27.鬼同期とドアの閉まる音
食事を終えて、お会計ではやっぱり払わせてもらえなかった。紫月の背中を眺めながら待っていたけど、やたらと広く見えて、なんだか変な感じ。
いい笑顔の女将さんに見送られて店を出た。
「あのさ、足、大丈夫?」
駅に向かおうとしたら、紫月に呼び止められた。
「足?」
「うん。ここからなら歩いて三十分くらいで帰れるから、ちょっと落ち着くためにも少し歩きたくて」
「いいよ、大丈夫」
紫月はふっと息を吐いてから目を細めて、「こっち」と歩き出した。
……紫月は、私が想像していた以上に緊張していたらしい。つい見つめたら、困った顔で逸らされた。
夏の終わりの風は少し冷たかったけど、街の熱がまだ残っていて、歩いていれば気になるほどじゃない。
大通り沿いを、二人で触れるか触れないかの距離を保ちながら、いつもよりゆっくり歩いた。
信号で立ち止まったとき、紫月が小さく口を開いた。
「俺さ、美颯の『いいよ』に救われたんだ」
「いいよ?」
見上げた彼は前を見ていた。でもその瞳は信号じゃなく、もっと遠くの何かを見ていた。
「今まで仕事って、どんなに大変でもしんどくても一人で頑張るもんだと思ってたんだけどさ。引っ越して、美颯に言われて『あー、頼ってもいいんだ』って気付いたら、すごい息がしやすくなったんだ」
「……そんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃない」
そんな大したことをした覚えはないのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
紫月の手の甲が私の手の甲に触れた。
真剣な眼差しが、私を見下ろしている。
火照った指先が、汗ばんだ私の手のひらを掴んだ。
指を広げると、節くれ立った指が絡んできた。
「紫月」
「うん」
「一緒に帰ろ」
絡んだ指を握った。返事はなかったけど、私よりずっと強い力で握り返された。
信号が変わって、また歩き出そうとしたら、肩があたった。
「悪い」
「大丈夫」
紫月の横を自転車が風を切ってすり抜ける。手を、ちょっと強く握り返した。
***
――長谷川紫月は苦手な同期だった。
辛辣で、言葉がキツくて、仕事ができて偉い人たちからの覚えがいいから、なかなか言葉遣いを指摘できなかった。
でも実際は家庭的で、料理が得意で、面倒見もいい。気付けば私は生活を立て直されて、ごはんを食べさせられて、実家にまで連れて行かれて……。
顔を上げたら長谷川がこっちを見ていた。下がった目尻と緩んだ口元が、何も言わないのに雄弁で、ああもう恥ずかしい。
「なにくねくねしてるんだ」
「や、なんか恥ずかしくて」
「何が?」
「この状況が」
「嫌?」
「ううん。ぜんぜん」
そう答えたら、紫月が吹き出した。
なんなのさ。
「俺、美颯のそういう潔いところ、すごく好き」
「そっ、そうかな……」
目を逸らして歩くけど、逆に紫月の声が耳元で聞こえるようになっちゃってそわそわして仕方ない。
「うん。好き」
さっき手加減してって言ったのに!!
でも、できないって言われたね……。
紫月を見上げたら、街灯に照らされた顔で、やっぱり目を細めて私を見ていて、もうって感じ。
「危ないから前向きなよ」
「さっきから百面相してて、面白いからさ」
「面白い言うなし」
「なら、かわいい」
「もー!」
恥ずかしいから早足で歩いた。
手は繋いだままだから、紫月も当たり前みたいについてきてるんだけどさ。
「美颯って誕生日いつ?」
紫月が「そういえば」とこちらを見た。
「六月」
「過ぎてるじゃねえか」
「そっちは?」
「一月。俺ら、同期なのにそんなことも知らないんだよなあ」
「入社してから部署も一緒なのにね」
「本当だよ。だから、美颯のこと教えてくれ」
「うん。私にも紫月のことたくさん教えてね」
途中でコンビニに寄ってコーヒーを買い、空を見上げたら星がたくさん見えた。ぼんやり眺めていたら、紫月が隣に並んで同じように空を見上げた。
「さっきの返事さ、勢いとかじゃないよな?」
「どうだろう」
紫月がギョッとした顔で私を見た。
いや、そういう意味じゃないんだけど。
「あのね、私、結婚とか考えたことなくてさ。だから親云々は流れで言っちゃったんだけど、でも紫月がそうしたいって言うなら、私もちゃんと考えるよ」
「……そっか」
また手が重なって、私たちはゆっくり歩き出した。
そんな話をしながら歩いているうちに、マンションの最寄り駅までやってきた。
「遅くなっちゃったなあ」
「そうだな。スーパー閉まってる」
「酢の物の素、買い損ねた……」
「また明日来ればいいじゃん。休みだし」
「そうだねえ。一緒にキュウリとワカメも買おう。他におすすめある?」
「この時期ならミョウガもありだな」
「天才じゃん」
スーパーを過ぎて、コンビニも過ぎて、もうすぐマンションに着く。
疲れたし、さっさと帰って寝てしまいたい気持ちと、もう少しだけ手をつないでいたい気持ちが入り混じって、うまく言葉が出てこない。
「そっちは秦野の弁当が嫌だったって言ったけどさ」
マンションが見えてくる直前、紫月が前を向いたまま口を開いた。
「美颯に、紫がやたら懐いてるのも、丹沢さんがわかったような顔するのも、俺は面白くなかった」
「……そうなんだ?」
「そうだよ」
紫月は一瞬だけ私を見た。
唇が尖っていて、拗ねた子供みたいで、はじめてこの男をかわいいと思った。
マンションに着いたら、それぞれ郵便受けを確認してチラシを捨てて、また当たり前みたいに手をつないだまま部屋の前まで行った。
いつもは私が「またねー」とか言って紫月が部屋に入るのを見送ってから自分の部屋に入るのに、今日は彼は私の部屋の前までついてきた。
「今日は急に連れてって悪かった」
「ううん、むしろありがとう。おいしかったし、嬉しかった」
「今度またグランピング行こう」
「行こう。次はビール持ってく」
「俺は料理の支度して行く。……おやすみ美颯。明日は休みだし、ゆっくり休んでくれ」
「うん。紫月もね」
つないだままの手がギュッと握られて、それからゆっくりと離れた。
紫月は何か言いたそうに口を開いて、それでも何も言わない。
じっと私を見る瞳がちょっと垂れた。
離れた指先が、やけにひんやりする。
「紫月」
「ん」
「おやすみ」
「……おやすみ、美颯」
紫月がホッとしたように表情を緩めたのを確認してから、私は部屋に入る。少しして、足音と隣の部屋の扉が閉まる音がやけに耳に響いた。
手はもう離れているのに、さっきの温度がまだ残っている気がして、理由もなく頬がゆるんだ。
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