは粋にございますな~」
二人は勿論、聞いている女中連中も、笑顔になった。
けいはお華に、
「わざわざ、見舞い申し訳無いの~。そなたの事じゃ、色々、掴んできたのじゃろ?」
お華は笑顔で頷いたが、急に真面目な顔で、姉小路に報告した事を伝えた。
それには、皆、驚きの声を上げるぐらいだった。
「ここは、大した事は無かったが、お城がそんな事とは……驚きじゃ」
しかしお華は、
「しかし、新橋辺りからは、全く問題無かった様です。本に、ご無事で何よりにございます」
「そうか。まあ今、我が方で出来る事はないからの。若もまだ御役に付いてる訳ではないからの」
すると、その若君が、
「おばあさま。私はお城に行かなくても良いのですか?」
まだ十になったばかりの若君だが、地震の状況を聞いて、幼いながらも何かしなければと思っていたのかも知れない。
すると、お華が若君に身体を向け、
「これは若君様。お華にございます。しかし若君が今、焦ることはございません。それより、当代金四郎様として、どうかご立派になりなさいまし。勝負はこれからでございます」
それには、おけいと母君が顔を見合わせて、微笑む。
「お華、立派とはどういう事じゃ?」
と若君が聞くので、お華は頷いて、
「お爺さまは、剣術がお強かったので、よくお一人で町を見廻ってお出ででございました。若様も、明日辺りは家来をお連れになって、世間は地震でどうなってるのか、見学する事もよろしゅうございます。まあ、ただ……」
と、けいの顔に目をやり、
「とは言え、何事もほどほどに。あまり深入りすると、お爺さまみたいになりますから……。ね、大奥様?」
けいは大笑いして、
「そうじゃな。ほどほどが良い。ほどほどがな」
とまた笑う。
さて、そんな話をしたお華は、そこを辞すると、少しだけ伊達上屋敷を覗き、こちらも無事を確認すると、
「まあ、ここはサブちゃんもいるからな」
と思っていたが、正面大門まで来ると、バッタリその裕三郞と鉢合わせした。
「これは、お華さん!」
お華は笑って、
「別に訪ねて来たわけじゃ無いんだけど。それより、お屋敷が無事で良かったわね」
と言って、大門横で立ち話が始まった。
裕三郞は、
「おかげさまで、瓦が若干落ちた位で、特に大事にはなりませんでした」
笑って、頭を下げる。
「そう」
と言い、裕三郞が知らないだろうという情報を教えた。
案の定、裕三郞は大変驚いた顔で、
「もしかしたら、本所は?」
お華も裕三郞が、勝麟太郎の弟子だという事は知っていたので、
「うん。行けるなら、急いで行っておいた方がいいわよ。ちょっと御心配だから」
すると裕三郞が、
「埋め立てしたところが大変という話で、思い出しましたけど、何でも、品川の台場も、大変な事になってる様ですよ」
それはお華も驚いて、
「お台場?」
と少し考えて、
「そうね。あそこは最近の埋め立てた所。二百年以上前の埋め立て地が、大揺れに揺れてるんだもん。当然と言えば当然ね」
裕三郞も頷いて、
「いや、あの地震のすぐ後、そこに居た者は次々逃げ帰って来た様で、ここら辺の人々は、大層驚いた様です」
ちなみに、台場、特に第二砲台は会津藩が担当している砲台だが、地震の瞬間、屯所がめりめりと音を立て崩れ落ち、三十間(約54メートル)の天井板が落ちてしまった。
大勢が、埋まった状態になってしまった。
すると悪い事に、中で出火も始まってしまったのだ。
中からは助けを求める声や呻き声が響く。
外にいる連中としては、天井を壊せば救い出せるのだが、それは躊躇われた。
何故なら、そうすると火勢が大きくなってしまう。
そう。ここは砲台なのである。
側には火薬庫もある。
火が点いたら最後、台場一円吹っ飛んでしまう。
結局、泣く泣く見捨てて逃げたそうだ。
さらに余談だが、この折の会津藩は、踏んだり蹴ったりの目に遭わされた。
西丸下の屋敷、そしてこの台場の被害など、目を覆う有様だった。
しかも、会津藩は、そう遠くない将来。
京都でも、地元会津でも大変な事態に遭遇する事となる。
まったくもって、お気の毒としか言い様がない。
「それじゃ、私はお先に。本所に行ってきます」
と言って走り出す裕三郞に、
「本当にあそこも滅茶苦茶だって話だから、気を付けるのよ!」
お華は手を振って送ってやった。
さてお華自身は、大川は右に見ながら、永代橋を目指す。
心配していたが、永代橋も無事だった。
お華は、橋を渡るが、やはりいつもと違った人の往来が激しい。
橋を渡りながら、お華の気分は落ち込んでいく。
遠目からも、深川の破壊と火災の様子が見て取れる。
この時刻だから、火災は収まりかけているが、光を浴び始めた今では、その惨状がさらに良く分かってしまう。
加えて、何の希望も無く、会いに行くのだ。
まるで、半分、葬式にでも行くような気分だった。
橋を渡ったお華の、今日最後の目的は人を訪ねるのでは無い。
亡き父が残してくれた置屋に向かうのだ。
途中、町の橋が幾つか破壊されていたので、選び選び進んで行った。
そして、ようやく目的の場所に辿り着いた。
こんな時でも、その場所を間違える事は無い。
そして暗い気持ちでお華が顔を上げると、
なんと、置屋は焼ける事も倒れることも無く、いつもの様にそこにあったのだ。
しばらく、お華は暫くその姿を見詰め、何故だか涙が流れた。
段蔵が作ってくれた、二階建ての置屋。
「参ったな~」
と、涙ながら笑って近づいていった。
昔、本所の伊平に作って貰った鍵を、帯の間から取り出し開けた。
そこの空気が、お華の中に入って来る。
いつもと変わらなかった。
お華は気分も一転、早速上がり、障子を開けて、もう古い畳の上に座った。
左右を、優しい目で眺めながら、
「父上。無理しなくても良かったのに……」
と、また涙が零れる、それを袖で拭い。
「ありがとうね。父上……」
お華は立ち上がり、隅に置いてある箒で、部屋の掃き掃除をした後、
そこを出て、再び鍵を掛けた。
そして、
「お父上、お母上。ありがとうございました」
と、深く頭を下げ、踵を返しまた永代橋を目指した。
~後編につづく~
今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。
素直に時系列を重視し、今回は地震の話になりました。
さて、この地震。当時の人、酒屋の息子で西河岸町(現在の八重洲1丁目)で家主を務める男らしいのですが……。
「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四ツ谷、本郷、駒込辺りの高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし」(破窓の記・城東山人)
と書き残しています。
彼もお華と同じ様に、混乱の江戸を見て回ったのでしょうね。
確かに、自然の理と言うべき地震だと思います。
私たちは、関西・淡路や東日本大震災のおり、地震の恐ろしさと破壊力は、当事者以外でも、映像で知る時代になりました。
ただ、この頃の人達も、絵と文章で、地震の速報を伝える様になりました。
「安政見分誌」でデビューした、仮名垣魯文が有名です。
文中でも触れておりますが、この安政の地震は、まさしく首都直下型の地震でした。
申し訳無い事ながら、この地震の面白い所は、戦国時代における江戸を、破壊で再現してしまったというところでしょうか。
お華が住む辺りから新橋までは、江戸時代以前「前島」と言われる地帯で、鎌倉時代の資料に、鎌倉幕府に報告されている資料が残っています。
元々、島であるところと、家康によって埋め立てた所が如実に表された地震でした。改めて、違いが納得出来ました。
しかし、これはまだ前編。
地震の話はこれだけではすみません。
よろしければ、次回もお読み下さればありがたく存じます。




