悪夢と猫
「よし、来い!」
アランが勢いよく広げた紙に、ホテプが全力で体当たりを食らわせる。
その光景は、まるで障子紙を破ろうとして躍起になっている猫のようだった。
だが、その紙は破れるどころか、しなやかにホテプの衝撃を受け流す。
弾き飛ばされたホテプは、そのまま床にポテッと着地した。
「さすがは五十ヶ諸島の紙だな。丈夫でしなやかだ」
アルスマグナの東区は、数多くの橋で結ばれた諸島地帯だ。
アジアに近い温暖多湿な気候を活かし、東方由来の農産物や工芸品が数多く生産されている。
最近では貴族の間で『ジャポニズム』と呼ばれる異国情緒あふれる文化が流行しており、この地域の製品は特に注目を集めていた。
アランが手にしているのも、和紙に似た独特の強靭さを備えた五十ヶ諸島製の逸品である。
「この紙に、オリオンの鱗粉を錬成する」
アランは決意を込めて呟いた。
最近屋敷に住み着いた魔蝶々は、その後、冒険者ギルドのシュウに調査を依頼した結果、南の大陸から渡ってきた『月光蝶』という稀少な種であることが判明した。
昼行性が一般的な蝶にしては珍しく、彼らは夜行性だ。
夜の闇に完全に溶け込んで行動し、花の蜜を吸って生きる。
その翅を覆う金属粉のような鱗粉は光を複雑に反射し、構造色によって自らの姿を消すステルス機能まで備えているという。
さらには高い撥水性を持ち、水面に浮かんで休息を取ることもできるのだ。
アランはその神秘的な月光蝶に、夜空に輝く狩人の名を借りて『オリオン』と名付けた。
五十ヶ諸島の紙とオリオンの鱗粉を錬金窯へ投入し、均等に魔力を注ぎながら、ゆっくりと撹拌して錬成を進めていく。
窯の中では、オリオンの鱗粉がまるで星屑のように眩い光を放っていた。
紙や粉といった脆い素材を扱う際、強い魔力を一気に注ぎ込んで短時間で仕上げる手法は向かない。
繊細な素材であればあるほど、素材と対話するように、常に最適の魔力を注ぎ続ける繊細さが求められる。
ミントのような芳香を放つ『ミミミミ人』という種族は、この時、本当に素材の声が聞こえるという。アランはかつて師匠から、極限まで集中を高めた人間もまた、稀にその領域に至ることがあると聞かされたことがあった。
「……」
魔物由来の素材は、それ自体が固有の魔力を帯びている。
それは錬成の際、注ぎ込まれる魔力と激しく反発することもあれば、逆に術者の力を底なしに奪い去っていくこともある。
オリオンの鱗粉は、まるでアランの意識までもを錬金窯の奥底へと引きずり込もうとしているかのようだった。
その時、脳の芯に直接響く不気味な羽ばたき音が、警告のように激しく鳴り響く。
それでも、アランは退かない。
この錬成の先にある――「黄金の一歩」を踏み締めるために。
「はぁ……っ、はぁ……」
錬成を終えた瞬間、全身の毛穴から噴き出すような汗が止まらなくなった。
魔力の枯渇による疲労は、すでに限界を超えている。
アランの母は庶民の獣人だが、かつて貴族や豪商が通う高級娼館に身を置いていた。
その出自ゆえ、アランは自身の父親が魔力の高い貴族の類いであることを半ば確信していた。
事実、アランは庶民としてはそれなりに多い魔力量を持っていた。
しかし、それでもなお、オリオンの鱗粉は彼から根こそぎ魔力を奪い去っていったのだ。
「出来た……」
オリオンの鱗粉と五十ヶ諸島の紙を錬成して出来上がったものは、銀色の紙そのものだった。
アルミホイルのようにも見えるが、そこには月光を凝縮したような幻想的な輝きが宿っている。
「まるで、あの都市伝説だな……」
アランは、かつて耳にしたある話を思い出した。
墜落したUFOの残骸を回収した軍関係者が目撃したという、「紙のように薄く、どれほど丸めても一瞬で元の平らな状態に戻る不思議な金属片」
苦労の末に完成した素材を粗末にするのは忍びなかったが、アランは意を決して、その紙を手のひらでくしゃくしゃに丸めてみた。だが、期待したように勝手に元に戻る気配はない。
「さすがにUFO並みとはいかないか……ん? なんだ」
丸まった紙を広げてみると、不思議なことに深いシワがほとんど残っていない。
指先で軽く撫でるように伸ばすだけで、すっかり元の滑らかな状態に戻ってしまった。
魔力を持つ錬成品は、その魔力量に比例して強靭になる。
それゆえ、錬金術で生み出された紙や塗料は、市場でも常に高い人気を誇る。
以前手がけた『段ボール』は、やり方さえ知っていれば一般人でも作れる程度の魔力で済むため、どうしても強度は低くなる。
対してこの紙は、強力な魔力を帯びたオリオンの鱗粉を惜しみなく使っている。
布のようなしなやかさと、銀紙のような硬質な性質。そして、驚異的なシワの復元力。
アランは、自身の手に残る未知の感触に確かな手応えを感じていた。
「これがうまくいけば、保温箱や、他にも色々な用途に使えるかもしれないな……」
アランが喜びを噛みしめたのも束の間、激しい眩暈に襲われてバランスを崩した。
魔力の枯渇と共に、体力も限界まで使い果たしてしまったらしい。
アランは食事を取ることも、風呂に入ることもままならず、辛うじて魔力回復ポーションを喉に流し込むと、そのままベッドへと倒れ込んだ。
「……ん……っ」
その夜、アランはひどい悪夢にうなされていた。
出口のない真っ黒な世界を、巨大な蛇のような怪物が追いかけてくる。
その巨体に追い詰められ、絶体絶命の危機に陥ったアランの前に、それは現れた。
「黒い、ファラオ……?」
エジプトの壁画から抜け出してきたような、奇妙な威厳を纏った存在。
しかしその顔は漆黒に塗り潰され、どのような表情を浮かべているのかさえ読み取れない。
『……ニャルラト・ホテプ』
その黒い影が何事かを唱えた瞬間、暗黒の世界に強烈な光が差し込み、巨大な蛇は跡形もなく消え去った。
「……なんだか、変わった夢を見たような気がするな」
翌朝、覚醒しきらない頭でアランが傍らを見ると、そこには丸くなって眠るホテプの姿があった。
アランは愛おしさを込めて、その柔らかな体を優しく撫でる。
このアルスマグナには、悪夢にうなされた時、飼い猫が主人の夢の中まで入り込んで助けてくれる――という、古い伝承が残っていた。




