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婚約破棄された令嬢、辺境で「半分を見捨てる決断」をする 〜全員を救えない世界で、彼女は最善を選ぶ〜  作者: 結城ヒナ


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第6話 それでも涙は出ない

 午後の屋敷は、やけに広く感じられた。


 廊下は変わらず長く、天井は高い。

 装飾も、調度も、何一つ変わっていない。


 だが。


 音が、ない。


 足音だけが響く。


 使用人の気配はある。

 だが、声がない。


 笑いも、雑談も、指示のやり取りも。


 ——すべて、消えている。


 私は歩く。


 一定の速度で。


 姿勢を崩さず。


 視線を前に向けたまま。


 ——問題ない。


 そう判断する。


 環境の変化に過ぎない。


 対応可能だ。


 だが。


 足取りが、わずかに重い。


 理由を探す。


 疲労ではない。

 身体は正常だ。


 では、なぜか。


 答えは出ない。


 私はそのまま庭へ出る。


 整えられた庭園。


 剪定された木々。

 均等に並ぶ花。

 人工的な美しさ。


 いつもと同じ。


 だが。


 そこにも、人はいなかった。


 庭師の姿もない。


 作業音もない。


 風だけが、葉を揺らす。


 私は立ち止まる。


 中央の噴水の前で。


 水音が、静かに響く。


 それだけだ。


 ——静かすぎる。


 その認識が、浮かぶ。


 だが、それは問題ではない。


 私はそう判断する。


 静けさは、環境の一部だ。


 ただ。


 ——なぜ、私はここに来たのだろう。


 その問いが、遅れて浮かぶ。


 目的がない。


 ただ歩いて、ここに来た。


 それは非効率だ。


 私は眉をわずかに寄せる。


 思考を整理する。


 今、必要なのは。


 新しい行動指針だ。


 だが。


 それが、定まらない。


 その時。


「……お嬢様」


 背後から声がする。


 振り返る。


 侍女の一人だった。


 若い。


 まだ経験の浅い者。


「何か」


 私は問う。


 彼女は、少しだけ躊躇う。


 そして。


「……本日は、お休みになられては」


 そう言った。


 提案。


 だが。


 その内容は、不適切だ。


「休む必要はありません」


 私は即座に返す。


「私は健康です」


「いえ、そうではなく……」


 彼女は言葉を探す。


 不慣れだ。


 だが。


 その視線は、私を見ている。


 まっすぐに。


 ——何を、見ている?


 私は分析する。


 彼女の表情。


 そこにあるのは。


 心配。


 明確な感情。


 私はそれを理解する。


「問題ありません」


 私は繰り返す。


 それが事実だから。


 だが。


 彼女は、引かない。


「……お嬢様は」


 一歩、近づく。


「昨日から、ずっと同じでいらっしゃいます」


 言葉が、刺さる。


 私はその意味を考える。


 同じ。


 ——当然だ。


 変わる理由がない。


「それは、適切な状態です」


 私は答える。


「状況に対して、冷静に対処しています」


 正しい説明。


 だが。


 彼女の顔は、さらに曇る。


「……違います」


 否定。


 私はわずかに目を細める。


「何が」


「お嬢様は……何も、感じていらっしゃらない」


 その言葉は。


 静かに、落ちた。


 私は、沈黙する。


 意味を、分析する。


 何も感じていない。


 ——それは、事実だ。


 私は感情を優先しない。


 合理的判断を行う。


 それが正しい。


 だが。


 なぜ、それが問題になるのか。


「それは、非合理です」


 私は言う。


「感情は判断を歪めます」


 教えられてきた通りに。


 だが。


 彼女は首を振る。


「でも……」


 言葉が続く。


「普通は、悲しいはずです」


 その一言。


 私はそれを、受け取る。


 悲しい。


 その感情を、定義する。


 喪失に対する反応。

 価値の低下に対する内的変化。


 ——該当する事象は存在する。


 では。


 なぜ、それが発生していないのか。


 私は、自分を観察する。


 内側を。


 何もない。


 静かだ。


 変化はない。


 だから。


「……必要ありません」


 私は答える。


 結論として。


「感情がなくとも、問題はありません」


 それが正しい。


 だが。


 彼女の目に、涙が浮かぶ。


「……それは」


 震える声。


「それは、本当に……いいことなんですか?」


 その問いは。


 これまでと、違った。


 父の問いとも、母の問いとも。


 違う。


 より、近い。


 個人的な。


 ——なぜ、泣く?


 私は彼女を見る。


 理解できない。


 彼女が泣く理由が。


 私の状況は、合理的に処理されている。


 問題はない。


 それなのに。


 なぜ。


 その疑問が、強くなる。


 これまでよりも。


 明確に。


 そして。


 その瞬間。


 胸の奥で、何かが。


 わずかに。


 痛む。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに。


 私はそれを捉える。


 ——今のは、何だ。


 すぐに分析する。


 身体的異常か。


 精神的反応か。


 だが。


 再現しない。


 消えている。


 ただ。


 痕跡だけが、残る。


 私は立ち尽くす。


 侍女は、涙を拭いながら頭を下げる。


「……失礼いたしました」


 彼女は去る。


 一人になる。


 再び。


 庭の中で。


 水音だけが響く。


 私は動かない。


 思考する。


 先ほどの感覚。


 あれは。


 何だったのか。


 答えは出ない。


 だが。


 確実に。


 何かが、あった。


 私はゆっくりと息を吸う。


 そして。


 初めて。


 ほんのわずかに。


 自分の内側に向けて、問いを投げる。


 ——私は。


 本当に、何も感じていないのだろうか。


 その問いは。


 消えない。


 残る。


 そして。


 静かに。


 形を持ち始める。


 だが。


 涙は、出なかった。

第6話までお読みいただきありがとうございます。


ここで主人公に、初めて“違和感の種”が生まれました。

しかしまだ、それは小さく、本人は認識しきれていません。


次からは過去編に入り、

「なぜ彼女がこうなったのか」が描かれます。


ここを読むと、第1話の婚約破棄の意味が変わります。


少しでも続きが気になった方は、ブックマークや評価をいただけると嬉しいです。


物語はここから、“内側”へと深く潜っていきます。

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