28.鬼同期と暗い部屋
壁の向こうから音が聞こえなくなってから、私も靴を脱いだ。靴が落ちる音がやけに響く。
さっきまで隣に紫月がいたのに、一人になった途端、いつもの部屋が急に広く感じた。
エアコンをつけてぽつんと立っていると、急に肌寒くなってきた。カバンを置いて風呂場に向かう。
いつもはシャワーで済ませるけど、今日はゆっくりしたいから、服を脱ぐ間に浴槽にお湯を溜めた。
体をさっと洗って湯船に浸かると、温かさが身に沁みた。……なのに、なんとなく手のひらの方が温かい気がする。
手をグーパーした。
紫月の手、大きかったな。
そりゃ男の人だから、私より大きくて当たり前なんだけどさ。
「俺さ、美颯の『いいよ』に救われたんだ」
さっき、手をつなぐ前に紫月が言っていた言葉がふと浮かんだ。
私が「いいよ」と仕事を引き受けるのは、別に特別なことじゃない。誰にだってそうしているし、できることはするけど、できなければ全然断ることだってある。
だからそれが誰かにとっての「救い」になるだなんて、想像したこともなかった。
でも、悪くない。そう感じていること自体、意外だけど……紫月があんな真剣な顔をしていたのも、その顔を引き出したのが私だったことも……ダメだ、落ち着かない。
いつの間にか長風呂してしまって、のぼせそうになってきたから、風呂から上がった。
パジャマにしているシャツとハーフパンツを着て、髪を乾かす。
タオルを頭に乗せたままスマホを手にして、紫月の名前に触れた。
「おやすみ」と打って、少し考えてから消す。
いや、さっき口で言ったし。何してるんだ、私は。ついスマホを見て、通知が来ていないか確認しちゃう。何も送ってないんだから、連絡なんて来るわけないのに。
スマホをベッドに投げて、台所に向かった。
水を飲んで、台所を眺める。
ここ半年で、ずいぶんものが増えた。紫月に言われて買った弁当箱代わりの容器、調味料、お皿やカトラリー。
冷蔵庫にはお米と調味料が入っている。かわりにお酒はずいぶん減った。残ってるのは親が送ってくれたいいワインくらいだ。
そういえば、紫月はあんまり飲まないんだっけ。ちょっと残念。でも、このワインに合うもの作ってって言えば、はりきって美味しいものを作ってくれそうだ。せっかくだから、ワイングラスは二脚用意しようかな……いや、気が早いか。まだ誘ってもいないし、ワイン好きかも聞いてない。
なんか私、冷蔵庫の中身を紫月と一緒に食べる前提で考えてる。さっき付きあおうかって話になったばかりなのに。
冷蔵庫を閉めて、頭に乗ったままだったタオルを洗濯機に突っ込んだ。カバンに入れっぱなしにしていた、紫月に借りたハンカチも一緒に入れようとして手を止めた。
顔を寄せると、私が使っている洗剤とは違う匂いがふわりとした。
***
洗面所で歯を磨いていたら、鏡に映る自分の顔がすごく緩んでいた。
そういえば、酢の物の素を明日買いに行こうって話したっけ。じゃあ起きたら連絡してみようかな。
酢の物と、あと何を作ろうか。
私でも作れそうなものを、また一緒に作りたいな。
今度またグランピングに行くなら、キャンプメニューも聞いてみたいな。料理の話をする紫月は楽しそうだから。
うがいをして歯ブラシとコップを片付けた。
部屋の明かりを消してベッドに転がった。
シーツがエアコンの風を浴びてひんやりしている。
もう一度スマホを見たけど、なんの通知も来ていなかった。充電器に繋いで伏せておく。
私もベッドに突っ伏して、枕に顔を埋めた。
暗い中でウトウトしていると、どうしても今日あったことが頭に浮かんでしまう。
泣いた顔を拭ってくれたハンカチ。繋いだ大きな手。別れ際のひんやりした空気感。
あの手は、安心したな。
触れたのはグランピングのアスレチックで手を貸した時と、今日の散歩の二回だけで、どっちも三十分もなかったけど。
あんなちょっとしか繋いでいなかった手の温度のことを、私は眠る直前まで考えていた。
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