第12話 療養地
夏の終わりの午後、客間に、二人しかいなかった。
後援会の日ではない。婦人たちの声がない。馬車が一台、車寄せに来ただけだ。私は、暖炉の前の椰子に座って、膝に馬の本を開いて、床を聞いた。
「――三年よ、フェリクス」
ディアーヌの声だった。
会計係の声ではなかった。低くて、速いのは同じだが、数字を読んでいない。
「私は、三十四になった。あなたが最初に言ったのは、二年、だったわ。医者が二十五までと言っている、もう長くはない、だから二年、と」
「……そう聞いていた。義母から」
「彼女は、いま、何歳」
「二十三」
「日に日に弱って、二十三。寝室を離れることもかなわず、二十三。私、報告書の言葉を考えるのが、毎年、上手くなっているわ。上手くなりたくて、なっているんじゃないの」
夫は、しばらく、何も言わなかった。
床下の沈黙は、床下の声より、よく聞こえる。
「どうすればいい」
「療養地」
ディアーヌは、その言葉を、用意していた声で言った。
「南の。海辺の療養院。静養には最適。王都から遠くて、手紙も月に一度しか来ない。……それに、あそこの空気は、弱い人には、少し、強すぎるそうよ。潮風が。弱っている方には」
私は、膝の上の本を見た。
馬の脚の骨の図。四十二頁。三度目の。
「妻の、ためだ」
と、夫は言った。
私は、その声の変わり方を、聞いた。ディアーヌの言葉を、彼は、一秒で、別の言葉に置き換えた。妻のためだ。海の空気が良い。静養に最適。この人は、悪いことを、悪いこととして言わない。良く見える言葉に、置き換えてから、言う。置き換えた瞬間から、彼の中では、それが本当になる。私は、三年、この床の下で、それを聞いてきた。
「秋の社交期の前に」
ディアーヌが言った。
「病弱な妻を、遠い療養地へ送り出した、献身的な夫。そうして、あなたは、社交期を迎えるの。誰も、何も言わないわ。むしろ、皆、あなたを気の毒に思う。……私が、後援会で、そう言うから」
「君は、言葉が上手い」
「会計係ですもの」
馬車が、出ていった。
私は、椰子に座ったまま、動かなかった。
南は、暖かいのかしら。
最初に、頭に浮かんだのは、それだった。
私は、自分の頭の中の、その言葉を、聞いた。南は、暖かいのかしら。海は、見たことがない。潮風。本で読んだ。強すぎる空気。弱い人には。
私は、その言葉を、はい、と言う口で、聞いていた。三年、そうだった。母が「貴女は病人なのよ」と言えば、はい。夫が「無理はしないように」と言えば、はい。ディアーヌが「南の療養地」と言えば、南は、暖かいのかしら。
それから、別のものが、来た。
胸の、真ん中に。
熱い。走ったときの熱とは、違う。あれは、身体の熱だ。これは、もっと、中だ。喉の下。息を吸うと、そこが、痛い。痛くて、熱くて、じっとしていられなくて、私は、椰子から、立った。
怖さではない。六歳の熱のときの、あれではない。あれは、冷たかった。
走る熱でもない。
私は、それに、名前を探した。本で読んだ言葉の中から。三年、読むしかなかった本の中に、この熱の名前が、あったはずだ。
怒り、というのだと思う。
使ったことがなかった。二十三年。使ったことのない言葉は、自分の中にあっても、自分の物だと分からない。今、初めて、それが、胸の中で、形を持った。熱くて、痛くて、立たせる。
私は、立ったまま、窓の外を見た。
生垣。その向こうの、草地。昼の草地は、緑で、明るくて、馬が三頭、遠くで草を食べている。あの中の一頭が、モーヴかどうかは、分からない。夜の馬と昼の馬は、別の顔をしている。
夕方、ジャクリーヌが、大きな箱を運び込んだ。
旅行用の、革のトランクだった。私の部屋に、そんなものはなかった。三年。
「奥様。秋の、ご旅行の準備を、始めます」
「……旅行」
「はい」
「どこへ」
「旦那様が、後ほど、お話しになります」
後ほど。
夫の後ほどは、年に五分の、次の五分だ。春だ。秋の旅行の後だ。私は、自分が、どこへ送られるのかを、夫の口からは、たぶん、聞かない。トランクから、聞く。今、聞いた。
ジャクリーヌは、トランクを、衣装箱の隣に置いて、出ていった。
私は、衣装箱を、見た。あの底には、長靴と、洗われた寝間着が入っている。私の夜が。その隣に、私の秋が、置かれた。革の箱で。
夜。
私は、モーヴに乗った。
三度目だ。乗り方を、身体が覚え始めていた。三で上がる。腰で受ける。手綱。
「速歩」
と、彼が言った。
「歩きより、速い。揺れが、変わる。上下になる。身体を、立てろ。腰で――」
モーヴが、速くなった。
揺れが、変わった。前後ではなく、上下。私の身体が、鞍から、浮いて、落ちて、浮いて、落ちた。腰で受けようとして、受け損ねた。二度。三度。
落ちた。
左側に。草の上に、肩から。
息が、一瞬、止まった。それから、戻った。私は、仰向けになった。星が、多い。白鳥は、まだ、分からない。
彼は、来なかった。
柵のところに、立ったままだった。モーヴが、止まって、私のそばに来て、鼻先で、私の髪を、突いた。
「……手を、出さないのですね」
「起きられる人に、手を出すのは、失礼だ」
彼は、柵のところから、言った。
「起きられないなら、行く。起きられるなら、行かない。どっちか、俺には、見えている。……あなたは、起きられる」
私は、起きた。
左の腰が、痛かった。手を当てると、熱い。明日、青くなるだろう。青い痣は、前にも作った。走って転んだときに。あれは、膝だった。今度は、腰。
私の物だ。それも。
「秋に」
と、私は言った。
言うつもりは、なかった。口が、勝手に動いた。今日、胸の中で形を持ったものが、口まで、上がってきていた。
「南へ、送られるそうです。海辺の療養院に。社交期の、前に」
彼は、動かなかった。
柵に、片手を置いたまま。灯りが、彼の顔の半分を照らしていた。半分は、見えなかった。
「……いつ」
「秋の初め。夫は、まだ、私に言っていません。トランクが、今日、部屋に来ました」
彼は、何も言わなかった。
言わない時間が、長かった。この人が言わない時間は、いつも、何かを言おうとしてやめた時間だ。今夜は、それが、長かった。言おうとしたものが、多かったのだと思う。
言わなかった。
その代わりに、彼は、柵を離れて、モーヴの手綱を取って、私のほうへ、引いてきた。
「速歩を、もう一度」
と、彼は言った。
「今度は、鐙に、体重を乗せろ。浮くときに、踏む。落ちるときに、抜く。上下に、合わせる。……もう一度」
私は、乗った。
三で。腰で受けた。速歩。浮いた。踏んだ。落ちた。抜いた。浮いた。踏んだ。
落ちなかった。
草地を、一周。二周。
彼は、柵のところで、腕を組んで、黙っていた。黙ったまま、私が周るのを、見ていた。時々、「鐙」とだけ、言った。「腰」とだけ、言った。長い話は、一度も、しなかった。
二時の鐘が鳴ったとき、私は、五周していた。
降りた。脚は、震えなかった。
彼は、鞍を外しながら、言った。
「明日も、来るか」
「はい」
「明日は、四周目で、速歩から、歩きに戻す。それから、また速歩。それを、十回」
「はい」
「秋の初めまで、何日ある」
「……四十日、ほど」
「四十日で、できることを、やる」
それだけだった。
できること、が何なのか、彼は言わなかった。私も、訊かなかった。訊かなくても、分かっていた。彼が、私に、渡せるものは、夜だけだ。夜に、できることは、馬だけだ。だから、馬を、やる。四十日。
部屋に戻って、腰の痣を見た。
青くなり始めていた。手のひらほどの大きさ。私は、それを、鏡で、見た。
トランクが、衣装箱の隣に、立っていた。革の匂いが、部屋に、少し、していた。私は、その匂いを、嗅いだ。南の匂いではない。革の匂いだ。革は、鞍の匂いでもある。同じ匂いが、二つの箱から、していた。
彼は、今夜、何も言わなかった。言わなかった分だけ、稽古は、長かった。
私は、それを、返事だと思うことにした。




