第10話 柔らかい手
妹は、ノックをしなかった。
扉が開いて、香水の匂いが入ってきて、それから、妹が入ってきた。順番は、いつも、そうだ。実家でも。
「お姉様!」
オーロールは、寝台の端に、座った。座って、と言う前に。ドレスは、空の色。今日は、晴れている。侍女が、扉の外で、待っている。
「顔色が、いいわ」
と、妹は言った。それから、少し、首を傾げた。
「死にそうって、聞いてたのに」
私は、枕に、背を預けていた。
昼だ。私は、昼は、寝台にいる。それは、変えていない。変えると、ジャクリーヌの眉が、動く。夜だけを、変えている。
「誰が、そう言ったの」
「お母様。お姉様は、日に日に弱ってるって。伯爵様が、後援会でおっしゃってるって。……でも、元気そう。よかった」
妹は、本当に、よかった、と思って言っている。それが、分かる。妹の言葉には、悪意がない。十七年、一度も、あったことがない。妹は、ただ、聞いたことを、そのまま言う。日に日に弱っている、と聞いたので、死にそう、と言う。元気そうなので、よかった、と言う。全部、順番通りだ。
「今日は、どうしたの」
「お母様から、お手紙、行ったでしょう。私の、初めての社交界。秋よ。伯爵様に、後見人のお名前をいただきたいの。お姉様から、言ってくださる?」
「伯爵は、年に五分しか、私の部屋にいないの」
「五分あれば、言えるでしょ」
妹は、そう言って、笑った。
言えるだろう。五分あれば。五分は、私が三年で、夫と話した時間の、三分の一だ。その三分の一を、妹の後見人の話に使う。私は、それを、想像してみた。想像は、できた。想像の中の私は、はい、と言っていた。
「ドレスの色は、決めたの」
「三つ。青と、白と、薄い金色。舞踏会で、三回、着替えるの。踊りの先生が、もう、毎日来てるわ。足が痛くて――お姉様は、寝ていればいいから、楽よね」
楽よね。
私は、毛布の下で、両手を、握った。
手のひらの皮は、この頃、硬い。綱の皮だ。三度できて三度潰れた水疱の跡が、硬くなって、指で触ると、少し、盛り上がっている。
「ねえ、見て」
妹が、手を、差し出した。
指に、指輪。小さな、青い石。
「お父様が、社交界のお祝いにって。ね、綺麗でしょう」
私は、毛布から、右手を出した。
妹の手を、取った。取る、というのは、この場合、妹が私の手に、自分の手を載せた、ということだ。
妹の手は、柔らかかった。
白くて、細くて、温かくて、どこにも、硬いところがない。十七年、何も握ったことのない手。何も引いたことのない手。転んで、地面についたことのない手。
私の手のひらが、その柔らかい手の下で、硬かった。
「……お姉様、手、荒れてる」
妹が、言った。私の手のひらを、指で、擦って。
「それに、匂い。草の匂い。薬草?」
「蔦を、触るの。寝台の下の。育ちすぎて」
「ふうん」
妹は、それで、納得した。妹は、納得が速い。十七年、納得できないことが、たぶん、なかったからだ。
私は、妹の手を、見ていた。
柔らかい。
私は、この手を、羨んでいたのだと思う。三年前まで。実家の、私の部屋の窓から、庭を走る妹を見ていた頃。あの手は、走る手だ、と思っていた。走って、踊って、社交界に出て、伯爵に選ばれる手だ、と。
「オーロール」
と、私は言った。
「走ったことは、ある?」
妹は、瞬きをした。
「走る?」
「庭で。全力で」
「……ないわ。お母様が、転ぶと顔に傷がつくって。お姉様は、心臓で、私は、顔。だから、二人とも、走らないの。うちは、そういう家よ」
妹は、笑った。
冗談を言った顔で。冗談ではなかった。妹は、自分が言ったことの意味を、たぶん、知らない。知らないまま、正確なことを言う。妹は、そういう人だ。
私は、妹の手を、離した。
二人とも、走らない。
私は、心臓で。妹は、顔で。
妹の籠は、金色だ。私の籠は、粥の色だ。籠の色が違うだけで、二人とも、籠の中で育った。妹は、それを、うちは、そういう家、と呼ぶ。私は、それを、三年、病弱、と呼んでいた。
妹は、一時間で、帰った。
帰るとき、扉のところで、振り返った。
「秋、お姉様は、来られないでしょうけど。ドレス、見せに来るわ。三着とも」
「ええ」
「伯爵様に、言ってね。五分で」
「ええ」
香水の匂いが、しばらく、部屋に残った。
私は、毛布の下で、右手を開いた。硬い手のひらを、自分で、擦った。妹の手が、擦った場所を。
夜。
私は、柵に寄りかからずに立って、彼に言った。
「妹が、来ました」
「妹」
「十七です。秋に、社交界に出ます。……走ったことが、ないそうです」
彼は、モーヴの首を梳いていた。手が、止まった。
「病弱か」
「いいえ。健康です。母が、転ぶと顔に傷がつくから、と」
「……そうか」
彼は、梳き櫛を、また、動かした。しばらく、何も言わなかった。この人が、何も言わない時間は、いつも、何か言おうとしてやめた時間だ。
「光と、運動だ」
と、彼は、やがて言った。
「馬も、人も。暗い厩で育てた馬は、骨が細い。走らせない馬は、脚が細い。どちらも、虚弱に見える。生まれつきの虚弱と、育て方の虚弱は、見ただけでは、区別がつかない。走らせて、初めて分かる。……あなたの妹は、走らされていない。あなたは、走った。それだけの違いだ。それが、大きい違いかどうかは、俺は、知らん」
私は、モーヴを見た。
老いた牝馬は、目を細めて、梳かれていた。二十年、誰にも買われず、遅いから、生きている馬。
「モーヴを」
と、私は言った。
「私が、梳いても、いいですか」
彼は、私を見た。
私が、何かを、頼んだのは、この厩で、初めてだった。手を貸してくれ、と言われて、貸した。手綱を教える、と言われて、習った。走るか、と訊かれて、走った。全部、向こうから来たことだ。
今夜、初めて、私のほうから、言った。
彼は、何も言わなかった。
梳き櫛を、差し出した。
私は、それを受け取った。
木の柄。少し、温かい。彼の手の温度だ。私は、それを、モーヴの首に当てた。梳いた。毛が、櫛の歯の間を、流れていく。モーヴが、息を吐いた。長い息。気持ちがいい、という息だと、思うことにした。
妹の手は、柔らかかった。
私の手は、硬い。硬い手が、今、老いた馬の首を梳いている。柔らかい手は、青い石の指輪をして、秋の舞踏会で三回着替える。
どちらが良いか、私は、知らない。彼も、知らないと言った。
ただ、頼む、ということを、私は、今夜、初めてした。二十三年で。それは、確かなことだ。確かなことは、手のひらに残る。硬く。




