第11話 鞍
衣装箱の底に、長靴があった。
私の物ではない。私は、長靴を持っていない。病人は、長靴を持たない。三年、室内の靴と、寝台の脇の柔らかい上履きだけで暮らしてきた。
黒い革の、少し古い、使用人の長靴だった。踵が、減っている。中に、新しい靴下が、二枚、詰めてあった。私の足の大きさだった。
私は、それを、履いた。
合った。
誰が入れたか、訊かなかった。訊く相手は、一人しかいない。訊けば、その人は、何も言わずに、頷くだけだろう。だから、訊かなかった。履いて、生垣へ行った。砂利が、遠くなった。草の露が、脛まで来なくなった。長靴を履いて歩くと、足音が、自分のものだと分かる音になる。
「長靴か」
彼は、それだけ言った。
それから、厩の奥へ行って、何かを、担いで戻ってきた。
鞍だった。
革が、黒く、使い込まれている。騎兵の鞍だ。前と後ろが、少し高い。彼は、それを、モーヴの背に、載せた。モーヴは、動かなかった。二十年、載せられてきた背だ。
「乗る」
と、彼は言った。
「病人は――」
私は、そこで、止まった。
病人は、馬に乗らない。その規則は、母の声で、はっきり覚えている。「乗馬なんて、とんでもない」。十歳のとき、妹が仔馬を欲しがって、母が父に言った。「オーロールも、やめさせて。顔に傷がついたら」。結局、どちらも乗らなかった。うちは、そういう家だ。
「……乗ったことが、ありません」
と、私は言い直した。
「誰も、最初は、乗ったことがない」
彼は、鞍の腹帯を締めながら言った。
「俺も、なかった。モーヴも、なかった。ゲリ――仔も、まだ、ない。乗ったことがない、は、乗らない理由にならない。乗らない理由になるのは、乗りたくない、だけだ」
私は、モーヴを見た。
鞍を載せられた老いた牝馬は、目を細めて、私を見返した。何も言わない目。
「乗りたいです」
と、私は言った。
自分の声が、少し、高かった。
彼は、鐙の長さを、直した。それから、私に、鐙の踏み方を、説明した。左足を入れる。両手で、鞍の前を持つ――「いや、鞍を持つのは今だけだ。乗ってからは、鞍を持つな。鞍を持つ奴は、落ちる。手綱だ」――右脚を、振り上げる。
「踝に、手を添える。実務だ。触るのは、長靴だけだ」
彼は、そう言って、私の左足の、長靴の踝を、下から、支えた。
大きな手だった。革を通して、その大きさが、分かった。彼が、私の身体に触れたのは、初めてだった。長靴が、間にあった。それでも、初めてだった。
「一、二、で、三で、上がる」
三で、私は、上がった。
世界が、傾いた。
いや、私が、傾いた。右脚が、モーヴの背を越えて、向こう側に落ちて、私は、鞍の上にいた。
高かった。
思っていたより、ずっと。地面が、遠い。彼の頭が、私の膝の高さにある。厩の屋根が、近い。星が、少し、近い。
怖かった。
両手が、鞍の前を、握っていた。
「鞍じゃない。手綱だ」
彼が、下から言った。
私は、手を、離せなかった。
「レオニー」
名を、呼ばれた。
この厩で、彼が私の名を呼んだのは、ソワールの夜に訊いたとき以来、初めてだった。いつも、あなた、だった。
「手綱を、握れ。鞍は、あなたを支えない。手綱は、モーヴに繋がっている。モーヴは、あなたを支える。……こいつは、あなたを、病人だと思っていない」
私は、鞍から、右手を離した。
手綱を、握った。硬い皮の手のひらで。
左手も。
モーヴが、一歩、歩いた。
身体が、揺れた。前に、後ろに、それから、横に。落ちる、と思った。落ちなかった。揺れは、私を、鞍の上で、少しずつ、動かしただけだった。彼が、モーヴの頭の横を歩いて、引いていた。
「身体を、立てろ。前に倒すな。……そうだ。腰で、受ける。馬の動きは、腰で受ける。肩じゃない」
私は、腰で、受けた。
受け方を、身体が、探した。三歩目で、少し、見つけた。十歩目で、揺れが、揺れではなく、歩みになった。私が、歩いているのではない。モーヴが、歩いている。でも、私は、その上で、モーヴと一緒に、動いていた。
草地を、半周した。
彼が、手を、離した。
「――」
私は、何か言おうとした。言えなかった。
彼は、モーヴの頭の横から、離れた。柵のほうへ、歩いた。振り返って、腕を組んだ。
私と、モーヴだけが、草地にいた。
私は、手綱を、握っていた。モーヴは、歩いていた。私が、何もしなくても。いや、私は、何かをしていた。腰で受けて、背を立てて、手綱を、緩めていた。それが、何か、だった。
残りの、半周。
柵に、戻った。
彼は、腕を組んだまま、立っていた。
何も、言わなかった。
あの人が、何も言わなかった。私が生垣を抜けるようになってから、ずっと、何かを喋っていた人が。半周の間、ずっと、黙っていた。私は、それが、この夜の中で、いちばん、大きな音だと思った。
「もう一周」
と、私は、言った。
彼に、ではなかった。モーヴに、だった。
命じた。
私は、二十三年で、誰かに、何かを命じたことがない。頼むことすら、この夏まで、したことがなかった。命じる、というのは、その、もっと先にある。
モーヴは、歩いた。
命令を、聞いた。老いた馬は、私の声を、病人の声だと思わなかった。
二周目は、一周目より、揺れなかった。
月が、草地に、私とモーヴの影を、一つに繋げて落としていた。長い影。脚が六本ある、一つの影。
柵に戻ったとき、彼は、ようやく、口を開いた。
「……降り方を、教える」
それだけだった。
私は、降りた。左足を鐙に残して、右脚を戻して、地面に、立った。
脚が、震えた。地面が、近かった。近すぎて、少し、変だった。三年、私は、寝台の高さで、世界を見ていた。今夜、初めて、馬の高さで見た。馬の高さから降りると、地面は、低い。
「震えるのは」
「最初だけ、です。知っています」
彼は、頷いた。
それから、鞍を外し始めた。私に背を向けて。腹帯を外す手が、少し、いつもより、遅かった。
部屋に戻って、私は、太腿の内側が、痛いことに気づいた。
新しい場所だった。走った痛みでも、十四段の痛みでもない。鞍の形に、痛い。私は、その痛みを、両手で、押さえてみた。押さえると、もっと痛かった。
私の物だ、と思った。水疱と、青い痣と、鞍の形の痛み。この身体に、私の物が、増えていく。三年、天井の染みしか増えなかった部屋で。
三時、馬車。十四段。右。
夫の知らないことを、私は、数えるのをやめた。手綱と、水疱と、長靴と、鞍と、命令と。数え切れない。数え切れないほど、夫の知らないことがある、というのは、三年前には、なかったことだ。三年前、夫の知らないことは、私の全部だった。全部は、数えられない。一つずつになって、初めて、数え切れなくなる。




