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温泉とトラブルの素

 前世が日本人であるためだろうか。

 アランの魂には、風呂というものに対する特別な執着が染み付いている。


 この国の水道事情は、水の魔石を動力源としたものだ。

 各家庭で魔石を購入して専用の魔導具にセットする形式のため、公共の水道料金というものは存在しない。魔石一つで一ヶ月は保つから、コストパフォーマンスは決して悪くない。

 だけどそれだけのインフラがありながら、この国に「入浴」の文化は広く普及していなかった。

 この国の景色と気候こそ南欧風だが、前世の南欧が風呂の元祖とも言える古代ローマの地であったことを考えると、随分な違いである。


 この街では、汗をかいてもシャワーで済ませるのが一般的。

 過去に下水処理が追いつかず感染症が流行した歴史があるせいで、人々が密集する温泉や銭湯といった施設は、今のところ見かけない。


 ジャポニスム文化の発生地と言われる「東方」の方には、温泉大国が存在するという噂も聞くが……。

 前世の中世ヨーロッパにおいて、人々が日本を「黄金の国」ならぬ「夢のような清潔な国」だと思ったという話があるが、今のアランの心境はまさにそれだった。


「ふたぐん、ふたぐん」


 ふと視線を落とすと、ホテプが湯船の中でぷかぷかと浮いていた。

 猫という生き物は水を嫌うものだが、このポテ猫は風呂が好きなようで、一緒に入るといつも気持ちよさそうに浮遊を楽しんでいる。

 ぷにぷにとした体が湯に馴染み、とろけるように形を変える様を見ていると、こちらまで肩の力が抜けていくようだった。


 風呂を上がると、音鳴石(サウンドストーン)を使った、前世でいうところのドアチャイムがキンコンと鳴り響いた。

 玄関へ向かうと、そこには運送ギルドで働いている旧友、カイ・リッキーヤが立っていた。


「よー! 元気にしてるか、アラン」


 鍛え上げられた逞しい体に、ウデウデ人の特徴である四本の腕。彼はその余りある腕を器用に使い、段ボール《ハニカムシェル》の箱を抱えていた。


「元気はしてるけど……。何か頼んでたっけ?」


「いや、今日はオレンジの差し入れだ。お前、フラれてへこんでるんじゃねえかと思ってな」


 気安い仲だからか、カイは平然とデリカシーのないことを言い放つ。

 アランは苦笑しながら、オレンジがぎっしり詰まった箱を受け取った。前世ではこの手の箱を「みかん箱」と呼んでいたが、この世界では最近「オレンジ箱」という呼称が定着しつつあるらしい。


「ありがとう。ホテプもこの箱に入るのが好きみたいなんだ、助かるよ」


「それよりお前、なんでそんなに濡れてんだ? 妙にいい匂いもするし……酒でもかぶったか?」


「ああ、これを試していたんだよ」


 アランが差し出したのは、小さな革袋だった。

 ビニール袋が存在しないこの世界では、粉末の保存には革袋が使われる。

 中には、粒子状の何かが詰まっていた。


「なんだ? 新しい調味料か?」


「入浴剤……温泉の素、といったところかな。お湯を張った湯船に入れると、様々な効能が得られるんだ」


「どんな効果だよ」


「今はまだ調合を試している段階だけど、肌の保湿や美肌効果、あとは疲労回復とか……」


「すげぇな。それ、もうポーションか何かじゃないのか?」


「そこまでの即効性はないよ。もともと『入浴』という行為自体が健康にいいものなんだ。これはその効果をさらに効率化し、高めるための補助剤ってところか」


「へぇ……。まあ俺はシャワーで十分だけどな。腕が多いと、頭と体を同時に洗えるから便利なんだぜ」


「だったら、お前も一度風呂に入ってみないか? 絶対にハマるぞ」


「マジかよ」


 それは、気の置けない友人同士の、ちょっとした悪ノリから始まった会話だった。


「ゆっくり湯船に浸かれば、筋肉の強張りが解けて筋肉痛にもなりにくくなるし、疲れの取れ方も段違いだ。それに何より……風呂上がりのキンキンに冷えたビールは、最高に旨いぞ」


「ほう、そうか。ビールがさらに旨くなるってんなら、やらない手はねえな」


「ちょうど新しい配合をいくつか作ったところなんだが、俺一人じゃサンプル数が足りなくてな。協力してくれると助かる」


 実のところ、四本腕の筋肉質な体でどう効能が出るか、データが欲しいだけなんだが、そんなアランの内心を知ってか知らずか、カイは豪快に笑った。


「おう、面白そうじゃねえか。ちょっくら試してきてやるよ!」


 数日後、屋敷の音鳴石(サウンドストーン)を鳴らしたのは、意外な人物だった。


「パラケルルス錬金術師様ですね。商業省の使いの者です。副代表が、ぜひ商業省まで足をお運びいただきたいとのことです」


「……すぐに行きます。あと、俺のことはアラン、あるいは『二世』と呼んでください。まだ自分はパラケルルスの名を継ぐには値しませんから」


「承知いたしました、アラン様。表に馬車を用意してございます」


 何かやらかしただろうか――。そんな不安を抱えつつ、アランは馬車に揺られて商業省へとやってきた。

 そこで待っていたのは、商業省の副代表であり、代表オルコット子爵の夫人であるエルン・オイコットだった。

 落ち着いた年齢ながらも気品に溢れ、その佇まいは「商人の鏡」と称えられるに相応しい風格を纏っている。


「副代表……。俺、もしかして何か不手際をしましたか?」


「あら、別にあなたが何かやらかしたわけではないわよ」


 使用人によって、目の前に高価そうな紅茶が置かれる。アランは少しばかり緊張の面持ちでそれを見つめた。

 名誉男爵であった養母のもとで育ったが、彼女は貴族らしい社交を嫌い研究に没頭していたため、アランは貴族との付き合い方というものを教わってこなかったのだ。


「実はね、レディオ商会から『あなたとの復縁を仲介してほしい』という要望が届いているのよ」


「それは……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」


「いいのよ。レディオ商会は、あなたと娘のエレナという二人の錬金術師を同時に失い、経営が著しく悪化しているようね」


「俺だけじゃなく、エレナもですか? 彼女は実家の支援をしなかったんですか」


「彼女は絶縁されたそうよ。というより、彼女の方から実家を見限ったのでしょうね」


 それについて、アランが語る言葉はなかった。それはエレナと、その家族の問題だからだ。


「俺は、あの人たちがどうなろうと知ったことではありません。嫌いとか憎いとかいう以前に、もう俺とレディオ商会には、何の繋がりもありませんから」


「……そう。それなら、私の方からあなたへの接触を厳禁するよう言い渡しておきなさい」


「助かります。よろしくお願いします」


「ところで、アラン。あなたは今、何をしているのかしら?」


「……それは、商業省としての質問ですか?」


「いいえ、ただの世間話よ。あなたは今後半年間、制度上どこかの商会に所属することはできないでしょう? けれど、あなたという人材に興味を持っている人は多いのよ」


「本当ですか?」


「『妖精男爵』の地位を持つパラケルルスの後継者で、ハニカムシェルとスライムキャップを作り上げた若き錬金術師。清潔感のある美形となれば、囲いたくなる者はいくらでもいるわ。スカウトはもちろん、もしかしたら養子の申請まで届くかもしれないわね」


「……さすがに、それは飛躍しすぎじゃないですかね」


「それ、ポーズかしら? 過ぎた謙遜は嫌味よ、アラン」


エルンは呆れたように肩をすくめたが、アランは至って真剣だった。


「師匠はあくまで養母ですし、父親が誰かも分かりません。ハニカムシェルもスライムキャップも、師匠やエレナが協力してくれたから形になったんです。見た目なんて、歳をとれば変わります。周囲の評価に見合うだけの中身が、俺にあるとは思えません」


「でも、結局それを評価するのは他人なのよ。実際、あなた宛てにお見合いの打診だって来ているわ。今までは、エレナという婚約者がいたから皆控えていただけなのだけど」


「……そういう話は、すべて断ってください」


「あら? もしかして、もう他にいい人がいるのかしら」


その言葉に、アランの脳裏にはミントやヒッポリュテを思い浮かべるもすぐにその雑念を打ち消す。

 彼女たちは確かに魅力的だが、自分とそんな関係になれるはずがない。


「そんなんじゃないですよ。……もう、色恋は懲り懲りだっていうことです」


「まあ、別れてから数日だものね。気が変わったら言ってちょうだい。とびきりいい子を紹介してあげるから」







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