十六話
「私の父さんなんかじゃ、ない...!!」
一瞬、時が止まったような気がした。京香の声は、それくらいには静かで、覚悟のある声だった。
ーーーー。
と、健也は我に帰る。そうだ。今は呆けている場合ではない。男はどこだ。て、馬鹿か。前にいるだろ。
前を見る。するとそこには、何かを言い出そうとしたのか、口を開けて、左手を京香に向けている男の姿があった。男といっても、姿は父だ。父は聞き迫る様子で京香を見つめていた。固まっている。銅像とでも見間違えてしまえる程に、固まっている。
今だ。と思った。今のうちに、この男を祓ってしまおう。そう思えたのがもう少し早ければ良かった。
健也は男に向かって走った。今がチャンスだと。この機会を逃せる程、健也だって鈍いつもりはなかった。
「京香は俺が守る」
父の口から、父でない者の言葉が出たと思うと、横から信じられない速度で標識がこちらに向かってくるのが見えた。健也にそれが見えたのは一寸遅かった。
強制的に後ろに退かなければ、京香が助けてくれなければ、健也はとうに雲散霧消していただろう。
「無理しないで...!」
京香がいった。
するさ。するよ。だってこれは、健也が始めてしまったから。考えていたつもりでも、爪が甘かった。どうも自分じゃないみたいだ。前の自分は、こんな後先考えない奴では無かった筈なのに。
でも、もう、やるしかないだろ。無理、するしかないだろ。
「京香は俺が守る。京香は俺が守る。京香は俺が守る」
「良い?もうあんな事はしないで。霊体で霊体を殴るなんて、自殺行為よ。あなた諸共消えてしまうから」
「...まじですか」
「そう。だから、あなたはここでーーー」
言い終わる前に、車が一台、二台、三台、こちらに突撃してくる。
このままだと、京香も車に潰されてしまう。京香は俺が守ると、あの霊は言っていた。言っていることが矛盾している。今、あの霊は将真の時のように暴走している。
京香は一台、二台と、健也を掴みながらも、紙一重で避けた。どうやって避けたのかは分からないが、あの車達を避けてしまった。
三台目の車が、京香の背後に回っていた。それはもう動き出していて、今や健也の鼻の先に迫っている。
これは、死ぬ。
コンマ一秒も経たずに、ここで死んでしまう。
助けてくれたのに、せっかく、普通に、過去のような生活を出来るように手助けをしてくれたのに。
助けようとしてしまった。たかが普通の霊が、巻き込まれただけの一般人が、一丁前に自分にもやれると思ってしまっていた。それが、こうだ。京香も、死んでしまう。
車が迫って、迫って、迫る。やがて健也の鼻を一ミリ、掠めた。
その時だった。
男の背後に、みぞれがいた。
◯
何もしていない。岩野真の逃げろという怒声を聞いた時、強く思った。
ふと、健也に言った言葉を思い出す。
ーー 「私、は..京香を助けたいんだ。そして、健也君も、助けたい。これは、本心.....です....」
どうせ私なんて、なんて言って、現実から逃げることは、もう出来ない。だって、言ってしまったのだから。
私は、人と話すことが苦手だ。京香と友達になれたのは、色々な偶然が重なり合って、それも、京香の不幸が重なって、友達になれた。なれてしまった。そんなことでしか友達になれない程に、人見知りで、人と喋れない。壁を作ってしまう。心を開けない。
人と話すことが苦手だなんて、そんなのは短所も短所だ。人間社会で生きていく上で、こんなに困ることは無いだろう。
その上。
有言実行も出来ないなんて、嫌だ。
周りを見ると、そこに、バットが落ちていた。黒くて、ちゃんとした、重いバット。騒ぎを見たどこかの少年か、青年かが、落としてしまったのだろうか。
みぞれは、男を見据えた。
◯
京香は目を見張った。男の背後に現れた、青い髪で、眼鏡をかけた、みぞれの姿があったからだ。
みぞれは何かを持っていて、それを背中に隠すように持っている。ちらちらと、それが見え隠れしている。多分、バットだ。振り上げているのか。それを投げるのか。
息を潜ませるように、声を出していない。みぞれは非力だ。普通の女の子だ。それがこんな場所に、勇気を出して、助けに来てくれた。京香は言葉も出ず、とにかく男にバレないようにと、そこから目を逸らした。
みぞれは男の背中に向けて、バットを目一杯に振りかぶる。両手で、重心を前に落として、全力で。
両手を離すと、バットが回転しながら男に向かっていく。
「がっ...!」
男が呻いた。呻いたその口から、靄が飛び出す。
京香は賭けた。健也をそこに留まらせ、その靄が形作る前に、靄が体に戻る前に、今度こそ殴り消す。
横から看板が一本、京香に向かって来た。来たが、それは何度もやられているので、予想していたことであった。そして、今までから推測して、ポルターガイストで浮かせた者は一直線にしか来れない。技術的な行動は取れないことも分かっている。
京香は肩を回して、左から来る一閃を下から流すように避けた。それから引も切らずに男に向かう。
向かって、今度こそ、拳を突き出す。男の口から出た靄に迫って、やった、と思った。
男が、靄を取った。そして、先程の健也のように、強制的に、左に行ったのが見えた。
何が起きたか、理解したく無かった。男の服が下に伸びて、男の頭を前に行かせた。そして、靄が消え去った。その後、服が意思を持っているかのように、男を左に連れ出した。
自分の服を操ったのか。
「京香は俺が守る。京香は俺が守る。京香は俺が守る。京香は俺が守る」
倒せない。無敵だ。
そんなことを思ってしまった。もう、何をしても、この男には意味がないのではないか。男は今、暴走して、我を失っている。京香でさえもう覚えていない。男の言葉には、もう何の意味も込められていない。ただ忘れてしまった目的の為に、目の前の障害を取り除こうとしているのだ。
このまま止められずに、この街も、国でさえ、止められないのではないか。
「ぁがっ...」
みぞれの時と同じ呻きが響いた。背後から、何かが、衝撃を出したのか。また、口から靄が出ている。
「まだじゃ!!!」
そうだ。まだだ。
岩野真の喝を脳内に木霊させる。無理矢理にでも活力を沸かせる。
傍にあったバットを取り、すぐさま男に向かう。祓う。祓う。祓う。もう、あんな気持ちの悪い生活はしたくない。私は、私の物だ。
◯
岩野真が蹴りで男の靄を出した。すぐ後に京香がバットを持って、男に向かっている。
これではまたかわされるのではないか。男が父の服を操って、靄を体に取り込ませて、その繰り返しで、いずれは殺されてしまうのではないか。
健也のせいで、一縷の衝動のせいで、皆、死んでしまうのか。
健也は手をそこに翳した。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。絶対に、そんなこと、させない。
◯
ポルターガイストは、元々霊であれば、誰でも持っている。それぞれその大きさは違えど、人に害を与えれる程のものではない。
ただ。
意識をそこに向けさせる程度のことは、感じさせる程度のことは、出来る。
◯
男は京香に向けて、視界に入った看板を向かわせた。全力で、目一杯の速さで、看板を京香の背後に向かわせる。背後の男にかけても、そこにあった自転車を向かわせた。
「京香は俺が守る。京香は俺が守る。京香は俺が守る。」
こいつで、目の前の女も、背後の男も静ませる。この女も、背後の男も、後の奴らも、全員。
「...?」
右胸の方の服に、何か、感触がした。何かが触ったような。それか、服が動いたような感覚。
気付けば、看板や自転車は地面に落ちていて、女はバットを振り上げていた。
◯
ーー「お父さん、霊って生き物なの?」
気付けば、思い出していた。
ーー「うーん。霊っていうのはな、その人の、思いの現れなんだ。やり残したこと、やるせないこと、そういったものを解消する為の、現象と言えば良いのかな。生き物かどうかは、俺もよく分からないな。霊というのは、生前の目的の為ならば、何をも厭わない所があるからね。まあでも、子供くらいの知性、ずる賢さがあるし、生き物として扱うべきだと思うよ」
ーー「...よく分かんない」
分からなかった。
ーー「分からなくて良いさ。分からない方が良いんだ。霊と言えども人間だから。ただ、あまり感情移入してしまうと、やっていけないことだってあるかもしれない。そんな時はな、京香ーー」
その言葉は何故か、心に強く残っている。
強い言葉で、分かりやすかったから。ただそれだけの理由だった。
「ぶっ潰せ。ぶっ潰しちまえ。それで良い」
ニカっと、気持ちの良い笑顔で、父はいった。
振り上げる。全力を込めて。
父はもう、父ではない。
だけど。
やっぱり。
「消えてよ。父さん」
京香はバットを振り下ろし、靄を両断した。




