墓前のグラス
王都の北東、神殿のさらに奥には、規則正しく整えられた墓地が広がっている。
アルスマグナで生涯を終えた住民たちは、皆ここに葬られる。
墓地を管理するのは国家であり、特定の大きな宗教を持たないこの国において、聖職者とは医師に近い役割を担う専門職だ。
ここでの埋葬は、眠る者たちの汚染やアンデッド化を防ぐという、実利的な目的も兼ねていた。
「……貴方が亡くなってから、一度も足を運ばなかった非礼をお許しください。我が師よ」
エミリア・パラケルルスの墓前に立っていたのは、エレナだった。
黒のワンピースを纏い、派手な髪を隠すように黒い帽子を深く被っている。
彼女は、生前のエミリアが好んでいたワインとグラスを取り出し、静かに語りかけた。
「これは、なんという偶然かのう」
背後から声をかけたのは、もう一人の参拝者――ミントだった。
彼女もまた、普段の三角帽子を脱いでシンプルな黒のワンピースを身に着け、供花を手に現れた。
「まあ、こういうこともあるんじゃないかい? アランに会わないように時間をずらして来れば、中途半端な時間で鉢合わせることもあるだろう」
「そうじゃな。儂も人目は気にせんが、魔女が墓参りなどという殊勝な真似をしていると思われたくないからのう」
エレナはワインをグラスに注ぎ、墓前へと供えた。
赤でも白でもない、透き通った青いワインからは、芳醇なブドウの香りが立ち上る。
青いワインはそのグラスに入った途端、美しく舞い、澄んだ青空のような幻想的な風景をグラスの中に映し出した。
「良いワインじゃな。この香り……母様とエミリア殿が、よく一緒に飲んでいたものじゃ」
「やたらときつくて、私たちは飲まなかったけどね。一度くらいは付き合っておけばよかったかな」
「師よ、これは私が作り上げた風精霊硝子のグラスです。せめて貴方が存命のうちに、これをお見せしたかった……」
風精霊硝子は、エレナが商会連合『ラムセス』に入る前に成し遂げた実績の一つだ。微かな風魔法を宿したこの硝子は、注がれた飲み物を幻想的に演出するだけでなく、一定の保冷効果も付与する。
今や貴族の間で急速に広まりつつあるこの技術を応用し、室温の調整や空気の循環を可能にする部屋の研究を、彼女は今も続けていた。
「そういえば、アランとの婚約破棄を伝えなくていいのかえ?」
「もし、亡き貴女に苦言を呈することが許されるなら……先生は、人を見る目がなかったと言わざるを得ません。私とアランを結婚させようだなんて、本気で考えていたのですか?」
「ところで、あの愚鈍な両親はどうしているんじゃ」
「兄の話では、屋敷から追い出したそうです。既に王都にはいないだろうね」
「もう会わずに済むのなら、アランもすっきりするじゃろうて」
「わざわざアランの屋敷まで押しかけて、復縁を申し込んでいたそうだよ。そうなれば、兄も決断せざるを得ない。レディオ商会には百人を超える従業員がおり、契約先の錬金術師や取引先、清掃員、その家族まで含めれば千人以上の人生を背負っている。それだけの重みを預かる身として、たった二人の愚か者を切り捨てるのは、当然の判断だよ」
「そうじゃな。じゃが、これでヌシにとっても一つ、面白い状況になったのではないか? ヌシはアランともう一度やり直そうとは思わんのかえ?」
「え? ……それは考えたこともないね。私にとって、アランは弟のようであり、何より競い合うライバルだ。睦まじい夫婦として夫を支えるだけの生き方など、錬金術師としての私が死んでしまう。だから、私はアランのライバルでいたい。……今はまだ、私の方がリードしているけどね」
「ほう。魔導師なら、錬金術師と共に歩む道も選べるがの……なら、いっそ儂が貰ってしまってもよいかい?」
エレナの言葉に、ミントは面白い玩具を見つけたかのように、からかうような笑みを浮かべてそう言った。
「それはそれで、つまらないですね。その時はせいぜい『姉』として、アランの恋人を徹底的にいびってあげましょうか」
エレナも負けじと、天使のような微笑を浮かべながら悪魔のような不敵な言葉を返した。
互いに相手を煙に巻くのが好きな者同士、会話の歯車が噛み合いすぎて、一向に話が前に進まない。
「やめじゃ、やめじゃ。儂ら二人では、どうにも話が盛り上がらん」
「そうですね。やはりアランのような、からかい甲斐のある相手を振り回している方が、ずっと楽しいですから」
過保護な我が師は、私たちがその才を目立たせることも、世の風に晒されることもなく、互いに慎ましく生きていくことを望んだのだろう。
だが、私たちは貴女と同じ、業の深い錬金術師だ。
光を掴み取るためならば、才を誇示し、風にも当たろう、雨にも打たれよう。
その覚悟は、とうに私たちの中にある。
「私たちは貴女の背中を追って、踏み出します。この一歩が、黄金に値することを証明するために」




