第五話 怒り
寝ぼけ眼を擦ることもできないまま、俺は早朝の校門前に立っていた。
理由は勿論、俺が執行部員だから。
前日、チョクチョーくんの恋愛事情を知った後、生徒会室に戻ったところ、「明日は早起きして登校して欲しいわぁ」と言われたのだ。
職務はビラ配りだ。
両手にビラを持っているから、ぼんやりと重たい目を擦ることもままならないのだ。
「これ、わざわざ紙で配る必要あるんすか……? 今の生徒は全員にタブレット端末が支給されてますよね? ……それ使った連絡で良くないすか?」
「勿論、必要あるわぁ。端末の通知に既読を付けない人がいるのよ。あるいは連絡内容を見ないで、既読マークをつけるためだけに通知画面を開く人もね。だから、紙で渡されたら、否が応でも認識するわぁ」
俺の疑問に、鷹司会長が溌剌とした様子で答えた。
肉月さんを含め、執行部の面々が校門前に揃っているが、ほとんどはピリと襟を正して、精力に溢れた表情だ。
背筋を柳みたいにぐにょんと曲げているのは俺と、小森くらいか。
しかし、彼女は眠いためというより、鷹司会長の隣に配置されて、ちょっかいを出されるのが憂鬱であるがゆえだと思う。
「低血圧? 飴舐める?」
「欲しい、よっしゃ。おぉ……酸っぱくて、目ぇ覚めるぅ……」
肉月さんが制服のポケットから出した酸っぱいレモン飴を頂き、気力がちょっと回復した。
彼女は心配そうに柳眉を下げて、俺の顔を覗き込んでくる。
「朝は苦手なんだ?」
「おう……。いつもは妹に腹蹴って起こしてもらうんだけど、今日は俺のほうが早起きだから……腹に刺激が足りねぇ……」
「私のボディブローをお見せしようか?」
「うーん、傍から見たらまずい光景すぎるな……。今度の機会とかで……。しかし、肉月さんは元気だな……」
肉月さんは相も変わらず、天使の輪が浮かぶ黒髪は、跳ね返りなく垂直に流れて艶やかだ。
毛玉も解れも埃もない紺のカーディガンも含めて、生徒の模範たるべき執行部員として、ふさわしい身だしなみだ。
あんな朝早くに起きて、身なりをこれ程までに乱れなく整え、身だしなみ三十二点止まりの俺より早く学校に着いていたなんて、信じられない。
俺は朝飯も抜いてきたというのに。
彼女が高嶺の花と囁かれる所以は、決して外見だけにあるのではないということがよくわかり、尊敬の念を抱いてしまう。
「私は朝型だから。それにこの時間は好きでね」
「なんで?」
「職務執行中の名目で、ラブレターを受け取らなくていいからだよ。ラブレター直訴衆にとって、朝も夕も無いからね。本当に忌々しい」
そう毒づきながら、肉月さんはこっそり鼻を鳴らした。
しかし、校門から登校した生徒がぞろぞろとやってきてから、また大衆向けの薄ら寒い微笑を作り出す。
頑張っている彼女を見習って、俺もビラ配りに精を出すことにした。
ビラを受け取った生徒の様子を見ると、会長の言ったことは一理あるようで、皆ビラに一瞥くらいはくれた。
執行部員の目がある手前、雑に捨てたり、ポケットに丸め入れることはできないから、と言う理由もありそうだが。
淡々と配りながら、そういえばと思い出したことがあった。
それは、肝心のビラ内容を把握していなかったことである。
あえて自己弁護するならば、仮とは言え執行部員になりたてで、てんやわんやだった上に、登校もギリギリで把握する時間が無かったのだ。
執行部員のひよっこなんだから、仕方がない。
「換毛期避難実践……があと一週間ちょっとか。あと文化祭関連について書いてんのか。見やすいな」
見出しのフォントサイズが大きく、かつ最も伝えたい内容を簡潔に記している。
俺は素直に感嘆した。
「そうでしょう。徹夜で作らされたんですから、そうでないと」
誇らしさの上に鬱々とした感情を何度も上塗りにした、酷い声が右隣から届いた。
声の主はクマが濃く刻まれた、目つきの悪さならば俺に匹敵する、低身長の小森だ。
「大丈夫かよ? 残りのビラ、俺に寄越して休んだらどうだ?」
「あ、上辺の心配とか良いです」
「そういうのじゃねぇんだけど……」
「じゃあ、もっと結構です」
視線すら合わせないつっけんどんな態度に、俺の心はちょっと折れてしまって、閉口した。
そっちから話しかけてきたというのに。
「怒られちまった……」
俺は左隣の肉月さんに小声でボヤく。
「かわいそうに。彼女に怒っておくね」
「いや、いいよ。愚痴りたくなっただけだ」
「ははん、なるほどね。これが、友達の愚痴と言うやつだね。言われる身になると、精神的に頼られている気がしていい気分」
「デカっ! 友達の器、デカっ! いや、デカいのは肉月さん自身の器か……! どっちにしろ、友人という関係性がなけりゃ、頼ることも器の深さを知ることもできねぇままだった! 友達最高!」
「全く同意だよ」
肉月さんが腕を組んで、鷹揚に頷いた。
その意思表示がまた、俺を破顔させ、友達歓喜スパイラルに陥りつつあった。
そんな俺を現実に引き戻したのは、見覚えのあるカーディガンの腰巻き。
校則には従順なままに、己の過ごしやすさに沿うように制服を着崩した女子生徒、朱音だ。
「まじか……避難実践だって。去年の全然覚えてねー」
同級生と談笑する朱音の声が耳に届く。
折角だから声を掛けようと思ったのだが、両者の間を他の生徒が隔て、ついぞ叶わなかった。
遠くなった彼女の背を眺めていて、ふと視線を上にやる。
やはり、チョクチョーくんが覗いていた。
屋上の透明な壁に顔を寄せ、頭を低く這わせ、こっそりと朱音の様子を伺おうと努力しているが、頭隠して角隠さずといった有様だ。
「かわいい奴だなぁ……。あ、ビラどうぞー」
紙を差し出すと、相手の生徒は俺を無視し、通り過ぎた。
かと思えば、鼻下を伸ばして、肉月さんのを受け取っていく。
俺の強面だからなのか、肉月さんと仲良しなことを嫉妬しているのか、全然受け取ってくれなくて、俺は悲しかった。
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執行部員の昼は、大抵忙しい。
しっかり船を漕いだ午前中の授業後は、再びチョクチョーくんへの届け物の運搬、という仕事がある。
今度は俺が一人で屋上へ赴くこととなった。
肉月さんは別件があり、しかし、すぐ合流することになっている。
段ボール箱一つと弁当箱を脇に置くと、借りた屋上の鍵を使って解錠する。
重厚な鉄扉を肩で押し開けて、俺はチョクチョーくんを見上げた。
「よう、チョクチョーくん」
「くんってつけるな! うんこ爆撃するぞ!」
「おうおう、元気そうで安心したわ」
早くも耳に馴染み始めた脅し文句を笑って受け流しながら、段ボール箱を開封していく。
今回もスースーミントケアが山盛りだったが、昨日と異なるのは整腸薬も同封されているということだ。
内側に仕切りがあって、丁度真ん中を境にして、右側に大量の整腸薬がひしめいている。
「お、ちゃんと処方箋あんのか。オーバードーズにならないだろうな……?」
「うえ、オレ薬きらい……」
「いつも、こんくらい飲んでんのか?」
「ううん。わかんないけど、増えた。外に吐き出してただけなのに」
「自明じゃねぇか」
ため息混じりに、俺は錠剤を一枚取り出す。
市販のそれと大差ないように見えるが、処方箋に拠れば人間は服用厳禁らしい。
そんな劇物をダース単位で摂取する必要があるなど、内臓だけであっても上位存在は規格外だ。
逆に、そうまでしなければ御しきれない肉体のじゃじゃ馬ぶりにも、少々の恐ろしさがある。
「ほれ」
「ぶい」
「おい、投げた薬を顎で弾くな。肉月さんに対しても、こうしてるわけじゃねぇだろうな?」
「だったら、なんだよ」
「嫌われるぞ。友達ができねぇぞ」
「ふん、友だちなんていらん」
「寂しいこと言うなぁ。友達は良いぞ。楽しい」
「くわしく言ってくんないと、わかんねーよ」
ぶすっとした態度を貫きつつも、「楽しい」という言葉に彼は少し興味を見せた。
「友達はな、愚痴れる!」
「……よくわかんねー」
「お話できるってことだ。何となく話してるだけで楽しいぜ。話が合うとより盛り上がる」
「ふーん」
「あと梨切ってくれる。肉月さんのは格別美味かったな。良い品種と友達パワーが生み出せる味だった」
口の中でほとばしる果汁を思い出す。
実は、いつか肉月さんにも切ってやるために、家で練習している。
昨日やってみたが、なかなか上手くできないので、肉月さんの凄さを実感した次第だ。
「友だちってさ、だれでも、だれとでもなれるの?」
「もちろん。小難しい手続きも契約書も、要らねぇはずだ」
「じゃあさ……、オレともなれる?」
「え?」
チョクチョーくんにしてはしおらしい態度と提案に、俺は口を開けてポカンとしてしまった。
彼の双眸はずいぶんと寂しそうで、俺より遥か高い位置に顔があるというのに、物欲しげな上目遣いに見える。
「だって……今、喋ってて楽しいし……、薬とか飲ませてるし」
「おぉ……!」
俺は歓喜した。
思わぬ友達提案を受けて、素直に嬉しいと感じた。
「勿論だ……! 今日から俺とチョクチョーくんは友達だな」
「わ、わァ——」
チョクチョーくんは首を持ち上げて、まるで酩酊しているかのような、踊っているかのような動きを見せた。
微笑ましげに見ていると、屋上の鉄扉が押される重厚な音を聞いた。
チョクチョーくんが息を呑み、一気に身が二倍も三倍も縮こまった気がする。
「お疲れ様、晴野くん。また段ボール箱を運ばせてしまって、ごめんね」
「おう、気にすんなよ。そっちこそお疲れ」
姿を現したのは肉月さんと、朱音である。
朱音が右手を上げて、俺に挨拶した。
俺も同じように返す。
「あっ、朱音と仲良いのっ……!?」
「仲良いっつーか、昨日、校門で待ってんの見てたし、会いに行って——」
「ふざけんなよ、ジジイ! 勝手に……勝手に!」
「チョクチョーくん、喧嘩なら薬を飲んでからにしなよ」
「……うん」
突然、色をなした彼に朱音が口を挟む。
くん付けでさえ不満がる彼に対して、ずいぶんと高圧的な口調だったが、惚れた弱みか、すぐに引き下がった。
チョクチョーくんは俺を睥睨したまま、段ボール箱を奪い取るようにして口に入れる。
先刻から一変して、俺に対する攻撃的な雰囲気に、俺は当惑した。
「私がいない間にさ、こっそり整腸薬吐いてたりした? この子、私が居ないとき限定の常習犯で」
「さっき顎で弾いて避けてたな」
「言ってんじゃねーよ! 告げ口ヤロー!」
「告げ口されたくないなら、ちゃんと飲みなね」
歯をむき出した顔を迫らせた彼は、朱音の一喝で渋々と薬を拾いに行った。
俺は身体が震えるのを止められない。
悟らせないようにはしているが、自分の数倍の巨体に敵意を晒されると、恐怖は拭えなかった。
「のんだ」
チョクチョーくんが口を開けて見せ、自己申告した。
この行為に怒りを露わにしたのが、肉月さんだ。
「ゲップが出るまで、私たちに口を向けないで」
チョクチョーくんが僅かに震えて、首を下げた。
巨体の脅威と幼子のようなしおらしさが、俺の感情を狂わせてくる。
怖いのに、可哀想だとも思ってしまう。
「ねー、ここにチョクチョーくんの健康管理に携わった執行部員として、署名して欲しいんだけど」
「ん、おう、わかった」
近づいてきた朱音に差し出されたタブレット端末の画面に、「チョクチョーくん健康管理調査表」と題されたデジタル用紙が表示されていた。
保険委員と付添執行部員の署名欄の横、「その他の職名」と書かれた欄に名前を打ち込んでいく。
そこで俺はハッと気づく。
署名の「朱音」の字が「明根」と打ち間違っていることに。
「おい、朱音。署名の変換ミスってるぞ」
「あれ、ほんとだ」
「明るい根っこって何だよ」
「うっさいなぁ。私は古式ゆかしいアナログ派なの」
「機械音痴の言い換えとして、素晴らしいな」
「うっせ」
軽く談笑したつもりで、悪気はなかった。
しかし先程から、俺と朱音の交流に対して気が立っているチョクチョーくんの眼前で、その行為は浅慮だったとしか言いようがない。
「何でだよ何でだよ……! オレが直腸だからかよ……!? 臭いから……!? うんこだから……!? 汚いから……!? 何でそいつばっかりと! なかよく話すんだ!!?」
チョクチョーくんが憤慨し、頭を高く持ち上げて俺たちを見下ろした。
睨みをきかせる彼の憎悪の矛先は、俺を含め全員に及んでいる。
「お、落ち着け!」
「オレを利用して、朱音となかよくなったんだろ……! そのためにオレと友だちになるフリをしやがったな……!」
頭に血が上ったチョクチョーくんが大声で喚き散らし、その暗い大口を俺に差し向けた。
「馬鹿っ……!!」
肉月さんの叫びが耳を劈く。
暗かった大口が、仄かに赤光し始め、輻射熱が肌をジリジリと焼いた。
反射的に、側に居た朱音を突き飛ばす。
なにか叫んでいたが、内容を理解するだけの精神的余裕は無かった。
焔がチリっと跳ねて、踊り迫る。
目の前で放たれる火炎放射より遥かに遅い俺にできることと言ったら、両手で身体をかばうくらいだ。
「晴野くん!!」「兄貴!!」
むせ返るような血の焼ける臭いが、辺りに充満した。
俺の鼻は、嗅覚はまだ生きているのだと悟る。
伏せた顔を持ち上げて、おっかなびっくりに目を開けた。
少し暗い色味の真っ赤な膜が、俺の眼前を完全に覆い尽くしている。
下を見ると、それが地面に隙間なく張り付いていて、上を見上げると数メートル以上に達していた。
幅は屋上空間の両壁に達するほどで、まるでカーテンのようだった。
「兄貴!」
朱音が飛び込むような格好で、俺に抱きついてくる。
「怪我、……無ぇか」
「うん、うん……! 肉月さんも無事だよ! 兄貴が守ってくれたから……!」
涙と鼻水をダラダラに流しながら、朱音が頑張って説明してくれる。
「兄貴が守った」、そう言われて初めて、目の前の赤い膜が俺の手首の血管から飛び出したのだと気づいた。
出血という意味ではなく、手首の血管が皮膚を押しのけて伸び、血の膜を噴出していたのだ。
チョクチョーくんの火炎放射から、俺たちを守ってくれたのだ。
「ありがとな、心臓くん」
心臓くんは無言を貫き、一度トクンと脈で返答する。
そして同時に、暗赤色のカーテンが力を失ったかのように落ちた。
呆け面の龍の姿が晒される。
「あ、え、あに、アニキ……? 朱音のアニなの……?」
晒されたチョクチョーくんの瞳孔は縮みきっていて、細かく震えている。
彼の喉が情けない音を出した。
「だったら、何だっていうのさ?」
朱音の眉間には力がこもり、声は低く威圧的だ。
「いや、いや、ごめなっ……ごめんなさい。朱音のアニキだって……、し、知らなくって」
ひどく狼狽したチョクチョーくんがたどたどしい言葉で、謝罪した。
そこに盛大な舌打ちが響いて、彼は腹を刺されたように苦しむ。
「それってさ、兄貴が、私の兄貴じゃなかったら良かったってこと?」
「え、ぃや……」
「兄貴じゃなかったら、平気で焼き殺すんだ?」
チョクチョーくんは押し黙って、目に涙を浮かべ、口をへの字に引き結ぶ。
「朱音、もう良いから……」
「良くねーよ」
俺が間に入ろうとしたのだが、怒髪天を衝く様の朱音に一蹴されてしまう。
「お、オレがっ……うんこ吐くから……? 口からオナラして、臭いから悪いの……!?」
「はぁ、何言ってんの? 的はずれなんだよ、お前の言ってることがさ。好きな女に付き纏う男だったら焼く気だったくせして、女の兄だと分かったら手ぇ翻して謝り出すその性根が臭えっ言ってんの」
今にも射殺さんばかりの剣幕で、朱音が捲し立てる。
彼女の隣に立つ肉月さんも、侮蔑の色を隠せていない。
俺は今、一方的な口撃を止めて、朱音を落ち着かせてやらなければいけない。
しかし、さっきから視界が揺れていた。
「それが何? 自分がゲッヘンの大腸だから? 臭いから? そんなこと関係ないから。ほんと自分本位だね。私はお前の性格が、本当に嫌いだよ」
さっきから自分の呼吸がうるさい。
身体の根っこが震えてきて、上手く四肢に力が入らない。
「あに——だいじょ——、どこ——の?」
耳も遠くなってきた。
まずい。ここで倒れては駄目だ。
「————、—————————! —————!」
水中にいるみたいに、誰かの叫び声も緩く伝わってきて、よく聴こえない。
焦燥が胸に満ちる。
被害者の俺が倒れてしまっては、いけない。
ここで俺が倒れたら……あいつが一人に——。




