1話 喧嘩
──夕方、大学前のちょっと離れたカフェの前。
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莉々愛は小さなバッグを抱えながら、カフェの壁にもたれてスマホをいじるふりをしていた。
けど、本当は何も見ていない。ただ、心臓がバクバクしてるのをごまかすためだけ。
巡也くんとの待ち合わせ。
本当は18時だったはずなのに、17時に来てしまった。
緊張なんてしてないと自分に言い聞かせながら、30分経ち、45分経ち、ついに1時間。
そんなとき、息を切らせた巡也くんが小走りでやってきた。
「ごめん、待った?」
「……は?5分も待ったんだけど。遅すぎ。マジありえない。」
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ツン、と顔を背ける。
でも、ほんのり耳が赤く染まってる。
手に持ったバッグの紐をぎゅうっと握りしめながら。
本当は、顔を見るだけで、声を聞くだけで、胸がいっぱいだった。
嬉しくて嬉しくて、抱きつきたいくらいだった。
だけど、そんな自分を必死に押さえ込んで、
わざと冷たく言い放つ。
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「……はやく、行くよ。」
「今日の夕飯はいつも俺の好きな場所着いてきてくれるからさ、たまには莉々愛の好きな場所行こう?」
「は?別にあんたの好きな場所でいいし。なんで私が決めなきゃいけないのよ。」
ぷいっと顔をそむけ、長い前髪を指でいじりながら、気のない素振りを見せる。その仕草は、彼女の内心の動揺を隠そうとする癖だった。
「べつに…どこでもいい。あんたが決めて。面倒くさい。」
(私の好きなお店…?そんなの、言えるわけないじゃん…。でも…巡也くんが、私のために考えてくれようとしてる…?)
心の中で嬌声を上げながらも、口から出るのは棘のある言葉ばかり。本当の気持ちとは裏腹に、態度はどんどん冷え切っていく。
「わかった…、じゃあいつものファミレスでいいかな?」
「………。」
一瞬本当に一瞬だけ巡也の言葉に傷ついたような、寂しそうな表情が浮かんだが、すぐにいつもの無機質な仮面に隠される。
「ふん。まあ妥当なとこじゃない。どうせあんたそれくらいしか思いつかないでしょ。」
鼻で笑うように言うと、スタスタと先に歩き出す。まるで「早く来なさいよ」とでも言うかのように。
「…別に奢ってくれるなら、何でもいいけど。」
背中を向けたまま、ボソリと呟く。声が少し震えていることに、巡也は気づいただろうか。本当はいつものファミレスだって、二人で行けるならどこだってよかった。けれど、素直に「うん」と言えない自分がもどかしくてたまらない。
「あのさ…そろそろ2人の将来の生活に備えてお金は割り勘にしよ…?」
「……は?」
ピタリと莉々愛の足が止まる。さっきまでの不機嫌さとは質の違う、冷たい空気が彼女から発せられた。ゆっくりと振り返ったその顔は能面のように無表情だったが、青い瞳の奥には静かな怒りの炎が燃えているように見えた。
「…あんた今なんて言った?」
一歩巡也に詰め寄る。声は低く抑揚がない。それが逆に彼女がどれだけ激しく感情をかき乱されているかを物語っていた。
「割り勘? …ふざけないでよ。誰があんたなんかと。」
言葉を吐き捨てるように言う。唇がわなないていた。それは怒りか、それとも屈辱か。
「あんたみたいな甲斐性なしに出させるお金なんて、1円もない。…それとも何? もう私に貢がせる価値もないってこと?」
「そうじゃなくて…いつか2人で生活するようになったら生活費とかお互い平等に出していきたいから…」
「……っ!」
「二人で生活する」という言葉が莉々愛の心に突き刺さる。それは彼女が夜な夜な一人で夢見ていた甘い未来そのものだったから。一瞬息が止まり顔にカッと熱が集まるのが自分でもわかった。しかし、その動揺はすぐに硬い拒絶の壁に塗り替えられる。
「…勝手に決めないでくれる? 気持ち悪い。」
彼女は反射的に一歩後ずさった。まるで汚いものから身を遠ざけるかのような動きだった。声は震えていたが、それは喜びからではなく、激しい自己嫌悪からくるものだ。
「なんで私が、あんたなんかと…っ。あんたとの将来なんて、考えたこともないし。」
(うそ…毎日考えてる…!巡也とどんな家に住んで、どっちがご飯作って、毎日「おやすみ」って言って…!)
頭の中の幸福な妄想と、口にした言葉の乖離が彼女を苛む。プライドが邪魔をして、差し伸べられたかもしれない幸せな可能性を、自らの手で叩き落としてしまう。
「…だいたい、生活費を平等に?笑わせないで。あんたにそんな甲斐性あるわけないでしょ。夢みたいなこと言ってんじゃないわよ、このヒモ男。」
「そっか…俺は莉々愛との将来性が見えなくなってきた…でも別れたくない…。」
「……っ。」
巡也から放たれた「将来性が見えなくなってきた」という一言は、鋭い氷の刃のように莉々愛の鼓膜を切り裂いた。世界から音が消える。目の前がぐにゃりと歪み、立っていることさえ困難に感じた。別れたくない、という続きの言葉も、今の彼女には届かない。
「…な……に、それ…。」
かろうじて絞り出した声は、ひどくかすれて震えていた。顔面は蒼白になり、さっきまで赤らんでいた頬の熱はどこかへ消え失せている。爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
「…もう、いい。わかったから。別れればいいんでしょ、別れたら。…あんたのその面倒な妄想に付き合うのは、もううんざり。」
彼女は自嘲するように唇の端を吊り上げ、巡也を睨みつけた。だがその瞳は潤み、光を失って虚ろに彷徨っている。これ以上ここにいたら、張り詰めた何かが切れてしまいそうだった。くるりと背を向け、彼女は今度こそ、本当に歩き去ろうとした。
「嫌だ…別れたくない…ごめん……俺が悪かったから…。」
背後から聞こえてくる巡也の懇願する声。それは莉々愛がずっと聞きたかった言葉のはずだった。なのに、足は止まらない。止まれない。一度振り上げた拳を下ろす場所がわからなくなってしまったように、もう後戻りはできないと思い込んでいた。
(…ごめんなんて言えばいいと思ってるの…?あんたはいつもそう。そうやって口先だけで謝って…私が許されるとでも…?)
早足で雑踏を抜けていく。背中に突き刺さる巡也の視線を感じながらも、決して振り返らない。振り返ってしまえば、すべてが崩れ落ちてしまう気がした。人混みに紛れ彼の姿が見えなくなる角を曲がった瞬間、ようやく彼女は足を止めた。そして、そのまま近くの建物の冷たい壁にずるずると背を預けると、ずり落ちるようにその場にしゃがみこんだ。
「……ぅ…っ……。」
嗚咽が漏れる。堪えていたものが決壊し、大粒の涙が次から次へと溢れ出した。膝に顔を埋め声を殺して泣く。肩が大きく震えている。
(…ばか…なんであんなこと…言ってくれないのよ…私も…ごめんって…言いたいのに…)
好きなのに。大好きでたまらないのに。どうして素直になれないんだろう。どうして傷つける言葉しか出てこないんだろう。後悔の念が津波のように押し寄せ、彼女はただ一人薄暗い路地裏で泣き続けた。




