第3話 生垣の向こうの灯り
閂は、重かった。
両手で持ち上げて、腕が震えた。震えたが、上がった。鉄が木の受けから外れる音が、ホールに響いて、私は息を止めた。厨房の皿の音は、止まらなかった。従僕は、たぶん、夜食の途中だ。
扉を、手のひら一つ分、開けた。
夜の空気が、顔に当たった。
部屋の窓から入ってくる夜風とは、違った。窓の風は、部屋の匂いに混じる。扉の風は、混じらない。土と、草と、少し遠くの水の匂い。それが、そのまま、顔に来た。
私は、外に出た。
室内の靴で、砂利の上に立った。痛かった。砂利は、靴の底を通して、足の裏に、一粒ずつ形を伝えてくる。私は、その痛みを、しばらく、味わった。痛い、は、死なない。それも、誰も教えてくれなかったことの一つだ。
病人は、外に出ない。
母の声だ。これは、思い出せた。「貴女は外に出ないの。風が、心臓に悪いわ」。六歳から二十歳まで、私はそれを守った。庭の椰子には、昼に、日傘の下で、十分だけ座ることが許されていた。それが、私の「外」だった。
今夜、私の外は、砂利の上だ。
ベルヴュー伯爵家の庭は、二つある。
車寄せから見える庭と、見えない庭。
見える庭は、薔薇と、刈り込んだ柘植と、白い砂利。庭師が毎日手を入れている。夫の客は、皆、この庭を褒める。
見えない庭は、屋敷の裏にある。私の部屋の窓から、その一部が見える。手入れは、月に一度。草が伸びていて、古い林檎の木が三本、傾いている。その向こうが、生垣だ。
私は、見えない庭へ、歩いた。
草が、脛を濡らした。夜露だ。冷たい。冷たさは、足の裏から、脛へ、膝へ、上がってきた。私は、歩きながら、自分の脚が、濡れて、冷えて、それでも動いていることを、確かめ続けた。確かめる、というのが、この頃の私の癖になっていた。何も確かめずに、はい、と言っていた三年の分を、取り戻すみたいに。
生垣は、高かった。
私の背の、二倍。イチイの木を、密に植えたものだ。夜の中では、黒い壁に見えた。壁の上に、空があった。
私は、空を見上げた。
首の後ろが、痛んだ。三年、上を見上げていない首だ。痛みを、我慢して、見た。
星が、あった。
本で、読んだ。先代の書庫の地理書に、星図が載っていた。北の星。狩人の三つ星。白鳥。私は、それを、寝台の上で、天井の染みを相手に、何度も指で辿った。
本物は、天井の染みより、多かった。多すぎて、どれが白鳥か、分からなかった。分からなくて、私は、笑った。声は出さなかった。息だけで。生垣の前で、一人で。
村の教会の鐘が、遠くで鳴った。十一時。
私は、鐘の数を数えた。数えるものが、増えた。段。呼吸。歩幅。鐘。
それから、毎夜、庭に出た。
最初の三日は、生垣まで行って、帰った。
四日目、生垣に沿って歩いた。生垣は、長かった。屋敷の裏を、端から端まで塞いでいる。歩くと、二百歩あった。私の歩幅で。歩幅は、日ごとに、少し伸びている気がした。気がするだけかもしれない。確かめる方法がない。
五日目、生垣に、切れ目を見つけた。
一本、枯れたイチイを切った跡だ。切り株が残っていて、その上に、人の身体一つ分の隙間があった。隙間の向こうは、暗くて、見えなかった。
六日目、夫の馬車の時刻を、数えた。
八時に出て、三時に帰る。七時間。歌劇は、五幕でも四時間だ。私は、その差の三時間が、どこで過ぎているかを、知っている。知っていて、生垣の前で、鐘の数を数えていた。
病人は、夫の外出に文句を言わない。
この規則は、まだ、削れていなかった。文句を言う相手が、いなかったからだ。
家の夜も、覚えた。
ジャクリーヌの鼾は、十時に始まり、二時に一度止まって、また始まる。従僕は、十一時に厨房から戻って、玄関脇の椅子で寝る。三時の馬車の音で、起きて、扉を開ける。だから、私は、二時半には、閂を戻して、部屋に戻る。
ポーレットは、音を立てない。廊下の突き当たりの小部屋で、灯りは、十時に消える。あの人が寝ているかどうかは、分からなかった。分からないものは、確かめられない。
七日目の夜、私は、生垣の切れ目の前に立って、向こうを見た。
灯りが、あった。
遠い。生垣から、たぶん、五百歩。低い建物があって、その前の、広い草地の中を、灯りが一つ、ゆっくり動いている。人が、持って歩いている灯りだ。止まる。動く。止まる。長く止まる。また動く。
誰かが、起きている。
この時刻に。向こうの領地で。
隣は、ラランド子爵領だと、ポーレットが言っていた。馬を育てている家だと。子爵は、変わった人で、昼は寝ていて、夜に働くのだと。使用人の噂は、そこまでだった。
私は、切れ目の暗がりに立って、灯りを見た。
灯りは、草地を、端から端まで、ゆっくり回った。馬を見ているのだと思った。夜の馬は、どんな顔をしているのだろう。本には、馬の顔の絵が、二十七枚あった。夜の顔は、なかった。
八日目も、九日目も、灯りは、そこにあった。
私は、灯りが動くのを見るために、庭に出るようになった。理由は、考えなかった。三年、動く物を見ていなかった。天井の染みは、速く育つが、動かない。
十日目。
灯りが、止まった。
いつもの、長い止まり方ではなかった。ふいに止まって、それから、少し、高く上がった。持っている人が、腕を上げたのだ。
灯りが、こちらを向いた。
私は、切れ目の暗がりにいた。生垣の影の中だ。五百歩先から、見えるはずがない。
それでも、灯りは、こちらを見ていた。
長い時間、そう感じた。実際は、たぶん、十秒。
私は、一歩、後ろに下がった。
砂利ではなく、草の上だったので、音はしなかった。灯りは、それでも、しばらく、こちらを向いていた。それから、下がって、また、草地を回り始めた。
私は、部屋に戻った。
閂を戻すとき、腕が、震えなかった。十日で、震えなくなった。震えるのは最初だけ、と一段目で思ったが、十日というのも、たぶん、最初のうちだ。
寝台に入って、私は、灯りのことを考えた。
見られた、と思った。
三年、私を見た人は、夫(年に五分)、医者(月に三秒)、ジャクリーヌ(粥を置くとき)、ポーレット(着替えのとき)。誰も、私を見ていない。確認しているだけだ。値札を。
今夜の灯りは、確認ではなかった。
こちらに、誰かがいる、と、向こうが気づいた。それだけのことだ。それだけのことが、私の身体の中で、階段を下りたときと同じ場所を、熱くした。
三時、夫の馬車。十四段。右。
私は、目を閉じなかった。
病人は、外に出ない。その規則は、十日で、消えた。母の声で言われた規則でも、消えるときは、消える。
消えた規則の数を、私は、数え始めた。今夜で、三つ。階段、扉、外。
まだ、残っている規則の数は、数えられなかった。多すぎて。星と同じだ。




