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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
11/65

⑪ノックは夜中に

(1)


 嘉永六年六月(1853・7)

 お華とおみよは八丁堀の屋敷にいた。

 例によって、双子の面倒である。

 子供達は至って元気で、新之助はおさよにベッタリだったが、小春はお華の膝の上に座り、可愛い笑顔で胸や肩をぺしぺし叩いている。

 その様子をお華は、

「お前さん。笑顔でおばさん引っ叩いてるけど、それはちょっと怖いわよ」

 と、微笑みながら頭を撫でる。

 おさよが、

「お華ちゃんに、戦いを挑んでるみたいだわね」

 と笑顔で言ったが、お華は片頬を上げ、

「でも、まだまだお前じゃ敵わないよ」

 そも言葉には、おみよとおきみも大笑いする。

「よりによって姉さんだからな~。厳しいな」

 おみよも、小春に同情しながらも笑ってしまう。

 すると、

「そう言えばお華ちゃん。裕三郞さんに聞いたけど、伊達様のお屋敷で踊ったんだって?」

 お華は、笑いながら頷き、

「そう。おみよちゃんとね。もっともどちらかと言うと、ノブさんや亀が主役だけどね」

 おさよは驚き、

「え? 亀ちゃんも?」

「うん。見事に勧進帳やってくれたよ。ノブさんも、姉様やお殿様は大層喜んでくれてね」

 するとおみよが、

「私も手伝いましたけど、ああいう事が出来ちゃうんだから、驚きです」

 おさよは微笑み、

「なるほど。小春には、かなり高い山ね……」

 と大笑いだ。

 分かっているのかどうか不明だが、抱かれている小春は、眉を寄せ不機嫌な顔をしている。


 暫く立って、そこをお暇して、お華とおみよは深川方面に向かった。

 お華が、深川置屋の様子を見たいと言ったからだ。

「それじゃ姉さん。折角だから、富岡さんにお参りして帰りましょ」

 話が纏まった二人は、かつての置屋を確認し、続いて富岡八幡宮に足を運んだ。 芸者の時もそうだったように、脇の鳥居を潜ってお参りをした。

 些か長い祈りをしていたおみよに、

「おみよちゃん。長かったわね。何かあるの?」

 お華が笑いながら聞くと、おみよは、

「あのね、おじいちゃんですよ」

 それにはお華が驚いて、

「なに、じいちゃん、どこか悪いの?」

 と慌てて聞く。

 おじいちゃんと言うのは、本所に住む、鍛冶屋をやっているおみよの祖父の事だ。

 お華に取っては、昔からの知り合いだし、何よりお華の簪を作っている男だ。

 他人事ではない。

 しかし、おみよは、

「いえいえ、まだ元気ですけどね」

 笑って言い、

「ただ一人っきりですから、良いお弟子さんでも出来ると良いなと思いましてね。姉さんだって困るでしょ」

 お華は大いに頷き、

「そりゃそうよ。ま、でも仮に弟子が出来たからって言っても、じいちゃんぐらいの腕前でないと難しいけどね」

 それにはおみよも、微笑んで、

「そう言って頂けて嬉しいです。まあ簪はともかく、他の物ぐらいはって……」「そうね。確かに勿体ないわね~」

 そんな事を言い合いながら、帰ろうと正面の大鳥居に差し掛かった時、鳥居脇の石段に座り込んで、空をボーっと見ている男に、おみよが気が付いた。

 おみよは立ち止まって、横顔に首を捻り、

「あれ? 勘太ちゃんじゃないの?」

 と声を上げる。

 名を呼ばれた男がそちらを向くと、慌てて、パッと立ち上がる。

「これはおみよ姉さん、お華姉さん!」

 と、身体を一直線に深々と、いわゆる敬礼で頭を下げた。

 お華は、全く気付かなかったが、顔をジッと見て、

「かんた? あ~あん時の勘太ちゃんか~」

 途端に笑顔になり、大きくなったねと彼の腕をポンと叩いた。

 勘太は、

「お華姉さん。あの時はお救い頂き、ありがとうございました」

 と再び、深く頭を下げる。

 さすがにお華は苦笑し、

「もう、何年も前の事でしょ。でも、ホントに立派になったわね~」

 お華が助けてやったというのは、お華の敵討ちでの事だ。

 勘太は危うく、その仇に斬られるところだったが、お華の簪のおかげで着物を斬られただけで済み、両国まで、一緒に走って逃げた事があった。

「でも、あんた。何でこんな所で黄昏れてるのよ」

「は~」

 勘太は、困った様に頭に手をやる。

 その時、おみよが、お華の袖を軽く引っ張り、

「ねえ、姉さん。あそこの茶屋で一休みしながら聞きましょ。喉渇いちゃった」

 それには、お華も同意し、

「勘太。あんたも茶おごってやるから、一緒に来な」

 さすがにお華に言われると、断り切れない勘太であった。


 八幡宮脇の茶屋に座り、三人茶を飲んでいるとお華が、勘太に、

「あれ? あんた、亡くなった親分の伝手で、大工になったんじゃなかったっけ?」

 その言葉には、勘太も神妙な顔で、

「ええ。そうなんですけど……」

 と黙ってしまう。

 お華はその様子を見て、

「あんた。辞めちゃったの?」

 勘太は、小さく頷く。

 お華は、少し不機嫌な顔で、

「亡くなった親分がせっかく……」

 と言ったが、勘太は、

「それは本当に申し訳ないと思っています……。でも、そこの親方には付いていけません。気に入らない事があると、途端に殴る蹴るで、ちょっと道具を持って行くのが遅れただけで、それで頭を角材でブン殴るんですよ。おいらは、そういうのに耐えられなくなって辞めてしめいやした」

 お華とおみよもその言葉には、ため息を吐いてしまう。

 するとお華は少し姿勢を傾け、勘太の後頭部を見ると、大きな痣があちこち。

 そして、彼の髷を少し触るとそこにも。

 それに勘太は「うっ」と痛がる。

 お華は、驚いた。

「おみよちゃん。見てご覧。酷い有様よ」

 おみよも見て、顔をしかめ、

「勘ちゃん。大丈夫? ちゃんと歩ける?」

 彼女は多少経験があるので、表面より脳内部の異常を気にしていた。

 それだけ酷い状態だった。

「じゃ、身体も?」

 とお華が聞くと、勘太は頷き、

「そうなんです。でも、あっしは辞めましたから良いんですけど、心配なのはお袋で……」

「おかあちゃん?」

 お華の言葉に勘太は頷き、

「お袋は二年前から身体を壊しちまって動けないんです。妹が面倒見てますが、あっしが働かないと、薬代も払えませんから。これにどうすれば良いのか分からなくなりまして……」

 その言葉には、お華もおみよも顔を曇らせる。

 お華は、茶を飲みながら、

「なるほど……。親分が生きていれば、そいつもただじゃおかないところだけど、そういう奴は言うだけ無駄になりそうだしね」

 暫く三人は、俯きながら、黙って茶を飲んでいる。

 すると、おみよが何かに気が付いた様に、

「ねえ。勘ちゃん。大工だったって事は、何かをこしらえるのは今も好きって事?」

 それには勘太も頷いて、

「ええ。もともと親分にもそう言って大工を紹介して頂いたんです」

「じゃさ、勘ちゃん。鍛冶屋ってのはどう?」

 さすがに勘太は驚いて、

「え? 鍛冶屋ですか? 今まで考えた事がありませんよ。でも、それってどういう事です?」

 同時にお華が腿を叩く。

「そうか。じいちゃんか? それは良い考えね!」

 お華は、茶碗を脇に置いて、

「あのね勘太。鍛冶屋も色々で、お侍の刀を打つ鍛冶屋もあれば、家庭の包丁やハサミを作る鍛冶屋もあるのよ。おみよちゃんが言ってるのはそこの事」

「は~」

「いい。包丁やハサミなんてとか考えちゃ駄目よ。そこはね、もしかすると世間で一番の武器も作っているからさ」

 勘太は驚いた。

「ぶ、武器って、何を?」

 それにはおみよが大笑いした。

 しかしお華は真面目な顔で、

「あんただって憶えてるでしょう。これよ」

 自分の髪から、簪を引き抜いて、勘太の目の前に出す。

 それには、勘太もさすがに驚いた。

 そして彼にも、それが何を意味するのかよく分かっていた。

 なにより当事者である。

「姉さんの簪って、そこで作っていたんですか?」

 勘太は声を上げる。

 頷いたお華は、

「いい? そこは町民達の生活を支えているただの鍛冶屋だけど、世間の悪も退治するような鍛冶屋なのよ。この簪だけでなく、私の兄上の小柄や、姉上の小太刀もそこにお願いしているの。お上や大奥にも褒められるぐらいだから、凄い仕事だと思うよ。どう? そこで一番弟子になるってのは?」

 勘太は、嬉しげな表情になったが、

「そんなこと出来たら嬉しいけど……あっしはそんな修業したことないし、自信がありませんよ」

 一転、泣きそうな顔になる。

 しかし、お華は和やかに、

「あんた、十八だっけ? どんな仕事だって、最初は皆、素人。これからじゃ大変だってのも分かるけど、もう、そんな事言ってられないでしょ。母ちゃんの事もあるんだから。少なくても殴られて憶える仕事じゃない。どこまでもあんたの覚悟次第よ」

「そうですかね~」

「そう。そしてそこはね。このおみよのおじいちゃんがやってるのよ」

 それには「え!」と勘太は驚き、おみよの顔を見る。

 おみよは微笑んで頷く。

「私もそうだけど、おみよだって、鍛冶屋の孫から、芸者の道に進んで今じゃ三味線の名手とも言われている」

 おみよは笑いながら手を振り、

「ノブさんには敵いませんけどね」

 お華も笑って、

「あの人は特別。いずれにしてもまず。それが好きかどうかよ。好きこそものの上手なれって言うでしょ?」

 勘太は、大きく頷き。

「ありがとうございます。もし宜しければ、お願い致します」

 彼は彼なりに覚悟が決まった様である。

 お華は、自分の帯をパシンと叩き、

「よし。これで駒は揃った。おみよ! 後はじいちゃんだけだ」

 と、江戸っ子っぽく言い放ったが、おみよは、

「ハハ、それが一番大変なような気がするけどな~」

 何しろ、父が死んで以来、ずっと今まで一人でやってきた男だ。

 孫のおみよは、誰よりもそれを知っているから、少々不安顔だ。

 するとお華は、

「何言ってんの。嫌でもそうすんのよ。それが出来れば皆、幸せなんだから」

 さすがにそんなこと聞くと、勘太は途端に不安になる。

「大丈夫ですかぁ」

 と呟くが、お華は、

「あたしに任せなさい!」

 強気の発言。

 おみよは呆れ顔で、

「本当はそれが一番、不安なんだけどな~」

 小さな声で呟く。


 と、言う事で三人は早速、おみよの実家に向かった。

 本所相生町の長屋に住んでいる、鍛冶屋伊平の「伊平」と書かれた障子をお華が勢いよく開ける。

「こんちは、じいちゃん!」

 相変わらず、下を向いて、コツコツと仕事をしていた伊平は、その声に顔を上げ、

「おお、お華お嬢さん。ああ、おみよもか」

 笑顔で迎えてくれた。

 すると伊平は、少し渋い顔で、

「お嬢さん。簪はまだ三本ぐらいしか出来てねえよ」

 と言ったのだが、お華は首を振って笑い、

「じいちゃん。お華で良いわよ。でもね、今日はその事じゃないの」

 そう言って後ろを振り向き、

「あんたも入りなさい」

 と勘太を呼ぶ。

 勘太は、深くお辞儀しながら、伊平の作業場をしげしげと見回している。

「ここに座んなさい」

 お華が勘太に言うと、言われた通りお華の横の框に腰掛け、少し離れた框におみよも腰掛ける。

「勘太。おみよはね。幼い頃両親を流行病で亡くしてね。このじいちゃんが、当時まだ生きていた私の父におみよの事を頼まれてね。すると私の父は、当時まだ深川にあった置屋の女将さんに頼んでね。そうしてこの子は私の妹になったの」

「へ~。そうなんですか」

「まあ、この子も才能があったんだね。修業して立派な芸者になることができたのよ」

 その言葉には、伊平も真面目な顔で、

「本当に、亡くなった旦那様と女将さんには感謝していますよ。あっし一人じゃ、おみよを育てるなんて出来ゃしませんでしたから」

 感慨深く、お華に頭を下げる。

 そこでお華はニッっと笑い、

「そう言ってくれると、死んだ父も喜んでいると思うよ」

 すると伊平は、

「最近、柳橋の料理屋に包丁なんか届けに行くと、おみよの噂が出たりしてね。そんなに有名な芸者になったんだと喜んでいますよ」

「まあ、今やお大名の姫様にも三味を教えているくらいだからね……あれ?」

 お華は不審な顔をして、

「おみよちゃんは分かるけどさ、有名な芸者って、あたしの噂は無いの?」

 それには、伊平、おみよが下向いて笑ってしまっている。

 そして伊平は、

「お華さんの噂は、この辺の親分や、八丁堀の旦那からよく聞きますよ。柳橋にすんげえ強え、手裏剣使う芸者がいるって」

 それには、三人がまた大笑いだ。

 お華は納得いかないような顔で、

「何その、色気も何も無い話は……」

 伊平は笑いながら、

「その簪、あっしが作っているなんて、とてもとても言えませんよ。いっつも、浩太郎の若様と頭抱えています」

「全く、あのアホ兄上。碌な事言わないからな~」

 などと、少々怒っていたが、

「ま、わたしの事はいいわ。延々と続きそうだし」

と、少し背筋を伸ばし、お華は、

「今日は、じいちゃんに頼みがあって来たのよ」

「え? なんです? ちょっと怖いな」

 伊平は微笑む。

「うちの父上はおみよちゃんを、しっかり芸者に仕立てた。今度はおじいちゃんに、この勘太を弟子にして貰って、何とか一人前にして貰いたいのよ」

 お華と勘太は一緒に深く頭を下げる。

 むこうではおみよも頭を下げる。

 さすがに、それには伊平は、

「う~ん」

 と、腕を組んで考え込んでいる。

 お華は更に、

「この子は亡くなった蔵前の親分が紹介してくれた大工に一度は勤めたんだけど、ここが酷い奴でね、ほら!」

 と座っている勘太の頭の痣を見せて、

「こんなんばかりで、何にもなって無いのよ」

 それには伊平も大きく頷き、

「まあ、大工の棟梁ってのは、そういう奴が多いからな。あっしも若い頃、一度大工に修業に出たけど、散々だったからな」

 その話にはお華も驚き、いや、おみよも驚いて、

「なに、じいちゃんも大工になろうとしてたの?」

 伊平は頷いて、

「大工は、実入りが大きいからな。物作りが好きなら、誰でも一度は考えるよ」

 お華は、大きく頷いた。

 町人の仕事の中では大工が、一番収入が大きい。

 さらに、江戸では火事が多いから、その程度によってはうなぎ登りに大きくなる。

 するとお華は、

「それなら話が早い。じいちゃんと一緒よ。この子も物作りは好きだけど、殴られ続きで、肝心なことは何時までも教えて貰えない。それにこの子の家には病気の母親もいて、大変だって言うからさ。どうか、じいちゃんに助けて貰いたいのよ」

 すると、伊平は勘太に、

「おめえさん。別に殴りゃしねえが、見て分かるとおり、そうそう簡単に出来る仕事じゃねえ。その辺は我慢出来るかい?」

 それには勘太も、

「はい。あっしも後が無いって事は分かっています。そんなに腕があるのかどうかあっしにも今は自信がありませんが、何とか、親方の恥にならぬような物を作れればと考えています」

 お華が笑って、

「親方だってさ」

 それには、伊平とおみよも笑う。

 するとお華は、

「じいちゃん。おみよちゃんだって最初は、三味線や踊りが上手くなるとはじいちゃんだって、思って無かったでしょ? おみよは私と一緒に頑張って、ここまでなった。この子がどこまで行けるかわかんないけど、やってみないとわかんないからね」

 お華は、頭の簪を手に取り、

「この簪は私だけが使う物だから、別に良いけど、私とおみよが一番心配してるのは、じいちゃんの包丁やハサミを使う町家の女将さんや料理人連中が、今後どうするのかって事なのよ。他人に磨いで貰えば使えるかもしんないけど、全く別の物になっちゃうかも知れない。それなら、少なくても弟子と言える者がやってくれた方が、じいちゃんだって安心だし諦めも付く」

 その言葉には、伊平も頷いた。

「確かに。他の者に滅茶苦茶にされるよりは、弟子の方が良いよ。悪いのは自分という事になるからな」

 すると伊平は立ち上がり、部屋の隅の棚から二本の簪を持って来て、再び座った。

 そして伊平は、勘太に両手を上に向けて前に出す様に言った。

 勘太は少し驚きながらも言われるままに、伊平の前に手を出した。

 伊平は軽く頷き、一本ずつその手の上に載せ、

「どっちの簪が軽いと思う?」

 と勘太に聞いた。

 言ってみれば、弟子入り試験といったものだろうか? 

 外見は一緒だし、簡単そうではある。

 しかし、簪使いのお華に取っては、重さは大変重要な事。

 彼女の簪が常に一定の重さであることから、お華の思った通りの軌道描き、的に突き刺さる。

 だからお華にも、その意味が理解出来た。

 おみよは、心配そうに目を瞑っている勘太に目をやる。

 すると勘太は、意外に早く、

「軽い方ですよね。それならこちらです」

 と、その簪を上に上げた。

 すると、お華が勘太から簪を取り上げて、比べて笑顔になる。

「そうよ。こっちだわ! へ~分かるんだ」

 笑顔で言うと、勘太は頭を掻き、

「昔、シジミ獲りなんかやってまして、実がある無いで売ってた事がありましたから……」

 お華は驚いて、

「え? そんなもんでわかるの?」

 と大笑いしている。

 ちなみにシジミ獲りというのは、この頃、子供がやる、いわゆるアルバイトみたいな仕事で、子供ながら天秤棒を担ぎ、長屋の女将さんに売っていた。

 そういう仕事だったから、へたに大人がシジミ売りなどやっていると「子供の仕事を取って!」などと批判されたりしたものである。

 

 伊平も笑顔になり、

「うん。その通りだ。そうか、シジミ獲りか……気に入った。昔の経験をすぐに持ち出せるのは大事なことじゃ。明日から通いなさい」

 と伊平から弟子入り許可が出て、当人は勿論、お華やおみよも笑顔である。

 するとお華は、「勘太、見てなさい」

 と、その軽い方の簪を、奥にある箪笥の取っ手の輪っかに向けてそのまま打ち放った。勿論、その輪っかを殆ど揺らすこと無く、その中央に突き刺さった。

そして、今度は重い方を討つと、今度は輪っかの下の板に突き刺さる。

「わかる? 同じ様に打ってもこれだけ違うのよ」

 それには、おみよと勘太は驚いたが、伊平は笑って、

「お嬢さんは、昔からこんなことやって、あっしに怒るんだ。しかし、相変わらず見事なもんだね~」

 と感心する。

 するとお華は、

「そりゃそうよ。下手すると命の問題にもなるからね。でもね、勘ちゃん。これはどちらかというと、じいちゃん物好きでやってるようなもんだから……」

 伊平とお華は大笑いして、お華は、

「包丁とかハサミの方を一生懸命修業しなさい。良い物が出来れば、皆に喜んで貰えるからね。それにそっちをやった方が銭になるし、おっかさんの為にもね」

 おみよも頷いて、

「そうそう。じいちゃんは、姉さんの簪とか、奥様の小太刀まで作ったりして、包丁なんか二の次でさ。みんなお待ちになってる位だから、ほんとお願したいわよ」

 それには、伊平も苦笑して、頭を掻く。

 するとお華は伊平に、

「姉上なんかさ。せっかくお上から褒美で貰った、鎌倉時代の名刀より、じいちゃんの小太刀の方が良いって、あっちの父上に渡すぐらいでね」

 それには勘太が驚いて、

「う、上様のお刀ですか?」

「そうなのよ。まああれも結局は使い手の問題だとは思うんだけど……」

 それには伊平が嬉しそうに頷く。

「でもね、じいちゃん。あれだけ小太刀は神業みたいな人が、じいちゃんの包丁は、全然下手でさ。おみよの方がよっぽど上手いよ。兄上も私も不思議でしょうが無いんだよね」

 お華は笑い気味で言うと、伊平も笑顔で、

「あの方もお華さんと一緒で、それだけで修業されてるから、少し変わると駄目なんでしょう」

 すると勘太が、

「俺も、あの簪で守って貰った事があるから、出来るならつくってみてえ」

 と言うのだが、お華は手を振って、

「はは、そっちの方はじいちゃんに任せときな。あれは簪というより、手裏剣だからね。それより、本当の簪を作れるようになりなさい。その辺はじいちゃんが最も苦手とするところだから、あんたがじいちゃんを超えられるのはそこよ!」

 を、勘太を指差すと伊平も苦笑いして、

「お華さまには参ったな。まあ、そうかもしれねえ」

 おみよも、

「そうそう。姉さんの簪より、私やおっかさん、妹さんにして貰える物が良いよ」

 それにはお華が、おみよに、

「何言ってんの、そうなったら私も使うわよ。これでも一応芸者だからね」

 さすがにそれには皆、大笑いした。



(2)


 勘太の件が一段落すると、家を出て、お華とおみよは両国橋を渡って屋敷に帰る。 そして、我が家の大門まで来た時、二人は目の前に広がる光景に驚き、足が止まった。

 庭に、いかにも武家中間や駕籠の者達が、片膝付いて待ちの姿勢でいたからだ。

「な、何。誰が来てるの?」

 お華は、目をパチクリ。

 元々ここは、武家屋敷だから、その点を考えれば、それほどおかしくは無いのだが、しかし今はお華の屋敷である。

 そして何やら奥で、三味線の音が響いている。

 すると横の方から、優斎が笑顔で歩いて来た。 

「あ、先生!」

 二人は少し走って寄っていくと、優斎に、

「ね、ね。誰が来てるの?」

 お華が聞くと、優斎は、

「伊達家のお姫様ですよ」

 と笑って言った。

「え~!」

 お華は思わず声を上げてしまう。

「な、なんで姫様がここに?」

 それには優斎がニコッと笑い、

「お華さん。お屋敷でノブさんの演奏をお聴かせしたんだって? 大変お喜びの姫様は、是非とも教えを受けたいと、裕三郞がご案内していらっしゃったんだよ」

 おみよは少々呆れた顔で、

「なんだ。姉さんがどうぞご参考に。なんて言うからじゃないですか?」

 その言葉には、優斎も大きく頷く。

 お華の責任と言われて、肩を窄め、

「え~。そうは言ってもさ……」

 そこで早速お華は、待ってる家臣達の前に走って行って、

「皆さ~ん。突然の事で何もご用意していませんが、今、この子がお水を汲んできますので暫くお待ち下さい!」

 茶を用意したいところだが、さすがにこの人数分の湯飲みは無い。

 その者達も、お華が現れたので和やかに、口々に礼を言う。

 お華はおみよを走らせ、優斎と一緒に居間前に行くと、裕三郞が出てきた。

 姫は、ノブを前に、熱心に三味線を弾いている。

 その少し離れた横には、留守居役が同じく座って演奏を聴いている。

裕三郞を外に引っ張って、

「サブちゃん! 一体どういう事?」

 と小声で聞くと、裕三郞もおみよと同じ様に、呆れた顔で、

「お華さんが、参考にしろとか言うからですよ」

 それには、お華は苦笑して、

「私のせいだって言いたいんでしょ? もう、おみよちゃんから言われてるわよ」

 少々口を尖らせて、言い訳をしている。

 そしてお華は、

「ねえ。お殿様の御許可は頂いてるんでしょうね?」

 それには裕三郞が大きく頷き、

「殿様も、苦笑いで好きにせい! って。奥方様も大笑いでしたよ」

 お華も少し顔が綻び、優斎に向かって、

「ちょっと薬が効きすぎたかしら……」

「そりゃそうですよ。私らだってノブさんの三味は凄いって言ってるんですから、なんでも六段までやったらしいじゃないですか。そんなもん、あの世間を知らないお姫様がお聞きになったら、堪らなくなるのは分かるような気がします」

 裕三郞も頷きながら、

「あれにはお殿様も大変お喜びで、私も褒められましたよ」

 と笑う。


 おみよがおゆきと一緒に、家臣達に水を配っている。

 そして、しばらくするとやっと三味線の講義が終わった様だ。

 お華は早速居間に進み、一緒に聞いていたお吉の横に飛び込む様に座り、

「姫様! そしてお留守居様、大変遅れて申し訳ございません。わざわざのお越し誠にありがとうございます」

 と、平伏して声を掛けた。

 姫は和やかに、

「すまぬの~留守中」

「いえいえ、承知しておりましたら、色々ご用意しましたのに、誠に申し訳ありません。で、どうでございました? ご参考になりましたでしょうか?」

 それには、正面のノブも片付けの手が止まる。

 姫は嬉しそうに、

「ええ。楽しかったわよ。まだまだ、私ではとても届きませんけどね。それに久しぶりに外に出てきましたけど、それも何だか嬉しくて」

するとノブが、

「いや~。とてもお上手でした。さすがにおみよさんと一緒に、お稽古なさってただけはあります」

 それにはお華が、

「じゃ、今からでも芸者になれるぐらい?」

 と笑って聞くと、

「ええ。いつでもお華さんの代わりは出来ますよ」

 などと言うので、姫と留守居は笑って、外の裕三郞とおさよも大笑いした。

「もう私はお払い箱かい?」

 とお華も笑い、そして、

「そのくらいの出来だそうです。私は少し悔しいですが、仕方ありません」

 頭を下げる。

 すると姫は、

「お華さん、先生? またお伺いしてもよろしいかしら?」

 それにはお華は恐縮しながらも、

「さらに、私を抜きたいと?」

 と笑い、姫も首を振りながら笑う。

「ええ。でも、わざわざお出で頂くのも誠に申し訳無いことです。今後、おみよと一緒に十日に一度、ノブもお伺い致しますので、それでよろしいでしょうか?」

 姫は嬉しそうに頷き、お華はノブに、

「ノブさん。それでいいね?」

 と聞くと、ノブも大きく頷く。

 そして姫に、

「姫様。これとは別に、どこかお忍びでご招待致します。どうかお楽しみにしていて下さい」

 それには姫の笑顔が広がり、

「ほんとかえ?」

「ええ。留守居様。よろしいですよね」

 とお華が聞くと、留守居はちょっと苦笑いで、

「まあ、お華様が側に付くという事でしたら……」

 それには、裕三郞が青い顔して顔を背け、

「絶対、私も一緒だ……」

と頭を抱え、隣の優斎が大笑いする。


 こうして、留守居と裕三郞に伴われた一行は品川の上屋敷に帰っていった。

 それを見送りながら、お華は優斎に、

「姫のお身体は、もう心配ないのかしら?」

 と聞くと、優斎は頷き、

「良い傾向ですよ。家に閉じこもってばかりでは決して良くはなりません。ああやって、自分の好きな事に打ち込むようになったというのは、ご自分も身体に自信を持ったという事でもありますからね」

 お華は、横に居るおゆきの頭を撫でながら、

「そうよね。おゆきも頑張んないと、お姫様に置いていかれるよ」

 と言うと、なんとおゆきは生意気にも、

「え~、お華姉さんでしょ?」

 などと言うから、お華と優斎は大笑いしてしまった。



(3)

 

 さて、その日もようやく終わり、お華の屋敷もようやく布団に入る時刻となりつつあった。

 そう、子の刻ぐらい(22時頃)だろうか、その時であった。

「お華! お華! 起きてるか?」

 と、妙に切羽詰まった様な声が高らかに鳴り響いた。

 廊下の障子を開けて腰掛けて、刀の柄頭でコンコンと廊下を打つ。

 すると、寝間着のまま、目を擦りながらお華がフラフラ出てきて、

「誰! コンコン煩いわね~」

 と、しっかり目を開けると、

「ああ、兄上じゃない。何、一体どうしたの?」

 すると何かを思い出した様に、途端に目を大きく開き、

「まさか、あの子達に何か有ったの?」

 と、慌てた様に浩太郎の前に座る。

「いや。その事ではない」

 手を振り、少し笑みを浮かべる。

 すると、お華の後から、お吉ら他の女達も居間まで出てきた。

「若様。どうなされたのです?」

 彼女らも、丁度睡眠に入った様なところで、些か眠そうだ。

 おゆきに至っては、座ったもののお吉に寄りかかって、又寝てる。

「おお。皆起こして悪かったな」

 と浩太郎が謝った時、そこに、見習いのトクボン(早坂徳之介)が優斎を連れてきた。

 優斎も驚いた顔で、

「これは、浩太郎さん。一体どうしました」

 時刻も時刻だ。

 彼も既に床に入っていたのだろう。

 ところが、トクボンに叩き起こされた。

 浩太郎も居るからさすがに、目が覚めた様だ。

 すると、おみよが、

「この様な所では何でございます。皆様、中へ」

 言葉に、優斎達も上に上がり、円を描く様に座った。

 すると浩太郎は、皆に向かって、

「皆。何か大きな音とかしなかったか?」

 と、眉を顰めて聞いたが、一同、首を振る。しかし、おゆきは寝ている。

 お華が、首を傾げ、

「何それ。一体どういう事?」

 些か、不機嫌な様子で聞く。

 すると浩太郎が、優斎に向かって、

「先生! とうとう来やがった」

「え? 何がです?」

 と優斎は返事をするが、お華はますます不機嫌そうに、

「何よ、まどろっこしいわね。一体何なのよ」

 すると、

「お前だって、前に本所の先生に聞いたろ。アメリカだよ!」

 それにはさすがに、お華と優斎は驚愕する。

 優斎は慌て気味に、

「まさか。本当に来たんですか?」

 その言葉に、浩太郎は大きく頷く。

 他の女達は、全くと言って良い程分からないが、旗本、勝麟太郎の話を聞いていた二人には衝撃であった。


 そう。幕末実質的な始まりを告げる、ペリーの来航、いわゆる黒船来航である。

 マシュー・ペリー率いる、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、神奈川・浦賀に来港したのである。

 ペリー一行は、喜望峰回り、つまりアフリカ回りでの航海となった。

 当初、ペリーは、戦艦4隻を希望し、その内3隻は蒸気船でと希望していたが、しかし、本国はそれを却下し、

 蒸気船は蒸気外輪「ミシシッピ」と「サスケハナ」

 そして帆船「サラトガ」と「プリマス」の四隻となった。

 さらに武装は、大砲・計73門である。

 ペリー当人は不満であったかも知れないが、しかし当時の日本人にしてみれば充分、驚くべき様相であった。

 これまでもオランダなど他国船などその規模は、長崎奉行だった者を先頭に、幕閣内にも理解出来る者が居ただろうが、戦艦ともなるとそうはいかない。

 まして、一般の漁民など町民は、十石船などとは比較にならない大きさで、ましてや二隻は、蒸気外輪船である。

 さぞや恐れおののいた事だろう。

 とは言え、幕府側も黙っている訳にもいかない。

 浦賀奉行・戸田氏栄は旗艦サスケハナに使いをやり、来航の目的が、大統領親書を渡す事だとの情報を得た。

 アメリカ第13代大統領、ミラード・フィルモアの親書である。

 但し来航の、この時点での大統領は、既に14代フランクリン・ピアーズに移っている。

 

 さて当初、与力・中島三郎助が「副奉行」と称して受け取ろうとしたが、ペリー側に階級が低すぎると、拒否されてしまう。

 奉行所は、仕方無く他の与力を浦賀奉行(これも詐称なのだが……)として受け取ろうとしたが、これも拒否された。

 ペリーは、

「もっと高い身分の者でなければならない。拒否するのならば、海を北上し兵を率いて、将軍に手渡しする」

 などと、高圧的に言って来た。

 知らせを受けた幕府内は大混乱となった


 さて、やって来た浩太郎に、お華は、

「何か音って、大砲の音って事だったの?」

「そうだ」

 しかしお華は眉を寄せ、

「そんなもん。八丁堀で聞こえなきゃ、こっちに聞こえる訳ないでしょ!」

 優斎も少し笑って、

「まあ、そりゃそうですね。それで浩太郎さん。なんでここに?」

 浩太郎は頷いて、

「正に、その音の為さ。勝様にも、同心は町民を危険から遠ざける事しかやることは無いと言われてるからな。千代田周辺とこの辺から、品川辺りの同心連中は既に飛び出している」

 それにはお華が驚いて、

「えらく、手際が良いわね~。兄上が命令したの?」

 それには浩太郎も呆れた顔で、

「同心の俺が、命令なんて出来る訳ねえだろ。ただ、先生のお話を聞いた時から申し合わせはしていたんだ。しかし、本当に来るとはな……」

 優斎は大きく頷き、

「それは賢明な事と思います。被害は最小限にはなるでしょうから……」

 すると優斎は続けて、

「あの、裕三郞は?」

 それには浩太郎は頷いて、

「ああ、三郎さんには、上屋敷に急行し、事態を殿様にお伝えするよう言っといた。あと、本所の先生には、佐助にひとっ走り行って貰った」

 優斎は、浩太郎に深く頭を下げ、

「これは誠にありがとうございます。助かります」

 お華も、

「今日は、殿様のお姫様がここにいらっしゃって、三味線のお稽古をしてたのよ。危ない所だったわ」

 それには浩太郎やトクボンも驚き、

「姫様が? ここに? 困ったもんだな」

 と笑い出す。

 すると優斎が、

「浩太郎さん。すみません、話せるだけでいいのですが、一体、どういう状況なのです?」

 と、事の詳細を聞いた。

 浩太郎は真面目な顔で頷き、

「一応内緒となってるから、ここだけの話として聞いてくれ」

 みんな、心なしか姿勢が前に出る。

 そして浩太郎は、

「今回は何でも、四隻の大きいイクサブネらしいが、また浦賀に現れたらしい」

「四隻ですか!」

 優斎は驚いた。

「しかもな。いずれも大砲を相当数載せた船らしい」

 優斎は更に驚き、

「それじゃ、何時でも千代田に向けて砲撃できるって事ですか」

 女達は、全く想像がつかない。

 そもそもイクサブネ……いわゆる戦艦なんぞ見たことも聞いたことも無いから、首を捻るばかりだ。

「お奉行様のお話では、勿論、浦賀奉行所の者が侵入と止めているらしいが、その頭らしき男は、お上の責任ある者に親書を渡したいと言ってるそうだ」

 優斎は驚いて、

「親書って……私が聞いてる話じゃ、国が他国の代表に送るという手紙ですよね?」

「そうじゃ」

「本気も本気、戦いも辞さないって事ですか」

「そういうことじゃ。あの連中の一隻は、すぐ品川方面に囲いを破って侵入し、水深を測ってるように思われるらしい」

 優斎は大きく目を開けて、

「それじゃ、城に届く所はどこだって探している様なもんじゃないですか」

「その通りだ」

 と、浩太郎も大きく頷く。

 するとお華は、

「お城の方はどうなってるのかな。上様、どう判断なさるのかしら……」

 ところが、それには浩太郎も渋い顔で、

「残念ながら、上様は今、御不例(病気の事)なのじゃ」

 それには、お華が驚愕した。

「え~姉様は大したことないとか言ってたのに……」

 浩太郎もそれには苦笑いで、

「さすがに俺にも詳しい事はわからんよ。結局、老中の阿部様が対応する事になるだろう」

 それには、お華も視線を上に上げ、

「阿部様か……。どうなさるんだろ」

 と、小さな声で呟く。他の女達も不安げな顔だ。

 浩太郎は優斎に、

「先生。私は勝先生に町の者達を守れと言われたが、今、どうしたら良いだろう?」

 と意見を聞く。

 優斎は頭を下げ、

「私の意見でよろしいのですか?」

 頷く、浩太郎に、

「今、逃げろと言っても混乱するだけでしょう。実際、まだ何も起こっていませんから。ただ、町年寄・名主と自身番には、その旨伝えた方が良いと思います。いざという時に直ぐ動ける様に」

 浩太郎は笑みを浮かべ、

「やはり、そう思うか。よし、早坂!」

 早坂、つまりトクボンは「はっ」っと頷く。

「お前は、担当の自身番、そして親分連中にも、この事伝えろ。戦いが始まったらすぐ、皆を逃がせとな」

 すると、優斎は、

「あの、ちょっと」

 と早坂を止めて、

「恐らく、危険なのは品川あたりからお城までの間です。この直線が非常に重要です」

 それには早坂が、

「あ、大砲だからですか?」

 優斎は頷き、

「但し、それはとりあえずです。それより問題なのは火事です」

 浩太郎が首を捻り、

「火事ってどういうことだい?」

「浩太郎さん忘れましたか? 向こうの大砲の玉ってのは、爆発するみたいだって」

「あっ」

「大砲そのものは勿論、その後が大事です。ただでさえ江戸は火事が多い場所。こんな所にそんな物打ち込まれたら、明暦の火事並みの被害も考えられます」

 優斎は、本当に心配そうに言った。

 明暦の大火(明暦3年1657)は、死者十万人以上を出したとも言われる大火災。

 加えて、砲撃も伴えば、想像以上の惨状となるだろう。

 浩太郎も頷いて、

「よし。分かったな? 早坂行け。俺は町年寄の所に行ってくる」

 そう言って、浩太郎達は立ち上がったが、振り向いてお華に、

「お華。佐助がこちらに来たら、そう伝えてくれるか。そして、もし何か有ったら八丁堀に」

 お華も、真剣な顔で頷いて、

「分かった。そっちの方は任せておいて!」

 と言うと、浩太郎達は出掛けて行った。


 それを見送った女達、その中で、おみよが優斎に、

「先生。戦いになりそうなんですか?」

 ところが優斎は笑いながら、

「相手も余程の馬鹿じゃ無ければ、そんな事にはなりませんよ。どこまでも万一と言う事です」

 それにはお華が、

「先生、そりゃどういう事よ」

「だって、親書を持って来ていると言う事は、まずお話しましょうと言う事です。話を聞かずに断るなら、どうなるかと、今は脅している段階ですから……」

 それには、お華は少々不機嫌な顔で、

「何だか、悔しいね。脅されて話を聞けなんて」

 しかし優斎は、

「お華さんだって、黙って捕まらないと、簪が飛ぶよ! なんて言ってるでしょ。それと同じですよ」

 それには、お吉とおみよは大笑いした。

 お華もそれには苦笑いで、

「そう言うもんかな~」

「まずは、ご公儀がどうなさるのか。これが問題です」

「そうねぇ。でも、お上は御病気との事だし、大丈夫なのかしら」

 お華は心配そうな顔で、おみよを見る。

 するとおみよは、

「姉さん。近いうちに大奥をお伺いしたらどうです? 姉小路様はさすがにお忙しいでしょうけど、綾瀬様なら多少のお話はお伺い出来るでしょうから」

 お華もそれには大きく頷き、

「そうね。お話だけでも聞いとくか。兄上の助けになるかも知れないし……」

 優斎も微笑み、

「うん。それが良いですよ。分からない物に怯えてても仕方無いですし」

 

 御改革などという苦難とは違って、これまで全く経験した事の無い事態である。

 いやこの国の歴史上、初めての正念場とも言える。

 みんなそれ以上の言葉を失うが、小さなおゆきだけは、まだスヤスヤ寝てる。

 

(4)

 

 そのまま、朝を迎えたが然したる騒ぎもなく、朝を迎えた。

 すると、おさよとおきみが、子供達を抱え屋敷にやって来た。

 お華は笑いながら、

「なに姉上。避難してきたの?」

 と聞くと、おさよも笑い、

「旦那様がね、とりあえずここなら大砲も届かないだろうからって」

「あはは。兄上も大変ね~」

 するとおさよは、

「いやさ、父上や母上もそれがいい、それがいいって言うもんだからさ、仕方無く。悪いね、お邪魔して」

 それにはお華も手を振って、

「構わないわよ~」と笑い、抱かれてる小春と新之助に顔を向け、

「ここなら、一杯動けるよ。おゆきもいるし、ゆっくり遊んでいきな」

 と言ってると、早速、おゆきが飛んできて、

「きゃ~可愛い」

 などと上機嫌だ。

 彼女は昨夜しっかり眠っているので、とても元気である。

 お華は少々苦笑いで、

「あたしゃ、昨日寝てないのよ。姉上、おきみちゃん。後は適当に過ごしてね。あたしは寝るよ~」

 二人は大笑いして、居間に入って行った。

 子供達は、おゆきやサキなどに遊んで貰って、きゃきゃ言って喜び、

 そしてノブにも三味線を弾いて貰って、楽しく過ごしていた。


 そして翌日。

 お華は、さっそく朝から大奥に向かった。

 すると、途中の神田鍛冶町辺りの町家が並ぶ辺りで、瓦版売りのお兄さんが、

「さ~さ皆さん! お江戸は大変な事になったよ~」

 などと声を張り上げていた。

 お華は頭に手を当て、

(もう分かっちゃったの? 兄上が心配掛けない様に、夜中、駆け回ってたっていうのに)

 少々、渋い顔になったものの、そんな事は顔に出さず、瓦版を一枚買った。

 その瓦版には、

『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠られず』

 と、大きな文字で書かれてあった。

 これは現代でも有名な狂歌。

 勿論、浦賀のペリー来航の幕府の混乱を皮肉った句だが、「上喜撰」は宇治の高級茶と蒸気船を掛けて表している。

 機嫌の悪かったお華だったが、それを見て笑ってしまった。

(まさしくその通りだわ)

 さて、お華はそれを懐にしまい、城に向かう。

 平川の門番や七つ口では、さすがに普段と違って、何やら緊張感に包まれていた。

 お華は、目立たぬ様に通り抜け、大奥の長局向、姉小路の部屋の前に座った。

 やはり、部屋に居たのは綾瀬だけだった。

「おう、お華。よく来たな」

 と歓迎はしてくれるものの、些か疲れが感じられる。

 お華は平伏して、

「上様の御加減がお悪いとお聞き致しまして……」

「やはり、そうであったか」

 と綾瀬は頷き、

「ここ何日か、姉小路様は付きっきりじゃ」

 お華は小さく頷き、

「やはり、そうでございましたか。相当お悪いのですか?」

 綾瀬は、軽く首を振り、

「まだ、何ともな」

と言うと、逆に、

「そう言えば、昨日からお城が慌ただしいが、何かあったのかの?」

 なんと、綾瀬がお華に聞く。

 お華は驚いて、

「え? 何もお聞きでは無いのですか?」

 綾瀬は苦笑いで、

「上様のご病気で、大奥は混乱しているからな。何も聞いていないのじゃ」

 お華は、そういう事なのかと理解し、

「実は……」

 と黒船来航の話をした。

 さすがに綾瀬は、

「なんと!」

 大きく驚いた。そして少々苛立った顔で、

「こ、こんな時に、また厄介な事が……」

 綾瀬や姉小路の立場であれば、まさしくその通りだ。

 するとその時、ガラっと襖が開き姉小路が戻って来た。

「おう、お華」

 お華は慌てて平伏し、姉小路は力なく笑い正面に座った。

「これはお疲れのところ、押しかけまして誠に申し訳ありません」

 姉小路は微笑み、

「お前の事じゃ、黒船の事で来たんじゃろ?」

 お華は驚き、

「これは……。上様ご病気でお疲れのところに余計な事を。誠に申し訳ありません。しかし、それにしても姉様はご存じだったんでございますか?」

 それには姉小路が笑い、

「そりゃそうじゃ。上様がお休みになっているところに、次々、入れ替わり立ち替わりやってくるからの。ほれ、あの遠山殿のご子息」

「あ、金四郎様」

 遠山左衛門尉の息子・景纂の事である。この頃は西丸目付であった。

 姉小路は頷き、

「うん。あれが教えてくれたのじゃ。じゃが、大事には違いないが、今の上様にその様な事を聞いたところでどうしようも無いからな」

「なるほど。それではやはり阿部様が先頭に立って……っという事でしょうか?」

 姉小路は笑って、

「まあ、そうじゃろうな。しかし、大混乱じゃ」

 後に言う「会議は踊る。されど決まらず」といった有様だったのだろう。

 お華は腕を組み、

「姉様。実は我が兄、つまり奉行所の連中も混乱していまして。兄はとにかく町民を安全なところに避難させるという準備をしてはいますが、ご老中様などはやはり戦と考えておられるのでしょうか?」

 それには姉小路は満面笑顔で、

「んな事出来る訳なかろう。将軍様がご病気なのに勝手に戦など出来んわ、しかも戦える者など居るわけ無い。お華。お前が戦うか?」

 それにはお華も大笑いして、

「私もいざとなればと思っていたのですが、向こうの様子を知る者に言わせると、いくら簪打っても届きもしないと笑われております」

 三人は大笑いした。

 すると綾瀬が、

「町の様子はどうなんじゃ? やはり大騒ぎになっておるのか?」

 それにはお華は、少々呆れ気味に、懐から先程の紙を取り出し、

「これは町の瓦版でございます。どうぞご覧下さい」

 綾瀬はそれを受け取り、一目して、口に手を当て吹き出してしまった。

 さすがに姉小路が、

「なんじゃ、なんじゃ」

 と、渡された瓦版を見ると、彼女も大笑いして、

「上喜撰って宇治の茶か……。なかなか上手いもんじゃの」

 お華がまた受け取り、懐に入れると、

「町人というのは大したものにございます。何でも笑いにしてしまいますから」

 そして、お華は、姉小路に、

「姉様。まあ町人はともかく、この蒸気船というのはそれはとんでもない大砲を備えておりますようで、話が不調になり、戦いともなりますと、玉がこのお城まで届いてしまう様にございます」

 それには二人も驚き、姉小路は、

「なんと、それ程のものか」

 お華は頷き、

「なんでもその船は、どんどん隅田川を上って、品川辺りの水深を調べている様にございます。ここまで来ると、お城など木っ端微塵と言う者もおります。どうか姉様、間違っても戦など起こらぬよう、なんとか……」

 それには姉小路も頷いて、

「わかった。上様自らならまだしも、今はどうしようも無い。わらわからもそれとなく表に伝えよう」

 そして、姉小路はその時密かに、ある決心を固めていた。


 実は、ペリーはこの時、どうやら将軍が病気だった事を知っていたともいわれている。

 オランダからなのかどうかは定かでは無いが、あらゆる方面から情報を集めていたと言われている。

 従って彼は、多少強引でも、アメリカ有利に話が進められると踏んでいたのかも知れない。

 ということで、一回目の黒船騒動は揉めに揉めたものの、最終的には、筆頭老中・阿倍の、

「国書を受け取るだけなら、事を荒立てることもあるまい」

 の言葉を受け、最終的に決定となり、一行の久里浜上陸を認め、戸田氏栄と同じく浦賀奉行の井戸弘道に国書受け取りを命じた。

 余談ながら、この時浦賀には、大勢の見物人が集まったと言われている。

 中には、小舟で軍艦近くまで寄っていくなど、大変危険な事をやる者もいたという。

 そして、この見物人の中には、後に有名になる、佐久間象山や吉田松陰もいたようだ。

 

 さて結局、両者の話し合いは、将軍の病気であって、いますぐ何も決定できないとして、新書に対する返答は、一年待って欲しいとの返事を受け、ペリー側もそれを了承し、とりあえず決着が付いた。

 艦隊が香港に向け、再び出発する前。

 アメリカ独立記念日。祝・礼砲として数十発の空砲を撃った。

 これは、幕府側には事前に知らせがあったが、江戸まで響くその轟音は、町民達を震え上がらせた。

 しかしやがて、町民達にもこれが空砲だと分かると、今度は花火がわりで非常に喜んだという。

 しかし、お華の屋敷ではそうも行かない。

 お華と双子。そしてお吉やおゆきなどは頭に手をやり、驚愕していた。

「こ、これが大砲の音……」

 お華は、その恐ろしさに身が震えた。

 たまたま優斎のところに居た、裕三郞が慌てて出てきて、

「これは空打ちです! 玉は来ません。大丈夫です!」

 彼にはこれが独立記念日の祝砲だと分かっていた様だ。

 優斎に頼まれ、言いに来たのだ。

 だがお華は、

「品川よりもっと向こうの方から、こんな大きく聞こえるなんて……」

 と呟き、姉小路に願った事は間違いではなかったと微笑んで、胸を撫で下ろした。

 そして、珍しく、お華に抱きついて怖がる、小春の頭を優しく撫でてあげた。



~つづく~


今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。


「ノックは夜中に」はご存じ、メン・アット・ワークの曲から名付けました。

 日本史上歴史的な事件で、物語にも書きましたが、

浦賀に艦隊が着いたのが夕方五時、幕府内、そして世間に広がりだしたのがもう夜中ということもあり、ペリーだし丁度良いのでは? と思いまして……。


 後年の事になりますが、太平洋戦争敗戦の後、東京裁判において、陸軍中将だった石原莞爾は、

「ペリーをあの世から連れてこい! そしてこの法廷で裁け。日本に略奪的な帝国主義を教えたのは、アメリカ、イギリスの連中だ!」

 と叫んだという。

 私にも、大いにうなずける意見だと考えています。

 確かにこの行為は、脅しの外交以外の何物でも無く、この事は世間の者の心に残り、太平洋戦争引き金、遠因の一つになったとさえ思っています。

 ただ、当時の江戸町民は、怖がりながらも喜んでおり、まるで怪談芝居でも見るように盛り上がっていたと言うのだから笑ってしまいます。

 外国人に関して言えば、それまでもオランダ人が登城して将軍に拝謁しに、江戸に来てたのですから、全くの初めてでは無い筈ですけど……。

 

 さて一方で、この事件により、幕末動乱の役者達が揃い始めます。

 ただ、この小説は英雄伝説よりもお華伝説(笑)を描いておりますので、残念ながらそれほど主体では登場しません。

 しかし、嫌でも出さないと歴史的には抜けてしまう事態にもなりかねないので、今後、ちょこちょこ出てくると思います。

 ちなみに、今回、勝や佐久間象山や吉田松陰が出てきましたが、この頃、もう地元では、西郷や桂、そして坂本龍馬は江戸藩邸警備など、行動を開始している。

 正に幕末芝居の開幕と言っても良いでしょう。

 

 それでは、今回もお読み頂き、誠にありがとうございました。

 宜しければ、また次回もよろしくお願い致します。

 次回のテーマは、レクイエムです。

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