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夫が浮気の口実にした私の病弱は、本日をもって完治いたしました  作者: 星舟能空


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第9話 幕間・眠れない男(ガスパール視点)

 俺は、口が多い。

 それは、眠れない男の病気だ。真夜中から明け方まで、四時間か五時間、起きている人間は、その時間、何かをしていないと、考え始める。考え始めると、見張りの交代の時刻を考える。だから、喋る。馬に、桶に、柵に、夜に。喋っていれば、考えない。それが、俺の薬だ。医者は、神経、と言った。神経のほうが、虚弱より、値が高い。


 隊にいた頃、俺は、焚き火で喋る係だった。

 皆が寝るまで、喋る。くだらない話を、長く。隊長が喋っていると、部下は安心して寝る。そういうものだった。十二人、いつも、俺の話の途中で寝た。

 あの夜、俺は、見張りの交代を、一人、間違えた。疲れている奴を、疲れていない奴の番に入れた。奴は、寝た。俺の話で、寝たのかもしれない。それは、分からない。分からないことは、考える。考えると、眠れない。だから、喋る。今は、寝る奴がいないのに、喋っている。


 ラランドに帰って、五年になる。

 父が死んで、馬が残っていた。騎兵の馬だ。王室騎兵が、うちの馬を買う。俺が乗っていた馬も、うちの馬だった。あいつは、あの夜、俺より先に死んだ。だから、俺は、騎兵の馬を作っている。作って、売って、乗る奴が、あいつのように死なないように、脚を太く、心臓を大きく、育てる。夜に。馬は、夜も起きているから。


 隣の伯爵のことは、知っていた。

 この郡の人間は、皆、知っている。ベルヴュー伯爵には、寝たきりの妻がいる。塩商いの家から、莫大な持参金と一緒に来た。長くない、という。伯爵は、献身的な夫で、慈善に励んでいる。

 それから、週に三度、伯爵の馬車が、八時に屋敷を出て、三時に戻ることも、知っていた。俺の放牧地の東の端から、街道が見える。馬車は、町の方角へ行く。町の手前で、シャンボール未亡人の屋敷へ曲がる。二年、見ている。眠れない男は、街道を見る。それしか、することがない夜もある。


 寝たきりの妻の顔は、見たことがなかった。

 誰も、見たことがない。だから、皆、知っている。見たことのない人間について、皆が知っている、というのは、この郡で、あの奥方一人だ。


 生垣の切れ目に、誰かが立つようになったのは、春の終わりだった。

 最初の夜、俺は、狐だと思った。動かないから。

 二夜目、人だと思った。狐は、十分、動かずにいない。

 三夜目から、俺は、灯りを回すとき、あそこを見ないようにした。見れば、逃げる。逃げられると、もう来ない。来ないと、俺は、あれが何だったか、考える。考えると――いや、それは、いい。


 十夜目、俺は、灯りを上げた。

 あれが、どういうふうに立っているか、見たかった。

 あれは、逃げなかった。一歩、下がった。それだけだった。

 病人には、見えなかった。

 病人は、あんなふうに立たない。病人は、寄りかかる。あれは、寄りかかっていなかった。まっすぐ立っていた。ただ、動いていなかった。動かないように、言われている者の立ち方だった。俺は、それを知っている。隊で、そういう新兵を、何人も見た。動くな、と言われ続けて、動けなくなった奴を。


 ソワールの夜、俺は、考えなかった。

 バティストが腹をやられて、仔の前脚が折れて入っていて、一人では向きを直せなくて、扉に、誰かが立っていた。

 手を貸してくれ、と、俺は言った。

 誰だ、とは、訊かなかった。訊く暇がなかった。訊いていたら、ソワールは死んでいたかもしれない。それだけだ。それだけだ、と、後から、自分に何度も言った。


 あの人は、四十分、頭を押さえた。

 三度、暴れた。三度、押さえた。腕が震えていた。震えて、押さえていた。俺は、後ろで、それを見ていた。見ていた、というのは、正確ではない。俺は、仔の脚を見ていた。でも、押さえている手が、ずっと、そこにあった。手が、そこにあることを、俺は、後ろで、感じていた。


 出た後、あの人は、腕を下ろした。

 その腕は、あの人の腕ではないみたいだった。それを、あの人は、自分の腕を見るように、見た。初めて見る物を見るように。

 名を訊いた。レオニー、と言った。

 病人です、と言った。

 俺は、事実を言った。病人は、牝馬の頭を四十分押さえていられない。それは、慰めでも、褒め言葉でもなかった。揃わない二つのことが目の前にあったので、揃わないほうを、言った。それだけだ。


 あの人は、伯爵夫人だ。

 七日目に、自分で言った。俺は、訊いていない。訊かないと、決めていた。昼のことは訊かない。それは、俺が、自分のために作った決まりで、あの人のために作ったのではない。俺は、俺の昼を訊かれたくない。だから、他人の昼も訊かない。それだけの決まりが、あの人には、丁度、合った。それは、俺の手柄ではない。


 年に五分。合計、十五分。

 俺は、それを聞いたとき、何か言おうとして、やめた。

 言おうとしたのは、たぶん、伯爵についての、長い、ろくでもない話だった。二年、街道で見てきたことを、全部。言えば、あの人は、聞くだろう。聞いて、はい、と言うだろう。あの人の、はい、は、聞いた、という意味で、同意した、という意味ではない。それは、もう、分かっていた。

 言わなかった。

 あの人は、俺が言わなくても、知っている。三年、床下で聞いてきた人だ。俺が二年、街道で見たものを、あの人は、三年、床の下で聞いていた。俺の話は、要らない。


 その代わりに、手綱を教えた。

 俺は、昼を持っていない。夜しか、持っていない。夜なら、貸せる。それが、俺が、あの人に渡せる、唯一の物だ。手綱の持ち方。馬の肩の横。転んだら、起きられる人は、起こさないこと。

 あの人は、右手の水疱を、左手で覆っていた。

 潰さないように。

 俺は、それを見た。見て、何も言わなかった。言えば、長くなる。長くなれば、あの人は、途中で、生垣に戻る。あの人は、俺の話の途中で、いつも、帰る。

 それは、正しい。俺の話は、途中で出るために、長い。あの人は、それを、初めて、正しく使った人だ。


 台帳に、仔を記した。

 厩の、種付けと出産の台帳だ。王室騎兵に馬を売る家は、これを付ける決まりになっている。父の代から、一頭も欠かさず。


『父 王室騎兵種牡馬アルジャン

 母 ソワール

 生 夏の初め、真夜中過ぎ

 立会い バティスト(病欠)、レオニー(隣家)

 所要 四十分

 名――』


 名を、訊いた。

 病人には名付ける立場がない、と、あの人は言った。立場。俺は、その言葉を、口の中で転がした。馬は、立場を訊かない。それは、本当だ。俺も、立場を訊かない。夜の厩には、立場が入ってこない。だから、あの人は、ここに来られるのだと思う。


 俺は、名を書いた。


『名 ゲリゾン』


 南の古い言葉だ。母が、南の人だった。俺が熱を出すと、母は、額に手を当てて、ゲリゾン、と言った。治る、という意味だ。治った、という意味でもある。南の言葉は、時間を、あまり区別しない。


 病人が引いた馬に、病人の名はつけない。

 治った、という名をつける。

 あの人には、言わない。今、言えば、あの人は、それは病人が引いた馬の名です、と言うだろう。言わないかもしれない。分からない。分からないことは、考える。考えると、眠れない。

 俺は、もう、眠れないのだから、考えることにした。あの人が、この名を聞いていい日は、いつ来るか。俺が、それを、決めていいのか。

 決めていい、と思った。俺が、つけた名だ。名をつけた者には、言う日を決める権利がある。それくらいの立場は、俺にも、ある。


 明け方、俺は、ようやく、眠る。

 あの人が生垣に戻って、街道を伯爵の馬車が戻って、ソワールの仔が――ゲリゾンが、母馬の腹の下で、乳を飲む。それを見てから。

 今夜も、あの人は、来る。

 はい、と、あの人は言った。明日も来るか、と訊いたときに。

 あの、はい、は、聞いた、ではなかった。来る、だった。俺は、はい、の種類を、二つ、聞き分けられるようになった。三週間で。眠れない男は、耳がいい。それだけは、この病気の、良いところだ。


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