十四話
背後から、岩野真の怒声が響いた。と同時に、京香が霊力を纏わせると、その霊目掛けて拳を繰り出した。が、男の霊はすぐさま健也の父の体に入ってひまう。
京香の拳は空振る。空振ったが、流れるように次の拳を男に繰り出した。
「っっっ!!!」
すると向かいから、信じられない速度で自転車が飛び出した。自転車は真っ直ぐに、京香の土手っ腹にぶち当たる。そのまま京香はぶっ飛んで、岩野真の探偵事務所の壁に、背中から勢いよく痛打した。
「みぞれぇ!逃げとれ!!」
京香が飛ばされて、思わず健也は背後を向くと、岩野真が血相を変えて、男目掛けて走っている。岩野真はそのまま、靄を纏った蹴りをお見舞いしようとした。
ミシミシと、どこかが鳴った。
音の先を見る間もなく、長い棒が岩野真の腹を直撃しようとする。
「ぬぅ...?!」
寸前で、腕で防いだのだろうか。だが、左手があり得ない方向に曲がっているのが眼で見えた。岩野真は吹っ飛ばされ、コンクリートに転がった。それと共に、コンクリートに血が塗れていく。
それに呼応するように、周囲の喧騒も大きくなってゆく。「なんだなんだ?!」「ひぁ?!」「け、けけけ警察!」「おいおい...」「に、逃げろ!」ある者は立ち竦んで、ある者は逃げ惑い、ある者は携帯を掲げて、この事態を傍観している。
「駄目じゃないか。京香」
そんな周囲の反応も気にならないのか、はたまた余裕が無いのか、男は震えた声を京香に向ける。
「さあ、帰るぞ」
この期に及んでまだ言うかよ。
「返せよ...!」
健也は再度、拳を男に繰り出した。男は軽々退けて、健也を視る。
「面倒だな...」
面倒?どういうことだ?
束の間に、右側から、誰かが拳を繰り出した。男もそれに気づいたのか、また、避ける。避ける。避ける。
京香だ。口から血が出ている。それがなんだと言わんばかりに、拳を繰り出している。
「まだ分からないのか」
「なに、が...!」
「良い子にしていないと、こうなるぞ」
周りから、ブーーーーー、というけたたましい異音や、叫び声が溢れ出した。周囲を見れば、車が、人が、皆一様に浮かび上がり出した。車は皆、クラクションを鳴らしているのか、ブーーーー、という音がどこにもかしこも鳴り響いている。人々は、先の駐車場のあの男のように、服の胸部分が盛り上がっていて、宙吊りのような状態になっている。
やばい、と思った。
車も人も、この浮かび方には既視感がある。このままではあの時のような、最悪な事態になってしまうかもしれない。
「...何をする気だよ!!」
「もう遅い。京香、お前のせいで、こうなってしまうんだ」
本当に悲しそうな表情で、声音で、男は京香にいう。
車が、人が、急速に直下し始めた。直下して、すぐに地面に直撃するーーー
「私は、あなたが大嫌い!!!」
かと思うと、地面の直前で、周囲の車や人々が止まった。
男は、声の方向に目を遣った。
「やめろ」
「ずっと、憎くて憎くて仕方なかった!!」
「やめてくれ。保てなくなる。お願いだ、京香」
いつの間にか、浮かんでいた車や人々は解放され、皆一様に、此処から逃げ出している。
そんな周囲も気にせずに、いや、気にせないのか。男の声は震え出し、今にも消えてなくなりそうな様子に急変した。それでも京香は続けようとする。
ふと、京香の背後から、自転車が一輪、勢いよく突っ込んでいるのが見えた。
まさか、京香に当てる気なのか。
ーーー狂っている。
霊になってしまったからこうなってしまったのか。多分、そうなのだろう。京香の話を聞いた限り、生前の頃はこんな風ではなかった筈だ。優しい父親だった筈なのに、霊になればこんなにタガが外れてしまうというのは、とても恐ろしいことだ。そして、そんな父親を視てしまうというのは、どれほど苦痛なことなのだろうか。
そこまで考えて、健也は首を振る。
京香は、同情なんて求めていない。彼女が求めるのは、ただ一つ。
今は、この状況をどうにかすることだけを考えるんだ。
ーーーそうだ。この男は、何故か健也を攻撃しない。何故か。京香や岩野真や周囲の人々はポルターガイストで危害を加えていながら、健也には何物たりとも寄せ付けていない。
先程の男の言葉を思い出す。
ーーー「面倒だな...」
出来ないのか。殺そうと思えば、いつでも健也を殺せる筈だ。なのに、そうしないということは。
何故かなんて考えなくて良い。今は、走れ。
健也は直ぐ様に、京香に向けて走る。京香は気付いていないようだ。おそらく、集中しているのか。
気にしなくて良い。走れ、走れ、走れ。
漸く京香の背後に着くと、自転車が一輪、突っ込んでくる。
「...!?」
自転車が、健也の寸前で止まった。
当たった、ということだ。何故なのかはよく分からないが、男は健也を殺せない。
そして。
「私の父さんなんかじゃ、ない...!!」
その声は、ここいら一帯に刻然と響き渡った。




