第7話 昼のことは訊かない
私は、十一時に生垣を抜け、二時に戻る。
三時間。三年で、初めて、私の物になった時間だ。粥でも、安静でも、強壮酒でもない、私の三時間。
彼は、いつも、起きていた。
厩か、囲いの柵か、草地の真ん中か。灯りを持って、馬を見ている。馬に話している。私が来ると、「来たか」と言う。振り返らずに。それから、話の続きを、私にも聞こえる声で続ける。私が来る前から話していた話の、続きを。
「なぜ、眠らないのですか」
と、私は、五日目に訊いた。
訊く、というのを、私は、医師に一度、やった。二度目は、この人だった。病人は訊かない。その規則は、医師の椰子の前で、消えていた。
彼は、柵の上で、少し、身体を揺らした。
「眠れない男の病気だ。医者は、虚弱、とは言わなかった。神経、と言った。神経のほうが、値が高い。虚弱は、粥と安静で済むが、神経は、南の温泉と、高い薬と、長い話を聞いてくれる医者が要る。俺は、全部、断った。馬のほうが、安い」
彼は、そこで、少し、笑った。
「――と、いうのが、人に訊かれたときの答えだ。あなたは、それでいいか」
「本当のことは、別にあるのですか」
「本当のことは、短い」
彼は、灯りの芯を、少し、下げた。
「騎兵だった。隊長を、五年。野営を、夜襲された。真夜中に。俺は、その夜、見張りの交代を、一人、間違えた。それだけだ。それから、真夜中から明け方まで、眠れない。眠ると、交代の時刻を間違える気がする。……もう、隊はないのに」
短かった。
本当に。この人の話の中で、いちばん短かった。
「除隊して、ここへ帰った。父が死んで、馬が残っていた。騎兵の馬だ。王室騎兵が、うちの馬を買う。俺が乗っていた馬も、うちの馬だった。だから、今も、騎兵の馬を作っている。馬は、昼も夜も起きている。俺と、合う」
私は、何も言わなかった。
言わなかったことに、彼は、気づいた。
「訊いたのは、あなただ。俺は、訊かれれば答える。訊かれないことは、言わない。……いや、言う。俺は口が多い。でも、あなたのことは、訊かない」
「なぜ」
「夜に来る人は、夜の理由がある。昼のことは、訊かない。それが、この厩の決まりだ。俺が決めた。俺が、昼のことを訊かれたくないから」
昼のことは、訊かない。
私は、その決まりを、受け取った。楽な決まりだった。私の昼は、粥と、天井の染みと、床下の慈善婦人会だ。話すことが、ない。
でも、私は、話した。
その夜ではなく、七日目の夜に。彼が、老いた牝馬の首を梳いているときに。
「隣の、ベルヴュー伯爵夫人です」
彼の手が、止まった。
「三年前に、嫁ぎました。病弱で、寝室を離れられないことになっています。今年の慈善の報告書には、そう印刷されます。夫が、そう決めました」
彼は、私を見なかった。牝馬の首を見ていた。しばらく。
それから、梳き始めた。
「昼のことは、訊かない、と言った」
「はい。訊かれていません。言いました」
「……そうだな」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
驚かなかった。伯爵夫人、という言葉に、この人は、頭を下げなかった。夜の厩には、たぶん、そういう言葉が入ってこない。
訊いたのは、一つだけだった。
牝馬の首を、梳き終えてから。
「伯爵は、あなたが夜、ここにいるのを、知っているのか」
「知りません」
「知ったら」
「分かりません。三年、私の部屋に、五分以上いたことがありません」
彼は、梳き櫛を、止めた。
「……年に、五分か」
「はい。結婚記念日に。合計で、十五分です」
彼は、何か言おうとして、やめた。
この人が、言おうとしてやめるのを、私は、初めて見た。口が多い人が、口を閉じると、閉じた分だけ、何かが、こちらに来る。
「なら」
と、彼は言った。
「伯爵の知らないことを、一つ、増やそう」
「何を」
「手綱の持ち方だ」
老いた牝馬は、モーヴという名だった。
二十歳を越えている。騎兵の馬にはならなかった、脚の遅い馬だ。「遅いから、生きている」と、彼は言った。「速い馬は、若いうちに買われて、若いうちに死ぬ。こいつは、遅くて、誰も買わなかった。だから、ここにいる」。
私は、その話を、聞いた。聞いて、何も言わなかった。言わなかったが、モーヴの首に、手を置いた。温かかった。大きくて、動いていて、私の手のひらを、全部、受け止めた。
「引き綱を、こう持つ。右手で、頭の近く。左手で、余りを。巻くな。巻くと、引かれたとき、手が取れる。……取れた騎兵を、二人、知っている」
「はい」
「肩の横を歩く。前に出るな。後ろに下がるな。肩だ。馬は、肩の横にいる人間を、対等だと思う」
私は、モーヴの肩の横に、立った。
歩いた。モーヴが、歩いた。私の歩幅に、合わせて。いや、私が、モーヴの歩幅に合わせたのかもしれない。分からなかった。どちらでも、歩いていた。
草地を、一周した。
モーヴの重さが、綱を通して、右手に来る。時々、彼女が首を振ると、綱が、手の中で、引かれる。私は、それを、握った。巻かずに。握った手のひらが、綱と擦れて、熱くなった。
「馬は、引く人を、測る」
彼が、後ろから、言った。
「重さで。歩き方で。手の震えで。こいつは、今、あなたを測っている」
「……何と、出ましたか」
「訊いてみろ」
私は、モーヴの目を見た。
大きくて、黒くて、静かで、何も言わない目だった。私を見ていた。確認ではなかった。
「病人ではない、と」
私が言った。彼は、何も言わなかった。それが、答えだった。
二時の鐘で、私は、生垣に戻った。
彼は、いつものように、途中から、モーヴに話し始めていた。「お前、あの人の歩幅に合わせたな、いや、合わせたのはあの人のほうか、どっちでもいい、つまり――」。
部屋に戻って、私は、灯りの下で、右手を開いた。
手のひらに、水疱が、一つ、できていた。親指の付け根。綱が擦れた所だ。小さくて、丸くて、中に、透明な水が入っている。触ると、少し、痛い。
私は、それを、長く、見た。
三年で、この身体に、新しくできたものは、天井の染みと、蔦の長さと、ジャクリーヌの困った顔だけだった。全部、私のものではなかった。私の周りで、育っただけのものだ。
この水疱は、違う。
私の手が、綱を握って、馬の重さを受けて、できた。誰にも言われていない。誰も、これを困った顔で見ない。誰も、これを「日に日に」とも「かなわず」とも言わない。
私の物だ、と思った。
初めて、身体の中に、私の物ができた。それが、小さくて、丸くて、痛くて、私は、それを、潰さないように、左手で、そっと、覆った。
三時、馬車。十四段。右。
夫の靴音は、私の右手の水疱を、知らない。伯爵の知らないことが、今夜、一つ、増えた。二つかもしれない。手綱と、水疱と。
私は、覆った手のまま、眠った。




