97 アナスタシアの回想
セラフィナが他部署に書類を届けに行くために、代筆課の部屋を出る。
扉が閉まったのを確認して、私は少しだけ肩の力を抜き、息を吐いた。
「はー…すごいわね、彼女」
私以上に大きく感嘆の溜息をつき、隣席の同僚がペンを置く。
「まさか初対面で親愛の挨拶までやってのけるなんて。どこでそんな社交技術身につけたのかしら」
「私だったら難しいわ…恥ずかしいもの」
少し離れたところで、別の同僚がポッと頬を染める。
この国では、握手が基本でハグが最上級の親愛を示すとされている。キスもやらないことはないが、結婚式での誓いのキスくらいだ。
公的な場での肌の触れ合いは基本的に手だけ。それも、格式高い場では手袋越しになることの方が多い。
素手で指を絡め、頬と頬を合わせる隣国の親愛の動作は、同性同士であっても、それが隣国の大事な習慣であっても、初対面では羞恥心が先に立つのだ。
だがセラフィナは、それを当たり前の顔でやったと言った。しかも自分から。感覚が違うというか、
「…恐らく、単純に相手のことを考えた結果だと思いますわ。ロザリンド様とエレーナ様が隣国出身だということは事前に知っていたでしょうし…」
魔鉱細工師としてのセラフィナは、依頼者のことを考えて素敵な提案をしてくれる。私とクライヴの結婚指輪の再加工をしてくれた時もそうだった。今回のクレメンティ侯爵家への挨拶でも、それと同じ感覚で行動したのだろう。
それを自然にできるのが、セラフィナのすごいところだと思う。
「アナスタシア、すっかりセラフィナのファンよねぇ」
同僚に笑って指摘され、私は頬を赤くする。
「ふ、ファンというか…恩人! 恩人ですわ!」
「はいはい」
つい半年前まで、私は彼女のことを誤解していた。
仕事は速くて正確、品行方正で隙がない。平民でありながら、身分が上の者にも平然と意見を述べる。
だが、残業をせずに必ず定時で帰る。素晴らしい能力を持っているというのに、その一点のみで上からの評価が底辺を這う。そして、休憩室にも来ないし雑談にも参加しないから、一体何故そのような行動を取っているのかも分からない。
それがどうにももどかしく、私は同僚たちと共に彼女の批判を繰り返していた。
せめてもう少し残業をすれば、話をすれば、みんなの見方も変わるのに、と。
だが実はセラフィナは、領主館の文官と、デモンを狩る狩人を兼任していた。
貴族社会では、狩人の評価は非常に高い。家から何人の狩人を輩出したかで周囲からの見る目が明らかに変わる。デモンの被害を未然に食い止め、街を、領地を、国を守る狩人は、英雄視されていると言ってもいい。
夏のあの日、領主館の全館冷房の通風口から落ちてきたデモンに襲われ、私は正気を失いかけた。
全身を包む冷たい感触と、奪われる魔力の代わりとでもいうように沁み込んでくる誰かの嘆き、悲しみ、痛み、恐怖──その渦中で、セラフィナは私の腕を掴み、引っ張り出し、一撃でデモンを仕留めたのだという。
その瞬間のことはよく憶えていない。だがおぼろげながら、その手の力強さと、「しっかりしろ」という鋭い呼び掛けは記憶に残っている。そして私を正気に戻した、強烈な頭突きの痛みも。
文官仕事をしている時とは全く違う表情、声、そして魔力を帯びて金色に輝く瞳。ペンダントに向けて狩人の『キャット』として状況を告げる横顔は、あまりにも真剣で──あまりにも美しかった。
外見を飾り立てた貴族の美しさとは違う。野生の獣のような、ただそこに在るだけで目を奪われる存在感。そして、放たれる魔法の鋭さと的確さ。
素人でも分かった。彼女は、特別なのだと。
実際セラフィナは、その後領主館に侵入したデモンをほぼ全て一人で片付けたのだという。私たちが皆領主館の前庭に避難する中、奥の方から立ち上る光を見て、誰かが「6式魔法だ」と呟いていた。
名持ちの狩人、『キャット』。ケットシーの子どもを意味する名を冠したその人は、間違いなくこの領都の魔法使いとして、最強の一角だった。
だが、本当の驚きはその後にやって来た。
多分、倒れたのだろう。セラフィナはそのまま休みとなり──翌日から、私たちは彼女の仕事を分担して請け負うことになった。
それを割り振られたのは、私を含めて5人。なのに、私の業務量は、普段の5割増しになった。
つまりセラフィナは、私の2倍以上の業務を一人でこなしていたのだ。
必死で業務をこなし、雑務を片付け、それでも定時には終わらない。
そうして気付いた。付き合いが良い悪いの問題ではない。そもそも休憩室で雑談をする余裕など、あるわけがなかったのだ。
彼女は、定時で帰るためにどれほどの努力を重ねていたのだろう。しかも、帰ったところで余暇時間ではない。多分、文官の仕事の後に狩人の仕事があるから、毎日定時で帰っていたのだ。──この街の人々を守るために。
突きつけられた現実に、私はセラフィナを批判していたことを心の底から後悔した。
それは他の同僚たちも同じで、昼休憩の時に皆の口から洩れるのは悔恨や懺悔の言葉ばかり。少しくらい手伝ってくれたらいいのに──そんなことを言える立場ではなかったのだと、全員が理解していた。
そこから謝罪を、お礼をとなるのは当然の流れで──セラフィナが復帰した日、私たちは午前中に家に知らせ、あるいは使用人を走らせて、それぞれがこれと思い定めたお菓子や保存食を手配して、セラフィナに贈った。
彼女が私たちの謝罪を受け入れてくれたのは僥倖と言うより他ない。私たちは、それだけのことをしていた。
そうしてセラフィナと少しだけ親しくなり、秋、彼女が体調を崩した時には本当に心配した。
理由は、はっきりとは分からない。けれどある日突然顔色が悪くなり、日を追うごとに憔悴していくセラフィナを見ていられず、私は彼女を叱り飛ばして無理矢理帰らせた。
その後きつく言い過ぎたと後悔したのは、いつものことだったけれど…その時ばかりはそれが正解だったのだと、後から知った。
10日以上経ってから出勤してきたセラフィナに、深く頭を下げられたのだ。自覚はなかったけれど、あの時は本当に危ないところだった、ルーカスに知らせてくれてありがとう、と。
そして、その後──私は婚約者のクライヴと共に『月の雫』に呼び出され、そこで彼女のもう一つの側面を知った。
セラフィナは、この街唯一の魔鉱細工師。私とクライヴが購入した結婚指輪の、製作者。
まず心の底から驚いて、次に浮かんだのは心配だった。領主館の文官、狩人、そして魔鉱細工師。一体いつ休んでいるのかと。
けれどセラフィナは終始笑顔で、修行の一環という名目で提案してくれた結婚指輪への模様の彫刻、そのデザインはとても魅力的だった。
婚約者のクライヴが「自分も狩人だ」と明かしてくれたのはその帰りだ。
道理でセラフィナの前で動揺していたわけだと、少し笑ってしまった。同時に、配偶者には教えておくことになっているという言葉に、心が浮き立つのを感じた。
ああ、私は本当にこの人と結婚するのだ──と。
そうして出来上がった結婚指輪は、本当に見事な仕上がりで──一目見て、一生大切にすると決意した。
セラフィナの、ファン──確かにそういう表現もできるかも知れない。
結婚指輪を嵌めて、私とクライヴは2人で誓った。
共に、この指輪に恥じない生き方をしよう。もしセラフィナに何かあったら、持てる手段を全て費やしてでも、彼女の力になろう、と。
──もっとも、クレメンティ侯爵家のルーカス様に溺愛されているセラフィナに、男爵家の助力など不要かも知れないけれど。




