第二話 初友
瞼が持ち上がって、俺が初めて見たのは清潔感のある純白の天井だ。
横になっている俺を四角く囲うようにカーテンが掛かっている。
首を左に向けると、テレビと冷蔵庫の収まった細長い棚と、俺の左腕に繋がった点滴スタンドが見下ろしていた。
右側を見れば、曇りのぼんやりとした明るさが溢れてくる。
身体を起こして外の景色を拝むと、懐かしい景色があった。
「近所の相生病院か」
寝ぼけた身体に言い聞かせるみたいに呟くと、自然と右手が胸を撫でた。
果物ナイフが突き立ったはずのそこには、歪な凹凸も縫い目も無く、高校生らしいシルクの肌がある。
あの事件が白昼夢だったのかと疑いそうになったとき、何者かがカーテンの隙間から気の抜けたサンダルを覗かせる。
「うおっ! ……明斗くん、起きたのかい!? おぉ、よかった」
「こんにちはっす、えっと、ヒフ9999号先生」
「よそよそしいなぁ、人見知りかい? 昔みたいに萬前先生って呼んでよ」
白衣に身を包んだスキンヘッドの男が、爽やかに笑う。
中高生になってからめっきり風邪を引かなくなったので、しばらく会っていなかったのだが、あまり久しぶりという感覚がしない。
「いやぁ、ほんとよかった。丸三日間も寝てたんだよ? 今だから言うけど、目覚めなかったらと思うと、ちょっと怖かったよ」
「そんなにっすか。お騒がせしてすんませんでした。……あの! 肉月さんは、俺と同い年くらいの女の子は無事でしたか!?」
刺された時の記憶によれば、ナイフの男のターゲットは肉月さんであった。
俺の次に狙われていてもおかしくない。
「あの激マブの子ね? 無事だし、何回かお見舞いに来てたよ。礼儀正しい彼女さんだよねぇ」
「そっすか……。よかった……! あ、恋人とかじゃねぇっす、彼女は友だ……ち」
そう言いかけたところで、あの日の会話が恐ろしいほど鮮明に蘇った。
たちまち全身が冷えるような焦りに包みこまれる。
俺は肉月さんの逆鱗に触れ、友達になるどころでは無くなってしまったのだ。
「どうした!? 見る見る顔青ざめてるけど!? 心臓苦しいかい!?」
「も、問題は無いっす」
「本当かい!? ぜんぜんそうは見えないよ!?」
「……し、心因性なんで、大丈夫っす」
「やっぱ心臓かっ!」
「なに馬鹿言っているんですか、先生。焦りで阿呆にならないでください」
呆れ顔でカーテンを開けてきたのは、スキンヘッドの女性看護師。
点滴バッグやチューブを確認している彼女の胸には『看護部看護師 ヒフ10046号氏』と書かれた名札が下がっている。
「明斗くん、身体は元気? もう退院しちゃって大丈夫だからね」
萬前先生と瓜二つの顔が、年下に向けるような猫撫で声を発した。
同じ上位存在の臓器だというのに、化粧や衣服、肌質や品のある振る舞いなどのお陰なのか、より女性的に見える。
「ほら、萬前先生。お母さんに連絡しに行ってくださいよ」
「あ、はい」
俺と話したときよりずっと乾いた声が投げられると、何故か尻に敷かれている萬前先生は、小走りで病室を後にした。
患者の立場でしか看護師と接したことのない俺が、天使のような看護師イメージとのギャップに少々慄いていると、「また先生と来るからね」と残してヒフ10046号氏がカーテンを抜ける。
それからすぐに、カーテンの向こうで看護師さんと誰かの会話が始まった。
「あら、肉月さん、こんにちは。声聴こえてた? 挨拶してあげて」
「はい」
簡素な答えが俺の耳に飛んできて、心臓がひときわ激しく鐘を打ち、息が詰まった。
揺れるカーテンを前にして、俺は背筋が伸びる。
どういう居住まいでいれば良いかわからず、とりあえず病院着の緩い襟を正す。
「入って良い?」と問われて、「おう」と返した。
「こんにちは。三日ぶり」
「らしいな。見舞い、来てくれたらしいが、寝たきりで悪ぃ」
「心臓刺されたんだから、仕方ないよ」
責めるつもりもなさそうに言った肉月さんの表情には、怒りや軽蔑の感情は無さそうだった。
しかし、いつも微笑を湛える彼女の真顔は凪ぎすぎていて、むしろ恐ろしい。
般若の面より、表情の薄い小面の方が怖いのと同じ感覚だ。
肉月さんは持ってきた紙袋の中を漁ると、果物ナイフを取り出した。
「ひぇ……っ」
「あ、ごめんね。よりによって果物ナイフもってきちゃった」
三日前に胸を刺したものと同じ刃物を見たトラウマで、肩を大きく震わせた。
加えて、先日に怒らせてしまった彼女が刃物を持っているというのも怖い。
俺は反射的に胸を庇ったが、案に相違して、紙袋から和梨を出して皮を剥き始めた。
一方の俺は話の種を見つけられず、気まずさのあまり、手や腕を揉んで空白を埋めている。
そして、顎やつむじを掻き始める段階に至って俺は、肉月さんの「刺した人、捕まったよ」の一言に救われた。
「私が好きだったみたい。だから、晴野くんと私が会ってたのを見て、恨み骨髄に徹して」
「そうか。悪かった」
「ん? どういう脈絡?」
「俺が飯誘ったから、恨まれちまったんだろ」
「それなら、私がちゃんと断っておけば良かっただけの話だよ。私の行動がどういう出来事を招き得るのかは、自分がよくわかっていたはずだから。だから、ごめんなさい」
「いや、……おう」
否定しようと思ったが、止めた。
彼女の言い分に納得できる面もあったし、俺が否定しても、彼女もそれを否定して堂々巡りになる気がしたからだ。
謝罪を素直に受け取っておくことにした。
「まぁ、これからは距離を置くことにする。今回は俺が被害を受けたが、次もそうとは限らねぇし」
「え、……いや、その必要はないと、思うけど」
梨の皮を剥く手が少し鈍った。
彼女の双眸は黒い御簾の隔てられて、窺い知ることはできない。
「そもそも、君は身を挺して『友達』を守ったのだからさ、もっと誇らしく思ってもいいと思うよ?」
滔々と流れる黒髪から飛び出た耳が、紅潮しているのが目に入る。
それより今、彼女が言った言葉に、俺は只々びっくりしていた。
「友達? 肉月さん、俺、友達?」
「……さりげなく言ったのに……。そうだよ、私の初めての友達が君だよ」
「お、俺も! 初めての友達が肉月さんだぜ……! ふはは」
のしかかるような思い空気が、この一瞬で絹のように軽さを得た気がした。
俺の心臓が、初友の誕生を歓喜し、称賛の拍動を送ってくれる。
「はい、友達が切った梨だよ」
「友達が切った梨、美味ぇぇ……!!」
「はい、友達があげるティッシュだよ。口拭いてね」
「友達があげるティッシュ、柔けぇ……!!」
「はいはい、友達が切った梨はまだあるから、ゆっくり噛んでね」
「友達の優しい言葉、嬉しい……!!」
俺はもうすっかり笑顔になってしまって、「友達の」という枕詞をつければ、全てが至上のものに感じられた。
浮かれた俺のテンションに当てられて、肉月さんも白い歯を零す。
「梨、もう無くなっちゃったね。もっと持ってくれば良かった」
「今度は俺が買ってきて、切ってやるよ。この友達が」
「ふふ、楽しみにしてる」
はしゃぐ子どもをあしらうような態度を受けて、俺は少し冷静になる。
しかし、残った余韻で心臓はいまだ跳ねていた。
やかましさはなく、むしろ喜びを分かち合っているかのようで、心地よい。
「あれ、心臓くんは?」
自分の心臓の存在感が強く意識されて、ようやく俺は気づく。
彼女と心臓くんはいつも一緒だった。
まるでコインの裏表で、女子トイレにすら二人は一緒に行くので、心臓くんの性別について校長市長を巻き込んだ大仰な会議すら行われたことがある。
肉月さんの肩、膝、手のひらの上、棚の上。
考えうる心臓くんの定位置の空白を確認してから、はてなと肉月さんの顔を窺う。
「晴野くんは心臓を刺されたんだよ。お腹を刺されるのとはわけが違う。人間の医療技術なら即死だよ」
肉月さんの声音は資料を読み上げるような淡白さだった。
話すさなか、彼女の視線が俺の胸に降りる。
心臓くんは人間ではなく、上位存在ゲッヘンの臓器の一部。
一部分であっても、先日彼が見せたような、人知を越えた能力を有する。
「優秀な外科医がいなくても、心臓くんなら人の胸に入れるし、開胸した傷や出血も何とかできる」
「つ、つまり、心臓くんは俺のために……胸に」
心臓が二回、脈打った。
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「んー、やっぱりゼロ割負担は最高だよな。ゼロを発見したインド人は無類のケチだったに違いないねぇよ。本当にここに住んでよかった」
俺は、呑気に両指を絡めて背伸びした。
三日間の寝たきり状態であったにも関わらず、退院許可はすぐに降りた。
萬前先生は「心臓くんと一蓮托生となった影響かな? 興味深いよ」と顎に手を遣って、好奇心を覗かせていた。
ということで、少々の倦怠感を抱えて俺は病院を後にしたのだ。
「週一で通ってみたら? 不調を訴えたら、無料で人間ドックができるよ。他にも、仮病でベッド寝かしてもらったり」
俺の隣を歩く肉月さんが、気さくに提案する。
対して俺は、表情を渋くして答える。
「病院の人たちが困るからなぁ。仮病でホテル扱いなんてありえねぇ」
「冗談だよ。でも、人間ドックはたまにやってもらっても良いと思うよ?」
肉月さんが俺の顔を下から覗くように、少しだけ首を傾げて「相生市の外だと、数万円はかかるらしいし」と知識を披露する。
「そうかもな。健康の尊さは、いずれ分かる頃が来ちまうだろう、し……っとと」
いずれ来る未来に思いを馳せていたとき、視界の景色が傾いたのかと思った。
すぐに俺の腕が掴まれる。
ひんやりとした滑らかな手で、しかしながら掴む力からは焦りと熱を感じさせた。
「だ、大丈夫!? やっぱり、退院許可は尚早だったんじゃ……!?」
「いや、ちょっと立ちくらみが起きただけだ。心配ねぇよ」
「本当に……?」
「あぁ、寝起きですぐ起きたら、こうなるだろ?」
「その寝起きが、三日間の睡眠の後だったら『こうなる』では済ませられない」
柳眉を下げて、目元を震わせた彼女の心からの心配が伝わってくる。
早速、友達として本気の心配をしてくれることが嬉しくて、俺は場違いにも「っはは」と笑みを零してしまった。
その一瞬の失笑は見逃してもらえず、鋭い眼光を向けられる。
「なんで笑っているの?」
「いや、何でもねぇよ」
「……そう。それにしても、すぐに許可を出したあの医者、信用ならないよ。あと数日は経過を見るべきなのに」
「大げさだっつーの。ぶっ倒れたわけでのねぇんだから、良いんだよ」
「……本当?」
肉月さんは再三に渡って尋ねる。
俺は肉月さんの態度に違和感を感じた。
彼女は何か、隠し事を心配で包んでいるような気がする。
時おり、制服のポケットから携帯電話を取り出して、連絡か何かを確認し、その後ためらいがちに横目で俺を窺い見るのだ。
(用事か何かか? あぁ……なるほど。用事ですぐ行かなきゃなんねぇけど、体調が万全じゃねぇ俺を置いてくことができねぇ、って葛藤してんのか)
合点の行く説明を導き出せたので、俺は胸中で探偵気取りの不敵な笑みを浮かべた。
そして、どうやって気兼ね無く向かわせようかと、しばし思案する。
その間に、俺たちは赤信号に捕まった。
ここが好タイミングに違いない。
「肉月さん、家どっち?」
「え……? えと、こっちだけど」
肉月さんは戸惑いながら、正面にある横断歩道の先の道を指差す。
俺の家の方向とは異なる方向で、よしよし、と俺は小さく頷いた。
「俺の家、こっちだからよ。また明日」
青信号が光る右の横断歩道を指差し、俺は気を利かせた帰宅を決行する。
「ちょ、ちょっと待って」
「ん? なんだ?」
背を向けていた俺は、振り向く。
体調の心配か、気を利かせたことへの感謝か、どちらが飛んでくるのだろうと俺は考えた。
「学校行くよ」
「え?」
第三の選択肢、見に覚えのない用事が飛んできて、俺は動揺を隠せず、数度目を瞬いた。
「な、なんで……?」
「なんでって、心臓くんが晴野くんの中に入ったでしょ? 色々と話が変わってくるんだよ」
「ちょ、待って、俺まだ分かってねぇ」
肉月さんの説明が全く足りていなくて、俺は困惑を隠せない。
すると彼女が、俺の胸板を人差し指で突っついた。
「晴野くんは上位存在の……ゲッヘンの血が混じったんだから、国や市の対応が変わるんだよ。今回は学校。だから、今から生徒会室に来て欲しくて」
そういうと、俺の手首を掴んで、くいくいと引っ張った。
俺は内心穏やかでいられなかった。
肉月さんはあっさりと言ってのけるが、俺は当事者なのだ。
「呼び出し」という言葉の不穏さが、俺の平常心の上を這い回ってきた。
どんな目に遭うのだろうか?
(上位存在の内臓と融合した稀有な例の俺を、か、解剖して……?)
「学校の地下なんちゃら研究室に連れてかれて、解剖されたりしないよ?」
「なんで心読まれてんだよぉ……! 本当になんかされねぇよな……!?」
「誓って危ない話ではないよ。例え、されそうになったとしても、命に変えても守るよ。私たちの友情に誓って、ね」
肉月さんは曇りなき眼で、心臓すら捧げると言わんばかりに、胸に手のひらを当てた。
その覚悟表明を目の当たりにして、俺は嬉しさと気恥ずかしさと恐怖がないまぜになって、不格好な表情を浮かべる。
「嬉しいけど……そ、そこは『子どもの妄想だね』って一蹴して欲しかったなぁ……!」
泣き笑いする俺を、甲斐性たっぷりの面構えをしている彼女が引っ張った。
そうして、引きずられるようにして連れてかれていったのだった。




