第8話 泥の裾
初夏になった。
夜が、短くなった。十一時に生垣を抜けて、二時に戻ると、東の空が、もう、少し、薄い。私の三時間は、夏になると、夜の全部になる。
身体が、変わっていた。
自分で、分かる。五百歩の草地を、途中で座らずに歩ける。十四段を、上がっても、太腿が熱くならない。手のひらの水疱は、三度できて、三度潰れて、今は、皮が、少し、硬い。硬い皮は、綱を握っても、痛くない。
粥は、朝夕、全部食べる。パンも。この間、ポーレットに、「パンを、もう一枚」と言った。
病人は、要る物を言わない。その規則は、そのとき、消えた。ポーレットは、何も言わずに、三枚、持ってきた。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。
その夜、私は、走った。
理由は、ない。いや、ある。ソワールの仔が、走っていたからだ。
草地の端から端まで、母馬を置いて、一頭で。意味もなく。脚が四本あって、草地が広くて、夜で、誰も止めないから。走って、止まって、振り返って、また走る。
私は、それを、柵の横で見ていた。ガスパールは、厩の中で、何か、桶を洗っていた。話し声が、厩から漏れている。桶に、話していた。
私は、柵を、離れた。
草地に、出た。
走ったことが、ない。六歳より前は、たぶん、走った。覚えていない。六歳から後は、一度もない。「走ってはいけない」は、母の声で、はっきり、覚えている。庭で。階段で。廊下で。走らないで、レオニー。心臓が。
最初の一歩は、歩幅が、大きくなっただけだった。
二歩目で、両足が、同時に、地面から離れた。
その感じを、私は、知らなかった。
身体が、浮く。落ちる。脚が、受ける。また、浮く。
草が、脛を打つ。風が、顔に来る。走ると、風が、自分で作れる。それを、知らなかった。
息が、上がった。上がった息は、苦しかった。苦しいのに、止まらなかった。止まる理由が、なかった。心臓が、打っていた。速く、強く。六歳の熱のときとは、違う打ち方だった。あれは、壊れそうな打ち方。これは、動いている打ち方。
十歩か、二十歩か、分からない。
草に、足を取られた。
転んだ。
膝と、手と、肩が、順に、地面についた。草が、顔に当たった。夜露で、寝間着が、一気に、冷たくなった。
私は、仰向けになった。
空が、あった。星が、多すぎて、白鳥が分からない空。
笑った。
声が、出た。
自分の声だと、最初、分からなかった。三年、息だけで笑ってきた喉から、声が、出た。高くて、掠れていて、少し、変な声だった。止まらなかった。私は、草の上で、仰向けで、その変な声を、出し続けた。
「――走ったのか」
厩の扉から、彼の声がした。
桶を持ったまま、立っている。灯りが、後ろにある。顔は、見えない。
「走りました」
「初めてか」
「はい。六歳から」
彼は、桶を置いて、草地を歩いてきた。私のそばで、止まった。手は、出さなかった。私を、起こさなかった。ただ、立って、上から、見た。
「馬も、初めて走ると、転ぶ」
と、彼は言った。
「二度目は、転ばない。三度目は、転ぶ。四度目は、転ばない。五度目は、転ぶ。……つまり、転ぶ回数は、減らない。起きるのが、速くなるだけだ」
「それは、慰めですか」
「観察だ。俺は、慰めが下手だ。慰めようとすると、話が長くなる。長くなると、相手が寝る。寝られたら、慰めは、成功と言えるのかどうか――」
「起きます」
私は、起きた。
自分で。膝が、少し、痛かった。手のひらの硬い皮が、草の汁で、緑になっていた。寝間着の膝が、泥だった。裾も。肩も。
彼は、私が起きるのを、見ていた。
それだけだった。手は、出さなかった。私は、それが、この人の礼儀なのだと、分かった。起きられる人を、起こさない。
「もう一度、走るか」
「……はい」
二度目は、転ばなかった。
三度目は、転んだ。
四度目、私は、草地の端まで、走った。端に、柵がある。柵に、両手をついて、息をした。息は、荒くて、熱くて、喉が痛かった。
喉の痛みを、私は、六歳の熱と比べた。違った。全然、違った。あれは、焼ける痛み。これは、使った痛みだ。使ったものは、痛む。使わなかったものは、痛まない。三年、私は、痛まなかった。痛まないことを、健康だと思っていた。
柵の向こうで、ソワールの仔が、私を見ていた。
走った者同士で。
二時の鐘で、生垣に戻った。
寝間着は、腰から下が、泥と草だった。私は、それを、部屋で脱いで、衣装箱の底の、この間のと一緒に押し込んだ。二枚。この箱の底は、私の夜が、溜まっていく場所になっていた。
翌日の昼、ジャクリーヌが、粥を持ってきた。
私は、起きていた。昼まで眠るのは、この頃、やめている。走った翌日は、身体が、目を覚まさせる。
「奥様」
ジャクリーヌの手が、私の髪に、伸びた。
何か、つまんだ。
藁だった。細くて、短い、一本。
彼女は、それを、指の間で、見た。
私を、見た。
私は、粥を食べていた。
「……鳥でしょうか。窓から」
「窓は、開けておられますか」
「夜風が、良いので」
「夜風は、病人には、良くございません」
「ええ。でも、蔦が、よく育ちます」
ジャクリーヌは、藁を、暖炉に捨てた。
何も、言わなかった。眉が、少し、動いた。この人の眉は、三年で、二度しか動いていない。私の顔色が良いときと、今だ。
夕方、ポーレットが、髪を梳いてくれた。
三年、毎夕、この人が、私の髪を梳く。梳きながら、話さない。私も、話さない。それが、私たちの三年だった。
櫛が、止まった。
ポーレットが、髪の中から、何か、つまんだ。
藁。二本。
彼女は、それを、見なかった。私の顔も、見なかった。
暖炉に、捨てた。
櫛を、続けた。
私は、鏡の中で、ポーレットを見た。
四十五歳。病人係。この家で、いちばん下の仕事だ。粥を運び、髪を梳き、寝間着を替える。三年、この人は、私の寝間着を、毎朝、替えている。
衣装箱の底の、二枚のことを、私は、考えた。
あの箱を、開けるのは、誰だ。
私の寝間着を、洗うのは、誰だ。
ポーレットは、何も言わなかった。
黙っている人は、知っている人だ。三年、私は、それを、自分のことだと思っていた。この家で、いちばん黙っていて、いちばん知っているのは、私だと。床下の声を聞き、夫の馬車の時刻を数え、母の売り文句を覚えている私だと。
鏡の中に、もう一人、いた。
夜、私は、衣装箱を開けた。
底の、二枚。
なかった。
その代わりに、洗って、畳んだ、清潔な寝間着が、二枚、置いてあった。泥も、草も、ない。
私は、それを、しばらく、見た。
それから、箱を閉めて、生垣へ行った。
病人は走らない。その規則は、昨夜、消えた。消えた規則の数を、私は、数えるのを、やめた。消えるほうが、速い。
残った規則の中で、いちばん大きいのが、何か、私は、分かっていた。病人は、この家を出ない。それは、まだ、消えていなかった。母の声でも、誰の声でもない。三年で、私が、いちばん厚く、塗った規則だ。




