第4話 床の下で、順調に死ぬ
私の寝室の真下は、客間だ。
そして、寝室の暖炉と、客間の暖炉は、同じ煙突に繋がっている。だから、客間で人が話すと、暖炉の前の床板が、その声を運んでくる。
これを見つけたのは、二年前だ。暖炉の前に、椰子を運んでもらって、そこで本を読むようになってから。ポーレットは、何も言わずに椰子を運んだ。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。
今日は、月の第二火曜。聖アンヌ施療院後援会の、月例の集まりだ。
私は、暖炉の前の椰子に座って、膝に本を開いて、床を聞いた。
「――では、次に、伯爵閣下からのご寄付の件を」
ディアーヌ・ド・シャンボールの声だ。
低くて、速い。数字を読む声。彼女は、会計係だ。後援会の帳簿を、五年、預かっている。夫の馬車が、彼女の家に通うようになる前から。
「今年も、奥様のお名前で、と伺っております」
「ええ。妻は、床にいますから。妻に代わって、私が」
夫の声。
客間で聞く夫の声は、私の部屋で聞く夫の声と、違う。柔らかい。少し、低い。困ってはいない。この声を、私は、年に五分の間には、聞いたことがない。
「奥様のご容態は、いかがでいらっしゃいますの」
別の婦人。年配の、少し甲高い声。モンテイユ男爵夫人だと思う。後援会の会長だ。
「変わりません。……いえ、日に日に、と言うべきでしょうか」
夫は、そこで、一度、言葉を止めた。
変わりません、と、日に日に、の、どちらが、この客間で良く聞こえるかを、測っていたのだと思う。この人は、人前で測っている顔をしない。でも、声は、測る。
「まあ……お気の毒に」
「妻は、ここへ嫁いでくる前から、長くないと言われておりました。私は、それを承知で妻に迎えました。……できることは、少ないのです。静かな部屋と、良い医者と、時間を。それだけです」
それだけです。
私は、膝の上の本を見た。馬の本だ。三度目の、四十二頁。馬の脚の骨の図。
「献身的でいらっしゃること」
「旦那様は、毎週、施療院にも足をお運びになるのですよ」
ディアーヌが、言った。
「奥様のお名前で、寝台の掛け布を、二十枚。それに、冬の薪を。ご自分でお運びになったこともあるのです」
婦人たちが、小さく、感嘆の声を上げた。
施療院は、屋敷から馬車で三十分だ。夫は、週に一度、そこへ行く。掛け布を、薪を、自分で運ぶ。
私の部屋は、客間から、十四段だ。夫は、年に一度、五分、そこへ来る。
私は、その二つの数字を、並べてみた。並べても、どちらも変わらなかった。数字は、並べても、変わらない。変わるのは、並べた人の中の、何かだけだ。
「年次報告書の、閣下のお手紙の件ですが」
ディアーヌの声が、少し、事務的になった。
「昨年と同じように、寄付のご趣旨を、一筆。印刷いたしますので、文面を」
「ああ。……そうだな。『妻は病床にあり、私は妻に代わり、この寄付を――』」
「昨年が、それでしたわ。一昨年は『妻は日に日に弱り』。今年は、少し、変えましょう」
「たとえば」
「『妻は寝室を離れることもかなわず』。……かなわず、のほうが、響きがいいわ。読む方の胸に残ります」
夫が、少し、笑った。
「君は、言葉が上手い」
「会計係ですもの。数字も言葉も、収まりが大事です」
寝室を離れることもかなわず。
私は、暖炉の前の椰子に座って、その言葉を、床下から受け取った。
響きがいい。胸に残る。
私の寝室のことだ。私が、昨夜、十四段下りて、閂を上げて、生垣の切れ目まで歩いて帰ってきた、この部屋のことを、床の下で、二人が、響きの良い言葉に直していた。
私は、下の階で、順調に死んでいた。
そう思ったとき、私は、少し、笑った。
息だけで。声は出さない。病人は、笑わない。いや、これは、誰にも言われていない。笑わなかったのは、笑うことがなかったからだ。三年、この床の下で、私は毎年、少しずつ弱っていた。婦人たちの胸に残るように。私が知らないうちに。私は、自分の病状の進み方を、年に一度、この床から聞いて知る。今年は、寝室を離れられない年だ。去年は、日に日に弱った年だった。順調だ。とても。
集まりは、一時間で終わった。
馬車が、三台、車寄せから出ていった。ディアーヌの馬車は、最後だった。夫が、車寄せまで見送るのが、窓から見えた。彼は、彼女の手を取らなかった。人の見ている車寄せでは。
夕方、ポーレットが、手紙を持ってきた。
母からだ。年に二通の、一通目。
『レオニー
元気にしていますか。いえ、元気ではないでしょうけれど、変わりありませんか。
オーロールの初めての社交界が、秋に決まりました。伯爵様に、後見人としてお名前を添えていただけるよう、貴女からお願いしてください。伯爵様は、貴女のことでは、何でも聞いてくださるでしょう。
貴女が静かにしていてくれるおかげで、家は順調です。
母』
貴女が静かにしていてくれるおかげで、家は順調です。
順調、という言葉が、今日は、二度、私の所へ来た。母は、床下で私が何を聞いたか、知らない。知らないのに、同じ言葉を使う。この人たちは、たぶん、同じ言葉で暮らしているのだ。私のことを、話すときに。
伯爵様に、貴女からお願いして。
年に五分の間に、私は、それを言うことになる。来年の春に。妹の社交界は、秋だ。間に合わない。母は、私が夫と、いつ、どのくらい話すのかを、知らない。訊いたこともない。
私は、手紙を、机の引き出しに入れた。
返事は、書かなかった。病人は、返事を書かなくていい。それは、この家で、唯一、私が得をしている規則だった。
夜、十時。
閂を上げて、外へ出た。今夜は、室内の靴の下に、厚い靴下を二枚重ねた。砂利が、少し、遠くなった。
見えない庭を横切って、生垣の切れ目へ行った。
昨夜、灯りが、こちらを見た場所だ。
私は、切れ目に、身体を入れた。
イチイの枝が、肩に触れた。硬くて、少し、湿っている。私は、身体を横にして、枝の間を通った。二歩。三歩。
向こう側に、出た。
草だった。
膝まである、長い草。夜露で、すぐに、寝間着の裾が濡れた。
目の前に、草地が、広く、暗く、広がっていた。その先に、あの低い建物。今夜も、灯りは、その前で動いている。遠い。五百歩。
そして、近くに、何かが、いた。
大きな、黒い、丸いもの。二十歩ほど先に。動かない。
私は、息を止めて、それを見た。それも、私を見ていた。たぶん。目は見えなかった。でも、頭の向きが、こちらだった。
鼻息が、聞こえた。
深くて、湿った、大きな息。私の胸の三倍はある胸から出る息。
馬だ。
夜の馬の顔を、私は、初めて見た。本には、なかった顔だ。黒くて、大きくて、静かで、私を見ているのかいないのか分からない顔。
私は、動かなかった。馬も、動かなかった。
しばらく、二人で、息をした。私の息と、馬の息。数えた。私が十、馬が六。馬の息は、私より長い。
それから、馬は、頭を下げて、草を食べ始めた。
私は、病人ではないのだと、馬が判断したのだと思った。病人なら、逃げただろう。あるいは、それは、私の勝手な考えで、馬は、ただ、腹が減っていただけかもしれない。分からないものは、確かめられない。確かめる方法は、たぶん、あの灯りの所にある。
私は、生垣を戻った。
部屋に戻って、濡れた裾を、自分で絞った。三年、自分の服を自分で絞ったことがなかった。絞る、という動きを、手が、覚えていた。六歳より前の手が。
病人は、境を越えない。
これも、誰に言われたか、思い出せない。四つ目だ。
寝台に入って、私は、気づいた。今夜、十四段を、数えていなかった。下りるときも、上がるときも。
数えなくなった段は、もう、私の物だ。




