静かな夜の闖入者
あらかじめ決めた時間と休息日を守る方が効率が良い――
昔、エレナにそう言われたこともあり、アランはこの日を休息日としていた。
「あっ、魔蜂だ」
視線の先でふわふわと舞う黄色い丸い物体は、この世界の蜂だった。
前世に比べると、この世界の虫は「魔物」に分類される種もいて、サイズがかなり大きい。
屋敷の庭を悠然と横切っていくその魔蜂は、ホテプとさほど変わらない体躯をしていた。
色合いこそセイヨウミツバチに近いが、長い毛で包まれているせいか、どこか愛嬌がある。
「お~い、アラン! お届け物だ。いろいろ注文してたな」
「カイ。助かるよ、新しい素材をいろいろ試したくて」
アランの屋敷に現れたのは、運送ギルドで働く友人のカイだった。
彼は腕が四本ある「ウデウデ人」専用の制服を爽やかに着こなし、器用に荷物を運び入れてきた。
「そういえば、この間もらった『温泉の素』のレポートだが。同僚に大人気でな。家族から汗臭いって言われなくなったって、みんな喜んでたぜ。もっと欲しいって言ってる奴もいる」
手渡されたレポートには、忌憚のない意見がびっしりと綴られていた。
何人かに配ったことで、それぞれの好みや要望が見えてきたようだ。
「へぇ、それは良かった。要望があるなら、もっと改良してみようかな」
「おう、頼むわ。運送ギルドは仕事柄、どうしても汗臭くなるからな。仕方ねえとは思いつつも、上司からは清潔感に気をつけるよう口うるさく言われてんだ」
「だいたい汗臭いのは、服に付着した菌が原因なんだ。頻繁に洗った服に着替えるか、濡れたタオルで頻繁に拭くことを徹底すれば、かなり改善されると思うよ」
「そうか、同僚たちにも伝えておくわ」
この国の夏はカラッとしているが、それでも日差しは強く、汗の悩みは尽きない。
「……そういえばさ。さっきから、やけに魔蜂が飛んでないか?」
「まさか……」
アランが嫌な予感を抱きつつ、魔蜂が飛び去った方角――屋敷のすぐ近くにある空き倉庫に目を向けた。
そこには、除夜の鐘のような「魔蜂の巣」が建設されていた。
猫ほどの大きさがある蜂たちが、壁面にミチミチとひしめき合っている。
前世の感覚なら、見た瞬間に気絶してもおかしくない光景だった。
「……落ち着け。魔物なら冒険者ギルドに報告すれば対処してくれるはずだ。俺がちょっと行ってくるから、お前は絶対に刺激するなよ」
「おう、任せとけ……」
前世の記憶によれば、蜂は黒いものに刺激される習性があったはずだ。アランは咄嗟にホテプを抱き寄せると、倉庫の方へ近づかないようその身を隠させた。
「こんにちは。冒険者ギルドのモモ・プーリです!」
「同じく、シュウ・セカンです」
やってきたのは、ネズミの耳を持つ獣人の少女モモと、四つの瞳を持つメメ人の魔導師シュウだった。
冒険者ギルドは依頼を受けて魔物を退治するだけでなく、最近では貴族の援助を受けて魔物の養殖や効率的な素材採取の研究も行っている。貴重な素材を扱う錬金術師のアランにとって、彼らはある種、頭の上がらない協力者でもあった。
「あまり近づかないでくださいね。滅多に刺しませんが、立派な針を持ってますから」
「わぁ、見てシュウちゃん。みちみちだねぇ!」
能天気な声を上げながらモモが網を構えて近づくと、魔蜂の軍団が一斉に彼女へと群がった。
あっという間にモモの姿は消え、そこには魔蜂で構成された『蜂のかまくら』とでも言うべき異様な光景が出現した。
「ギャーッ! あ、熱いーっ! 出してーっ!」
「……熱殺蜂球ですね。侵入した外敵を、おしくらまんじゅうの熱で蒸し殺すやつです」
冷静に解説を述べるシュウに、アランは思わず身を乗り出した。
「ちょっ、大丈夫なんですか!? 仲間が死んじゃいますよ!」
「やれやれ、これだから新人は……」
シュウは溜息をつくと、巨大なスポイトのような不思議な道具を取り出した。
その先端から強力な吸引力を発生させると、モモに群がっていた魔蜂を一匹ずつ、ポンポンと小気味よい音を立てて吸い込み始めた。
このうちすべての魔蜂は吸い込まれ、布製の大きな袋にミチミチに詰め込まれた。
「その魔蜂は退治しないんですか?」
「これはミツバチタイプですからね。害獣指定されていない個体は、積極的な討伐はしないんですよ」
「冒険者ギルドでは、討伐依頼が出ていない種を勝手に退治しちゃいけない決まりなんだよねぇ」
モモの説明に、アランは納得したように頷いた。
魔物と言っても、それはゲームに出てくるような単純な『エネミー』ではない。
この世界に息づく野生生物だ。
そこには自然界の食物連鎖やサイクルがあり、ギルドも無差別に討伐を行っているわけではないらしい。
「じゃあ、その魔蜂はどうするんですか?」
「一部を研究所に渡すほかは、養蜂家に引き取ってもらいます」
「なるほど、ハチミツを作るのか」
「お~い、アラン! こんなに立派な巣蜜が手に入ったぞ!」
カイが引いてきた荷台の上には、先ほどの巨大な魔蜂の巣が鎮座していた。
その断面からは、黄金色の蜜がとろりと溢れ出している。
高級品を思わせる芳醇で甘い香りが周囲に漂い、それまで大人しくしていたホテプも、目を輝かせてぴょんぴょんと跳ね回った。
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
見たこともないほど豪華なハチミツを前に、ホテプはご機嫌な様子で独自の歌を口ずさんでいた。
「食べよ、食べよ!」
「新鮮ですから、巣ごと食べられますよ」
全員で魔蜂の巣をすくい取って頬張る。濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、巣の部分はまるで焼き立てのワッフルのようにサクサクとした心地よい食感だった。
「美味い!」
カイとモモが次々と平らげていく傍らで、アランがホテプに巣蜜を一口食べさせると、その瞳がパッと輝いた。
次の瞬間、ホテプは屋敷の屋根に届くほどの高さまで跳ね上がり、まるでスーパーボールのように縦横無尽に弾み始めた。
「……蜜蝋ですから、あまり食べ過ぎないでくださいよ」
冷静なシュウの忠告を聞きながら、アランは少し不安げに尋ねた。
「っていうか今更だけど、これ、俺たちが食べちゃって良いのか?」
「これくらいの役得、ギルドも認めてくれるよぉ」
モモは口いっぱいに巣蜜を溜め込みながら、もごもごとした口調で答える。その膨らんだ両頬を見ていると、彼女には本当にハムスターのような頬袋があるのではないかと疑いたくなってしまう。
その夜。後の仕事がなかったアランは、お礼と称してカイ、モモ、シュウの三人を縁側に招いた。そこからは、ホテプがいつの間にか作り上げた小さなピラミッドや、妙に完成度の高い枯山水庭園が見える。アランは秘蔵の蜂蜜酒を三人の杯に注いだ。
「かんぱ~い!」
「ってか、本当にいいのか? お礼なんて貰っちゃって」
恐縮するカイに、モモが酒杯を揺らしながら笑いかけた。
「人付き合い、人付き合い! 軍人さんじゃないんだから、これくらい誰に咎められることもないよ」
「ところでアランさん。あの庭の造形、東洋の古い文化のように見えますけど……」
四つの瞳を細めて庭を観察していたシュウが、不思議そうに問いかけてきた。
アランは遠い目をして、酒を喉に流し込む。
「……気づいたら、ホテプが作ってたんだ」
縁側の座布団の上で、ホテプが丸くなっている。
モモがちょいちょいと指を伸ばして構おうとするが、ホテプはそのたびに、するりと身をかわして離れていった。自分から近づくのは良いが、他人から構われるのは嫌がる――まさに猫のような習性だ。
「ん? 翅……?」
アランがふと庭に目を向けると、闇夜から何かが飛来した。
ふさふさの体毛に包まれた胴体に、青い宝石を思わせる複眼と二本の触角。
そして、芸術品の扇子のように繊細な翅をふよふよと羽ばたかせている。
「モスモスか……?」
「いえ、魔蝶々ですね。おそらく、さっきの魔蜂たちが持ち込んだ花粉の香りに釣られてやってきたんでしょう」
シュウが観察しながら答えた。
それはアランがヒッポリュテから聞いた巨大な蛾ではなく、大きな蝶の魔物らしい。
なぜこの世界で蛾を『モスモス』と呼ぶのかは定かではないが、目の前の生物は明らかに優雅な蝶の姿をしていた。
「毒はないのか?」
「図鑑で見たことがあります。これは他大陸に生息する種ですね。確か毒はなかったはずですよ」
「他の大陸から……?」
「蝶の活動範囲は、意外と広いんです。気流に乗り、海を越えて数千キロを移動することもありますから」
シュウの言葉を聞き、アランは前世で知ったオオカバマダラの壮大な旅を思い出した。
カナダからメキシコまで、命を繋ぎながら四千キロメートルを移動する彼らの物語は、映画やドキュメンタリーにもなるほど有名だった。
「凄いな君は。そんな小さな体で、海を越えてやってきたのか」
アランが感嘆の溜息をつきながら語りかけると、その魔蝶々は蝶特有のストローのような口を伸ばし、あろうことかアランの蜂蜜酒を器用に飲み尽くしてしまった。
「あっ……」
魔蝶々は、呆気に取られるアランを尻目に、ふわりと夜空へ飛び上がった。
星空を写し取ったような翅の模様が、本物の夜空へと溶け込み、瞬く間にその姿が見えなくなる。まるでおとぎ話の一節を読んでいるかのような、幻想的な一瞬だった。
「魔蝶々は、天敵から身を守るために『隠蔽魔法』が使えるんですよ」
シュウが空を仰ぎながら静かに解説する。皆が名残惜しそうに空を見上げていると、不意に、足元でホテプが弾むような音を立てた。
「え?いた……」
アランがハッとして振り返ると、そこには、先ほど消えたはずの魔蝶々が平然と姿を現していた。
その場所がよほど気に入ったのか、魔蝶々はアランのすぐ隣に着地し、再びその美しい翅を休めている。
どうやら、新たな居候としてこの屋敷に住み着いてしまったようだった。




