31.鬼同期と二日目
週明け、私は「紫月のことを名前で呼ばないように気をつけなきゃ」とか「顔を見たらニヤけちゃうかも」なんてのんきなことを考えながら出社したけど、普通にめっちゃ忙しくて、それどころじゃなかった。
「立花、印刷できた?」
「できてます。こちらです」
「サンキュ」
朝礼が終わると客先に向かう丹沢先輩を見送って、メールをチェックした。紫くんから届いていた資料の確認をして送り返したり、戸部先輩が作り直してくれたマニュアルのレビューをしたり。
紫月のほうも課長とあれこれ相談したり、その結果を私や秦野ちゃんに展開したりと忙しくて、カレカノ的雰囲気は皆無だった。
でも、それは仕事中の話だ。
昼過ぎ、なんとか一段落ついて給湯室に向かったら、紫月がいた。入口近くには秦野ちゃんもいて、私が顔を出すと紫月がすぐに気づいて声を上げた。
「あ、立花」
秦野ちゃんもパッと振り向く。
「立花先輩! お疲れさまです。今から昼ですか?」
「う、うん。秦野ちゃんも?」
「いえ、私は昼を終えたところです。今から紫くんと外出てきます」
「行ってらっしゃい」
「あざっす!」
秦野ちゃんを見送って振り返ると、紫月が焦った顔で近寄ってきた。
「違うからな!? 弁当美味しいって言ってもらえたっていうただの報告だからな!?」
「だ、だいじょぶだよ。……長谷川のこと、信用してるから」
あまりの勢いについ吹き出すと、紫月も顔を緩めた。
「……そ、そっか。悪い、また泣かせたらと思うと気が気じゃなくて」
「大丈夫だよ。お昼食べよう」
「おう」
冷蔵庫に入れておいたお弁当を出してきて温める。
営業部に戻って私の席で並んで食べていたら、戸部先輩がひょいと覗き込んできた。
「あら、長谷川くん頑張ったわね」
「はい、頑張りました」
「丹沢くんにバラしていい?」
「それは勘弁してください」
「なに?」
「いや、立花は気にしなくていいから」
戸部先輩と紫月の二人にそう言われると気になるけど、まあ、いいか。
戸部先輩はすでに昼を終えていて、のんびり本を読んでいる。本の裏表紙には図書館のシールが貼ってあった。
「……私も図書館で料理の本を借りてくればいいのかな」
「止めとけ」
「なんで」
「汚すだろ。ていうか、基礎の基礎みたいな本なら自分で買って、書き込みしたり付箋貼ったりしながらボロボロになるまで使い込んだ方がいい」
そういうものなのかと頷いていたら、戸部先輩も本から顔を上げた。
「ついに立花さんも料理する気になった?」
「ほんのちょっと。料理ができたら、自分の食べたいものを好きなときに食べられるって気がついたんですよ」
「なるほど。でもそれなら、長谷川くんの言うとおり買った方がいいと思うわね。おすすめはきょうの料理ビギナーズ」
紫月の部屋で見せてもらった、おばあちゃんが解説してるやつだ。
二人とも勧めてくれるなら、帰りに買ってみようかなあ。
「何がいいって、テキストが大きくて見やすいし、大さじ小さじの量も全部書いてある。それに毎月発行してるから、旬の野菜や魚を取り扱っててスーパーで安く買える」
「な、なるほど? じゃあ帰りに本屋さん行ってみます!」
長谷川も隣で何度も大きく頷いているし、間違いなさそうだ。
その後も二人からおすすめの料理本を教えてもらいながら昼を終えた。
……でも、帰りに本屋には行けなかった。
本屋が開いている時間に帰れなかったからだ。
「ぐう、終わったけど、本屋やってない……」
悲しい。紫月の方もまだまだ帰れそうにないし。
パソコンを閉じて立ち上がった瞬間、スマホが震えた。
表示されているのは紫月の名前だ。
『おつかれ。気をつけて帰れよ』
紫月の方を見たら、向こうもなんとも言えない顔で頷いていたから、さっさと帰ろう。
途中でスーパーに寄って、今度こそ海苔とラップを買った。ついでに鮭フレークとふりかけも。
帰ってすぐにごはんを炊いて、その間に風呂と洗濯を済ませる。
洗濯を干したところでごはんが炊けたから、全部おにぎりにした。
二つほどお弁当箱に詰めて、今食べる分以外は冷蔵庫に入れておく。冷凍唐揚げを温めて、半分はお弁当箱に入れて残りはおにぎりと食べる。
「……野菜も食べたいんだけどなあ」
でも帰ってから野菜を切るのが面倒だ。
おにぎりを食べながらスマホで調べていたら、カット野菜に行き当たった。ドレッシングをかけてもいいし、浅漬けの素に漬けてもいいらしい。袋を開けるだけで食べられるのはかなり魅力的だ。てことはきっと、酢の物の素に漬けてもいいんだろう。よし、明日買ってこよう。その流れで海藻サラダなる乾物も発見したから、それも明日探してみよう。
ふと思い立って、目の前に残っていたおにぎりと唐揚げの写真を撮った。
紫月に送ると、一瞬で既読がついて、電話がかかってきた。
『俺にも食わせて』
「いいけど、今どこにいるの?」
『美颯の部屋の前』
「ちょ、待って、開ける」
慌てて部屋のドアを開けたら、くたびれた様子の紫月がスーツ姿のまま立っていた。
「何リカちゃんみたいなことしてるのさ」
「リカちゃん?」
「そういう怪談。おにぎりいくつ?」
「三つ」
「わかった。温めておくから、シャワー浴びておいで。唐揚げは?」
「五個」
「任せといて」
紫月が自分の部屋に戻ったのを見送って、冷蔵庫からおにぎりと唐揚げを出してくる。それぞれ温めて、自分の晩ごはんの残りを食べ終えたところでスマホが震えた。準備ができたらしいので、皿を持って紫月の部屋に向かった。
「へい、お待ち」
「やばい、めっちゃ嬉しい。味噌汁いる? レトルトだけど」
「いる」
向かい合ってごはんを食べながら、紫月の愚痴を聞いた。
一緒に担当している料亭の案件で、私が帰った後にひと悶着あったらしい。
「本当にさあ! 今! 言うな!!」
「まあ、あるあるっちゃあ、あるあるだけどね。明日手土産持ってお伺いしようね」
「悪いな、巻き込んで」
「はあ? 私も担当ですけど?」
「そうだった。頼もしいなあ」
「そうかなあ」
今のところ、特に何もできてないんだけど。
「完璧な資料を用意してくれて、愚痴れば聞いてくれて、一緒に立ち向かってくれて、疲れて帰ったら温かいおにぎりを出してくれる。頼もしい以外のなんなんだよ」
「酔ってんの?」
「飲んでねえよ、感謝してるんだ」
「ふふ、ありがと」
「そういうとこだよ!」
紫月はおにぎりと唐揚げ、味噌汁をペロッと平らげると、食器を片付け始めた。
食べ終わったらすぐに片付けて偉いなあ。私なんか、シンクに皿は置きっぱなしだし、炊飯器もそのまんまだし。
「じゃあ、私台所散らかしっぱなしだから帰るね」
「悪い、急に呼び出したから」
「ううん、頼ってくれて嬉しかったよ。また明日ね」
「……送る」
玄関で靴を履いたけど、紫月はドアに手をついたまま開けなかった。何かと思って振り返ると、紫月は困ったような顔で私をじっと見ていた。
「どしたの?」
「あのさ……一分で良いので、抱きしめさせていただいてもいいでしょうか」
「いいけど、なんで敬語?」
「美颯がどういう反応するかわかんなくて緊張してる」
「ウケる。いいよ」
腕を広げたら、思った以上の勢いで抱きしめられた。
すごい。力が強くて、全然抜け出せない。
そっと手を伸ばして紫月の背中に手を添えた。温かくて広い背中だ。
私の方が、一分なんかじゃ全然足りなくて、思わずしがみついてしまう。
「……ごめん、一分で止められなかった」
そう紫月が言って、体が離れたのはどれくらい時間が経ってからだろう。
「ううん。大丈夫。私も離れられなかった。なんかすごいねえ。お腹のあたりが温かくなった。またしてね」
「するよ。いくらでもする。でも今日はこれで終わりにさせて。帰せなくなるから」
「……うん」
部屋の前まで送ってもらって、今日はそれ以上何も言わずに分かれた。
帰れなくなるのは私も同じだったから。
「はー……ヤバいな」
急いで台所に向かって片付けを始めた。
そうしないと、なんにも手がつかなくなりそうだった。
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