Missing Girls
どんっ!
鈍くてかつ軽い音とともに僕の背中に何かがぶつかった。
いろりちゃんは視界の向こうで、僕はそれをのんびり追いかけている。傍から見ればただのストーカー、変態行為だ。物騒なこの時間帯、当然周りには人がいないので気にする必要もないけれど。
いろりちゃんの周りにも誰もいない。それもこれも囮作戦のため。でも誰も何も動きはなくて、特に変わったこともない。せいぜい、ポイ捨てされているお菓子の袋がいくつか、風にあおられて転がっているのを見つけたくらいだ。
僕の心はすでに折れていて、鼻歌でも歌いながらゴミ拾いしてやろうかとか思っていた。だってほら、犯人が都合よく襲いにくるわけないから。いつまでも雰囲気に飲まれっぱなしでいる僕じゃない。実際歩き始めるとすぐに熱が冷めた。飲まれたら飲み返せ! と、意味不明なことを叫んでも、せいぜいいろりちゃんが振り返るくらいで、急に何かが起こったりはしないのだ。
現状把握が済んだところで冒頭の擬音語。
突然の衝撃に振り向くと、小さな女の子が頭をさすっていた。小学校の低学年くらいかな。愛嬌のある顔は相応の幼さを感じさせ……簡単に言うととても可愛い。理性を圧縮してギュウギュウに詰め込んだような理性人間であるこの僕でさえ、気を緩めると抱き上げて頬ずりしてしまいそうだ。
肉食の獰猛な動物や、毒のある禍々しい色合いの動物だって、子どもは皆可愛い。人だって動物だ。子どもがいれば護りたくなるし、育てたくなる。子どもを可愛いと思うのは、種の存続のための立派な本能なんだろうな。とかなんとか言い訳しつつ。
しかし僕の理性の強さは、僕に頬ずりすることを許さなかった。頬ずりしたかった。
代わりに、しゃがんで視線を合わせ、女の子に質問した。どうだこのお兄さん対応。などとドヤ顔して見せる相手はどこにもいないけれど。
「どうしたのかな?」
「…………」
黙って見つめられた。じっと。ずっと。不審がってるとか、怖がってるとか、そういう目じゃない。僕の顔の、皮膚の裏側を見るような、ただ見ているだけのような、そんな視線だ。僕を「僕の形をした物体」であるかのように眺め、観察している。
なんだこれ……。
僕は逸らしてしまいそうになる視線を、必死で合わせ続ける。
「キミは……どこから、来たのかな……?」
「…………」
やっと出てきた僕の質問も、完全に無視している。
不気味だ。
子どもらしくない。
こんなに可愛らしい顔をしているのに、笑わないだなんて。
と、耐えられなくなって視線を外し、腰を上げると。
「……のこ」
女の子がやっと口を開いた。
「……え?」
「のこ。のこの名前」
顔を上げて、にひ、と笑う。やっと笑った。
のこ、か。それにどういう由来があるにしろ、可愛い名前だと思う。さっきまでの色のない表情が、余計に笑顔の可愛らしさを意識させた。
さっきまでの『らしくない』顔が幻だったかのようだ。
ともあれ、周りに保護者らしき人影もないし、陽も落ちた。通り魔の件もあるし、一人にさせるのはまずいだろう。
「のこちゃんは、どこから来たのかな?」
先ほど空振った質問をもう一度してみる。
「んー、んー? あっち」
彼女が指したのは学校がある方、というかその道。つまりは、……単にどの道から来たのかを説明しただけのようだ……。
「えーっと、お家はどこ?」
「のこの?」
「うん、のこちゃんの」
「わかんない」
嬉しそうに言う。……何が嬉しいのだろう。さっきの表情といい、この子はいろいろ変だ。
迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのお家はどこですか? 犬のお巡りさんに預けた方がいいのかな。一番は家に返してあげることだけれど、当の本人がこれじゃどうしようもない。
「にゃんにゃんにゃにゃーん」
ふむ。少なくとも迷子だという自覚があるみたいだから大丈夫かな。賢い子で何より。
さて、そんな経緯で迷子の女の子を交番に連れて行くことにしたのだけれど。
「……しまった」
僕がのこちゃんと話している間にいろりちゃんは帰宅路の先の方まで進んでしまったようで、周辺を捜しても見つからず、いわゆる「目標をロスト」してしまった状態らしい。
非常に困ったことになった。僕はケータイを持っていない。連絡を取るには家に帰るか、住宅街ですっかり見ることのなくなった公衆電話を探すしかない。
本来この囮作戦はいろりちゃんを僕が護衛することで成り立っている。そして今二人は離れ離れであり、互いに互いの位置を認識していない。最悪いろりちゃんは僕がついてきていないことに気づいていない可能性もある。
もちろん僕はこんな作戦が成功するなんて思っていなかったけれど、それは都合よく犯人が引っかかるわけがないという考えからで、決していろりちゃんを守るという意味での失敗を考慮してのことではなかったのだ。
やはり、この作戦は全力で止めるべきだったか。僕は今更ながらいろりちゃんの口車にまんまと乗せられた事を後悔した。
とにかく、
「いろりちゃんを追わないと」
「んー?」
僕の焦り混じりの独り言に、のこちゃんが小首を傾げて反応した。手を引っ張って走るにしても、負ぶって走るにしても、小さい子には危ないだろう。無邪気な荷物が一番厄介だった。
いろりちゃんの帰宅路は徒歩の場合30分余りかかる距離で、この場所はおよそその中間点。一番近い交番は10分ほど引き返した場所にある。どちらの方が速いかなんて考えている暇もない。僕はのこちゃんを負ぶってできるだけ体を揺らさないように走りだした。
慣れない運動をしたせいか、いろりちゃんの家に着く頃にはくたくたになっていた。のこちゃんは終始楽しそうだったけれど。
時間帯のせいか、道中は誰とも遭遇しなかった。暗いとはいえ住宅街、人影を見逃すはずはない。けれどいろりちゃんは見つからなかった。そんなに長く留まっていたわけでもないのに追いつけなかった。不安が募る。
負ぶっていた少女を下ろして静かにさせる。息を整えるために深呼吸を数回。それでもインターホンを押す僕の指は、少し震えていた。ベルの音が鳴り、数秒、小母さんの少し慌てたような返事があった。
「篝火です、爐さんはいますか?」
まだ辛うじて見栄を張るだけの余裕が残っていた。でも、返ってきた答えは、
『守時くん? それがまだなの……連絡もつかないし』
その余裕を奪い去ってしまった。
Missing Girls
迷子