第6話 虚弱、ですな
ルグラン医師は、月の第一月曜に来る。
今日が、その日だった。厩の夜から、三週間。私は、その間、夜ごと、生垣を抜けた。ソワールの仔は、もう、走る。四度目で立った脚で、草地を、母馬の周りを、意味もなく、走る。
医師は、いつもの椰子に座った。いつものように、私ではなく、ジャクリーヌに向かって訊いた。
「食は」
「粥を、朝夕に。パンを――近頃は、少し多めに召し上がります」
「眠りは」
「よく。お昼近くまで」
「顔色は」
「……良いです」
ジャクリーヌは、今日は、困ったものです、を付けなかった。私が聞いていることを、三週間で、少し、気にし始めたのかもしれない。
医師は、私の手首を取った。三秒。
いつもなら、これで終わる。安静を。強壮酒を。では、来月。
「先生」
と、私は言った。
医師の手が、私の手首の上で、止まった。
三年、私はこの人に、はい、以外を言ったことがない。医師は、私が声を出すことを、たぶん、想定していなかった。想定していないことが起きると、人は、一秒、動かなくなる。夫も、そうだった。
「……はい、奥様」
「私は、何の病気なのですか」
医師は、ジャクリーヌを見た。
ジャクリーヌは、医師を見た。
二人とも、答えを、相手の顔で探していた。私は、その間、自分の手首が、医師の指の中で、規則正しく打っているのを感じていた。
「……虚弱、ですな」
と、医師は言った。
「虚弱は、病名ですか」
「体質、と申しますか」
「六歳の熱で、心臓が弱った、と聞いています。心臓は、いま、どうなっていますか」
医師は、私の手首を、もう一度、握り直した。
今度は、三秒ではなかった。十秒。二十秒。彼は、初めて、私の脈を、数えていたのだと思う。三年で、初めて。
「……安定しておられる」
「では、私は、何を、静養しているのですか」
医師は、手を離した。
「念のため、です、奥様。ご実家からも、お嫁ぎの際に、そう伺っております。安静が第一である、と。私は、それを、守っているだけで――」
「実家から」
「はい。奥様は、幼い頃からご病弱で、二十五までは、と、先の医師が」
二十五までは。
母の売り文句が、六年前の応接間から、この寝室まで、届いていた。医師の口を通って。医師は、私を診たのではない。母の言葉を、診ていたのだ。三年。
「そうですか」
と、私は言った。
「ありがとうございます」
医師は、安静を、と言い、強壮酒を、と言い、来月、と言って、帰った。椰子から立つとき、彼は、私の顔を、初めて、少し長く見た。確認ではなかった。困っている顔だった。この家には、困っている人が多い。私の顔色のせいで。
医師が帰ったあと、私は、机に紙を出して、書いた。
『虚弱』
二文字。
私は、それを、しばらく見た。
病名ではなかった。これは、値札だ。母が、六年前に、私に付けた。医師が、それを読み上げた。夫が、それを買った。私は、それを、三年、身体に貼っていた。剥がそうとしたことが、なかった。剥がすものだと、思っていなかった。
夕方、ジャクリーヌが、強壮酒を持ってきた。
私は、いつものように、飲むふりをして、寝台の下の鉢植えに注いだ。
「奥様」
ジャクリーヌが、鉢植えを見ていた。
「この蔦、よく育ちますね。天井まで届きそうです」
「……ええ」
「何か、やっておいでで」
「日が、良いのでしょう」
ジャクリーヌは、頷いて、出ていった。
私は、蔦を見た。二年分の強壮酒を飲んだ蔦は、窓枠を越えて、天井の染みのそばまで伸びていた。染みと、蔦。この部屋で、育っているものが、二つ。薬は、植物には、効いた。人間には、効いたかどうか、分からない。飲んでいないので。
夜。
厩には、灯りがあった。
ガスパールは、囲いの柵に腰を掛けて、仔馬を見ていた。仔馬は、母馬の腹の下で、乳を飲んでいた。尻尾が、忙しく動く。
「来たか」
彼は、振り返らずに言った。足音で、分かるのだと思う。三週間で、私の足音を覚えた人は、この人が初めてだ。三年、私の足音を聞いた人がいなかったから。
「今日、医者が来ました」
「病人だからな」
「虚弱、と言われました」
「虚弱」
彼は、それを、口の中で転がした。
「馬にも、虚弱、というのは、ある。生まれつき、脚が細くて、心臓が小さい。走らせると、すぐ、息が上がる。でも、それは、生まれてすぐ分かる。三年経って言うことじゃない。三年経って言うなら、それは、走らせなかった、ということだ。走らせなかった馬は、みんな、虚弱に見える。つまり――」
彼は、そこで、止まった。
「――いや。つまり、の先は、あなたが知っていることだ。俺が言うことじゃない」
私は、柵に、手を置いた。
仔馬が、乳を飲み終えて、顔を上げた。口の周りが、白い。私を見た。この間より、目が、大きい。怖がっていない目だ。
「こいつに、名をつけてくれ」
と、彼が言った。
「あなたが、引いた。頭を、四十分。俺は、後ろにいただけだ。だから、名は、あなたが」
私は、仔馬を見た。
名をつける。私は、何かに名をつけたことが、ない。蔦にも、つけていない。天井の染みにも。三年、名のないものと暮らしてきた。名は、つける立場の人がつけるものだと、思っていた。
「病人には」
と、私は言った。
「名付ける立場が、ありません」
彼は、私を見た。
それから、仔馬を見た。仔馬は、私たちのどちらにも興味を失って、母馬の脚の間に頭を突っ込んでいた。
「立場、か」
彼は、柵から降りた。
「馬は、立場を訊かない。あいつは、あなたが誰か知らない。病人かどうかも知らない。あの夜、頭を押さえていた人がいた、それだけ知っている。……でも、あなたが、そう言うなら、いい。なら、俺がつける」
「はい」
「後で、言う」
「後で」
「今、言うと、あなたは、それは病人が引いた馬の名です、とか、言いそうだ。だから、後で。あなたが、それを聞いていい、と俺が思ったときに」
私は、それが、どういう時なのか、訊かなかった。
訊かなかったが、彼は、私が訊かなかったことに、気づいていた。この人は、口が多い分、他人の口の少なさに、よく気づく。
「明日も、来るか」
と、彼が言った。
明日。
私は、その言葉を、受け取るのに、少し、時間がかかった。三年、誰も、私に明日のことを訊かなかった。病人には、明日がない。今日と同じ日があるだけだ。医師は「来月」と言い、夫は「来週も来てもらう」と言い、母は「秋に」と言った。全部、私の明日ではなかった。彼らの予定の中の、私の位置だった。
「……はい」
と、私は言った。
三年、言い続けた、はい、と、同じ言葉だった。
同じ言葉が、違う意味だった。この、はい、は、従ったのではない。来る、と言ったのだ。私が、明日、ここに来る、と。
彼は、頷いた。それだけだった。それから、また、仔馬に話し始めた。「お前、乳を飲みすぎだ、いや、飲めるうちに飲め、飲めなくなる日が来るからな、つまり――」
私は、途中で、生垣へ戻った。
途中で出ることに、慣れてきた。あの人の話は、途中で出るために、長いのかもしれない。
部屋に戻って、机の紙を、もう一度見た。
虚弱。
私は、その下に、書いた。
『――と、言われた。』
言われた、と、だった、は、違う。
三年、私はその二つを、同じものとして生きてきた。虚弱と言われた。だから、虚弱だった。言われたことが、そのまま、私だった。
今夜、その間に、線を引いた。
線の右側に、何を書けばいいのか、まだ、分からなかった。分からないものは、確かめる。確かめる場所は、生垣の向こうにある。明日も。




