25.鬼同期とおいしいごはん
定時を過ぎたころ、長谷川が片付けを始めたので私もパソコンを閉じた。
「立花、上がれる?」
「うん、だいじょぶ」
声をかけられて、ちょっと驚いた。
てっきり、別々に会社を出て駅で合流するのかと思っていたんだけど。
立ち上がると丹沢先輩と目が合って、満面の笑みで思いっきりサムズアップされた。振り向けば長谷川が先輩に向かって頷いているし、いつの間にそんなに仲良くなったのさ。
長谷川と一緒に会社を出て、駅に向かった。
夏の夜風がやわらかく吹き抜ける。少し汗ばむくらいの気温だけど、オフィスのエアコンで冷えた体にはちょうど気持ちよかった。
街灯に照らされた歩道を歩いていると、遠くから虫の音が聞こえる。夏もそろそろ終わるらしい。
「どこに行くの?」
「こっち」
お店の名前や降りる駅を聞いたつもりだったけど、結局教えてもらえなかった。
電車に乗ったら、長谷川はなぜか面白そうな顔で私を見た。
「つーか、立花、昼にあれだけメソメソしてたのに、仕事は何一つトチらないのすげえな」
その言葉を聞いた途端、また目頭が熱くなってきた。
仕事中は大丈夫なんだ。感情スイッチがオフだから。
もう会社じゃないし、長谷川はやけに嬉しそうだし、昨日のことを思い出せば心臓がぎゅっと痛むし、情緒はしっちゃかめっちゃかだった。
唇を噛んで、滲みそうになる涙を押し込めるように目元へ力を入れた。
「……もうちょい褒めて」
「や、メンタルが仕事に影響しないの、普通にめちゃくちゃすげえことだと思うわ」
「うー」
「褒めさせといてなんで泣くんだよ……」
長谷川はまた笑って、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。
そして「ああ、ハンカチは貸してたんだっけ」と言って、親指の腹で私の目尻をぐいぐい拭った。
触れられた目尻に車内のエアコンの風が直撃して、ヒリヒリした。
そのまま何駅か先で電車を降りて、長谷川のあとについて歩く。
そして着いた先は、黒塀と立派な門構えが目を引く、恐ろしく格式高そうな料亭だった。
「……長谷川さん?」
「うん?」
「あの、『行きたい飯屋』って、まさか、ここ……?」
涙が引っ込んだ。
ここ、あれだ。政治家とかが会談するような、ドレスコードのありそうな料亭なんだけど!?
「うん。うまいぞ」
「お、美味しいだろうけどさ!?」
そら美味しかろうよ!
でも急にこんな高級店に連れて来られても、心の準備なんてまるでできていない。
ストッキングに穴開いてないよね? なんて場違いなことを確認したくなるくらい、私はテンパっていた。
「ここで揉めると店に迷惑だし、客に見られたら店のイメージ下がるから黙ってついてこい」
「あの、ドレスコード!」
長谷川は肩を竦めて、私を上から下まで眺めた。
「大丈夫だろ」
そりゃ長谷川はスーツだからいいけどさ、私はかなりカジュアル寄りのオフィカジだ。でも私が反論する間もなく、長谷川はさっさと門をくぐって行ってしまった。置いて行かれそうになって、私は慌ててあとを追う。
門を抜けた先には、灯籠と手入れの行き届いた低木に挟まれた薄暗い小道が続いていた。
さっきまで都会の喧騒の中にいたのに、門をくぐった途端に空気が静まり返る。その落差が怖いくらいだ。
小道の先、数十メートルほど奥に、やわらかな灯りを漏らす建物の入口が見えた。
「よくぞお越し下さいました。こちらへ」
その建物の手前で、着物姿の女将さんが頭を下げていた。
そのまま玄関を上がり、磨き込まれた廊下を奥へと進む。庭園が見渡せる小部屋に案内されると、女将さんは丁寧に頭を下げて去って行った。
私と長谷川の間には黒塗りの座卓が鎮座している。
「料理は俺の方で予約の時に頼んでおいたから、待っとけ」
「う、うん……」
待って、いくらすんの、ここ……。
財布の中身を確認させてほしい。できれば口座残高も確認したい。いや、確認したところでどうにもならない気もするけど。それくらいのお店だよね、ここって。
私が落ち着かないまま座っている間に、先付が運ばれてきた。
ほうれん草のお浸しに、カズノコ、それから香ばしく焼かれたイカ。
長谷川が頷いて手を向けるので、私も頷いた。
「えっと、いただきます」
手を合わせて箸を手に取る。
……すごく、おいしかった。
その後も吸い物、お造り、焼き物と続いたけど、どれもこれも驚くほどおいしい。
焼き物が出てきたあたりで、ようやく長谷川が口を開いた。
「うまいだろ? ……落ち着いた?」
「……うん。ご迷惑をお掛けしました」
「で、何メソメソしてたんだ?」
長谷川はお肉をもしゃもしゃ食べている。
私の目の前でも同じお肉がじゅうっと音を立て、食欲を誘う香りを漂わせていた。
「……秦野ちゃんに、お弁当もらってたじゃん」
「昨日?」
「うん」
「もらったんじゃねえけど……」
「それで、えっと、やだった」
我ながら子供っぽい言い方をしてしまったと思う。長谷川の目が丸くなった。
「嫌だったのか?」
「……うん。秦野ちゃんのお弁当、褒めてたでしょ。それ、聞いたらすごく嫌だった」
長谷川は何度か瞬きをして、それから噛みしめるようにゆっくり微笑んだ。
「立花は、俺が秦野の作った弁当を褒めてたのが嫌だったのか。それってさ」
「私ね」
長谷川の言葉を遮る。
お肉を全部食べて、箸を置いた。
庭園から、花の香りを含んだ温かな風が吹き込んでくる。
「私、入社当時からあんたのこと性格きついモラハラ野郎だと思ってたんだよね」
「うん」
長谷川は面白そうに笑いながら頷いた。
お肉が載っていた皿が静かに下げられ、入れ替わるように煮物が運ばれてくる。
「でも、最近は丸くなったし、言い方も穏やかで、面倒見も良くてオカンだなあって感じてて」
「よく言ってたな、それ」
長谷川はそう言って煮物に箸を付けた。
私もいただくことにする。味がしっかり染みていておいしい。口の中にじんわりと温かさが広がって、気持ちまで穏やかになってくる。
「だから、秦野ちゃんに取られたような気分になったのかも。ごめんね、いい歳して子供みたいで」
「ウケる」
長谷川は煮物を食べながら、「んー」と小さく唸った。
「例えばだけど、紫が『俺も先輩たち見習って、自分で弁当作ったんで味見してください!』つって弁当持ってきたとしてさ、俺がそれを食って褒めたら、立花は嫌か?」
紫くんのモノマネ、めちゃくちゃ似ていた。
吹き出しそうになるのを堪えながら、少し考える。
でも、うん。
「それはたぶん、なんとも思わない。長谷川、ずいぶん面倒見が良くなったなって、むしろ嬉しいんじゃないかな」
「でも、秦野だと嫌なんだな。それってさ、そういうことなんじゃねえの」
「そういう……?」
「立花が鈍いってのは丹沢さんから聞いてたけど、本当だな」
「えっ」
「俺も愚痴を聞かされてたから。新人のとき。まあ、牽制もあったかもだけど」
……それを、私はどんな顔をして聞けばいいのさ。
どう反応していいのか分からなくて、黙々と煮物を食べる。
「立花、その煮物、うまい?」
「うん。すごくおいしい」
顔を上げると、長谷川と目が合った。
すごく優しい顔で私を見ていた。
料理を教えてくれたときと同じ顔だった。
第5話で課長、丹沢先輩、長谷川の三人で残って話をしていたときにも、丹沢先輩は「俺のかわいい後輩に余計な迷惑かけないでくれる?」つってまだ牽制してました。
丹沢先輩はあまりの脈のなさに身を引いたけど、別に美颯が嫌いになったわけではないので。
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