第5話 手を貸してくれ
黒い馬は、いなかった。
生垣を抜けた草地に、今夜は、何もいなかった。灯りは、いつもの低い建物の前ではなく、建物の中にあった。開いた扉から、四角く、黄色い光が漏れている。
私は、草地を、歩いた。
百歩。二百歩。振り返ると、生垣が、黒い線になっていた。あそこまで戻れば、私の庭だ。私の庭の向こうに、私の部屋がある。三年、そこにしかいなかった部屋。三百歩。
声が、聞こえた。
男の声だった。
低くて、途切れない。誰かと話している。返事は、聞こえない。返事の代わりに、時々、大きな、湿った、苦しそうな息が混じる。馬の息だ。この間の黒い馬より、もっと苦しい息。
建物は、厩だった。
扉の脇に立って、中を見た。
藁の上に、馬が、横になっていた。栗色の牝馬。腹が、大きい。脚が、時々、藁を蹴る。灯りは、柱の釘に掛けてあった。その下に、男が、膝をついていた。
袖を肘まで上げて、牝馬の後ろにいた。背は高くない。肩の幅がある。髪は、暗い色で、藁がついている。彼は、牝馬に話していた。
「――いいか、ソワール、お前は去年もこうだった、いや、去年はもっと楽だった、つまり、去年より今年のほうが難しいと言いたいわけじゃない、俺が言いたいのは、お前は去年、ちゃんとやった、だから今年もやれる、ということで、それ以上のことは俺には言えないし、言えないことは言わないのが、俺と、お前の――」
牝馬が、大きく息を吐いた。
男の手が、止まった。
「……向きが、悪い」
彼は、それだけ、小さく言った。それから、顔を上げて、扉のほうを見た。
私を、見た。
寝間着の上に外套を着て、裾が夜露で膝まで濡れて、室内の靴に靴下を二枚重ねた、知らない女。厩の扉に立っている。
彼は、それについて、何も言わなかった。誰だ、とも、なぜここに、とも。
「そこの人」
と、彼は言った。
「手を貸してくれ」
私は、動かなかった。
動けなかったのではない。その言葉を、受け取るのに、時間がかかったのだ。
手を貸してくれ。
二十三年、誰にも、言われたことのない言葉だった。手を貸してほしい、と、誰も、私に言わなかった。私の手は、貸すための手ではなかった。安静にしているための手だった。
「頭を、押さえていてくれ。こいつの。馬丁のバティストが、腹をやられて寝ている。一人じゃ、向きを直せない」
彼は、私が動かないのを見て、もう一度、言った。急いているのに、声は、荒れていなかった。
「怖いなら、いい。でも、怖くないなら、頼む」
私は、厩に入った。
藁の匂いと、血の匂いと、馬の匂い。全部、初めてだった。私は、牝馬の頭のそばに、膝をついた。寝間着の膝が、藁と、何か湿ったもので、すぐに汚れた。
「頭を、膝に乗せろ。重いぞ」
重かった。
牝馬の頭は、私の膝に、全部の重さで乗ってきた。目が、大きく、黒く、私を見上げていた。白い部分が見えた。怖がっている目だ。私は、怖がっている目を、見たことがある。鏡で、六歳の熱のとき。
「重いのは、いい。生きてる重さだ。……そうだ、そのまま。手綱を、こう。頭を、こっちに向けさせない。動くと、俺がやりにくい」
彼は、牝馬の後ろに戻った。
それから、話し始めた。今度は、私にではなく、牝馬にでもなく、たぶん、自分に。
「いいか、向きを直す、それだけだ、前脚が一本、折れて入ってる、伸ばせばいい、伸ばすには、押して、回して、それから――ソワール、いいか、いま押すぞ、痛いぞ、痛いのはお前だけじゃない、俺の腕もあとで痛い、だからお互い――」
牝馬が、暴れた。
頭が、私の膝から浮いた。私は、両腕で、押さえた。全身で。腕が、震えた。震えたが、押さえた。頭は、私の膝に戻った。
「いい! そのまま!」
と、彼が言った。
私は、そのままにした。
四十分だった。
教会の鐘で、数えた。十二時に始まって、一時の少し前に、終わった。その間、牝馬は三度暴れて、三度、私は押さえた。腕は、四度目には、動かなくなるかもしれないと思った。四度目は、来なかった。
彼が、低く、うなった。
牝馬が、長く、息を吐いた。
藁の上に、濡れた、黒っぽい、脚の長い、大きすぎる何かが、落ちた。
「……出た」
彼は、それだけ言って、藁の上に、尻をついた。
牝馬が、頭を、私の膝から上げた。自分で。もう、押さえなくてよかった。私は、腕を、下ろした。腕は、私の腕ではないみたいだった。重くて、熱くて、震えて、藁と、血と、何かで汚れていた。
仔馬が、頭を、持ち上げた。
濡れた耳が、二つ、立った。
それから、また、藁に落ちた。もう一度、上がった。
彼は、牝馬の後ろから、仔馬の口の周りを、手で拭った。それから、藁で、身体を擦った。乱暴に見えた。乱暴ではなかった。仔馬が、大きく、息を吸った。
厩が、静かになった。
彼の声が、初めて、止まっていた。
三人で――二人と、二頭で――息をしていた。私の息。彼の息。牝馬の、長い息。仔馬の、速い息。
彼が、私を見た。
初めて、ちゃんと、見た。確認ではなく。
「名は」
と、彼は言った。
「レオニー」
「俺は、ガスパール。隣の。ラランド。……昼は寝ている」
「私も、寝ています。三年」
彼は、少し、首を傾げた。
「……病人か」
「病人です」
彼は、私の腕を見た。それから、私の膝の上の、藁と血を見た。それから、私の顔を見た。
「病人は」
と、彼は言った。
「牝馬の頭を、四十分、押さえていられない」
褒めたのではなかった。
驚いたのでもなかった。
彼は、それを、事実として言った。この厩で今夜起きたことと、私が言った言葉が、揃わないので、揃わないほうを、指摘した。それだけだった。
私は、何も言えなかった。
三年、はい、と、ありがとうございます、しか言っていない口は、こういうときに、何を言えばいいか、知らなかった。
彼は、立ち上がって、隅の桶から、水を柄杓で汲んで、私に差し出した。
「手を」
私は、両手を出した。
彼は、水を、私の手に、掛けた。冷たい。藁と血が、流れた。私は、自分の手を見た。汚れた手を、私は、生まれて初めて、持った。それが、今、洗われていた。
「もう一杯」
「……ありがとうございます」
これは、三年言い続けた、ありがとうございます、と、同じ言葉だった。同じ言葉が、違う重さだった。
仔馬が、立とうとしていた。
前脚を、藁につっぱって、後ろ脚が、滑って、倒れた。もう一度。倒れた。もう一度。
「見ていろ。三度目か、四度目で、立つ。いつも、そうだ。一度目で立つ仔馬はいない。いたら、俺は、見たことがない、つまり――」
四度目で、立った。
震えていた。脚が、四本とも。震えて、でも、立っていた。
震えるのは、最初だけだ。
私は、それを、知っていた。十四段で、知った。仔馬は、私より、知るのが速い。
鐘が、一時を打った。
「帰ります」
と、私は言った。
「三時に――帰らないと」
「三時に、何がある」
「……馬車が」
彼は、それ以上、訊かなかった。頷いて、灯りを釘から外して、私に差し出した。
「生垣まで。持っていけ。切り株のところに、置いておいてくれれば、朝、取りに行く」
「見えていたのですか。切れ目が」
「十日、見ていた。誰かが、あそこに立っている。動かない。逃げない。……病人には、見えなかった」
私は、灯りを受け取った。
厩を出るとき、彼は、もう、牝馬に話し始めていた。「よくやった、ソワール、お前は去年より上手かった、いや、去年も上手かった、つまり――」。
私は、途中で、出た。彼の話は、終わらない。終わらない話を、途中で出るのは、失礼ではないと思った。あの人は、たぶん、誰かに聞かせるために話していない。
草地を、戻った。
灯りを持って歩くと、自分の足が見えた。濡れて、汚れて、二枚重ねの靴下に藁がついた足。私の足だ。
切り株に、灯りを置いた。生垣を抜けた。庭を横切った。閂を上げた。十四段を、数えずに上がった。
寝間着は、着られる状態ではなかった。
私は、それを脱いで、丸めて、衣装箱の底に押し込んだ。明日、考える。今夜は、考えられない。腕が、動かない。
寝台に入った。
眠った。
三年、私は、眠ったことがなかった、と、翌朝、知った。目を閉じて、朝になるまで横になっていることを、眠ると呼んでいただけだった。本当に眠ると、朝が、突然、来る。
朝が、突然、来た。
昼だった。
ジャクリーヌの声が、扉の外から聞こえた。ポーレットと、話している。
「――お昼まで、お目覚めにならないなんて」
「よくお眠りのようです」
「顔色が、また良い。……困りましたね」
私は、枕に顔を伏せたまま、笑った。
声は、出さなかった。息だけで。腕は、まだ、動かなかった。腕が動かないのに、私は、この三年で、いちばん、健康だった。




