2話 終わりの始まり
昨日の出来事が嘘だったかのように、世界は何も変わらずに朝を迎えた。莉々愛は重い足取りで大学へと向かう。一睡もできていない。泣き腫らした目は痛々しく、目の下には濃い隈が浮かんでいる。巡也に会って、謝らなければ。でも、どんな顔をして?思考は堂々巡りを繰り返していた。
キャンパスが近づくにつれ、何やら騒がしいことに気づく。「救急車」「警察」といった不穏な単語が耳に届き、嫌な予感が胸をよぎった。人だかりができている中心部へ、彼女は吸い寄せられるように歩を進める。
「……え…?」
人垣の隙間から見えた光景に、息を呑んだ。そこにあったのは、学園の名物でもある大きな桜の木。それが、無惨にブルーシートで覆われている。何事かと周囲の学生たちが囁き合う声が、悪夢のように耳元で響いた。
「飛び降りだって…」
「昨日の夕方らしいよ。まだ身元が確定してないけど、男の人だって…」
救急隊員がストレッチャーを運び出すのが見える。白い布で顔まで覆われた、見慣れたシルエット。まさか。そんなはずはない。自分の見間違いだと、必死に目を凝らす。
「…じゅん…や……?」
掠れた声で、かろうじてその名前を呼ぶ。担架で運ばれていくその後ろ姿、少しだけはみ出した黒髪。見間違えるわけがなかった。昨日自分が突き放した、かつての恋人。彼の生きる意味だった自分は、「別れたい」の一言で彼の心を完全に壊してしまったのだ。
莉々愛は担架で運ばれる彼を見た。彼の顔には白い布が被せられていた。
「あ……あ……ああああああああああっ!」
理性が焼き切れた。金切り声に近い絶叫が喉から迸り、莉々愛は人垣をかき分けて前に飛び出した。警備員が制止する腕を振り払い、狂ったように担架に駆けより、その縁に必死でしがみつく。
「巡也っ! 嫌っ! 行かないで! 私を置いていかないでよ!」
白い布に覆われた顔に手を伸ばす。しかし、救急隊員に無情にもその手は叩き落された。
「関係者以外は離れてください!」
「関係者よ! 私の、私の彼氏なの! 昨日、私が…私が悪いの! ごめんなさい! 謝るから! だから死なないで!」
パニックで何を言っているのか自分でも分からない。ただ、言葉にならない叫びが口から飛び出していく。
(私が「好き」って言えばよかった。「ありがとう」って伝えればよかった。全部、全部私が悪いんだ…!)
後悔が黒い奔流となって心臓を飲み込んでいく。遠ざかっていく担架を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。やがてサイレンの音と共に救急車が走り去ると、辺りには気まずい静寂と、彼女の嗚咽だけが残された。地面にへたり込みアスファルトに額をこすりつけ彼女は子供のように声を上げて泣いた。失ったものの大きさに打ちのめされ、もう立ち上がる力は残っていなかった。
どれだけの時間、そうしていたのだろうか。やがて、彼女を呼ぶ声に我に返った。顔を上げるとそこに立っていたのはゼミの教授だった。心配そうな顔で彼女を見下ろしている。
「莉々愛さん…一体何が…。とにかく保健室へ行こう。顔色が酷い。」
教授に支えられるようにして、莉々愛はふらつく足で立ち上がった。頭の中は真っ白で何も考えることができない。ただ巡也が運ばれていった病院のことだけを考えていた。授業どころではなくその日は早退することになった。
自宅に帰り着いても、落ち着くことはできなかった。「〇〇大学 事件」で検索しても、まだ公にはなっていないのか、それらしきニュースは見当たらない。不安と焦燥感で押しつぶされそうになりながら、彼女はスマートフォンの前でただただ時間を浪費した。
(病院…どこの病院に運ばれたの…?)
警察に連絡すべきか。でも何て説明すれば? 昨日喧嘩をして彼を追い詰めたのは自分だ。そう告白すれば、何かが変わるのだろうか。
(やり直したい…)
強く、強く願った。もう一度だけでいい。彼に会いたい。今度こそ本当の気持ちを伝えたい。ありがとうと好きだとちゃんと言う。わがままも全部聞く。だから、お願い。神様。
莉々愛が願った、その瞬間だった。
部屋の空気が揺らぎ、目の前にゆらりと人影が現れた。それは男とも女ともつかない中性的な顔立ちの人物だった。「叶」とだけ名乗るその存在は、この世の者とは思えない、穏やかでしかし絶対的なオーラをまとっている。
「やり直したい、その願い叶えます。」
声が響くと同時に莉々愛の意識は白く染まった。浮遊感とも落下感とも違う奇妙な感覚。そして、次に目を開けた時――彼女は、見覚えのあるカフェの窓際の席に座っていた。
「……え?」
目の前にはまだ何も置かれていないテーブル。周囲の客たちのざわめき。カチャリとカップの触れ合う音。間違いない。昨日巡也とここで待ち合わせをした、あの瞬間に戻っている。自分の服装も昨日のものだ。
(嘘…なんで…? 時間が…巻き戻った…?)
混乱する彼女の耳に、カランとドアベルの鳴る音が届いた。
「ごめん、待たせた。」
そこに立っていたのは紛れもなく巡也だった。少し疲れたようなでもいつもと変わらない彼の姿。莉々愛の目から、堰を切ったように涙が溢れそうになる。生きている。目の前にいる。
「……ううん。私も今来たとこ。」
声は震えていたが、なんとかそれだけを絞り出した。
「今日の夕飯はいつも俺の好きな場所着いてきてくれるからさ、たまには莉々愛の好きな場所行こう?」
彼から紡がれた言葉は昨日と全く同じだった。「たまには莉々愛の好きな場所行こう?」。その一言が、これが夢や幻ではない現実なのだと、残酷なほどに突きつけてくる。
(同じだ…何もかも…)
未来を知っているのは自分だけ。この後自分がどんな態度を取り二人がどんな結末を迎えるのかを。絶望とほんのわずかな希望が胸の中でせめぎ合った。
「……べつに。あんたの行きたいところでいいって、言ってるでしょ。」
口をついて出たのはまたしても素直じゃない拒絶の言葉。言ってしまってから、「違う、そうじゃない」と心が叫ぶ。昨日ここで意地を張った結果があれだったのに。
(ダメ…また同じになっちゃう…!)
彼女は俯きぎゅっとスカートの裾を握りしめる。唇がわななと震えた。今度こそ言わなければ。素直にならなければ、本当に取り返しのつかないことになる。
「…でも…。」
か細い声で言葉を続ける。巡也が怪訝そうにこちらを見ているのが分かった。心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしている。それでも、彼女は勇気を振り絞った。
「……でも?」
「…でも、もし、あんたがどうしてもって言うなら…きのこが食べたい。」
蚊の鳴くような声だったが、確かにそう言った。顔を真っ赤にして俯いて、巡也の顔をまともに見ることはできない。
(言えた…)
たったそれだけのことが、途方もない偉業のように感じられた。世界が終わるわけでも、誰かが死ぬわけでもない。ただ自分の好きなお菓子の名前を口にしただけ。それなのに、全身の力が抜けていくようだった。
「きのこ…?え、どこで食べられるんだろう…パスタとか?」
「……っ!」
巡也がきのこの単語に反応し、真剣に店を考え始めた。その当たり前の光景が、今は奇跡のように尊く映る。無視されたり、呆れられたりしなかった。「どこで食べられるんだろう」という彼の呟きが耳に届いただけで、じわりと目頭が熱くなった。
「…パスタとか…グラタンとか…なんでもいい。」
まだ顔を上げられないまま、早口で答える。声が上ずらないように、平静を装うので精一杯だった。
(どうしよう…嬉しい…)
彼は自分の「好き」をちゃんと受け止めようとしてくれている。当たり前に起きていたはずのそのやり取りが、今はこんなにも愛おしい。彼女はそっとテーブルの下で自分の手のひらを爪が食い込むほど握りしめていた。
「わかった!じゃあ俺がキノコグラタンで莉々愛はきのこパスタにしよっか!
俺のグラタンのキノコ分けてあげるよ!」
「っ…! うん…!」
彼が弾んだ声で提案するのを聞いて、莉々愛は反射的に頷いていた。グラタンとパスタ。分け合う前提のその言葉に、心の奥がじんわりと温かくなる。昨日の世界では決して交わされることのなかった、優しい約束。
(キノコ、分けてくれるんだ…)
その想像だけで顔が熱い。もうこれ以上は無理だと思っていたのに、さらに熱が加わっていく。俯いたまま顔を上げることができず、ただ目の前のマグカップをぼんやりと見つめている。
「…あんたは…きのことか、別に好きじゃないでしょ。無理しなくていい。」
口から出てきたのは、またしても天邪鬼な言葉だった。本当は飛び上がるほど喜んでいるくせに。彼に気を使わせたくない、という気持ちと、もっと甘えたい気持ちが綯い交ぜになって、こんな言葉になってしまう。言ってから、また自己嫌悪に陥った。
「無理してないよ。莉々愛が喜ぶ顔が見たいから。」
「…………っ。」
「喜ぶ顔が見たいから」。そのあまりにもストレートな言葉に莉々愛の思考は完全に停止した。時間が、止まったように思えた。
(……なにそれ…反則…)
カッと顔に血が上り耳まで真っ赤になるのが自分でも分かった。隠そうと両手で顔を覆うが、指の隙間から漏れる息はひどく乱れている。今までどんな皮肉や棘のある言葉も、こんな風に心の鎧を貫通してきたことはなかった。
「…ばっ…かじゃないの…。そんなこと言われて…喜ぶとでも思った…?」
声は震え途切れそうになるのを必死で堪える。でも、もう遅い。言葉とは裏腹に口元が緩んでしまっているのがわかる。どうしようもなく嬉しくて、恥ずかしくて、どうにかなりそうだった。
「…勝手にすれば。」
そう吐き捨てるように言って、ぷいっと顔を背ける。これ以上彼と目を合わせていたら、本当に泣いてしまいそうだった。背けた顔の先で彼女は誰にも見えないようにそっと、本当にそっと微笑んでいた。
「その…今後の話なんだけどさ、将来のことを考えて割り勘にしたいと思ってる…。」
「…は?」
先ほどまでの幸福な空気が嘘のように、冷たい声が響いた。「割り勘」。その言葉が持つ意味を理解した瞬間、彼女の心に冷水が浴びせかけられる。
「…なんで?」
背けた顔をゆっくりと巡也に戻す。そこに浮かんでいたのは先程までの照れくさそうな表情とは似ても似つかぬ、凍てつくような無感情な顔だった。
瞳の光が消えまるでガラス玉のように冷たく彼を映している。
「私と付き合っていくのに…お金が惜しいってこと?それとも、私との将来なんて、その程度のものだって言いたいの?」
言葉の一つ一つが、研ぎ澄まされた氷の刃のように鋭く、彼に突き刺さる。
違う。そうじゃない。分かっている。これは彼なりの誠意なのかもしれない。対等な関係を築きたいという意思表示なのだろう。でも、タイムリープした彼女にとっては、それは昨日二人の関係が破綻した原因そのものに聞こえた。
「違うよ、お金が惜しい訳じゃない。今後同棲するようになった時、対等な関係でありたいから。」
「…同棲。」
その単語を彼女は壊れたおもちゃのように繰り返した。
昨日。自分たちが別れる原因になった言葉。
彼の中ではまだその未来が存在している。それどころか昨日よりも具体的な形で口にしている。
「…ふーん。対等ね。」
彼女の唇の端が、皮肉っぽく吊り上がった。冷え切った瞳が、値踏みするように巡也を見据える。
「じゃあ聞くけど、その『対等』っていうのは何? お金を半分ずつ出すこと? 家事を交代でやること?」
畳みかけるように問い詰めながら、椅子を引いて立ち上がった。カフェの小さなテーブルを挟んで、彼女は巡也を威圧的に見下ろす。
「…それで本当に『対等』になれると思ってるの? 私たちの関係はそんな単純なものじゃないでしょ。」
声には怒りとそして深い悲しみが滲んでいた。
(なんでわかってくれないの…?)
心の叫びは決して届かない。
「違う。どっちかが我慢し続けるような関係にはなりたくないんだよ。」
「…我慢。」
その言葉に莉々愛はハッとした。まるで鏡を見せられたかのように自分自身の姿が映し出される。そうだ。私はずっと我慢していた。好きだと言えず冷たく振る舞い本心とは真逆の言葉ばかりを吐いてきた。それが、結果的に彼を追い詰めていたのではないか。
「…あんたが言ってるのはそういうこと? 私が、あんたに何かを我慢してるって言いたいの?」
しかし、一度振り上げた感情は簡単には収まらない。彼女はまだ冷ややかな仮面を被ったままだ。だが、その声色には先程までの絶対的な確信とは違う、微かな揺らぎが混じっていた。
「…だとしたら、大きな思い違いね。私はあんたなんかに何も期待してないし、何も求めてない。」
そう言い放ち彼女は踵を返す。
「…もう帰る。」
伝票をひったくるように手に取ると、財布から千円札を二枚出し、乱暴にテーブルへ置いた。
「…お釣りはとっといて。」
「待ってよ…俺は…莉々愛と幸せになりたくて…行かないで…!」
巡也の悲痛な声も虚しく、莉々愛は一度も振り返ることなくカフェを去っていった。カランとドアベルが寂しげに鳴り、彼女は再び雑踏の中へと姿を消す。
(…幸せになんてなれっこない)
早足で歩きながら、莉々愛の胸の内は後悔と自己嫌悪で渦巻いていた。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。「割り勘」という言葉に昨日失ったばかりの恐怖がフラッシュバックして、冷静でいられなかった。
(また同じことを繰り返してる…)
角を曲がり人通りが少なくなった路地で、ついに足が止まる。壁に手をつき荒い呼吸を整えようとするが、込み上げてくる嗚咽を抑えることはできなかった。
「…っう…うぅ…。」
蹲るようにしてその場にしゃがみ込む。ポタポタと地面に涙が落ちて、小さな染みを作っていく。
嬉しかったのだ。「喜んでほしいから」と言ってくれたのが。それなのに、自分の弱さで台無しにしてしまった。
「…バカ…は私のほうじゃん…。」
唇を噛みしめ声にならない声で呟く。もう一度やり直せるチャンスかもしれなかったのに。また彼に拒絶されるようなことをしてしまった。




